[ X ] Miserere nobis 柔らかな真綿の中に身体が埋もれて行く感覚――シムルは目を薄く開けた。あの天蓋は寝牀(しんしょう)のものだろうか? 天蓋のある寝牀など、もう何年もお目にかかっていない。 身体を包む柔らかな感触が、再び眠りの中に彼を誘う。一度、瞼が閉じられ、その誘いに応じかけた次の瞬間、シムルは反射的に起き上がった。 「ここは!?」 慌てて辺りを見回す。天蓋から床まで垂れた薄様の帳(とばり)が、寝牀を覆って視界を奪っていた。 起こした身体を支える手は埋もれて行く。上質な羽毛が詰まった敷布のせいだ。この牀と寝具から、貴人の持ち物だと知れる。あきらかに修道騎士に与えられた宿舎とは違った。 目の奥はまだ重い。緩やかに覚醒しようとする頭を励ますように数度振って、シムルはこの状況を把握することに努めた。 鳩尾に残る鈍い痛み。 ――そうだ、あの時… 大聖堂の鐘楼から垂れた幕は赤だった。議場の決裂を、円卓会議の終わりを、そして『百年』の続きが始まることを知らしめる印し。誰もが自分の戻るべき場所に向かって走り出した、もちろん、シムルも。 混乱と喧騒、交差する人影。シムルの足をすくったのは、石畳か人によるものかはわからない。倒れかけたその身体を誰かに支えられたかと思うと、鳩尾に当て身をくらった。シムルの記憶はそこで途切れている。 あれからどれくらいの時間が経っているのか。辺りは薄暗く、燈火の炎と思しき朧な光が物の影を映していた。 「気がついたかね?」 帳の一隅が割れた。入って来た人物を見て、シムルの目は見開かれた。驚きと同時に「やはり」と言う気持ちが過(よ)ぎる。 「トレモント公、これは何の真似ですか?」 声音を抑えたシムルの問いに、ユリウス・トレモントは艶然と微笑んだ。 「手荒な真似をして申し訳ない。君とはぜひ話をしたいと思っていたのだが、その機会になかなか恵まれなかったのでね」 彼は手にした杯をシムルに差し出した。何が入っているかわからないものを、受けるはずがない。警戒している様が見てとれたのか、トレモント公はまた笑んで杯を傍らの水差し台に置いた――穏やかで魅惑的な笑みだが、硬質な光を放つ青銀色の瞳が、その優しげな表情を裏切っている。 「一介の修道士である私に、何のお話ですか?」 「一介の修道士だったのは先刻までだ。あなたには公子と言う身分に戻って頂く。後継順位六の三、ウェグラント公爵家シムル公子に」 シムルの予想を超えた答えが返った。 『某国が旧六家の公子・公姫の行方を探していると思われる。注意されたし』――怪文書で警告をされた時、読んだ者は公子達の命の危険を真っ先に思った。多分、文書を綴った本人も、某国=トレモント公国が自分の駒であるマルベリ家の姫以外に後継となりうる人間を、消しにかかると踏んでそれを寄越したに違いなかった。 「公子に…戻る?」 しかしトレモント公は、シムルに公子に戻れと言う。公爵自らが剥奪した尊称と身分、滅ぼした家名を名乗れと。 「何をおっしゃっているのです?」 「そのままの意味ですよ。還俗して公子に戻り、リリアナ姫と婚姻する。そして九世女王陛下の退位の後、このサイドルを統べって頂く」 「馬鹿な!」 シムルの声は思わず大きくなった。しかしトレモントの口元には薄ら笑みが浮かんだままだ。 「馬鹿なことではありますまい。サイドル王室を廃すれば、国を統べる次代を決めなければならない。六家はそのための家系ではありませんか?」 「あなたはご自分が何をおっしゃっているか、おわかりなのですか?」 後継を輩出する役目の六大公爵家は、既にない。滅(めっ)したのは他ならぬトレモント公だ。二度と再興出来ないほどに、徹底して『血』を絶った。それを成した手で、また再興させると言うのか? そんな心の内を見透かすかのような目で、公爵はシムルを見つめている。シムルは視線を外した。 「公子は、『百年』を終らせたいと思わぬのか?」 「それを願わぬ者はおりますまい」 「自らで終らせようとは?」 「そこまで傲慢ではありません」 シムルは目を戻し、自分を射すくめる青銀色の瞳を、今度は受け止める。彼は動じる様子も無く、寝牀の端に腰を下ろした。 「このままでは永遠に『百年』は続く。終らせるためには、すべてを白に戻さなければならない。古い体制を崩し新しい世を築く。公子、もはや世は、そうしないことには治まらぬ」 口元の笑みは消え、代わって憂いを含んだ表情が現れた。諭すような声音。人心を惹きつけるには充分だ。シムルはいよいよ唇を引き結んだ。 「傲慢の罪と、成すべきことを成さぬ罪と、どちらの罪が重いのかな?」 呑まれる、この男の言に。 「詭弁です」 シムルは床に足を下ろした。ここから去らなくては。この男は危険だと、思考の全てが警告する。 「成すべきことがあるとすれば、それは公子に戻ることでも、後継となることでもありません。私はすでに神と誓詞を交わしています」 「それが君の答えかね?」 トレモント公の手はシムルの左手首を掴んだ。その薬指に嵌った鎖の一輪を一瞥し、「神との契りを示すか」と呟く。 「思慮深く敬虔なシムル公子、報告通り、理想的な人身御供だ。出来れば話し合いで済ませたかったが、致し方ない」 痩身に見える容姿に似合わぬ腕の力で、シムルは抱き込まれ動きは封じられた。トレモント公は水差し台の杯を手に取ると口に含む。杯は床に硬い音を立てて転がり、空いた手がシムルの顎を掴んだ。引き寄せた唇に口づける。彼の口腔で温められた液体が注ぎ込まれるのを、シムルは必死に拒んだが、顎にかかるトレモント公の手がそれを許さない。 シムルの喉が小さく鳴った。それを確認して、トレモント公の腕の力が緩んだ。 「何を…!?」 解放されたシムルは飲み下したものを吐き出そうと試みるが、少量の液体はすっかり身体の中に入ってしまった。甘い果実酒の味。しかし舌に微かに残るしびれはなんだ? ガクリ…とシムルの膝は床に向かって折れる。支えようとした腕に力が入らず、糸の切れた操り人形のように、シムルはその場に崩折れた。 「これは微量で一時的に四肢を弛緩させる薬だ。毒に慣らした私には効かぬが、常人には即効性がある。もう自由が利かぬだろう?」 上腕にかかった公爵の手に力が入り、シムルの身体は苦も無く寝牀に投げ出された。再び埋もれる感覚。すべての力が失われ、かろうじて唇は動いたが、思うように言葉にはならなかった。 「痛みで君は屈しない。勇敢なクラリスの騎士だからね。生きて虜囚の恥を晒すくらいならば、その場で自死を選ぶだろう。死人を『生かしておく』のは容易いが、一度くらい姿を拝まないと民は納得しない。では何が効果的か?」 すぐ目の上に、彼の青銀色の瞳が迫る。身体は動かない。逆に頭はどんどん冴えて行く。これからシムルの身の上に起こるだろうことを、彼自身に記憶させようとするがごとく。 「私には名ばかりとは言え妻がいる。君は神と契った身だ。『汝、姦淫するなかれ』 神にはそんな教えがあったね?」 「や…めろ」 音にならない声を、喉から搾り出す。だがシムルの唇は、再び唇によって塞がれた。 「フレール・シムルは引き続き我々が探します。とにかく代表と共にアリアドニに向かってください。すぐに後を追いますので」 ソードの言葉に、「仕方ない」と騎士団長は頷いた。 シムルの姿が見えなくなって、二度目の夜が更けようとしている。コーラルアーシェの探せるところ、踏み込めるところは全て探した。ソードには初めからわかっていた、シムルがどこにいるのか。 ――トレモント公ユリウス 探せていないのは各代表の宿舎だったが、一国の主とも言える代表の部屋には、確証がなければ簡単には踏み込めない。シムルは確かにトレモント公爵のところにいるはずだ。それがわかっていながら、無駄に時間を過ごすしかない焦りが、ソードの眉間に皺を寄せる。 すでに王室側とダルトリ公国は帰国の準備を終え、幕舎もすっかり片付けられている。今日の夕刻には、帰路につくだろう。問題はトレモント公国の出立だ。二国の代表に比べて仕度が緩慢とは言え、 ――まだトレモントの動きがない。でも明日の朝か、もしくは午後。踏み込むとすれば、それに紛れるしかないな それまでシムルの命はあるだろうか? もしかしたら、すでに失われているかも知れない…自身の悪い想像にソードは頭を振った。 「フレール・ソード」 グレンが戻って来た。彼も疲れた顔をしている。ソード達は不眠不休でコーラルアーシェを走り回った。それが徒労とわかっていても、探さずにはいられなかったのだ。骸で見つかっていないことに、一縷の望みをつないで。 「フレール・カインはどうした?」 「途中で二手に分かれました」 「そうか。少し休め、ひどい顔だぞ?」 「あなたも」 ソードの隣に腰を下ろしたグレンは、幕舎の中の片付けが急がれている様子を見やった。 「出立するのですか?」 「大司教にはアリアドニに戻って頂かなくてはならない。情勢がどう変わるかわからないからな。聖教区は中立のはずだが、コーラルアーシェではそれも怪しい」 「フレール・シムルを見捨てて!?」 大きくなったグレンの声に、幕舎内のざわめきは止み、視線が向けられる。 ソードはグレンの頭をクシャクシャと撫でた。視線は散り、ざわめきが戻る。 「我々は残って引き続き彼を探す。居場所はわかっているんだ。人数がいては、かえって動き辛いこともある」 「では踏み込むのですか?」 どうやらグレンも、トレモント公国を疑っているようだった。 ソードは空いた手で口元に指を立てて、グレンの言葉を制した。それから彼の頭を自分に引き寄せる。トレモント公国の出立の慌しさに紛れて、代表宿舎に入り込もうと思っていることを、耳打ちした。 「それまで待てません」 「今、行っても彼を見つける前にこちらが犬死にだ」 「フレール・シムルの命はどうなるのです!?」 「神のご加護を祈るしかない」 「そんなっ!」 立ち上がろうとするグレンの肩を、ソードは押さえつけた。グレンの声を、今度は誰も気に止めなかった。 「グレン、彼は大事な『兄弟』だが、今の世に死は避けられない。何千何万の『兄弟』が死んでいった。役の最中、今回のように行方の知れなくなった者もいる。どの命も尊く、どの命も助けたいと願った。フレール・シムルだけが特別じゃない」 「フレール・ソード」 シムルは確かに大事な『兄弟』の一人であり、良き仲間だ。ソードは何人もの死を見て来たし、親しい友を失う覚悟をいつもしている。とは言え、やはり出来るだけのことはしたいと思うのが人としてあたりまえの感情だ。そして、どこかで線を引かなければならないことも、ソードには充分わかっている。 「トレモント代表の周辺にいなければ、それで終わりにする」 ソードはそう言うと、小さく息を吐いた。 (2011.06.18) |