[ II ] ハンナシエのシムル (1) アリアドニ聖教区所属のハンナシエ修道院の一日は、 七回の祈りの時間と聖なる読書、労働と黙想と食事――静かで単調な一日は神への感謝と共に始まり終わる。どこの修道院でも見られる日常であった。しかしその穏やかな日々はここ百年余、サイドル王国の聖教区に関しては存在しない。国を二分する乱世の只中に、この国は在ったからだ。 「 まだ幼さの残る見習修道士が、夜明けの祈りを終えて聖堂を出ようとするシムルに耳打ちした。 「集会の朗読当番なのだけど?」 「そちらは他の方に代わっていただきました」 見習修道士は胸の前で指を組んで頭を下げると、朝課の後の集会に向かう他の修道士達の後を追って、聖堂を出て行った。その後ろ姿を見送り、シムルは修道院長の執務室に向かった。 シムル・ウェグランドはその年二十二才になる修道士である。ハンナシエ修道院には九年前に入り、三年の見習期間の後、正式に修道士となった。 幼くして修道院入りするにはそれなりの理由があるのだが、シムルもその例に違わない。彼は王家の正統な傍流でありながら断絶した六大公爵家の一つ、ウェグランド家の出であった。 父の公爵と嫡男それと一族の成人男子は、十一年前のドヌーヴ戦役で戦死、あるいはその敗北を受けて処刑された。公妃は自害、一族の女性は乳児に至るまで戦利品として戦勝した自治領主達に配分され、十二才以下のシムルを含む男子は断種の上、修道院に入るか、もしくは血筋を頼り異国の地へと去って行った。 「シムルです、入ってもよろしいですか?」 と扉を軽く叩く。「入りなさい」と穏やかな声音が返った。扉を開け一礼して部屋に入る。 「聖務の最中にすまないね」 白髪のヨハネス修道院長に促され、シムルは彼が就く机の前に立った。 「レーテでの衝突は知っているかね?」 「はい」 レーテはアリアドニ聖教区の外れにある古城である。良質の大理石の外観にこそ古えの姿を留めていたが、内部はほとんど朽ち落ちて空洞となり、誰の所有であったかも忘れ去られた城であった。そのレーテで一月前、トレモント公国系とダルトリ公国系の斥候小隊が衝突。最初は小競り合い程度だったが、近くに展開していたそれぞれの味方が合流し、本格的な役へと移行した。 自教区内で起こった火種を、まずそこから近いオルトヴィネ修道院の騎士団が消しに動く。伝令はすぐさまハンナシエとリーレンジュの各修道院にもたらされ、応援の騎士団が向かった。十日間続いた三つ巴の戦はここ一年の内で最大規模のものとなり、三者に多大な犠牲をもたらしたのである。 「あの衝突でアリアドニの騎士団は、かなりの犠牲を出した。オルトヴィネなどほとんど機能を失ったようなもので、いずれの修道院でも騎士は絶対的に不足している。それで各修道院長と騎士団長との話し合いの結果、宗派の垣根を越えて騎士団の再編成を行うことに決まったのだよ」 修道院長がなぜ自分にそんな話をするのか、シムルにはわからなかった。各修道院と騎士団の長の会合の内容など、修道士としてはまだ末の方のシムルに聞かせることは普段ではありえない。ただ『再編成』と言う言葉には引っ掛かって、 「再編成…ですか?」 と返した。ヨハネス修道院長は穏やかな笑みを口元に作った。 「再編成の為には騎士の補充が必要だ。それで一般の修道士からも参加してもらいたいのだ。もちろん少しは素養のある者でなければならない。君は確か剣術の心得があるね?」 シムルの出自がウェグランド公爵家であることは知られている。彼同様、ハンナシエには他にも没落した貴族の子息が修道していた。たとえどのような立場や事情であっても、神の前では皆等しく修行を積む者であり、その罪は問われない。 「それは十二才にならずまでの話です。ここに入れていただくまでの二年間は臥せっておりましたし、剣を握らなくなった年月の方が長くなりました。感覚を忘れているかと思います」 「子供の頃に身についたことは、忘れることはあるまいよ。確かに断種の薬は劇薬ゆえ、身体にはさぞ負担がかかったことだろう。今もまだ辛いのかね?」 「いえ、それはすっかり」 ただ同じ年頃の男子と比べて、幾分か線は細かった。断種の薬による後遺症なのか、同じように農作業等の労務をこなしても、筋肉がつきにくいのである。それに修道院の食事は質素を旨とし、動物性の食物は病の時以外摂取しない。シムルに限らず、修道士は総じて肉のない体型をしていた。普段から聖教区を護るために訓練をかかさない騎士団の修道士とでは、体力的にもかなりの差が考えられる。 剣が何も救わないことを、シムルは知っていた。あれは殺戮の道具だ――どんなに立派な大義名分があっても、人の命を削ることに他ならない。シムルは十一年前にそのことを、子供ながらに思い知った。 目の前で剣によって何人も斃れた。何人も、何人も。戦時においてどこででも繰り返される場景だ。そうして作られた死は怨嗟をもって更に死を招く。この『百年』の存在を造っている。 シムルは知らずに視線を落としていた。修道院長の立ち上がる気配に、顔を上げる。 「どのような理由があっても、神に仕える身が剣を持つことは許されない…と言う顔をしているね?」 「神に仕える身に限らず、人を手にかけることは罪だと思っています。剣を剣で制することは出来ないのだと」 「そうだね。私達はそれを知っている。知って尚、罪を犯し続けようとしているのだ。剣をこの手に持たなくとも、私は人の命を奪えと、聖詞を唱する同じ口で『兄弟』を諭そうとしている。この神の教えに背き続ける大罪は、それゆえ終わらせねばならない。罪は我々が引き受けよう。後の世の『兄弟』のために」 ヨハネス修道院長は死角になっている書棚の脇から、臙脂色の布に包まれた細長い物を取り出し、執務机の上に置いた.それが何か、シムルにはすぐにわかった。修道院長が布を取り去ると、はたして鞘に収められた一振りの剣が現れる。 よく使い込まれていることは、柄の様子で見て取れた。その部分にはハンナシエ修道院の紋章である山百合が印され、燻し銀の長い鎖に通したクルスが巻きつけられていた。修道院長がクルスを外し、口付けて机上にそっと置く。 「これはレーテで命を落としたフレール・ロマノのものだ。彼の願いはこの『百年』を終わらせることだった。その願いは罪だろうか?」 フレール・ロマノは見知っている。シムルよりも二、三才年上だが、入った時期は同じくらいである。彼は見習いの頃から騎士団に所属していたので、言葉を交わしたことは少なく、どう言う素性かは知らない。しかし陽気でいつも周りを笑わせていた。修道士にしては俗っぽく、騎士団長に叱られる姿をしばしば見かけた。あの朗らかな彼が、逝ってしまったのか。 朝のミサの始まりを知らせる鐘が鳴った。このミサには修道院長も出席しなければならない。聖教区内外の一般信徒のために執り行われるものだからだ。扉を叩く音が鐘の音に雑じった。ヨハネス修道院長の 「 目はロマノの剣に残したまま、シムルは言った。聖典を手に取り、聖堂に向かう仕度を始めた修道院長はシムルに向き直った。 「否と言うかね?」 「わかりません。ただ、お受けするにしても心の整理は必要です」 「よろしい。返事は後日に聞こう。でも君は否とは言うまいよ」 再度、扉が叩かれる。修道院長は「遅れてしまったかな」と迎えの修道士に話し掛けながら、シムルを残して先に聖堂に向かった。開いたままの扉からその後ろ姿を見送って、シムルは再び机上のロマノの剣に目を戻した。 剣を手にする罪と、果てのない戦いの罪――これらをすべて引き受ける覚悟が修道騎士には必要だ。強靭な身体と揺らぎない意志で、戦場を勇猛に駆ける。それでも神の前にひれ伏し、寸暇を惜しんで祈りつづける彼らの姿を、シムルは知っていた。 ――自分にはあるだろうか、それほどの覚悟が。 クルスを元通りに柄に巻き、臙脂色の布で元通りに剣を包むと、シムルもまた聖堂に向かった。 (2) 「フレール・シムル」 その日の夕食後の講話は中止となり、終課までのひと時を修道士達は自習で過ごしていた。図書室で古書の筆写をしていたシムルの隣の席に、マウロ・ヌーナンが座った。 「フレール・マウロ、今までどこに?」 筆写の手を止めたシムルは、声を抑えて尋ねた。彼はシムルより三つ年下で、ハンナシエでは見習を除くと最年少の修道士であった。年が近いこともあって二人は仲が良い。食事の席順は隣同士で、夕食の時は一緒だったはずのマウロは、その後すぐから姿が見えなかった。 「修道院長に呼ばれていました」 マウロは答えて笑んだ。しかし、笑みには複雑な目の表情が添えられている。その意味をシムルには思い当たった。「修道院長に?」とは疑問形であったが、マウロの答えは安易に想像が出来た。 「各騎士団を宗派の別なく再編成すると言うお話でした。シムルもその話は伺ったでしょう? 朝の集会に姿がなかったのは、その話で呼ばれていたのですね?」 「そう、同じ話を伺った。まさか君にも話が行くとは思っていなかったよ」 「これでも一応、剣術は習っておりましたから」 金茶色のくせ毛に暖かな茶色の瞳を持つマウロは、修道院内でも信者の間でも、よく「天使のような」と形容される面差しの持ち主だった。音楽に非凡な才を見せ、聖歌唱のではオルガンでの伴奏を担当している。彼は貴族の庶子で、十三の年にハンナシエに入った。例に漏れず、庶子のやっかい払いと言ったところだろう。今の時代のそんな出自であるから、当然、剣術の指南は幼い頃より受けている。 軽い咳払いが本棚の向うから聞こえた。図書室での私語は禁じられている。落とした声音もほぼ無音のこの空間では、他の者の耳に届いてしまうのだ。 シムルは古書を戻し、マウロと連れ立って図書室を出た。少し早いがこのまま聖堂近くまで行って、終課が始まるまで待つことにした。 暗い回廊を蝋燭の小さな灯りで進む。同じような灯火が間をさほど開けずに見えるのは、回廊が修道士達の生活空間だからである。瞑想や黙想などの想行をしたり、室内労務――写本、あるいは衣類の繕いなど――の場であったり、読書や談話の娯楽の場でもあった。 「シムルは答えを保留されているとお聞きしましたが、本当ですか?」 中庭の泉水を越えると、程なく聖堂の入り口に行き当たる。二人は中庭に出たところで足を止めた。 「考える時間を頂いた」 「そう」 開放された聖堂の入り口が、祭壇からの灯りで、ぼんやりと浮かび上がっている。時折、人が出入りする姿が見えた。足元が隠れる修道服ではなく、動きやすいように短くされた着丈から修道騎士だと知れる。終課までの時間を、彼らは祈りで過ごすのだろう。 「彼らの祈る姿なんて、今まで気にかけたことがありませんでした。祈りはここでは日常的なことだから。でも、自分が同じ立場に立とうとする段になって、その姿の重みが見えたような気がします」 マウロは一人、また一人と聖堂に入って行く様子を見ながら言った。その言葉に、シムルは「え?」と彼を見る。察してマウロは続けた。 「お受けしたのです。五日後、騎士舎に移ります」 「マウロ!?」 シムルは思わず声を上げる。近くの回廊にいた修道士が、視線を寄越すほどの声量を持っていた。常にないシムルの声の調子に、マウロは小さく笑った。 「君は神に音楽を捧げる使命をもってここに在ると、常々言っているじゃないか」 「ええ。でも鍵盤を叩くこの指は、剣も握れるのですから。僕に出来ることであれば、いつでもそれは使命になるのです。今はオルガンではなく、剣を取ることがそうなのだと」 マウロは燭代を持たない方の掌を月に翳した。 「もう少し弾いていたかったけど、この行いが許されたなら、またきっと弾ける」 翳した手を胸元に引き戻した。三日月の微かな光では、彼の表情を具に照らし出すにはいたらない。ただ頬の影が増して濃くなったように、シムルには感じられた。 終課を知らせる鐘の音がハンナシエに響いた。自習を終え、修道士達が聖堂に集まり始める。「行きましょう」とマウロはシムルを促した。彼の頬の『影』は消えていた。 「強いな、マウロ」 「いいえ、強くなんかありません。実は、あなたが答えを保留していると聞いて、少し心細くなっています。シムルが 「それなら私はもっと修行が足りないな。罪を引き受けることを躊躇っているもの」 「人間は悩み苦しむ存在だと、聖徒クラリスは仰っていますよ」 二人は顔を見合わせて笑った。 聖堂の入り口に着いた。ここから先は俗詞を語ることは許されない。二人は会話を止め、一礼して中に入った。 決められた場所に膝を折り、皆が揃うまで静かに待つ間、シムルの目が一人の修道騎士に留まった。耳の下から顎の線に沿って、口元まで大きなキズが伸びている。あれはいつの戦いのものなのだろう? シムルが見ていることに気がついて、その騎士はこちらを見、目が合うと微笑んだ。シムルは不躾に見つめたことにバツの悪さを感じ、会釈で返した後、前を向いた。 終課――今日最後の祈りが、静かに始まった。シムルにとって長い一日が終わろうとしている。今日聞いた様々な言葉、見た様々な表情が、シムルの脳裏に蘇る。神への賛美と一日を無事に終える感謝を祈る間も、それから祝福と聖水を受けて聖堂を去るその時も、それらは彼の思考の一隅を占領しつづけた。 (2009.12.04) |