[ VI ] まみえる瞳



 
「ああ、やっと会えた」
 アーロンは木に背を凭せて休む人物を認めて呟いた。その呟きは彼の耳に届いたようで、伏せていた目が開き顔を上げた。彼――シムルはアーロンを見る。穏やかな翡翠色の目は心持ち見開いた。
 自由行動が許可されて、すでに六日が経っていた。




 出会った庭を探すのは簡単だった。ナビゲーターのゾーイ・バークレーのT.Sの履歴で林の座標に飛び、後は記憶を頼って進むだけ。庭との境の木組みの柵もすぐに見つけることが出来た。アーロンが手首を浸した泉はその先を行ったところだったが、自由行動初日は中には入れなかった。見回りをしている騎士の姿を目にしたからだ。もし見咎められても切り抜けられる上手い言い訳を、アーロンは用意していなかった。それで仕方なく聖教区内の村に引き返し、人々の生活に触れることにした。
 コーラルアーシェはサイドルで最も古い聖教区である。シンボリックなノイエル大聖堂を中心に大小の修道院が点在する宗教地区と、一般信徒が生活する村落に分かれていた。これはたいていどの聖教区でも同じ構成になっている。
 長引く戦乱により農地は荒れがちで、民の生活は慎ましいものだったが、それは平時だった頃とさほど変らない。日々の糧のために働き、信仰と共に生きる。彼らにとっての大事は『百年』が終わるかどうかと言うことであって、国の主導権を誰が握ろうと、またそのためのどんな画策にも関心はなかった。だから「巡礼に訪れた」と言う者を拒まない。
「どこから来たね、旅のお人?」
 旅人に慣れた人々が、気安くアーロンにも声をかけてくれる。東方の学生だと答えると、珍しがって更に親切に接してくれた。この時代の人々はごく狭い地域が『世界』の全てであり、隣国のことすら知らないことが多かった。架空の国名を言ったところで、真偽を疑うことはほとんどないだろう。
「ノイエル大聖堂のミサにぜひ出たいと思ったのですが」
「それは間の悪い時に。今は大事な話し合いをしているとかで、聖堂の方にはなかなか近づけやしないよ」
 山羊の乳をふるまってくれた農婦は本当に残念そうに言った。彼女達一家は、ノイエル大聖堂で行なわれる安息日のミサを欠かしたことがなかったらしいが、このひと月は大聖堂にはおろか、他の修道院のミサにも出かけられずにいると言う。
 その理由は講和の為の円卓会議が行なわれているからであった。ノイエル大聖堂はその舞台であり、広大な敷地内は各代表一行の滞在所にもあてられていた。当然ながら厳戒態勢が敷かれている。
「でも遠いところからわざわざ来なすったんだから、一度、行ってみたら? 勉強に来ている学生さんなら、入れてもらえるかも知れないよ」
 間諜と言う概念がない彼らは、学生ならば宗教地区に入れるだろうと一様に言った。読み書きすらままならない時代にあって、学問を修めようとする学生は僧侶や領主と同様に特別な存在だ。本来なら、その身分がある程度は利用出来るのだろうが、今のコーラルアーシェでは逆に要らぬ疑いを招きかねない。「そうですね」とは答えたものの、アーロンの足は結局、研究所に戻るしかなかった。
「着地点の状況確認が出来ないってとこが、T.Sの弱点だよな」
 机の上のT.Sを指先で弾いてサイラスが言った。その程度では動かない重さを持つ機械に彼は顔を顰め、「この重さもな」と付け加える。サイラスもまた初日は宗教地区に近づけずに戻っていた。
 更に三日、学生達は目的地――つまりノイエル大聖堂の敷地内に入り込めず、ゾーイに指示を仰ぐと、彼女は偽造の身分証を発行してくれた。
「最初から相談すれば良かった」 
 午前中の学習時間にそれを受け取った時、アーロンが独りごちる。ゾーイは笑んで答えた。
「どうやって『時代』に入り込むかを考えることも、この実習の一環ですもの。初日に相談を受けたとしてもこれは渡さなかったわ。でも四日も我慢したのはあなた達だけよ、これは評価に値するでしょう」
と言ったところで、彼女は思い出したように浅く息を吐いた。
「ああ、もう一人いたわね。彼の場合、自力で解決したけれど」
「誰ですか?」
 学生の二人が同時に尋ねる。
「ハナ・クイスよ」
 彼女の答えに、2人の口元が引き締まった。時間航法の実習を受ける学生は、研究課題の他に時間失踪者探索の任務も課されている。実習が始まってばたばたと日々を過ごすうち、すっかり忘れられていたが、免除されたわけではない。
「優秀だったんですか?」
 アーロンはハナ・クイスの顔を思い出す。ホログラムの彼は意志の強そうな瞳で、アーロンをまっすぐ見据えていた。
「史上最年少の実習者という肩書きは伊達ではなかった。第三週までのレポートがファイルに残っているから、読んでみるといいわ。ただし傾倒してはだめよ。彼はあくまでも自ら望んで姿を消した時間逃亡者なのだから。明日からの自由行動ではそのことも忘れずにね。では解散」




 何度、この庭に足を運んだか知れない。
 ゾーイから渡された身分証は『東方の神学生』と言う物で、法王庁のそれと寸分違わぬ押印は、威力を遺憾なく発揮した。庁に確認するにも通信手段が人力であったり鳩だったりするこの時代では、時間がかかり過ぎる。その上に戦時下、細かい確認作業など実質的に出来はしない。そして同宗教を統べる法王の署名と来ては、拒めようもなかった。
「お墨付きの威力たるや、素晴らしい」
と言って、サイラスはトレモント公国のテリトリーを探して分かれて行った。
 アーロンはノイエル大聖堂へと向かった。近づくにつれだんだん警戒も厳しくなる。法王庁の威力が効くのは聖教区の関係者に対してだけで、王家、公国の兵士には『見かけない奴』でしかない。必ず止められて、アーロンはずい分と時間を無駄にした。
 そしてシムルのことは修道騎士だと言う以外に手がかりはなかった。借りた上着からアリアドニ聖教区のクラリス騎士団所属だと言うことがわかっただけだ。
 幕舎と言う各騎士団の詰め所に行ってみればわかるだろう…と教えてくれた者もいたが、そこは一般人の立ち入りを禁じていて、訪ねることは出来なかった。
 だからアーロンの足は庭に向かう。ノイエル大聖堂の後庭から広がる廃園――シムルと出会った庭に。
 シムルがどれくらいの頻度で庭にやってくるかなどはわからない。あの時は休憩を取っていたようだったが、必ずここで取るとも、アーロンがいる時間に来るとも限らなかった。それでもアーロンは論文資料収集の合間を縫って通った。彼と出会える可能性が、一番高い気がするからだった。
 庭は静かで、時折聞こえる鳥のさえずりが耳にやさしい。花は少ないが、風に揺れる花弁は張り詰めて疲労した心を癒すに充分だった。ここに休憩に来る者は、静かで安らぐ時間を求めて寡黙になるのだろう。話声もほとんど聞こえなかった。アーロンもこの庭の雰囲気に惹かれている。ティオキアでも祖国デボラでも、こんな安らかな時間を過ごしたことはなかった。前者は勉強に追われ、後者は『適性』と言うシステムに追われた。この時代は殺伐として死が身近ではあったが、素朴で人間らしい感じ方が出来る時間を、未来よりも持てるように思えた。


 色んな意味で興味深い自由行動はすでに六日目に入っていた。もう会えないかも知れない。『地区』とは言え一つの町だ。あてもなく探すのでは、確率は上がらない。
 アーロンは半ばあきらめて、庭に入った。手首を浸した泉の脇を通り、最初の時とは逆に道を辿る。その先は転送された時にずれた地点だ。その場所がクラリス騎士団の休憩場所の一つであることは、この二日でわかっていた。
 アーロンは足を止める。木に背を凭せかけて座っている人影が見えた。頭が少し俯き加減なのは、眠っているからだろう。
 中央から分けて肩につく黒髪に見覚えがある。その座る人物のすぐ傍まで歩を進めた。
 身を屈めて、そっと顔を覗き込んだ。
「ああ、やっと会えた」
 目を伏せた面差しは、探していた彼だった。アーロンの呟きに顔を上げた。翡翠色の瞳は、アーロンを認めて少し見開く。
「君は…」
 シムルの問う一言に、アーロンは笑みを答えにした。




「私を探している神学生のことは聞いていたけど、君だったのか。手首の具合は?」
「ありがとう、冷やしてくれたおかげで、大したことにはならなかった」
 アーロンは自己紹介の代わりに身分証を見せた。シムルは一瞥しただけで手には取らなかった。それよりもアーロンが立っていることの方が気になるのか、体をずらして座る場所を作ってくれた。
「あの時に借りた上着を返そうと思って」
「急がなくても良かったのに。返ってくると思っていなかったし。でも、ありがとう」
「実は、そのぅ、いつの間にか君をさがすことに熱中して、上着は忘れてきてしまったよ」
 アーロンは肩を竦めた。それは本当のことだ。アーロンの目的はシムルを探すことに摩り替わり、上着は口実に成り下がっていた。
 シムルはアーロンの口調と仕草に、口元を綻ばせた。笑んだ目がやさしい表情を作る。アーロンに対しての多少の警戒は、緩和されたように見えた。
「東方から来たと聞いているけど、どこから?」
「ティオキア」
「ティオキア…、聞いたことがない国だ」
 アーロンは一瞬、ドキリとしたが、シムルには他意がなさそうだった。修道士もまた一般人同様、狭い世界で生きている。学ぶことと言えば神への信仰のみで、それ以外のことはよほどでないかぎり必要性がなかった…と、歴史書は説明していた。特に百年余の戦乱の時代は、自国と近隣の地図を把握することが最優先で、遠い異国の所在など考える余裕は無かったと言えよう。
 しかし知識欲がないわけではない。シムルはティオキアがどんな国か興味があるらしく、ぽつりぽつりと質問をした。戦渦はサイドルほどひどくないとアーロンが答えた時、彼は伏目がちに笑い、「それはとても良いことだ」と言った。
「そのティオキアからこんな危ない所に来るとは、物好きだな?」
「今は停戦中でしょう?」
「今は、ね。でも終戦が確約されてのものじゃない。いつどうなるかはわからない」
 瞳の色が濃くなった。アーロンは歴史でコーラルアーシェでの講和会議が成立しないことを知っているが、シムルはその結末を知らないはずだ。表情に翳りを窺わせるほど、すでに円卓会議は行き詰まっているのだろうか。
 その横顔を見ていたアーロンと、気付いて寄越した彼の目とが合った。アーロンの頬に思わず赤味が差す。
「ああ、ごめん。難しい顔をしているから、会議が上手く行っていないのかと…」
 アーロンは慌てて視線を外して言った。視界の隅のシムルは、自分の眉間を軽く撫でる。その意味がわからず、アーロンは再び視線を戻した。
「以前、ここの皺を何とかしろと言われたことがある。自分ではわからないけれど、知らずに皺が寄るらしくて」
 シムルは笑んだ。先程の翳りは消えて、瞳の色は戻っている。その仕草は大人びた印象の彼を、幼く見せた。
「大丈夫、皺なんか寄っていないよ」
 アーロンは彼の白皙の眉間に目をやった。そこから外れて行く彼の手には無数の傷がある。剣を交わす際についたものなのか、手の甲の傷は特に深く、まだ肉が赤くもり上がっていた。シムルの風情が戦場での姿を想像させないだけに、傷だらけの手に違和感を覚える。この庭での静かな時間は一時的なもので、サイドルが戦乱の最中であることには違いないことを思い知らせた。
「私はそろそろ行くよ」
 土埃をアーロンにかからないように掃いながら、シムルは立ち上がった。
「また会える?」
 アーロンも反射的に立ち上がる。
「上着のことならいつでも構わない」
「君の…君達のことをもっと知りたいから」
 シムルは踏み出した足を停めた。
「私達のこと?」
「ティオキアの神学校では、学生に異国を見聞させる修練があって、それで僕はサイドルにやって来た。神と剣の間…を、この目で見るために」
 「神と剣の間で」の後に「揺れ動く」と続くのを寸出で飲み込んだ。神に忠誠を誓いながらも、本来は禁じられた剣を手に戦場を駆ける心境を知りたいなどとは、さすがにアーロンには言えなかった。
 シムルは自分の足先に目を落として、「神と剣の間」と繰り返した。アーロンの言葉の微細な間が、その裏に隠した意味を教えたのか。
「ごめん、不謹慎だった」
「いや、あやまることはないよ」
 シムルの声音が変らなかったので、アーロンはホッとする。
「本当は君ともっと話しがしたい。だから、迷惑でなければまた来てもいいかな? 見聞のことは、口実だから」
「迷惑だなんて思っていない。私も異国の話を聞けて楽しかったよ」
「本当に?」
 シムルは頷いた。それから停めた足を進める。
「ここに来たら、君に会える?」
 アーロンはその背に向かって言った。彼が振り返った。
「休憩はたいていここで取るけど、時間は決まっていないんだ。だから確約は出来ない」
「明日は?」
「わからない」
 シムルが短く答えたところで、聖堂の鐘が鳴り始めた。祈りの時間を知らせるものかとアーロンは思ったが、シムルも、その辺りにいる他の修道騎士達も膝は折らなかったから、別事を示すのだろう。シムルはアーロンに軽く会釈して歩き出した。歩速を上げ、見る間に離れて行く。
 出会った日もこうして彼の後ろ姿を見送った。あの時のシムルは振り返らなかった。今日もそのまま行ってしまうのか――と、小さくなった彼が振り返った。アーロンが思わず手を振る。彼はしばらくこちらを見ていた。表情は遠くてわからないが、アーロンはさっきまでのシムルの色々な表情を重ねた。つい今しがたの事なのに、もう翡翠の瞳が懐かしい。


『そして恋に落ちる』


 サイラスの声がしたような気がした。
 鐘が鳴り終わる。シムルは体を返し足早に去った。姿は木々に紛れ、やがて見えなくなった。
 







                 (2010.07.16)



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