[ IV ] 邂 逅 (前編) 『シムル』 呼ぶ声はマウロに似ていた。 シムルは目を開いた。辺りは暗く、開け放された窓から見える空の高みには、白い満月が浮かんでいた。聖務にはまだ間がありそうだ。自分はまたこんな夜更けに目を覚ましてしまったのかと、彼は小さく息を吐いた。 周りを気遣ってシムルはそろりと身体を起こす。隣で眠る修道騎士の肩に少し触れてしまった。しかし動かない。皆、疲れているのだ。ここコーラルアーシェ聖教区では気の張ることばかりだった。 所狭しと横たわる彼らの間を注意深く進んで、シムルは外に出た――いつものように。 水晶暦八五五年閏四月。サイドル王国で最も古い聖教区コーラルアーシェに、ベルヌ王室、トレモントとダルトリ両公国、それから三つの聖教区代表が集まっていた。百年を越えて続く戦乱の世をなんとか終わらせる術は無いか、その道を模索する円卓を囲む為だ。しかし、ひと月を費やしてもなお妥協の筋は見えない。あまりにも長い戦いが、終わらせる言葉を忘れさせてしまったかのようである。それぞれがそれぞれの益を譲らず、円卓に着くと言う事にはもはや、何の効力も見出せなかった。 「フレール・シムル、交代です」 ノイエル大聖堂の西門に立っていたシムルの元に、交代の修道騎士がやって来た。シムルは彼に一礼すると上着の 円卓会議の場となるノイエル大聖堂の前面には、六つの幕舎が設けられている。各代表に付けられた護衛団の詰め所で、会議の間中、お互いを牽制しあいながら各所に見張りを立てていた。アリアドニ聖教区の護衛はクラリス騎士団である。彼らは一年前に宗派を超えて結成されたアリアドニの精鋭で、シムル・ウェグランドはその中に所属していた。結局、彼は合同騎士団『クラリス』に入団したのだった。 クラリス騎士団は結成されて正確には一年も経っていないのだが、すでにトレモントとダルトリの大きな衝突に二度の参戦を余儀なくされた。二度目の衝突は『衝突』と呼ぶには結果的に規模が大きくなり、記録には『ダルトリ・フロンティエール(ダルトリ国境)の戦渦』と明記されている。 ここ数年、ちょっとしたことで 「少し休んで来ても構わないかな? ラフにいるから、何かあれば呼んでください」 見張りの交代を報告して、シムルは幕舎を出た。 シムルはノイエル大聖堂の敷地の裏に向かう。もとは美しい後庭の一角であったそこは長引く戦乱で手入れどころではなく、荒れるに任されていた。剪定されずに枝を自由に伸ばす木々と生い茂った下草が、敷地の外れから続く林と区別がつかないくらいで、ここを休憩場所代わりに使う修道騎士達からは、『ラフ』と呼ばれている。 林に近い辺りがクラリス騎士団の所定の場所だった。他の聖教区の騎士達と無言の挨拶をかわしながら、シムルは目的の場所を目指す。 「フレール・グレン、フレール・カイン?」 先客が二人。一人は目の上に置いた腕で陽光を避け仰向けに横たわり、今一人は頭巾を被ったまま背をこちらにして横臥している。シムルの呼びかけに後者がまず身体を返して、目線を寄越した。 「休憩ですか?」 呼びかけに答えたのは仰向けだった前者で、彼は半身を起こす。 「ああ、交代になったので。二人は?」 「私達も次の交代まで休憩です」 彼ら二人は『レーテの衝突』で最も犠牲を出したオルトヴィネ修道院の出身である。当時はまだ見習修道士だったが、その剣の腕を買われて最年少でクラリス騎士団に参加した。シムルに声を返したのは金色の髪のカイン・ジルネリで、その美しい容貌から亡くなったマウロと共に『クラリスの天使』と称されているが、冷たい泉を思わせる薄い水色の瞳は酷薄な印象を与え、淡々と汗もなく剣を振るう姿と相まって、もっぱら「死の」と修飾されることが多かった。 「座ったらどうです?」 最初にシムルに視線を向けたもう一人が、のろのろと身体についた草塵を払いながら立ち上がると、場所を空けた。 「そのままでよかったのに。君も疲れているだろう?」 「俺はちゃんと睡眠とっているから。あなたは眠れていないでしょう?」 深紅の瞳が愛想の無い表情で座ることを促している。彼は名をグレン・エイルスワースと言い、クラリスではちょっとした問題児だ。騎士とは言え基本は修道士であるのに、聖務に遅れることはしばしば。戦場においては止めるのも聞かず、先陣を切って飛び出して行く。「相手の攻撃の意思を三度確認してからでないと、自ら攻撃してはならない」と言う修道騎士の規律は、彼の前では効力がなかった。「先手必勝が最大の防御」と言って憚らない。 「ではお言葉に甘えることにするよ。ありがとう」 シムルはグレンが横たわっていた場所に腰を下し、立ち上がったままの彼にも座るように勧めた。グレンはシムルとの間に一人分空けて座る。 並んで座る三人の間に、奇妙な沈黙が存在した。クラリス騎士団が結成された当初から参加して二度の戦場を共にしたが、シムルは彼らといまだに親しく話せるまでに至らない。宗派は違うが信じる神は同じ、それに年齢が近いので本来なら一緒に行動してもおかしくはないはずであるのに。それでもシムルとカインはまだ趣味が読書だと共通していたので、時には本の感想を述べ合うこともあった。しかしグレンは平時の『聖なる読書』もさぼるほどそれに興味がない。剣術の時間も何かと理由をつけてはシムルと打ち合うことを避けていた。これは初めて手合わせした折に、シムルが彼の剣を簡単に落としてしまったことが影響していると、年長の騎士達は勝手に解釈している。 ――やっぱり、嫌われているのかな? への字に結ばれる口唇を視界の隅に入れ、シムルはシムルなりにその理由を考える。 「俺達は戻りますから、横になればいい」 沈黙がいくらも続かないうちに、グレンが再び立ち上がった。 「え?」 立ち上がりながら発せられた彼の言葉が聞き取れず、シムルが問い返す為に立ち上がろうとするのを、グレンは「だから座って」とその肩を軽く押さえ、 「夜眠れないなら、時間がある時に休んでおいたほうがいいってことです」 と続けた。 シムルは不思議そうに見る。今の言葉は自分を気遣ってのことなのだろうかと。眠りが浅いことを彼の口から指摘されるのも、不思議でならなかった。 そうしたシムルの心の内に気づいたのか、グレンは再び口唇を引き結びフイッと視線を逸らす。 「あなたが夜中に起きて歩き回るから、迷惑しているんです。それだったら昼間出来るだけ寝て、夜勤でもなんでもして、俺達の睡眠を邪魔するなってこと」 視線を逸らしたまま、少し語調を強めてグレンは言った。 睡眠が少ないことは事実だ。夜中に不意に目が覚めて、まんじりともせず最初の祈りまでを過ごすことが、シムルの日課のようになっている。クラリスに参加してからその傾向は無きにしも非ずだったが、顕著になったのは『ダルトリ・フロンティエールの戦渦』でマウロ・ヌーナンを失った直後からだった。 彼らの規律には『退却』と『降伏』は無く、戦いで死することは最高の奉仕とされている。だから激戦のフロンティエールにあって、修道騎士団は退くことを許されなかった。次々と『兄弟』が薨れる中を駆けるシムルに放たれた矢は、 『シムル!』 後続のマウロ自身によって防がれた。馬の背から滑り落ちる彼を、シムルは振り返ることしか出来なかった。敵旗の一団が彼に襲い掛かるのが見えたが、シムルの彼を呼ぶ声は戦場の音にかき消された――マウロの姿を二度と見ることは出来ず、宿舎に残された聖歌の楽譜だけが、彼が存在したことを証明した。 「それはすまない。気をつけるよ」 シムルは謝罪した。 「まったく素直じゃないねぇ」 新しい声が3人が座っていたすぐ傍の茂みから聞こえた。人間の膝丈ほどに伸びた草をかきわけ、声の主が顔を覗かせる。耳の下から顎の線に沿って口元まで伸びる大きな傷跡。 「フレール・ソード、いらしたんですか?」 「いらっしゃいましたよ。言っておくけど、私の方が先客だからね」 彼はエヴァン・ソードと言って、同じくクラリス騎士団の騎士だ。もともとハンナシエ修道院の修道騎士で、やはり一年前からクラリスに参加している。シムルより十才ほど年かさだったが、気安い性格もあって隔たりを感じさせない。世俗を切った修道士では珍しくファミリー・ネームが通称として使われているのは、ファースト・ネームに発音しにくい音が含まれているからだった。 「フレール・シムルのことを心配しているのなら、もっと優しく言ってやらなけりゃ、君の気持ちは伝わらないよ、フレール・グレン? そんな憎まれ口叩いているようじゃ、いつまで経っても打ち解けないぞ」 「俺は別にっ…」 反論がムキになるのを、グレンは自身で抑えた。一呼吸開け口調を整えてから、グレンは言葉を続ける。 「俺は別に心配しているわけじゃありません。本当に皆の睡眠妨害になっているから」 「シムルの足音は大したことないさ。その後にあわてて様子を見に行く誰かさんの足音に比べたらね」 グレンの頬にカッと紅味が射した。それを見て、ソードが「ふふふ」と笑う。 「と言うわけでフレール・シムル、彼のキツイ言葉を鵜呑みにしてはだめだよ。自分の気持ちを素直に表現出来ないお子様だから」 身体を起こしながら彼は言った。 「わかっています。もう一年、同じに生活していますから」 「良かったな、グレン。気持ちが通じていて」 「だから俺はっ」 瞳の色と同じくらいに顔全体を紅くして、グレンは反論を試みるが、生きてきた年数も経験も上のソードには歯がたたなかった。 「そらそら、グレン達はもう戻る ソードはグレンの頭をクシャクシャと撫でて、座ったままのカインを促した。 「みんなに気を遣わせているのですね、私は?」 シムルも立ち上がった。 「そう思うなら、その眉間の皺をなんとかしたまえよ。殺伐とした時だからこそ、見目良い笑みを見たいと言うものさ。クラリスにはせっかく美形が揃っていると言うのに、無愛想だったり、生意気だったり、陰気だったりで、もったいないことこの上ない。逝ってしまった天使を、私だって懐かしんでしまうだろう?」 ソードは肩を竦めて見せる。 「そう…ですね」 シムルは眉間を撫でて笑った。ソードも笑みを作り、後輩の二人の肩を両脇に抱き、幕舎に戻る為に足を踏み出した。 一陣の春風が吹き抜け、梢を揺らす。枝に留まる鳥が一斉に飛び立った。その勢いに若い緑葉が、ハラハラと降り落ちる。4人は同時に見上げた――飛び去る鳥の軌跡を追うように。 しかし彼らの目に映ったものは…… (2010.03.17) |