[ VIII ] その『前夜』 コーラルアーシェは前日からの雨を引きずっている。時折、雷鳴を伴い、暗く垂れ込めた雲を鋭利な稲光が割った。激しい雨が泥濘(ぬかるみ)を作るので、ラフに人影は見えない。もちろんシムルの姿も。アーロンは早々に研究所へ引き返し、遅れ気味の論文をそろそろまとめることにした。 部屋のハンガーにはシムルに借りた上着がかけられたままになっている。胸の臙脂色の十字架はクラリス騎士団の印しだ。いずれその大半を失う、勇猛果敢な修道騎士団――誰が残り、誰が薨れるかは、大学図書館の歴史専門システムでなければわからない。それだとて、どこまで正確に記されているか。水晶期における戦死者は膨大な数だ。末端の騎士に至るまで記録に残すことは、かなり難しい。 「お、今日は屋内作業ですか?」 時計上の夕刻に、サイラスが戻って来た。この雨の中を午後いっぱい、彼はいつも通りリサーチに出かけていたらしい。論文の進み具合は彼の方が断然早く、仮論文の出来も提出翌日の朝食時にゾーイから流し読みだとの前置き付きではあったが、「面白い」とのコメントをもらっていた。 「そろそろ本腰を入れないと、本論文の提出に間に合わないしね」 「そうだな、実習はあと一週間を切ってる。話通り、あっと言う間だったな」 アーロンはカレンダーに目を向ける。ティオキアの『時間』に戻る日が近づいていた。ウィークリー・レポートに追われ、3週目に提出する仮論文に追われ、日々は加速して過ぎて行った。気がつけば、六日後にはティオキアだ。 アーロンの手元には書き散らしたリサーチ・メモが残っている。サイラスがそれを見止めた。 「このメモ、まだまとめてないのか?」 「いや、インプットは済んでるよ。でも…処分出来なくて」 このメモはあの庭でシムルを待ちながら綴ったものだった。判読不可能なアーロンの文字を見て彼は笑った。その静かで穏やかな時間がメモから感じられて、処分出来ずにいた。しかしそれももうすぐ終る。あと何度、シムルと会えるのだろうか? 「アーロン」 サイラスが声をかける。彼の存在を一瞬忘れ、アーロンはメモに見入っていた。 「ああ、何?」 「まさか本気になってるんじゃないだろうな?」 傍らに立つ彼は腕組みをしてアーロンを見ている。その目はいつもの茶化したような表情ではなかった。アーロンは「まさか」と笑顔で返したが、タイミングが少しズレた答えに、サイラスの目のそれは複雑なものに変った。ガシガシと自分の頭を掻いて、彼は下段のベッドに腰掛ける。 「最初に焚きつけるようなこと言ったのは俺だけど、もう少し分別があると思ったけどな」 「サイラス」 「あまり入れ込むなよ。わかってると思うけど、あと一週間足らずで俺達は帰るんだぞ。そうなったら」 サイラスの言葉の続きは聞かなくてもアーロンにはわかっていた。ティオキアに帰ったら、この時代を再び訪れることは難しい――そう言いたいことが。 「入れ込んでなんかいない」 「なら、いいけど。その上着もさっさと返せ。どうせティオキアには持って帰れやしないし、次回に返すってことも出来ないんだからな」 持ち帰れるものは『未来』の時間の物だけだった。論文に必要なデータやその下書きが入ったチップくらいしか、学生の私物はない。そして戻れば、実習生の前には宇宙航法の戦闘パイロットのコースが用意されていて、一ヶ月の実習など、訪れた『時間』同様に過去となっていくのである。 時間航法実習は宇宙大学在学中に計三回予定されているが、原則として同じ年代を選択出来ないことになっている。実習から次の実習までは三年。接触を持った人間と年齢的時間的なズレが生じることと、時代に愛着をもつことによる干渉率の高さが理由となっていた。例外は研究論文が学術的に認められた場合のみであるが、そのレベル・ポイントはかなり高く設定されている。 「仮論文でA評価、本論文でAプラス2以上、それから定期的に論文の更新だろ? その都度Aプラス以上なんて、パイロット・コース取ってるヤツには不可能に近い。おまけに次の三年までの総合評価も加味される。行かせない気満々じゃねーか」 だから来れやしない…と暗にサイラスは匂わせる。アーロンは苦笑したが、サイラスの目の表情はまだ複雑なままだった。 「わかってるよ。気の回し過ぎだ、サイラス」 「おまえが、気を回させる行動するからだろ? 俺のキャラじゃないっつーの」 サイラスは肩を竦めてみせた。それから「言いたいことは言ったから」と言い置くと、彼もまたレポートの続きにとりかかるため机についた。 部屋は沈黙した。聞こえるのは、二人が叩くキーボードの音だけ。 アーロンは取り込んだメモを開く。修道騎士団の一日から始まり、その存在の矛盾性、精神的な疲労、そして神へのひたむきな信仰。論文の下書きも開き、改めて読み返してみる。ありふれた内容だった。これではどうまとめたところで、本論文でのAプラス2以上はおろか、仮論文のA評価すら望めない。その証拠にサイラスと違って、ゾーイからは一言も無かった。あたりまえだ。アーロンは自由時間の大半を、庭での為に無駄遣いをしている。それが文面に出て、目の肥えた研究員にはわかってしまうのだろう。 アーロンの仮論文に対して彼女の言葉がなかったと言うことには、本人よりもサイラスが気にしている。二人の成績は常に拮抗していて、今回のような場合、どちらか一方が抜きん出るということがなかった。それだけにサイラスはアーロンから何らかの変容を感じ取っているのかも知れない。 読み返してみて、それがよくわかった。このひどい内容をサイラスが知ったら、「気を回す」を通り越し、あきれられるに決まっている。 「どこ行くんだ?」 席を立つアーロンにサイラスは手を止めた。 「少し頭を冷やしてくる。それからミズ・バークレーに仮論文の再提出を頼んでくるよ」 やるだけやってみよう――アーロンは思った。この程度の仮論文で実習を終えてしまうのでは、わざわざ水晶末期を選んだ意味がない。まだ自分は、触れたいと思ったものに触れていない。シムルのことにしたって、修道騎士としての本音も、修道士として持っているであろう苦悩も、何も見えていない。任務に疲れて、休みたいと思っている空き時間を、彼はアーロンの為に潰している。上っ面だけを見て、わかったと錯覚するのでは、彼に対して失礼ではないのか。 「やっとでエンジンがかかったか。その原動力がなんであれ、俺も勝ちっぱなしじゃ、いい気がしないからな」 サイラスはそう言って軽く手を振った。アーロンは苦笑を残して、部屋を出た。 日が暮れると雨は一層強くなった。幕舎の天幕に打ち付けられる雨音を、シムルはぼんやりと聞いていた。が、彼の耳にその音は届いていない。意識は別のところにあったからだ。昨日の雨が降り始めた時間――呼ばれた代表宿舎の中でのやり取りに。 昨日、円卓会議が休憩に入りラフで休憩を取っていたシムルは、呼び出しを受けて代表宿舎に向かった。シムルを待っていたのは大司教とクラリス騎士団長、それからグレンにシムルを呼びにやらせたソードだった。 シムルが大司教の執務室を兼ねた部屋に入ると、一緒に戻ったグレンは人払いされ、扉は閉じられた。 「これで拭くといい」 騎士団長が髪を濡らしたシムルにリネン布を手渡した。 「フレール・シムル、今日の会議の内容は聞いていたかね?」 体についた水滴をシムルが拭い終わるのを待たず、アウリープ大司教は尋ねた。 「はい」 「では、トレモント公爵の提案も聞いているね? リリアナ姫を九世女王の後継と成すと言う件(くだり)を」 シムルが頷くと、大司教は懐中から封書を取り出して差し出した。封書は本来の物とは違い懐紙に包まれた書付で、どこにも差出人名はなかった。促されて中を開けると短い一文。 『某国が旧六家の公子・公姫の行方を探していると思われる。注意されたし』 会議が一時中断され宿舎に戻った大司教を追うように、その書付は届けられたのだと言う。手(筆跡)は走っていた。急いで書き付けられたことが見て取れる。某国とは無論、トレモント公国であろうことは、会議の場にいた者ならば想像するに容易い。 「神に誓詞を立てた者に身分はない。故に強いて出自を隠す必要もなかったのだが」 「私の身に危険が及ぶと言うことですか?」 シムルは書付を元通りに懐紙に包み、言葉と共に返した。問いには騎士団長が答えた。 「忠告は忠告として心に留め置いた方がよかろう。隠してもいないのだから、ウェグラント家公子の行方などすぐに知れる。あのトレモント公は、禁忌とされていた『傍流には触れず』を苦も無く破った御方だ。リリアナ姫を後継にと口にされた以上、それ以外の禍根は絶っておこうとお考えになるのは目に見えている」 王室の直系が絶えた時にその後継を輩出すべく定められた六つの公爵家は、『傍流』と呼ばれ王室に継ぐ格式をもって遇された。『傍流には触れず』とは、百年の戦乱が始まって以来守られてきた不文律。傍流である六家はいかなる大罪を犯そうとも断絶させてはならないと、暗黙に了解された。戦いに敗れ一門の長が断罪されはしても、その血筋をことごとく絶やすことは誰も考えたことはなかったのだが、ユリウス・トレモントがトレモント公国の次期公爵と定められるや、その不文律は破られたのである。 六家は当然王室側であった。つまりトレモント公国とは対極にあり、ユリウスはそれを大義として、ことごとく攻めの対象としたのだ。成人男子は一族の末に至るまで死罪、勝者の寛容を示すために十二才以下の男子は断種、そして公妃・公姫は妾妃として後宮に納められたが、たいていは自害したか、心労による衰弱死か、あるいは説明出来ない死で姿を消した。文字通り、根絶やしである。 「フレール・シムルにその気はなくとも、微細なことで人心が動くこともあろう。百年の閉塞の打破を、その名を冠することで成そうとする者が出て来ないとも言い切れない。実際、トレモント公はその方向性を示して見せたのだからね。それもまた、誰も考えないことだったが、ご自分がなさったことを模倣する者が出ることは、充分に警戒されていることだろう」 アウリープ大司教はシムルの方に一歩、踏み出した。 「無論、今の君は修道士であり、クラリスの騎士であり、その身は神に捧げられたものだ。それ以外の何者でもない。ウェグラント家公子のシムルを…ではなく、同じ神の子として、私達には兄弟を守る義務がある」 大司教の目配せに、騎士団長は窓辺に立って外の様子を見ていたソードを手招く。 「一部、人事を変更した。君は明日からフレール・ソードと組みたまえ。大司教の仰る通り、君は一修道士に過ぎない。特別扱いは出来ないし、またそうすることで憶測を呼び込むことにもなりかねないからな」 「もっとも、私の腕はさほど必要ないと思うけどね」 ソードは笑った。 シムルは過去の亡霊を見たように感じた。公子と呼ばれなくなって久しい。神と契ったその時から、家名は放棄され、世俗と隔絶される。その上、ウェグラント家は既に亡く、シムルの元には親族より手紙すら届かなかった。 コーラルアーシェは良くない――忘れていたもの、忘れようとしていたものを、無理やりシムルに思い出させる。 「寄ってるぞ、ここ」 声がかかって、シムルは顔を上げた。向かいに座って書き物をしていたソードが、自分の眉間に人差し指をあてている。 天幕を打つ雨音が再び聞こえ、シムルの意識は『昨日』から『今』に戻った。 「本当ですか? 寄っていないと言われましたけど?」 心の内を見透かされまいと、シムルは笑んで答える。 「私の心の目には見えるのさ」 そう言ってソードは手元に目を戻した。 クラリス騎士団は四ないし五人の班で行動する。剣の技量が偏らないように振り分けられるため、さほど腕前の変わらないシムルとソードが同じ班に配属されることはない。だが今回、彼ら二人に、技量が年令と経験以上だと評価されているグレンとカインを加え、班編成がなされた。ソードを長とする新しい班は、クラリスの中でもかなり精鋭の類と言える。 平時に行なわれた急な、そして偏った人事は、本来、奇異に映るものであったが、顔ぶれを見て誰もが納得する。無鉄砲で修道士に有るまじき戦闘意識を持つグレンと、いつの間にか単独行動で外れ、実は協調性が欠落しているカイン。この二人を抑えるのにソードとシムルを宛がったのだと言うのが、もっぱらの見方だった。 これは騎士団長の配属の妙であり、おかげで目的を悟られることなく、常には考えられない人事が受け入れられたのである。 「乗じてあの二人を、体良く押し付けられたんだ、私達は」 とソードが言った。 「戻りました」 巡回中のカインが戻って来た。二人で出かけたはずのグレンの姿が見えない。 「フレール・カイン、一人か? グレンはどうした?」 ソードが手を止めて顔を上げる。「途中で分かれて巡回した」と、カインは雨中用の上着を脱ぎながら答えた。 少し遅れてグレンが戻って来た。激しくなった雨に頭巾を外されたのか、髪からはぽたぽたと雫が落ちている。シムルがリネン布を手渡すと、彼は「どうも」と素っ気無い返事をして受け取った。相変わらずシムルとグレンの距離はこんな感じだ。 「おまえさん達、これからはなるべく単独行動はよせよ。そろそろきな臭くなってきているからな」 問題児二人を一瞥して、ソードは書面に目を戻した。これからも起こるであろう彼らの勝手な判断と行動に、あらかじめ釘を刺す為なのか、それとも複数で行動する必然性の理由とするためなのか。いずれにせよソードの言葉にシムルは関心する。 「きな臭いですか?」 カインがソードの言葉に問い返した。 「そうだな。間もなくこの停戦も終るだろうよ」 「それって、会議があまり良くないってことですか?」 今度はグレンが尋ねる。ソードは再び綴りだした手を止め顔を上げた。その二人やシムルだけではなく、幕舎に詰めている他の騎士の目が、いつの間にか自分に向いていることに苦笑する。 「会議はもう終っている。実りもないままに。後はまた『百年』の続きが始まるのさ」 ソードの答えは幕舎に沈黙を呼んだ。会議の行方が良い方向には向かっていないことは、一度でも議場に詰めたことのある騎士なら肌で感じている。しかし断定することを誰もが躊躇っていた。 「だから緊張感を持ってだな、行動しろってことさね。髪粉、落ちてるぞ。フレール・グレン」 ソードはグレンの頭を指差した。前髪から顎に続く一房の髪の色が抜け落ちて、仄かに光っている。自分で作った沈黙を良くないと思い、ソードはわざと軽い口調で話題を切ったのだと、シムルは思った。その一言で話の終わりを悟って、皆はそれぞれの仕事に戻った。 「それでは、そろそろ参りましょうか、フレール・シムル?」 とソードは立ち上がり、上着を手に取った。グレンとカインに代わって歩哨に出るのだ。シムルも蝋塗りの上着を身に付けた。 「何で班長と副長が一緒に巡回なんだ…」 グレンの独り言は出かけようとする二人には充分聞こえる声量だった。「役得、役得」とソードが答える。 幕舎に笑いが起こった。それに送られて二人は、そぼ降る雨の中に足を踏み出した。 「いいでしょう、再提出を許可します」 ゾーイはケースから一枚のチップを選んでアーロンに手渡した。アーロンはそれを一瞬、見つめた後、胸のポケットにしまう。目を上げると、彼女がその様子を見ていることに気がついた。 「今回の実習生二人は三席以下に落ちたことがないって聞いていたから、あなたの仮論文には正直、失望させられたわ。どうやら自覚はあったようね?」 彼女の言葉に、アーロンは「すみません」と頭を下げた。 「期限は帰還の前日とします。その時はもう少しマシなものを読ませてちょうだい。サイラス・リンドバークに何か言われた?」 「勝ちっぱなしは嫌だと言われました」 「勝ち負けに例えるなんて、彼らしいわね」 ゾーイは笑った。 「それで、どうして再提出をする気になったの? 仮論文でB評価であったとしても、あなたなら本論文でA評価までには挽回出来るでしょう?」 書き直すとなると、かなりの労力が必要となる。本論文で評価を取り戻そうとするのが普通だし、明らかにムダがない。実習期間はあと数日。進み具合によっては自由時間を削らざるを得なくなる。ゾーイの疑問も当然のことだった。 「仮論文でA評価を取りたいんです。じゃないと、本論文でAプラス2を取っても何もなりませんから」 彼女は目を見開いた。 「あなた、またここに来るつもりなの?」 「来たいと思っています」 まだここを選んだ最初の目的も達成していないから――と続く言葉は出なかった。 「そんなに魅力的な時代かしらね?」 その答えに、緊張気味だったアーロンは口元を綻ばせた。その意味がわかったのか、 「そうね、だから私もここに居るんだわ」 と笑った。 ゾーイは机上のカレンダーを見る。 「そう言えば、間もなく『十八日』だわね。その日はなるべく直に見た方が良いでしょう」 今回の実習用にカレンダーは水晶暦855年閏四月に合わせてある。「その日」と彼女が言ったのは三日後の十八日、『コーラルアーシェの決裂』と呼ばれる歴史的な一日だ。二ヶ月に及んだ講和の為の円卓会議が、結局実を結べずに決裂し、時代はまた『百年』に戻って行く。 「あの光景は何度見ても圧巻よ。大聖堂の鐘楼から最初で最後の赤い幕が垂れるの。それを見た時、一瞬、時間が止まったような錯覚に陥るわ。誰もが立ちすくんで、一言も発しない。それから一斉に走り出す。蜘蛛の子を散らしたかのようにね。歴史を体感出来るわよ」 九時課(午後三時の祈りの時間)の鐘の報せを忘れるくらいに混乱したと言われる運命の日は、晴天であったと記録に残る。 「必ず、行きます」 祈る修道騎士達の姿を頭の一隅に思い出しながら、アーロンは彼女の言葉に答えた。 (2010.10.19) |