[ IX ] 赤



 
「シュタウヘル」
「存命の者はおらぬとの報告ですが、確認を急がせております」
「セーブル」
「姫がサンダルーシの後宮に。公子は北方の血筋を頼ったそうなので、足跡を追っている最中でございます」
「ウェグランド」
「公子がアリアドニの修道院にいるとのことです。実は今回、騎士団の一員としてこちらに来ているとの噂ですが」
「カラクラフ」
「存命の者はおりません。こちらも確認を急がせております」
「ハウザー」
「公子が一人、ガルナハン聖教区の修道院におります」
 口頭で短く報告した後、グラスゴーは読み上げた文書を長椅子に座る主・ユリウス・トレモントに手渡した。
「それで、私の金糸雀(カナリア)と番いとなるに相応しいのは?」
 書面には詳細が綴られている。内容は各地に放った間諜に以前から探らせておいた、傍流六家の生存者の行方であった。
「行方を当らせておりますセーブル家の公子は、リリアナ姫よりかなりのお年下です。年令から申せば、ウェグランド家とハウザー家と言うことになりましょうが、御し易いのはハウザーかと思われます。生来の体質に断種の薬が合わず、心身共に虚弱であると聞いております故」
「私は相応しいかと聞いているのだが? 美しい番いでないと意味がない。たとえ卵を産まぬとも、人心を捉えるのでなければね」
 ユリウスは書面から目をあげ、グラスゴーを見る。優美な笑みを浮かべてはいたが、青とも銀とも形容しがたい色の瞳は鋭く光った。その目で見据えられて、グラスゴーの喉仏は上下する。
「ではウェグランド家かと。容姿も端麗で思慮深く、頭脳も明晰との噂です。後継順位も三位ですし」
「なるほど。どうだね、カイン?」
 ユリウスは部屋の隅に控えている人影に声をかけた。グラスゴーも『彼』に目を向けた。まだ少年のように若い修道騎士が立っている。意見を求められて一歩前に出るまで、グラスゴーは彼に気付かなかった。ここまで気配を消せるのは、かなり優秀な間諜だ。彼は金色の髪に青い瞳を持ち、胸に臙脂色の十字が染め付けられた、騎士仕様の修道服を身につけていた。それはアリアドニ聖教区のクラリス騎士団のものだった。
「異論はありません」
 確かウェグランド家の公子もクラリス騎士団に所属していると、報告書にある。この修道騎士はそれのためにアリアドニに放たれたのだろうか――彼は自分の主を凝視した。間諜を統べる立場であるグラスゴーではあったが、正確にその数を把握しているわけではない。ほとんどの間諜の任命はトレモント公爵自らが行なっているからだ。次々に入る報告を精査し、纏め上げトレモント公に奏上することが彼に課せられた役目であった。グラスゴーを飛び越えて公に報告が行くことはなく、家臣の立場と役目を慮り、その職域を侵さないところが、ユリウス・トレモントを不世出の名君と言わしめる所以となっていた。
 だからその傍近くで、間諜の姿を見ることはかなり珍しいことだった。
「気を悪くするな、グラスゴー。彼は私の遠縁とも言える者なのだ。このような機会でもなければ、なかなか会うことも出来ないのでね」
 深い意味で主を凝視したわけではないのだが、そう見えてしまったことにグラスゴーは恐縮し、頭を垂れた。
「では、そのウェグラント家の元公子を我が国に迎えよう。接触を試みる手立ては?」
「アリアドニの代表に警告の怪文書があったように見受けられます。クラリス内部の人事が一部変更され、元公子は単独で行動することはなくなりました。班は私と同じですが、常にエヴァン・ソードと言う手練(てだれ)が付いています」
 答えたのは先ほどの修道騎士だった。その若さに似合わず、感情の起伏の感じられない語調である。
「怪文書の出所は、大方、オトゥ−ルあたりだろうよ。予想の範疇ではあるがね。今回、この会議での収穫と言えば、宰相閣下の力量を測れたことぐらいだ。ああ、時間稼ぎにも役立ったかな?」
と、ユリウスはくつくつと笑った。
「とりあえずその公子とは『会わねば』なるまいよ」
「そんな回りくどいことをなさらずとも、公が後継にお着きになればよろしいではありませんか?」
 グラスゴーは主に目を戻した。ユリウスは優雅に長椅子に身体を凭せて、その問いに笑んだ。
「それではただの簒奪者になってしまう。自分の後宮に六家の姫を納めたのもそのためだと思われるのは良くない。民は正統な血筋を何よりも好むのだ。現王室を廃した後には、それに遜色ない後継でなければならない。どこの馬の骨とも知れぬ輩が、一足飛びに玉座を望めば反発も出ようもの。私はね、玉座などに興味はないのだよ。国を動かすのに、そんな物は不必要だ。典礼、祭礼、形式で身動きが取れなくなる。だからそう言ったことを引き受けてくれる、美しい道具が必要なのだよ」
 花よりも実を取る――公爵の言はそう語る。
「それでカイン、その元公子はなんと言う名だね?」
 グラスゴーが納得した表情を見せたので、ユリウスの目は修道騎士に向けられた。騎士は艶然と微笑む。やっと人間らしい表情を見せたかと思えば、グラスゴーと目が合うとまた無表情に戻って、
「シムル、と」
と短く答えた。
 


 
 幕舎の周りは、市井とは違った活気で溢れていた。活気と言うほどに明るさはない。忙しない人の動きとざわめきとが、それに似たものを作り出しているだけだ。
 廃園で見る修道騎士達は帯刀して形りこそ騎士であったが、確かに修道士だった。しかしこの場においては騎士以外の何ものにも見えなかった。
 アーロンは隣を歩くシムルを見やった。彼もやはり、立派に騎士に見える。穏やかな表情に変りはなかったが、口元の結びに力が入って見えた。木々の緑に溶けるかのようだった瞳は、幾分濃い色合いに変っている。
 この場所は、言わば最前線なのだ。百年の間、剣を交わし続けた同士が会する異例な場所。表面上は平静を保ってはいても、内面は緊張と警戒が鬩(せめ)ぎあっている。円卓会議が決裂したなら、すぐに立場は分かれ、またどこかの戦場で剣を付き合わせなければならない――そんなエリアを歩いているのだと、アーロンは実感する。
 仮論文の再提出を許可されたアーロンは外出を控え、論文をまとめることに集中した。どうにか納得出来る下書きが上がったところで、あの庭を訪れたのが昨日。運良く休憩していたシムルと出会うことが出来た。彼は珍しく一人ではなく、耳元から顎の稜線に沿って大きな疵跡を持つ修道騎士と共に座っていた。この時代に転送された初日、木々の間から『時間』に放り出されたアーロンを受け止めた騎士だ。
「久しぶりだな? 神学生だそうだな? わざわざ東の果てからこんな血なまぐさいところに、ずいぶんと物好きがいたもんだ」
と彼は穏やかに笑った。
「シムル、この前の話、明日じゃ都合悪い?」
 この前の話とは、シムルにコーラルアーシェの宗教地区を案内してもらうと言うものだ。
「案内する話? 構わないよ。九時課の後でよければ」
「出来ればその前がいいんだけど」
 翌日は問題の『コーラルアーシェの決裂』の日。ノイエル大聖堂の鐘楼から赤い幕が垂らされるのは、その日の九時課近くだったと記録に残っている。それ以降では明日に案内してもらう意味がない。アーロンは理由を「近く帰国するので見聞録の綴りをまとめる為、早く宿に戻らなければならないから」とした。
「ああ、もうひと月、経つのか。早いな? いい録は書けそうかい?」
 疵の騎士――ソードは興味深そうに尋ねる。アーロンが苦笑いを返すと、「ぜひ彼の希望通りにしてやらなければ」とシムルに口添えしてくれた。どうやら彼は上官にあたるらしく、「あなたが許可してくださるのなら」とシムルは確認した。
「構わんよ。そうだな、六時課の後なら多少、時間が出来るだろう。君は十二刻くらいに来れるかな?」
 六時課のミサは正午に執り行われる。時間的にちょうど良いくらいだ。その時間にラフで落ち合うことを約束して別れた。
そうして今、アーロンはノイエル大聖堂に至る道を歩いている。途中、大聖堂を望む石畳の広場に、各陣営の幕舎が所狭しと並んでいた。
 アーロンの傍らにはシムル、そして彼の傍らには今日もまたソードが一緒だった。
「お邪魔して申し訳ないね。これも団規だから、そうガッカリしたような顔をしなさんな」
 アーロンは表情に出したつもりはなかったが、多少、出ていたのかも知れない。
 今日で「歴史上」会議が終わる。それぞれがそれぞれの場所に戻って行く。シムルと会えるのは、上手く行けば三年後。でなければ、これで最後なのである。
「ああ、そうだ。これを返しておかないと。大事なものなのだろう?」
 ソードは懐中から布に包まれた物を取り出した。受け取ったアーロンはズシリとした重みを手に感じる。知らない重みではない。アーロンの腰にある物と同じ重みだ。
「国に帰るなら道中、その『お守り』も必要だろうから」
 ここに来た時に彼に取り上げられたT.S。とっさに出た『お守り』と言う言葉をソードが信じているかどうかはともかく、返されたことは意外だった。手の中の重みにアーロンがしばらく意識を取られているうちに、二人の歩は前方に進んでいた。慌てて追いかける。
 視線に気付いて目をやると、臙脂の十字が染められた幕舎の入り口付近に、見知った顔が立っていた。黒い髪に紅い瞳。グレンと言う修道騎士だ。訝しげにアーロンの姿を追っている。アーロンもまた、彼から目を外せずにいた。
――いつもと印象が
 アーロンは一度、前に向き直った。彼の姿を見るのは三度目だが、前の二回とどこかが違う。改めてグレンを見る。
――髪が…。
 中天からの陽光に晒されたグレンの髪の色は、幾分柔らかい印象に変っている。確かに黒い。しかし所々陽を吸って光っていた。それが印象を変えているのだ。
――あれはなんだろう? なぜ光っているのだろう?
 アーロンの足が止まり、彼を見つめる。二人の距離は約十メートル。知らずに一歩、グレンの方に踏み出したアーロンの肩を、
「あぶない」
とシムルが掴んだ。鼻先を数人の騎士達が通り過ぎる。危うくぶつかるところだった。
「ありがとう」
 顔を上げた時、グレンの姿はなかった。幕舎の中にでも入ってしまったのだろう。
「どうかした?」
 腕を放して、シムルはアーロンの視線の方向に目をやる。
「フレール・グレンが立っていたので」
「グレン?」
「でも、中に入ってしまったみたいだ。どうやら僕は彼に嫌われているようだね」
「気にすることはない。彼は誰に対してもああだから」
 ソードが答えた。
「まだまだお子様でね。気になる相手に素直になれない。フレール・シムルにだって、似たような態度だよ」
 彼の言葉にシムルが苦笑する。
「今日は少し印象が違いました。髪の色が柔らかくなった感じが」
「髪? ああ、それは髪粉が落ちてきたんだろう。ここんとこ雨の日が続いたから、染めても乾く暇がないんで落ちやすいんだ」
「髪粉? 彼は髪を染めているんですか?」
「元の色が嫌いなんだと」
 ソードは肩を竦めた。
 ノイエル大聖堂の全体像が視界に入るようになった。
 華美な装飾も無く、質素なほどに色のない石造りの大聖堂はしかし、それだからこそ荘厳で観るものの目を圧倒する。神に対する信仰の揺るぎなさが、年月を重ねているかのようだった。武骨な幕舎の群れがなければ――アーロンは残念に思った。それも仕方がないこと。中で行なわれていることは、最も警戒を必要とし、本来相応しくない事柄の議論なのだ。いや、むしろ相応しいと言える。忌むべき人同士の殺し合いを、何とか止める術はないのかと、話し合う場に選ばれたのだから。
「フレール・ソード、少し宜しいですか?」
 幕舎群の端が見えたところで、ソードは追いかけて来た同じクラリスの騎士に呼び止められ、三人の足は止まった。彼が二、三歩距離を取って立ち話を始めたところで、
「ここには、いつまで?」
とシムルがアーロンに話し掛ける。ようやくアーロンは彼と二人で話すことが出来た。
「あと三日かな。長いと思っていたけど、一月は早かったよ」
「そうか。寂しくなるな」
 シムルの言葉に、アーロンは少し目を見開いた。
「そう思ってくれるのかい?」
「異国の話など滅多に聞けないし、聞いても戦場の話が主だったからね。君の話は珍しい事ばかりで、違う空気を感じられて楽しかったよ。この前、見聞に関係のないことばかりで良いのか…と聞いたけど、それが良かったのかも知れない。あの庭での時間は、一時、何もかも忘れさせてくれた。ありがとう」
 彼の笑みに、アーロンは頬が上気するのを感じた。
「…僕は君のあの忠告をもう少し早く聞いておけば良かったと思っているよ。録をまとめるのに書付を見直したら、見事に関係のないことばかりで、おかげでこの二、三日はそれにかかりきりになってしまったもの。さすがに『どの聖書の写本がオススメか』とかは書けないからね」
 照れ隠しにわざとおどけて応えて見せた。シムルの口元が更に綻んで、笑い声が零れ出る。出会ってから初めて見る全開の笑顔だ。アーロンもつられて笑った。
 その時、大聖堂の鐘が打ち鳴らされた。九時課の時鐘ならば等間隔で九回のはずが、断続的な乱鐘。慣例とは違う鳴りように、修道士達は一斉に鐘楼の方向を仰ぎ見た。尋常ではない乱鐘は、全ての目を集めて止んだ。
「あっ…」
 誰かの叫びにも似た声が、大聖堂の鐘楼に向かって発せられる。
 残響が晴れた空に吸い込まれようとするその刹那、鐘楼から垂れ下ろされた幕の色は――赤。
 その色が全ての目と思考を支配する。誰も動くことが出来ず、そして時間が止まった。
 

『それを見た時、一瞬、時間が止まったような錯覚に陥るわ。誰もが立ちすくんで、一言も発しない。それから一斉に走り出す。蜘蛛の子を散らしたかのように』
 

「決裂だ…」
「決裂したぞ!」
 呟く者、叫ぶ者。様々な口を使って、言葉が空を駆けた。
 止まった足が一斉に動き出す。ゾーイ・バークレーが『蜘蛛の子を散らしたかのように』と形容した光景が、アーロンの目前で起こっていた。
「決裂した。戻るぞ、フレール・シムル!」
 ソードが叫んだ。「はい」と答えたシムルは踏み出したその足を一瞬止めて、アーロンを振り返った。
「すまない、行かなけりゃ」
 二人の間の僅かな隙間を、人が走り抜ける。
「また会える?!」
「フレール!!」
 アーロンの言葉にソードの声が被った。シムルの意識は先んじるソードに向けられた。
「シムル!!」
 アーロンが叫ぶ。しかし応えはなく、やがて人の流れがアーロンの目を遮り、次に視界が開けた時には、シムルの姿は人の群れに紛れてしまっていた。
 もう彼の後姿を、追うことが出来ない。なんてあっけない。今生の別れかも知れないのに。
 肩先をかすめ、腕を弾き、幾人もが通り過ぎる。アーロンは突っ立ったまま、それをぼんやりと見ていた。何度目かの肩の衝撃は身を押し倒すに充分で、アーロンは石畳の上に膝を折った。
「さっさと立たねぇと、踏み潰されるぞ」
「サイラス」
 腕を引っ張り上げる手。引き起こしてくれた相手はサイラスだった。彼もまたゾーイに「ぜひ見ておけ」と言われて、この場に来ていたのだろう。
「すごいな。映画を観てるようだ」
 走る人々の姿を見ながら、感慨深げにサイラスが言った。正直なところ、二人とってはまるで現実感がない。よく出来た歴史ドラマの一シーンを観ている感覚。感動はしても、行き詰る切迫感を、この時代に生きる『彼ら』とは共有出来ない。
「もっと騒がしくなる前に、戻って来いとのお達しだ。とにかくここを離れよう」
 サイラスはアーロンの腕を軽く引いて促し、先に歩き出した。
 アーロンはノイエル大聖堂を見やる。
――血の色のようだ
 地上の喧騒の中、鐘楼から垂れる赤い幕が微かに揺れて、色のない石の壁から鮮やかな色を放っていた。
 
 


「荷物をまとめて帰る用意をしろ。私は何人か連れて代表の傍に着くから、ここの指揮は各班長で分担して取ってくれ」
 幕舎に戻ると、クラリス騎士団長が各班長を周りに集めて指示を出していた。幕舎から一番離れた場所にいたソードは、遅れてその輪の後に付く。各自の割り振りを行なった後、班長はそれぞれの班の騎士を呼び寄せた。
「フレール・シムルはどうした?」
 ソードの目の前にはグレンとカインの二人だけで、確かに一緒だったはずのシムルの姿がない。
「まだ戻っていません」
 グレンが答える。
 ソードは慌てて幕舎の中を見渡した。黒髪の頭を探す。中にいないと見ると、表に走り出た。外は講和会議の決裂と言う衝撃で、人の動きが一層に忙しない。「フレール・シムル!」と叫びにも似たソードの呼び声はかき消された。それでも声の限りに、彼はその名を呼びながら走る。
 しかしついに、彼の姿を見つけることは出来なかった。
「まさかっ…」
 嫌な予感がした。こう言った予感はまず外れたことがない。戦場において、時にはソードを助けてくれた一種の才だ。それと同じものを身に感じて、ソードは思わず立ちすくむ。
 日頃冷静な彼の、珍しく慌る様子に、グレンとカインも後を追って幕舎から出て来た。彼らの呼びかけに、ソードは「はっ」と我に返る。
「フレール・シムルを探すんだ。私は人を借りてくる。いいな!?」
 振り返って指示を出しながら、ソードの足はすでに駆け出していた――形の良いカインの唇の端が微かに上がったことを、見ることも無く。

 





                 (2011.01.25)



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