[ V ] 重なる時間



 
(1)


 ノイエル大聖堂の鐘楼には毎日、講和会議の終わりとともに幕が垂らされる。青い幕は合意を、白い幕は会議の続行、そして赤い幕は決裂を示す合図だった。
 今日もまた、幕は白。進展の詳細は上層の者にしか知らされなかったが、会議室から宿舎に戻る各代表の表情を見ると、たいていは察しがつく。ここ数日の表情は、その旗の色同様に変り映えがなく、総じて重いものだった。
「どうやら、また芳しくないようだな」
 最初に出てきた各聖教区代表の顔色を見て、ソードが呟いた。ラフから戻り、大聖堂内の様子を見に入ったシムルは、彼のその呟きを耳にする。「そのようですね」と相槌を打つと、ソードが横目で見た。
「まだ休憩中だろう?」
「旗が見えたので。今日は早く終わったみたいだ」
「それだけ話すことが尽きているってことだろうよ」
 二人は警護の当番ではなかったが、会議の内容は気になるところだ。彼ら以外にも様子を見に来ている騎士の姿が少なくない。聖教区所属の修道騎士、トレモンドとダルトリ所属の近衛兵達が、やはり複雑な面持ちで退出する代表を見ていた。
 皆、この会議の行く末を見守るしか出来ない。百年目にしてようやく訪れた『機会』――これを逃せば、次はいつになるかわからないと言う危惧を持ちながら。
 聖教区の代表達に続いて出てきたのは、ダルトリ公国代表だった。小柄な、まだあどけない面差しの少女である。先代のダルトリ大公が病に臥し、次代となるエンマ公姫が代わってこの代表の席についた。
「いつ見ても良い面構えのお姫様だな」
 ダルトリの姫を見て、ソードは関心する。
 引き結んだ唇が紅を差したように赤い。それが意志の強さを感じさせた。
「ダルトリは大公が停戦に熱心だったと聞きます。彼女はそれを継承して、この講和会議には積極的らしいですよ」
「王室も女王の時代になってから、ようやく『体力』を回復したって感じだな。ま、どちらも周りを才ある人間で固めているんだろうが。そう言う人間を集められるってことは、それだけの物が彼女達にあるってことだろう。年も同じだし、案外、近い将来には終戦するかも知れないな」
 ダルトリ公国代表の次に、トレモント公国代表のユリウス・トレモント公爵が出てきた。彼の姿を見止めてソードが浅く息を吐いたことを、シムルは聞き逃さなかった。
「もっとも、あの公爵は一筋縄ではいかない。お姫様二人が束になっても敵うかどうだか」
 ソードの言葉には少し棘があった。シムルはトレモント公爵を目で追う。三十そこそこの美丈夫は、確かに前を行くエンマ姫を圧倒する存在感があった。最後に退出するこの国の正統な統治者・イリス女王すらも。
「どこの馬の骨とも知れない彼を、さきのトレモント公が養子に迎えた時は驚いたが、こうして見ると公の目に狂いはなかったと思えるね」
 シムルはユリウス・トレモントと面識がある。但し、言葉を交わしたことはない。その時、シムルはまだ10才にも満たない子供で、列に並んで裁きを待つ身だった。そして彼は裁く側の人間で、トレモント家の後継として、前公爵の隣に立っていた。その時トレモント公国を事実上統治していたのは彼・ユリウスであり、ウェグランド公爵家に引導を渡したのもまた彼であった。父親や兄達を死に追いやり、断種の刑を自分に下した。ウェグランド公爵家を滅ぼす裁可を下した張本人。シムルにとっては敵とも等しい相手だ。
――あの優しい面差しの内には、冷たい血が流れている
 シムルの前をトレモント公爵が通り過ぎた。彼はシムルを一瞥する。かつて自分が葬り去ったウェグランド公爵家の公子であると、気付くだろうか? シムルは握った左手に力が入るのを感じた。一瞬、二人の目が合う。しかし公爵は何の表情も見せず、側近に促され歩みを進めた。子供に八年の歳月は長い。気付くことは難しいだろう。
 シムルは緊張した拳を解く。冷えた汗を感じた。自分にはまだ俗物の感情が残っている――人を憎悪すると言う、修道士としてはあるまじき感情が。
「…はどうした?」
 掌の汗に意識が向いていたシムルは、ソードの最初の言葉を聞き逃した。「え?」と聞き返す。
「木から降って来た彼はどうしたかと聞いたんだ。救護所に連れて行ったのだろう?」
 すうっと汗が引いた。
「いえ、思ったほどひどくなかったので、帰しました」
「帰した? どこに?」
「さあ」
「さあ?」
 全代表が退出し、知らぬ間に大聖堂の中は人気が引いていた。シムルとソードも歩き出す。シムルはこれから終課までの数時間を幕舎に詰め、ソードはアリアドニ聖教区代表の宿舎の警護に就くことになっていた。
「怪しいと思わなかったのか?」
「彼と同じ事を聞くのですね?」
「で、なんと答えた?」
「怪しいと思うと。ただ、彼からは悪い印象を受けなかった。間諜のようにも見えませんでした」
「確かに攻撃してきたわけでもないし、聞き耳を立てていた風でもなかった。怪しきは罰せず。神はすべてにおいて寛容であれとおっしゃっているしね。今の時代にこの教えも甘いものだとは思うが、我々は本来それを護るべき立場のはずだった。時々、忘れがちになるが」
「フレール・ソードも彼を見逃すつもりだったのでしょう? だから私を行かせた。でなければグレンとカインを抑えたりはなさらない。あなたは初めから、彼に対して寛容だった。いつだって神の息子であることをお忘れにならない」
「それは買い被りと言うものさ」
 大聖堂の通用口から外に出ると、クラリスの騎士がソードの姿を見止めて近づいてきた。すでにアリアドニの代表が宿舎に戻っているから、警護に就く彼を探していたようだった。ソードは「わかった、わかった」と答えながら、アリアドニ聖教区の宿舎へと分かれていった。
 シムルも幕舎に向かう。大聖堂の裏から続くラフが目に入り、ふと立ち止まる。
「彼はちゃんとラフを出られたろうか?」
と、独りごちた。
 



(2)


 アーロンはハンガーにかかった簡素な上着を、飽きずに眺めていた――あのシムルと言う修道騎士が貸してくれた、騎士仕様の修道服である。
 荒れた庭をシムルの言った通りに進むと、林との境を分ける木組みの柵に行き当たった。元は頑丈な柵だったのだろうが、続く戦乱の傷跡があちらこちらに残されたままになっていて、抜け出すことは容易だった。そこからまたしばらく進み、追って来る者がいないか確認するために振り返ると、荘厳な聖堂の鐘楼が目に入った。ちょうど最上階のバルコニーから白い垂れ幕が下ろされているところだった。その様子をぼんやり眺めていたアーロンは、肩を叩かれ慌てて振り返った。
「ミズ・バークレー」
 立っていたのはゾーイ・バークレー。
「どうやら、無事だったようね、迷子さん?」
 アーロンのT.Sの反応がノイエル大聖堂付近で確認出来たので、彼女は他のスタッフとその辺りを探していたらしい。T.Sを取り上げられたアーロンは、彼女のそれを使って研究所のある亜空間座標に移動した。
 研究所に入ると『未来』の衣服から、用意されたこちらのものに着替える。その際、アーロンが着けていたシムルの上着は取り上げられそうになった。借りたものだから返さなければならないと頼むとすぐに戻ってきたが、初め砂の匂いがしたシムルの修道服はきれいに洗浄・消毒されて、風情も何もなくなってしまった。そして手首の手当てに使われていた布は結局、戻ってこなかった。
 温かな翡翠色の瞳が印象的だった。戦乱の時代の騎士でありながら、血なまぐさいところは感じられない。もう一度会ってみたいと思うのに、学生が自由に出歩けるようになるのは実習七日目からだ。まだ最初の夜を迎えたばかりである。
「そんなに見つめたら穴が空くぞ」
 アーロンの背後で声がした。振り返ると二段ベッドの上段から、サイラスが顔を覗かせている。宛がわれた宿舎の部屋に二人して戻って来たのだが、彼の存在は一瞬忘れ去られていた。
「ただ見ていただけだよ」
 笑ってアーロンが返す。「どうだか」とサイラスもまた笑ってベッドの梯子を下り、イスに腰掛けた。
「親切な修道士だったんだって?」
「うん。見逃してくれた」
 突き出されても仕方のない状況で、彼は何も聞かず、アーロンの手首を気遣い、外に出る方向を示してくれた。
 彼が手首に巻いてくれた布はここに着いて早々に外された。今はサポーターがはまっている。上着は洗濯され、布はすでに無い。シムルとのコンタクトは、アーロンの記憶の中にしか残っていなかった。
「一目惚れか?」
 あの泉でのシムルを思い出しているアーロンに、サイラスが鋭く突っ込んだ。
「そんなんじゃないよ。印象に残っているだけ」
「それが大事だろ? 印象に残るってことは、気になるってことだ。気になるイコール興味がある。興味ってのは心が惹きつけられてるってことだと思うけど?」
「飛躍し過ぎだ、サイラス」
「そうかな、でもあの服は、きっと返しに行く」
「借りたものだしね」
「そして恋に落ちる」
「その根拠は?」
「ただの勘。あるいは願望。その方が面白い」
 アーロンがサイラスの言葉に対して、呆れたようにため息をついた。サイラスは肩を竦めて見せる。
 机の上のインターホンが鳴った。食事の時間を知らせる機械の声が、スピーカーから流れる。サイラスが先に立ち上がり、アーロンもそれに続いた。
 時間航法の最初の一週間は、決められた見学コースをナビゲーターである研究員と回る。あらかじめコースについてのテーマが記されたウィークリー・スケジュールが渡されていて、前日にスタディ・プランを、一日の終わりにそれについてレポートを提出することになっている。この一週間が学生にとって一番辛いとされていた。八日目の朝一番にティオキア本学にレポートを送信して、やっと学生は五時間の自由行動を許可される。もちろん自ら選んだ研究論文の取材のための時間であって、遊びの時間ではなかった。それでも与えられて進める興味の薄い課題をこなすより、よほどやりがいがあるというものだ。
「それで、来る前に事前調査してあると思うけれど、何を論文対象に?」
 ゾーイは目の前で食事を取る二人に尋ねた。最初に答えたのはアーロン。
「修道騎士団に興味があって、水晶末期を希望しました。出来れば彼ら個々の意識や信仰について」
「なぜ興味が沸いたの?」
「神にのみ忠誠を誓った彼らは、本来、殺生を禁じられています。戦場でさえも、相手の攻撃意思を三回確認した後でなければ、剣を振るうことを許されない。そんな制約を持ってまで彼らが戦う意義は、歴史書で書き尽くされていますが、個々の心理はあまり知られていないので」
「なかなか難しい選択ね。個人の心理状態をリサーチすることになるけど?」
「…少し、当てがあります」
 アーロンはシムルをまた思い出した。祈りの時間に膝を折る彼の姿を。彼だけではない。あの時、あの場所にいた騎士は誰もが確かに、神のみに仕える修道士だった。
「それで、サイラスは?」
 口からシチュー用のスプーンを外して、サイラスは彼女を見た。
「そうだなぁ、最初はアーロン同様、修道騎士団にしようかと思ったけど、同じでは勝負にならないし」
「論文に勝ち負けはなくてよ?」
 ゾーイが笑った。サイラスは気にしない。
「という訳で、俺は公国側にします。トレモントがなかなか面白そうだ。現公爵が後継に指名されて以後は俄然、形勢が有利になってる。野心家だし、どうやら出自もあやふやらしいから」
「確か、あなたがズレた先は、トレモントの幕舎付近だったわね。ここに来て思いついたようだけど、間に合うの?」
「もともとチマチマした下調べは得意じゃないんで」
 ゾーイはポケットから携帯用PCを取り出した。
「なるほど、文章力はともかくとして着眼点と探求力はAプラスになっているわね」
と呟く。サイラスのデータを確認したようだった。
「わかったわ。二人とも、一応方針は決まっているようだから、三週間後の仮論文を楽しみにしておきましょう」
 彼女が〆るとちょうど食事が終わって、研究員は研究室に、学生は学生用の宿舎に戻るべく立ち上がった。アーロン達は今から翌日のスタディ・プランを立てなければならない。予定表には『市場』と記されていた。コーラルアーシェ聖教区の一般居住区内だから、アーロンやサイラスが着地した地点よりは離れている。
 『彼』と再会するには、まだしばらく時間がかかる――部屋に戻ったアーロンはハンガーの上着に目をやった。






                 (2010.05.22)



   [ IV(後編) ]      top     [ VI ]