[+18-a November]                                  R49/Y51


「今日は何だ?」
 りく也は検査ベッドにうなだれて座るユアンに、いつもの調子で尋ねた。「いつもの調子」とは、「大した病気でもないのに病院に来るな」と言う意味を含んだ、あきれた口調のことである。
 ユアンは勝手にりく也のことを主治医扱いして、何かあるとマクレイン総合病院の外来を受診するのだった。それはたいてい、街のドラッグストアにある消毒液だの、鎮痛薬だので事足りる些細な症状で、わざわざ出向くほどのものではなかった。名士でもともとの家柄も良い彼には、電話一本で飛んでくるホーム・ドクターがいる。何も自ら病院――それも公立――に、足を運ぶ必要はないのだ。
 それはりく也がレジデントとしてここのERに配属されてからずっとだった。身体を診てもらうことではなく、会いに来ることが目的であるのは周知のことだ。だからユアンが外来に姿を見せると、とにかくリクヤ・ナカハラに回すと言うことが暗黙の了解となっていた。
 今日は週に一度、りく也が受け持つ救急医療のゼミの日。講義を終えてミーティング・ルームを最後に出た彼を待っていたのは、今や診療科部長となったジェフリー・ジョーンズだった。
「VIPが来ているよ」
 その言葉でユアンが来ていることがわかった。
「どうせ大したことじゃないんだから、医学生にでも押し付けてくれればいいのに」
 コーヒーくらい飲む時間はあるだろうと続け、ドクター・ラウンジに向かうりく也を、「いつもと様子が違う」とジェフリーが止めた。そしてユアンの待つ検査室に、半ば引っ張られて来たのである。
 確かに、目の前のユアンはいつもと違う。まず服装が、あきらかに葬式帰りだった。憔悴しきった顔でうなだれ、りく也が目の前に立っているのに、抱きつかんばかりの挨拶もなし。あまりにも普段と違う様子にジェフリーが配慮したのか、その部屋には彼以外に患者はいなかった。
「どうしたんだ? 葬式だったのか?」
 亡くなったのはよほど近しい人間かも知れない。りく也は語調を和らげた。
 ユアンがやっと顔を上げる。頬に出来た影に、りく也は違和感を覚えた。暗い表情が作っただけとは思えない、こけ様だった。
「エルンストが死んだよ…」
「エルンスト?」
 エルンストと言われたところで、りく也にはわからない。
「チェリストの…」
 ユアンには友人が多い。彼との会話で今まで何人の名前が出たことか。チェリストも一人や二人ではなかった。国籍も様々だ。
 りく也の反応は薄かった。医師にとって、それもERでは、死はそんなに珍しいものでないし、多少、一般人と意識がかけ離れているだろう。知人でない以上、反応しようがない。
 ユアンの言葉は途切れ、りく也は待たなければならなかった。しばらくして、ユアンが搾り出すように言った。
「彼はエイズだった」
 りく也は壁にもたせていた背を浮かせ、ユアンを見る。
「エイズで死んだんだ。どうしよう、私も、感染しているかも知れない!」
 ユアンは両手で顔を覆うと、また沈黙した。
 エイズ――Acquired Immune Deficiency Syndrome 後天性免疫不全症候群。ヒト免疫不全ウイルス(HIV)に感染して発症、免疫システムが機能しなくなる難病だ。医学の進歩で進行を遅らせることは出来る。イコール死ではなくなったとは言え、不治の病に変わりなく、病状が進むと死亡率は跳ね上がった。
「どうしよう、リクヤ?!」
 ユアンはりく也の腕に取りすがった。
「落ち着け。そいつとのセックスでコンドームは使わなかったのか?」
「使ったよ。でも、オーラルでは使わないこともある」
「とにかく検査を受けろ。セックスの相手がエイズで死んだからと言って、感染しているとは限らない」
 自分の腕を痛いほど掴むユアンの手を解き、ベッドに座らせた。
「…ここ最近、食欲がないんだ。演奏旅行で忙しかったし、中国に行った時に水が合わなくて下痢気味だったし、そのせいで体重も減ったのかと思っていたんだけど」
とユアンが言うので、りく也はあらためて彼を観察した。
 りく也が彼と会うのは、三ヶ月ぶりくらいだ。前回会ったのは長期演奏旅行の合間を縫って、デヴュー何周年記念だかのCD製作のために戻った時だった。スタジオに向かう途中、りく也の顔を見にマクレインに寄った彼に痩せた感じを受けたが、病的には見えなかったし、本人が「ジムの成果が出てきた」と嬉そうに言うので、別段、気にはしなかった。
 友人の死でショックを受け、やつれていることを差し引いたとしても、今のユアンの痩せ具合は気になるところではあった。
 りく也は冷静に頭の中から『AIDS』の情報を抜き出す。体重の減少以外は彼に特有の症状は見られない。エイズも早期に適切な治療を開始すれば、昔のように恐い病気ではなくなってきている。
「だから検査を受けろよ。血液検査でポジ(=ポジティヴ・陽性)かどうかすぐわかる。俺がしてやるから」
「だったら、君も受けてくれ」
「何で俺が?」
「キスしたから、私と」
 意外な彼の答えに、りく也は「え?」と聞き返す。それから一瞬の内に記憶力を総動員して、ユアンとのキス・シーンを掘り起こしてみた。どこをどう探しても、そんな場面にたどり着かなかったが、ふと、あやふやな記憶があることを思い出す。二年くらい前に風邪で倒れたことがあって、ユアンの車で帰ったのだ。あの車中、ユアンの唇が自分の唇に触れたような気がする。でもあれは、マスク越しだった。
「馬鹿馬鹿しい、あの程度で移ってたまるか」
「違う、もっと前に…」
「もっと前? いつの話だ? 俺の記憶にはないぞ?」
「ロスで、サクヤの結婚式のあった夜だ。すごく酔った君を部屋まで送って、その…、君があまりにも無防備で、私は我慢出来なかったんだ。キスをしたら君も応えてくれた。とても情熱的に」
「なんだと?!」
 そう言えば兄のさく也がパートナーの加納悦嗣と、ロサンゼルスの教会で形だけの結婚式を挙げたことがあった。二人が休暇先のサンフランシスコへ向かったその夜、りく也は不覚にもホテルのバーで酔いつぶれてしまった。最愛の兄の結婚がショックだったからではなく、持ち株の下落によって破産するか否かの瀬戸際で、飲まずにいられなかったのだ。翌朝起きると、ちゃんとベッドで寝ていたのだが、ユアンが同衾していた上に、二人とも全裸だった。
「あの時、何もしなかったんじゃないのか?!」
 少なくとも身体にその痕跡はなかった。
「キスだけだよ。それ以外は何もしていない、神に誓って。だから、だから、君も検査を」
 一気にヒートアップしそうな気持ちを、りく也は抑えた。キス――それも話によるとディープなものだったらしいが――をしたことがある事実よりも、医師としての理性の方が勝ったからだ。但し、大きなため息つきで。
「いいか、さく也の結婚式は十年も前の話だろう? 一番長い無症候期だったにせよ、キスごときで感染はしない」
「ディープ・キスでも?」
「ディープ・キスでも! だいたい、そのチェリストとのセックスは、いつが最後だったんだ?」
「君がレジデントになったばかりの頃だよ」
 それはさく也の結婚式から更に五、六年も遡る。HIVキャリアとしての無症候期は五〜十年。感染していたなら、とっくに症状が出ているはずだ。そのチェリストからの感染は考えられない。キス程度の接触とそのことから鑑みて、りく也の羅患はまずなかった。
 ただユアンの場合は別だ。恋愛対象が同性で、チェリスト以降も誰かしらと性交渉があるかぎり、可能性は捨てきれない。それに、どう見ても今の痩せ方は気になる。
「とにかく検査を受けろ。注射が恐いって年でもないだろう?」
 10年前のキスの件はそれからだ――りく也は検査キットを取りに部屋を出た。






 ユアン・グリフィスのHIV抗体検査は陰性(ネガティヴ)。しかし、問題は別のところにあった。
「これは、なかなか…厳しいですね」
 腫瘍科医師のミハエル・ソコロフは、MRIの結果を画面で見ながら言った。隣のりく也に同意を求めているようであり、独り言のようでもあり、いずれにしてもそれは呟きに近かった。
 りく也は黙って画像を見つめる。映っているのは、ユアンの胸部と腹部。次へ次へと進む画像には必ず、健常な場合には見られないものが映っていた。あきらかに腫瘍だ。
 りく也の医師の目は冷静に分析する。ERに送信されてきた時点で、彼の中で大よその診断は出ていた。専門のミハエルの所見を仰ぎにきたのは、それの確認のためである。
「ステージWの胃がんだ」
 ミハエルは胃部の画像を並べる。
「多発性肝転移を起こしていますね。それに肺にも兆候が見える。大動脈周囲のリンパ節にまで」
 腫瘍部分を指しながら、彼は詳しく説明を加えた。それは概ね、りく也が下した診断と変わりがなかった。
 これから先は専門科の領域だ。りく也の役目は、告知を残すのみとなる。
「よくここまで放っておいたものですね?」
「自覚症状の出難い場合もある。鈍感なヤツだから、ただの胃炎だとでも思ったんだろう」
 国際的なピアニストであるユアンの名声は、ここ数年、高まる一方だった。五十歳を超えて、その表現力は一層の深みを増したともっぱらの評判で、また衰えを知らない美貌が渋味を加え、優雅なパフォーマンスが見る者を惹きつけた。最もチケットを取り難いと言われるピアニストの一人となった彼は、休みなく大西洋を横断する。身体の不調を感じる暇などなかっただろう。
「ありがとう、後でまた」
 一通りの説明を受けた後、りく也は腫瘍科病棟を出た。
 HIVは確かにネガティヴだったが、CEAとCA19−9――共に腫瘍マーカー――の数値は平常値を超えていた。
 エイズの可能性がなくなったことで、ユアンはすっかりいつもの元気を取り戻し、浮かれて他の検査結果など真面目に聞こうとしなかった。
 癌は今や、不治の病ではなくなりつつある。財力と、入っている保険ランクから言って、最高水準の治療を受けられる彼には、癌などエイズより遥かに楽観視する病であった。それをねじ伏せるようにしてりく也は、より詳細な検査を受けるように勧めた。半ば強制に近く、医師としての立場を崩さない彼に、ユアンはしぶしぶ従ったのだ。
 ERに戻ってきたりく也を、受付でジェフリーが待ち構えていた。
「どうだった?」
「予想通り」
 素気無く答えて、ユアンを待たせている検査室に向かう。ジェフリーがあわてて後に続いた。MRIの画像は彼も目にしている。
「予想通りって、ステージは?」
「W」
「W?!」
 ジェフリーの足が止まった。しかしりく也は止まらない。相変わらず患者で溢れかえっている外来待合を横目に、呼び止める看護師も、レジデントも医学生も無視に近い対応で往なす。ジェフリーの気配は後ろに感じられなかった。誰かに足止めをくらったか、もしくはあのまま、止まってしまったのか。
 ユアンの姿が廊下に面した窓から見えた。背もたれを起こしたベッドに横たわり、退屈そうに雑誌を広げている。一人でいるようだった。りく也は立ち止まり、しばしその様子を見ていた。
 告知は主治医の義務だ。りく也は今まで、何度となくそれを行ってきた。病状がどの程度であるかを知ることは、患者の権利でもある。今後の方針を示し、患者自身に理解・協力をしてもらうことで、より良い治療の成果が上げられることも知っていた。
 ユアン・グリフィスの病状は深刻だった。りく也とミハエルの見解は、余命は三ヶ月あるかどうかで一致している。手術をするにしても、根治術を目的としたものではなく、症状を軽減するための姑息型になるだろう。それは延命処置に過ぎず、検査結果が導き出した結論が変わることはまずない。
(なぜ俺は、動かないんだ?)
 りく也は止まったままの自分の足を見る。白衣のポケットに突っ込んだ左手が、汗ばんでいるのは気のせいか?
 視線を戻すと、ユアンがりく也に気が付いて手を振っていた。それを合図にりく也の足はようやく動いた。
 ポケットの左手は汗が冷えて、握り込んだ指先を次第に冷たくする――りく也は自嘲し、検査室のドアを押し開けた。





2007.03.24(sat)


  back  top  next