[ XII ] それぞれの帰還 ティオキアの制服に着替える。約一ヶ月ぶりの感触だ。水晶期の粗雑な織りで作られた、しかし人の手の温かみを感じる昨日までの物とは違って、身体にピッタリと合う機能的な制服は、アーロンにこの実習の終わりを実感させた。 「やっぱ、こっちの方がしっくりくるなぁ」 と、サイラスが大きく伸びをするのを見ながら、アーロンは一抹の寂しさを禁じえなかった。 本当に今日で終わりなのだ。二人はこれから指導研究員による最終講義を受け――それはほとんど今回の実習の感想で終わると聞いている――、早めの昼食を摂った後、本来の『時間』に転送されることになっていた。学生が持ち帰ることが出来るものは、レポート関係のデータが入ったディスク程度。実習先の時代のものを持ち出すことは厳禁とされた。 ハンガーにかかったシムルの上着に、アーロンは触れた。 「結局、それ、返さなかったんだな?」 その様子を見てサイラスが言った。口調には「仕方のない奴」と言う含みが感じられる。 「講和会議が決裂してから会えなかったんだ。わざと返さなかったわけじゃないよ」 「どうだか。実習期間は一ヶ月もあったんだからな、返そうと思えばいつでも返せたろう? まったく、仕様のない奴だ」 今度はちゃんと言葉になった。アーロンは思わず苦笑する。 インターホンのアラームが、講義の時間を知らせた。もうこの部屋には戻って来られない。もし、専門課程の三年次に運よくここに戻れたとして、この上着は残っているだろうか? 「戻って来る気なくせに」 名残惜しげに部屋を出るアーロンの心中は、サイラスによって代弁された。確信などまるでない。戻るためには簡単とは言いかねる評価を、三年間、取り続けなければならないからだ。そして今回の仮論文の出来から言えば、サイラスの方がまだしも可能性はあるように思われた。 「自信なんてないよ。僕よりむしろ、サイラスの方が可能性、あるんじゃないのか?」 肩を並べて二人は部屋を出た。 「誰かさんの最後の追い込みには負けるさ。評価はあくまでも仮論文の段階だしな。これからの三年間、言われるとおりの成績なんか、取る自信はない」 それはアーロンだとて同じだ。それでも仮論文でAが獲れれば希望も持てる。その先は最善を尽くすだけ。 うつむき加減のアーロンの眉間を、サイラスが軽く小突く。 「皺。暗くなってんじゃねーよ」 「少しくらい感慨に耽らせてくれてもいいだろう? サイラスは寂しくないのかい?」 小突かれた眉間をこする。この仕草は彼もしていたな…と、緑の瞳を思い出す。 「寂しくなくはない。でも学生ラウンジのハンバーガーもそろそろ恋しいんだ、俺は」 「アナベスもだろう?」 「ぬかせ」 二人はじゃれあいながら廊下を進み、ミーティング・ルームにあてられた一室に入った。 ゾーイ・バークレーがすでに席についていた。アーロンもサイラスも緩んだ口元を一瞬にして引き締める。その表情を見て、ゾーイは笑みを浮かべた。二人は彼女の向かいに座った。 「今日で時間航法実習も終わりね。二人とも、この時代はどうだった?」 ゾーイは二人を交互に見て、まずサイラスに目を止めた。 「そうですね、なかなか楽しめましたよ。人気のない時代だって聞いてたけど。ま、地味だったかな? 色がないって感じで」 彼はあっけらかんとした物言いで答えた。次にゾーイはアーロンを見る。一度は彼女を落胆させたと言うことが、アーロンを伏し目がちにさせていた。 「奥深い時代だと思うのに、勉強不足で時間を無駄にしました。舞い上がって、ただ物珍しさに圧倒されて」 「殊勝なことね。確かにアーロン・ロイド、あなたは多少、浮ついていたように見受けられました。第一印象ではサイラス・リンドバーグの方がそうなるかと思ったけど」 「反省しています」 アーロンの言葉にサイラスの声が被る。 「ひどいな。こんなに真面目な俺を掴まえて」 三人の笑う声が部屋に響いた。 ゾーイは手元の書類に目を通す。それは学生二人の仮論文のスタッフ評価をプリント・アウトしたもので、彼女自身も「悪くない出来」と評した。このまま定期論文を提出すれば、三年後の時間航法実習で再びここを訪れることも可能であることを付け加える。 「あなた達は大学での評価通り優秀だからナビゲートのしがいもあるし、またしばらくここを選択する学生もいないでしょうしね。どう?」 次回の勧誘とも取れる彼女の言葉に、 「どうですかね。確かに面白かったけど、定期論文の提出で、ある程度の評価を取って行くのは至難のわざだと思うから」 サイラスは肩をすくめる。最初に答えるのは彼。そしてアーロンが続く。このパターンだ。 「出来れば来たいと思っています。そのために再提出をお願いしたのだし」 「そうね、再提出と言うハンデはあるけれど、評価的にはAを下らないでしょう。サイラスの言うように評価を取り続けるのは難しいことね。でも期待しているわ」 ゾーイはそう言ってから、少し間を置いて「もし」と続けた。 「もしあなたが研究をこのまま続けて、六年後にティオキア賞を獲るようなことになったら、そして以後の研究価値を認められたとしたら、軍部以外の道を進めるかも知れない」 「ミズ・バークレー?」 アーロンは伏し目がちだった目線を上げた。彼女の言わんとすることが、理解出来なかった。そんなアーロンの心中を察したのか、彼女は苦笑する。 「この時代を実習先に選ぶ学生は極端に少ない。その少ない学生の半分をデボラ出身者が占めていることに気づいていた? 彼らがここを選ぶ理由はたいてい同じなの。あなたがここを選んだ理由も、そうではないかと私は思っているわ」 「それは何です?」 尋ねたのはサイラスだ。珍しく興味を示している。同星域に属し名前もよく似たアーロンの故郷・デボラ星と、サイラスの故郷・デネヴ星は、思想もシステムもまったく違っていた。しかし興味を引くのはそればかりではないだろう。彼が少なからず、アナベス・ハンプトンに好意を持っているからだ。そして彼女もデボラ出身者だった。 「制約の世界に生きて、閉塞感に喘いでいる…と言うところかしらね」 アーロンはまた目線を落とした。無意識だったが、肯定も意味する。 デボラの適性(審査)は優秀であればあるほど、個人の生き方を束縛するように出来ている。資質のみを最優先して、感情は二の次。確かにデボラ連邦政府の示した道は、能力を最大限に引き出すものかもしれない。実際このシステムは表面上、上手く機能し、『デボラ出身者は優秀』と言う評価の裏付けにもなっている。 「でも人間には感情があるわ。枠の中にはめ込まれて一生を過ごすことに、人間らしさはあるかしら? 優秀な種を残すための生殖に、倫理はあるかしら?」 『百年』に縛られ、徴兵の為に産めよ育てよを推奨され、そして神の教えすら捻じ曲げる時代――選択の余地のない太古の時代に、未来の自分たちを投影する。そこに生きている人々の姿に、『生きる』と言う意味を模索する。 ゾーイは浅く息を吐いた。少し言葉が硬く聞こえる。デボラの体制に対する批判を、暗に示しているようにアーロンには思えた。彼女の口調がなぜそうなったのかは、「私もデボラだから」の一言で解決する。 「幸い私は歴史が好きで、この時代をもっとよく知りたいと思った。チャンスだともね。そして今の私が在ると言うわけよ。歴史学者の第一人者となれば、行動範囲も広がるわ。今はまだこの時代が好きだから、ここに留まっているけれどね。希望すれば他の時間に飛べるし、名を成せば他の宇宙大学にも招かれる。ティオキアに戻って教鞭を取ることも可能だし。私はあなたにもその可能性があると思うのだけど?」 口調は柔らかくなった。二人の学生は黙りこくり、ただ彼女の話を聞いていた。アーロンがその問いに答えるまで、部屋をしばし沈黙が支配する。サイラスは言葉を挟むことはなかった。彼の心の内は、アーロンとは違っているだろう。 「僕に可能性があると?」 アーロンは問いに問いで答えた。ゾーイは明快に「あるわ」と即答した。 「その道もあると覚えておいて欲しいの。連邦に示される道と、決められた運命から強制的に逃げ出す道以外にも、道はあるのだと言うことをね。今回、あなたは浮ついていたから安心していたけど、次回の実習でここに戻ると言う意思を見せたから、釘はさしておかないと」 「それはどう言う?」 「私はまた、優秀な学生を失いたくないだけ」 ゾーイは肩を竦めて見せた。アーロンの脳裏に一人の学生の影がチラつく。彼女はハナ・クイスのことを言っているのだ。 「忠告するくらいなら、三年後に来いなんて言わなければいいじゃないですか?」 サイラスがシニカルに言った。彼の問いにゾーイは表情を崩す。 「優秀な学生は、すなわち優秀な助手にもなりうるのよ」 最後は冗談に摩り替わり、緊張しかけた空気は払拭される。アーロンの口元も綻びはしたがしかし、先ほどまでの彼女の話=忠告=助言は、小さな棘となって彼の思考の隅に、確かに留まっていた。 耳の下で響くのは轍(わだち)の音。前髪を揺らすのは、幌のあちこちに作られた綻びから入る風――荷台に粗末な毛織物を敷いただけの寝床に身体を横たえ、シムルはぼんやりと天井を見つめていた。足元に座るグレンが、時折気遣わしげに視線だけを寄こす。自裁しないかどうか警戒しているのだろう。彼の横顔には、疲労の色が濃かった。 チリチリと痛む傷は玻璃の破片によるものだ。噤(つぐ)んだ唇は何かの拍子に割れて、血の匂いがした。否応なしに記憶を誘い、吐き気を呼ぶ。シムルは自分を苛むそれらに耐えながら、生きることの意味を考える。 「自裁するのじゃないよ」 シムルが気がついた時に傍らにいたソードは、開口一番に言った。彼の青い瞳に全てを見透かされているようで、思わずシムルは目を逸らした。 身はクラリス騎士団の制服に包まれている。切り傷のひどい所には、応急ではあったがちゃんと手当てがなされていた。あのトレモント公国代表宿舎からは裸同然で逃れたのではなかったか? 手当てと着衣は身体を見られたことを意味した。肌に残る痕跡で何があったか、きっとソードにはわかってしまったろう。 「私は、誓いを破ってしまった」 独り言ともとれるシムルの声音に、「『貞潔の誓い』かい?」とソードが尋ねる。覚悟はしていたのだが、はっきりと言葉で示されると更にシムルの心は重くなった。 「不可抗力であっても?」 「他国に侵略された折、信仰と貞潔を守る為に、死をもって抵抗された聖女もいらっしゃいます」 「それも立派な行いだと思うがね、でもそればかりが教えの道とは限らない、と私は思うよ」 目をソードに転じると、彼は幌の隙間から見える外を見ていた。自分から目を逸らしたシムルの心中を慮って、視線を外してくれているのかも知れない。 「でも私は…私は…」 蘇る記憶の中に『快楽』の二文字が浮かぶ。たとえ不可抗力であっても、あの時、自分は確かにトレモント公爵の手を、その身で感じていた。声を抑えるのに必死だった。しかし切れ切れに漏れる吐息までは抑えられなかった。長い、永遠に続くのではないかと思われた時間――苦痛ばかりではなかったことを、シムルは覚えている。 身体は鉛のように重かったが、それでも何とか半身を起こそうとするシムルに気がついて、ソードが振り返った。彼は肩にやんわりと手をかけ、それを制した。 「そりゃ、男だもの、触れられれば感じるさ」 微笑むソードに、シムルの顔面は火が点いたように赤くなった。 「何をもって貞潔と言うか、主は判然と示されているわけではない。返して言えば、陵辱を恐れて死を選ぶことだけが、教えの全てではないと言うことさ。命以上に尊いものがこの世にはないと思うんだ。主は本来、殺生することを禁じてらっしゃる。それは自裁だとて同じことだろう? 自裁した人間が天国の門を叩くことが許されないのはそのためだ。だったらどう生きるべきか、その手を、その身を汚しても、要は生き様がどうであるか、精神が何ものにも冒されず清廉で貞潔であるか。無限の可能性とも言える教えに、自分を律して近づくことが出来るか、人は生きることで試されているんだ。」 風が強く吹き抜けて、ソードは慌てて幌の隙間を手で押さえた。 「十三の時に故郷を離れてハンナシエ(修道院)に拾われるまでの三年間、私だってずい分なことをしてきたよ。飢えを凌ぐ為に盗みもしたし、暖かい所で寝すみたいがために、この身を糧にしたこともある。しなかったことと言えば人殺しぐらいだが、今やそれが私のすべきことになってしまった。でも生きている。自分が選んだ道だし、戦場で死にかけたことはあっても死んではいない。それは主がこの生き様をご覧になって、まだ生きよと仰っているからだと思うんだ」 「フレール・ソード…」 「あの公爵の下から逃れて来られたのだって、主が君に生きろと仰っている証拠じゃないのか? ダルトリ・フロンティエールの折だって。あの時、フレール・マウロにもらった命を、そう易々と手放していいのか? 生きて為すべきことをしてこそ、主に報いる行為だと思わないか?」 シムル…と忘れかけていた声が耳に蘇る。自分を庇って敵矢に薨(たお)れたマウロ・ヌーナンの声。そうだ、この命は彼に助けられたのだった。彼は命を落とし、シムルは生きている。 「マウロ」 手で塞いだ両の眼から、涙が溢れた。 この命は二人分なのだ。二人分だけではなく、何人も何十人も何百人も、薨れていった人々の命を吸って生かされている命だった。嗚咽が漏れるのを止められない。眼を塞いだ手で顔を覆う。 くしゃくしゃとソードの手がシムルの頭を撫でた。 「とは言え、決めるのは君だ、フレール。私の言は一つの指針でしかない。主の教えもまた幾重もの指針であり、決して進むを強制するものではないはずだ。だからシムル、答えを急がず、今はゆっくり休め。生も死も、いつだって身近にあるものなのだから」 それを最後にソードはもう何も言わず、傍らから離れて行った。多分、シムルが存分に涙を流せるように、一人にしてくれたのだろう。 しばらくしてシムルの気持ちが落ち着きを取り戻した頃、グレンが入ってきて足元に腰を下ろした。ひどく疲れて見えるのは、ずっと御者台に座っていたからかと思ったが、そればかりではないようだった。彼はソードに何か言い含められているらしく、シムルに話かけるでもなく、本を開いて頁に目を落としたきりだ。 気遣って寄こすその視線と何度目かに目が合って、やっとグレンは口を開いた。 「水でも?」 シムルが頷くと水筒を手に傍らに座りなおす。身を起こす素振りを見せると、背中を支えてくれた。 「ありがとう。フレール・カインは?」 荷馬車の御者台は、荷台の大きさから見て二人掛けだろう。幌の合わせから見える後ろ姿は、ソード一人だった。 シムルから飲み終えた水筒を引き取りがてら、グレンはぽそりと呟いた。 「死にました」 一度、寝床に戻しかけた半身を再び起こそうとして、シムルは顔をしかめる。グレンは手を貸してくれたが、それは横たわるために使われた。 「いつ?」 「あなたを助けに行った時」 ぶっきらぼうに答えて、グレンは唇を引き結んだ。それ以上の問いを受け付けない風情と共に、疲労の表情が浮かぶ。 グレンとカインは同じ修道院の出身で、二人一組で見られることが多く、互いを補い合い仲も良かった。その友人の死が彼の横顔に陰を落としているのだろう。だからシムルは言葉を継がなかった。 また一人、自分を生かすために命が使われたのか…とシムルは思った。 「生きろと仰るのですか…?」 荷馬車の天井の、遥か彼方の天座に向かって呟く。答えは少年の声で返った。 「…そうです、生きなければ。今、死んだら、無駄死にだ。何も為さず、何も残らない。もうこれ以上、俺に親しい人の死を見せないでください」 グレンの声だった。彼はまた押し黙った。そしてさっきまで座っていた場所に戻ると、放り出した本を手に取り、何事もなかったかのように頁をめくった。 道はアリアドニに向かう。アーモリーワンはすでに遠くなり、束の間の平穏も終わった。再びの『百年』が始まる。 シムルは幌を通して入る野焼きの匂いを深く吸って、目を閉じた―― 「忘れ物はない? と言っても、持って帰れるものは、ほとんどないでしょうけど」 研究所内に設けられた時空転送スペースに、アーロンとサイラスは立っていた。ティオキアからアクセスを受け、自分達の『時間』に戻るのだ。この時代の物は何一つ持ち帰れない。シムルの上着は資料扱いで保管されることになった。アーロンは必ず戻るからとゾーイに頼んだのである。 次回、来られるかどうかの確証はない。仮に来られたとしても、彼に会って返すことが出来るとも限らなかった。 前回接触した人間とは、原則的に三年以上経た時間軸でしか再会出来ない。この時代の『三年後』までの間には、水晶期最大のヴィンティミリア戦役があった。シムルの所属するクラリス騎士団は、その大半を失う。三年後の時間に彼が生存しているかどうかは、大学に戻ってデータ・バンクで調べなくてはわからなかった。原則を覆し例外に転化するには、今実習の本論文で高評価を受けなければならない。宇宙航法のパイロット・コースを約束された学生でそれをやってのけた者は、名前を暗記出来る程度の人数しかいなかった。そもそも進んで茨の道を選ぶ者はいない。 「アーロン・ロイド、期待して待っているわね。サイラス・リンドバーグ、あなたもやる気さえあれば無理じゃないのだから、ぜひ三年後に。それで二人して、キリキリ働いてもらいたいものだわ。整理したい資料が山積みだから」 「下働きですか、俺達?」 サイラスが苦笑する。 アラームが鳴って、時間を知らせた。学生二人を残して、他のスタッフは退室する。主導はティオキアの時空転送装置なので、アクセス・ポイントに指定された転送スペースは研究室の一つ。窓はなく、中からはゾーイ達の姿を見ることは出来ない。 何もかも中途半端なまま、アーロンはこの時代を去ろうとしている。求めたものの答えは、三年後に持ち越された。 ――また会えるだろうか? アーロンは翡翠の瞳の修道騎士を想う。心の一隅(いちぐう)を占めるハナ・クイスを想う。出会った『百年』の時代を生きる人々を想う。そして自分自身を想う。 無風であるはずの部屋を、一陣の風が足元から駆け抜けた。床が無くなったかのような感覚、次の瞬間には暗い闇の中にアーロンは吸い込まれて行った。 様々な想いを交錯させて、それぞれの『アーモリーワン』の日々が終わる。 第一部 完 (2011.10.28) |