その日の午前、ジェフリー・ジョーンズは検査室の診療用PCの前に座るリクヤ・ナカハラを見かけた。背後のジェフリーに気づかないくらい熱心に画面に見入っているので、声はかけずに覗き見た。MRIの腹部画像には、あきらかに腫瘍の影。多臓器に渡って、かなり進行している。
患者名を確認しようとジェフリーが動いた時、気づいたリクヤが振り返った。画面の隅の名前が見えた。
「ユアン? ユアン・グリフィスか?」
「そうだ」
リクヤは普段と変わらない。ユアン・グリフィスは彼にとって、ただの患者ではないはずなのに、「どう見る?」とジェフリーに尋ねる声も抑揚がなかった。むしろジェフリーの方が、その画像を見て動揺した。
リクヤがユアン・グリフィスのMRIをオーダーしたことは知っていた。二日前の午後に行ったユアンの血液検査の結果に、気になる数値を見つけたことはジェフリーも聞いていたからだ。ユアン本人はHIVを覚悟していたようだが、それはネガティブで、腫瘍――特に消化器系に関係するマーカーが標準値を超えていた。エイズではなかったことを単純に喜ぶユアンは、他の異常数値には楽観的だった。リクヤの表情はと言えば、検査前よりもその時の方が厳しかった。
「ミハエルのところに行ってくる」
ジェフリーの画像所見を一通り聞くと、リクヤは腫瘍科のミハエル・ソコロフの元へ向かった。正確な診断と、これからの治療方針を確認するためだ。ユアンへの告知は、それからだと決めているようだった。
そしてジェフリーはリクヤが戻るのを、ERの受付で待っていた。
外来待合にはいつも通り、座席数以上の患者。診療科部長となり、ER以外にも職権が及ぶ管理職に就いたジェフリーであったが、その場にいる限り、使える者は使えとばかりにカルテを回された。なるべくさっさと片付けて、彼は受付に戻る。本当のところ、腫瘍科のフロアで待ち伏せたいところだったが、リクヤの穴埋めとして捕まってしまったのだ。患者の検査結果を、ただ聞くためだけに時間を割くなど、マクレインの医師には許されない。
リクヤがERに戻ってきたのは、夕方近くだった。
待ち構えたジェフリーの「どうだった?」の問いに、
「予想通り」
と答えたリクヤは素っ気無い。これから旧知の人間に末期癌の告知をすると言うのに。
しかしジェフリーには違って見えた。リクヤが素っ気無く、あるいは横柄になるのは、近しい人間に対してだけだと言うことを、長い付き合いの中で知っているからである。まったく知らない患者に対しては、彼はやさしい笑みを絶やさない。きっと告知も相手の気持ちを十分に配慮して為されるだろう。
表情が作れないのは、感情を隠す余裕がないからだ。心をその人間に開いているから、取り繕うことが出来ない。ユアン・グリフィスは、リクヤがそんな表情を見せる数少ない人間の一人なのだと、ジェフリーはもうずっと以前から知っていた。
「予想通りって、ステージは?」
「W」
「W?!」
ジェフリーの足が止まった間に、リクヤの姿はどんどん先に進む。やがて忙しく行き交うスタッフの間に紛れて見えなくなった。
行き先はわかっている。自分も行くべきだろうかとジェフリーはさんざん迷ったあげく、やはり彼の後を追うことにした。
視界に入る夜景は美しかった。しかしそれを楽しむには、十一月のニューヨークの夜は冷たい。
ジェフリーは、コンクリート塀にもたれて煙草を吸うリクヤの姿を見つけた。この寒空に、彼は白衣のままだ。口元からもれる白いものは息なのか、紫煙なのか。いずれにしても、気温の低さを目で感じさせる白さだった。
「そんなカッコウで寒くないのか?」
声をかけたのがジェフリーだとわかって、彼は肩をすくめた。
「寒さには強い性質なんだ」
リクヤは短くなった煙草の火を消した。それから新しく一本取り出すと、火をつける。小さいけれど暖かそうな赤い色が点った。
ジェフリーはあれからリクヤを追ってユアン・グリフィスのいる検査室まで行ったものの、中には入れなかった。すでに告知は始まっていて、窓の外から見ても入りがたい空気だったからだ。
再び待たなくてはならなくなったジェフリーに、オフィスから呼び出しがかかった。患者を診る以外にもしなければならない仕事が彼にはある。にも関わらず午後から、ほぼ個人的な理由でERに詰めっ放しだった。とうとう秘書が出向いてきたので、とりあえずオフィスに引き上げた。
仕事を片付け、帰り支度でERに戻った時には、リクヤの姿はフロアにはなかった。ユアン・グリフィスは特別室に移ったとのことだったので、あいさつがてら様子を見に行ったが、そこにもいない。帰った様子はなく、心当たりをしばらく探した。結局、見つけることは出来ず、あきらめて帰ろうと駐車場に向かう途中、緊急車両の進入口脇でリクヤの姿を見つけたのだ。
回りくどく聞くことは性に合わない。ジェフリーは、
「それで、彼はどうなんだ?」
と単刀直入に尋ねた。
リクヤは深く息を吸い込み、煙をゆっくりと吐き出した。
「執刀医はレッドグレーブ、内科医はファイファー、放射線治療はミハエルが担当してくれる」
彼は医師として当たり前の答えを返した。それはジェフリーが期待したものとは違う。「どうなんだ?」は告知した時のユアン・グリフィスの様子に掛けたつもりだった。彼の答えた内容など、診療科部長であるジェフリーの耳にはとっくに入っている。どのようにも取れる質問ではあったが、うまく逸らされた気がした。声の調子に隙が無く、取り付く島を与えない。
仕方なく、その答えに応じた。
「レッドグレーブもファイファーも、NYじゃトップ・クラスのドクターだ。顔見知りのミハエルがチームに入っているなら、気心も知れてMr.グリフィスも安心だろう」
「それでもMSKの方が上だ…」
リクヤが独り言のように呟いた。ジェフリーは彼を見る。
MSKとは同じNYにあるメモリアル・スローン・ケタリング癌センターのことだ。癌治療において、全米一とも言われている。
「MSKを薦めたのかい?」
「ここの治療も悪くない。だけど、アメリカにはMSKに限らず、もっと優れた癌専門の病院がある。どうせなら、最高の治療を受けろと言ったんだ」
「で?」
「ここを離れたくないと言って聞かない」
ここを離れたくないのではなく、リクヤ・ナカハラの傍を離れたくないのだろう。
ジェフリーはオフィスでの仕事の合間に、ユアン・グリフィスの検査結果に目を通していた。胃部を中心に肝臓、肺、リンパ節、他、数箇所の臓器にも転移が見られた。進行はステージW。下した余命は三ヶ月がせいぜい。紛れも無く、末期の癌だ。オペも延命を目的にするしかない。残りの時間を病院で…ではなく、家族や親しい人間と心安らかに過ごす方が、よほど有意義に思えた。MSKであれば、その時間も少しは延びる可能性がある。
「MSKには、リクヤ・ナカハラはいないからね」
ジェフリーの言葉に、リクヤが嫌そうな顔をしたのが夜目にもわかった。
「馬鹿なヤツだ。命を何だと思っている」
「残り少ないからこそ、君と過ごしたいと思っているんだよ」
「生きることが先決だろう」
「君とね」
「馬鹿馬鹿しい。だったら私を嫌がらせるほど、少しでも長く生きたいと思わないのか」
煙草はすぐに短くなる。リクヤは間をおかず、すぐにまた一本を取り出した。吹き始めた風でライターの炎が揺れ、なかなか煙草に火が移らない。軽く舌打ちした彼のために、ジェフリーは風よけに手を貸してやった。最近、禁煙を決意したと聞いていたが、今のペースは以前よりも早い。それについて、ジェフリーは触れなかった。
「いきなり告知されて、今は気が動転しているんだろう。HIVがネガティブだったことに大喜びした後、これだからね。冷静になれば何が最善か、考えるようになるさ。今回のチームは君の希望も入っているんだろう?」
執刀医(外科医)、内科医を始め、放射線科、腫瘍科でも、マクレインでは最高の技能を持つ医師で治療チームは編成されていた。アメリカのみならず、世界的な有名人の治療にあたるのだから、たとえ末期医療となるにしても、マクレインの威信がかかっている。
このチーム編成を、病院側より先にオーダーしたのはリクヤだった。外部から医師を招聘する場合は、どこの誰が適任かも添えられていた。先日の血液検査の結果を見た時から、メンバーは頭にあったのだろう。MRIの結果次第では無駄になるかも知れないのに、最悪の場合を想定して。
(何だかんだ言っても、リックは彼のことを気にかけているんだな)
ジェフリーは目の前で何気ない風に煙草をふかすリクヤを見つめた。
癌ともなれば担当外となる。患者はチームの管理下に置かれ、救命救急が専門のリクヤに口を挟む余地はなかった。彼は考えつくだけの最善の事を、ユアン・グリフィスにしておこうと思ったのだろう。同じ病院内にいても、これから先、彼が出来ることと言えば、病室に顔を出すことくらいだ。
「せいぜい、顔を出してやれよ。彼にとって一番の治療は、君の存在なんだから。生きる意欲が治療に効果を発揮することは証明されている。万に一つの可能性がないとは言い切れないからね」
「ドクターのくせに、非科学的なことを考えるんだな、君は?」
「ドクターである前に人間だから、非科学的なことも信じたくなるんだよ。君だって、可能性を信じて、あのメンバーをリスト・アップしたんだろ? あれは治療を前提にした面子だ」
「結局、延命治療にしかならない」
「一緒だろ? 彼に長生きして欲しいと思う気持ちは」
「患者が誰であろうと、同じようにしたさ。それに今回は、大ピアニストのユアン・グリフィスだし」
「素直じゃないね。まあ、そう言うことにしておくかな」
ジェフリーはニヤリと笑って見せたが、リクヤは表情を変えなかった。
医療従事者用の携帯電話が鳴った。マクレインの医師は公私いずれの時も常時、携帯することを義務づけられているが、ポケットを探ったのはジェフリーだけだった。リクヤは多分、電源を切っているのだろう。ジェフリーが彼の姿を探している間も繋がらなかった。
電話はERからで、正確にはリクヤ宛だった。代わって一言二言――内容から投薬の確認らしい――指示を出すと、ジェフリーに電話を返した。
「そろそろ帰るよ。君、どうする?」
と、ジェフリーは時計を見た。午前零時になろうとしている。彼自身の勤務時間はとっくに終わっていた。リクヤと話が出来たことだし、これ以上、居残る理由もない。
「私は夜勤だ。もう少し休憩して行く。本当は夕方までオフのはずだったんだ」
「そっか。だったら電源、入れておけよ」
帰る足をジェフリーは止め、リクヤの元に戻った。それからコートを脱ぐと、彼に差し出す。
「着たまえよ。風邪引くぞ。倒れられたら、とばっちりは同期の誼でこっちに来るんだからな。みんな、人を気軽に使い回すんだぜ」
ジェフリーのその言葉に、やっとリクヤは表情を崩し、「ありがとう」とコートを受け取った。
今度こそ駐車場へ向かいながら、ジェフリーはもう一度、リクヤを振り返った。彼はこちらに背を向け、夜のビル群を見上げているようだったが、実際のところ、何を見ているのかジェフリーにはわからない。それは今に始まったことではなかった。医学生の頃からになるから二人の付き合いは長かったが、リクヤにはどこか、人を内側に踏み込ませないところがあった。他愛のない冗談を言いもするし、笑いもする。翌日の仕事のことなど考えずに、踊り明かしたこともある。ジェフリーが最初の離婚でもめて落ち込んでいた時も、彼は嫌がらずに愚痴を聞き、飲み歩きに付き合ってくれた。
(だけど、自分のことには一線を引いていた…かも知れない)
踏み込まない方が良い時もある。
高層ビルの遥か上空には、細い三日月が浮かんでいた。地上の賑やかな明かりとは対照的に、月の周りには星も、一片の雲さえも見えない。
孤高のその欠けた月に、ジェフリーはリクヤの姿を重ねた。
2007.03.28(wed)
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