[ XI ] 夜の果てに 「身体をきれいにさせましょう。出立まで今しばらくお休みになられるがいい」 トレモント公爵の唇は額に落ちた。それから彼は用意された長衣に袖を通し、寝牀(しんしょう)を下りる。シムルは瞬きもせず、その動きを目で追った。 薄様の帳(とばり)の向うに人影が見える。一人、二人、三人。公爵が帳を割って出たのと入れ替わりに、その内の二人が入ってきた。まだ子供のように若い小姓だ。一人は銀の桶と布を、もう一人は湯気のたつ大きな水差しを捧げ持っていた。桶に注がれた湯の音がシムルの耳に届いた。同時に全ての音が脳を刺激する。 「出立の仕度は?」 「急がせておりまする」 「夜が明けぬうちがいいだろう」 「あと半時も致しますれば、整いますかと」 シムルの耳は微かな音をも拾う。戦場の中でも敵味方の音を判別出来るように経験を積んだ耳だ。話し声はだんだん遠ざかって行く。この部屋を出て行くのだろう。 内股の辺り、柔らかく温かい綿布が『痕跡』を拭うのを感じた。蘇る羞恥を払いのける――集中するために。シムルは音を追うだけだ。扉の開く音、その外へと向かう足音、扉の閉まる音、それから遠ざかって行く音を。今、この部屋に在るのは自分と、二人の小姓。扉の外側に見張りの気配を感じたが、閨時の後の湯浴みと知ってか、それとも薬で動けないからと言い含められているのか、入ってくる様子はない。それを確認する。 手近に剣はなかった。しかし身体を縛った薬の効果は、すでに薄れ始めている。右手の指、左手の指、右足の爪先、左足の爪先。 ――動く… シムルの膝が下肢を拭う一人の顔面を打ち付けた。「キュッ」と悲鳴にならない声を上げて、小姓は寝牀から床に転げ落ちる。それを認識させる暇を与えず、シムルはもう一人の小姓に飛び掛り、その細い首に腕をかけた。動くとは言え感覚は不明瞭だから、シムルは力を振り絞って締め上げる。腕の中の動きが止まった。腕を離すと、先に倒れた小姓の上にもう一人が重なった。二人とも動かない。気を失っただけなのか、息絶えたのか。シムルは確認することもなく、帳を天蓋から引き剥がすと肩から羽織り、水差し台を抱えて窓に向かった。 耐える為にずっと噛みしめられていた唇からは血の匂いがした。身体は内側でギシギシと鳴って痛んだ。下腹部の鈍痛は足の動きを鈍らせる。一歩進むごとに、生温かい物が下肢を伝った。冴えた思考がシムルの記憶を呼び起こす。 この穢れた身体。ここで自裁するわけにはいかない。ここで死すれば、トレモントの深窓の奥で偽りの生を与えられ、永遠に生かされよう。 窓には薄い玻璃(はり=ガラス)が入っていた。シムルは手にした台を渾身の力で投げつける。大きな音を立てて玻璃が砕け散った。身体を傷つけられるのも厭わず、彼は窓であった残骸から闇に向かって飛び出した。 アーロンは眠れないまま、ベッドの中にいた。 あの赤い幕が垂れた日以来、シムルに会っていない。翌日も幕舎の辺りを訪れた。講和会議決裂のどさくさはまだ続いていて、誰も部外者のことなど気にかけず、帰郷の支度に追われていた。ノイエル大聖堂の傍近くまでも容易に近づけた。もう円卓の人々を護る必要がなくなったからだ。一縷の望みが大きかっただけに、決裂した時の落胆はかなりのものだったろう。人々の表情に、疲労の色は一層濃かった。 シムル――アーロンの視界にハンガーにかけられたままの彼の上着が入った。この夜が明ければ、アーロンは自分の『時間』に戻らなければならない。このまま一生会えないかも知れない。一目、会っておきたかった。あの静かで、運命を運命のまま受け入れる緑の瞳の修道騎士。もう一度、聞いてみたかった。定められた中で自己を保つにはどうすれば良いのか。折り合いをつけるのはどうすれば良いのか。 もっと話をしたかった。彼のことを知りたかった。なんて自分は時間を無駄にしたのだろう。 再提出した仮論文の、その内容を反芻する。どこまで研究員の肥えた目を納得させられるかわからない。やれるだけのことはやった。もしそれで評価を得て、再びこの『時間』に戻って来られたなら、きっと彼に会おう。 『運命の容受は時として残酷な選択を余儀なくされる。しかしその選択は、個人の意思の上に成り立たなくてはならない。 他人に押し付けられるものではなく、自らが自らの意思で選び進むべきなのだ。 たとえその為に悩み、苦しみ、悲惨な結末を見ることになろうと、また最善ではなく、己の才能を知ることもなく間違った道を選んでしまったとしても、自らの意思で選んだと言う事実が、その人間の精神的な生を証明する。 その証明こそが生きて行くと言うことの真髄なのだと、私は思う』 ようやくうとうととし始めた時、アーロンの耳に少年の声が聞こえた。声は淡々と書面を朗読しているようだった。その文章は、数日前に閲覧した論文の一部だと、アーロンは夢うつつで思い出す。論文は、かのハナ・クイスが最後に提出したウィークリー・リポートだ。それを提出してそのまま彼は姿を消した。 ハナ・クイスもまた、アーロンと同じに悩んでいたのだろうか? 自分の置かれた立場に疑問を持っていたのだろうか? アーロンがシムルや他の修道騎士の中から導こうとしている答えを、彼は自ら探すためにこの時代に残ったのだろうか? 稀代の天才と賞賛された全てを、13才の少年に捨てさせたものはなんだったのだろう? 彼に会ってみたい。この最後の日に、彼の存在を欲するなんて、この時代を選んだわけを思い出すなんて、本当に自分は時間を無駄にした―――眠りに吸い込まれながらアーロンの脳裏に浮かんだものは、この時代に来る前に見たホログラムのハナ・クイスの姿。あの時確かに、彼の中に魅かれる何かを感じたはずだった。彼の幻に、シムルと、出会った修道騎士達の姿が重なっては消えた。 シムルとハナと、水晶期とデボラ。そしてアーロン。 無駄にした時間を取り戻したい。アーロンはそう願い、眠りの淵に落ちた。 東の空に朝の気配がようやく見えようかと言う時間、ソードとグレン、カインの三人は深い茂みの中に身を潜ませていた。池を挟んだ向かいにはトレモロ修道院の離れが見える。トレモント公国代表、ユリウス・トレモント公爵の宿舎だ。三人の見張りらしき姿が小さく見えた。あの三人が宿舎の方に何らかの動きを見せれば、出立が近いことを意味するだろう。その時を彼らは待っていた。 「フレール・ソード」 グレンがソードの肩を指でつつく。見張りが動いた。一人は宿舎に、後の二人は左右に分かれて池に沿って走り出した。ソード達の想像した動きと違う。池の周りには当然灯りはない。見張り二人の姿はすぐに闇に消えた。身を低くして、目を凝らし、足音を聞き逃さないように耳を澄ませる。こちらに近づいてくるようであれば――ソード達は剣の柄に手をかけた。 池は庭の飾りではなく、貯水を目的に造られた大きなものだったが、彼らの走る足音は踏みしめられる草木の音を伴って響いていた。息を殺して潜む三人は、聞き逃すまいと音を追う。しかしその足音は何やら叫びながら、池から離れて行った。 「どうしたんだ?」 やがて完全に音が消滅した時、ソードは体を起こした。ソロリと立ち上がって彼らが進んでいた方向を視認する。闇に慣れた目は、池の周りに誰も見なかった。 「今のうちに進もう。何か動きがあったようだ」 ソードの言葉にグレンとカインは頷いた。 先ほどの見張りを気にかけながら幾らも進まないうちに、また草木の擦れる音がした。咄嗟に身を沈める。 音は微かだったが確実に近づいてくる。何度か躓いては倒れる。しばらくするとまた進む。これは明らかにさっきまで聞こえていた二人の見張りのそれとは違った。 ソードの注意を聞かず、グレンが顔を上げる。夜目にも白いゆらゆらとした影が、すぐ近くに見えた。ちょうどその影が前にのめったところだった。「あ!」とグレンは声を上げる。 「グレン!?」 ソードの制止する声も耳に入れず、グレンは膝を折って倒れこむ影に駆け寄った。 「シムル!?」 グレンはその腕を掴む。自分を呼ぶ声に気がついたのか、地に伏した顔が辛うじて上がり、声の方向に傾いだ――間違いない。シムルだ。 「シムル!」 グレンはもう一度呼んだ。その口をソードが塞ぐ。グレンの声は闇を割って響き渡る勢いを持っていたからだ。 「これは…」 グレンに代わってソードがシムルを抱き起こす。身体に巻きつけられた布切れは、何度か倒れたために残骸と化している。ほとんど全裸に近かった。ソードが耳元で呼びかけると、シムルは閉じかけた双眸が開いた。 「…フレール・ソード?」 「そうだ、大丈夫か?」 呼びかけに頷くが、とても大丈夫そうには見えなかった。ソードは呆然とするグレンのマントを引っ張る。留め金が外れ、脱げ落ちたそれでシムルを包むと、ソードは肩に彼を担いだ。 「ボーッとするな。戻るぞ」 宿舎の方から声がする。出立の準備のためか、逃げ出したと思われるシムル・ウェグラントを探すためなのか。とにかく彼さえ戻れば長居は無用だ。ソードの意思を感じ取って、グレンは自分を取り戻した。シムルを担いで立ち上がろうとするフラガに、慌ててグレンは手を貸す。 剣が鞘から抜ける音。それに空を切る音が続いた――最初の音でソードが振り返り、振り下ろされる切っ先が視界に入る寸前で飛び退った。肩に担いだ人間の重みで身体が崩れる。それが幸いして、剣は彼の肩先をかすめ土を削った。 「カイン!」 カインは二度目の剣を振り上げたところだった。ソードは支えた手で土を掴み、カインに向かって投げつける。剣はそれを防ぐために向きを変えた。 「何をする!?」 帯刀した剣を杖に、ソードは体勢を立て直した。 「グレン!!」 あまりのことに呆けるグレンに向かってソードが叫んだ。「ハッ」とグレンの目に焦点が戻り、剣の柄に手をかける。土を掃ったカインの剣が三度、ソードに向かって振り下ろされようとしたのを、グレンの抜き身が受け止めた。 「カイン、どうして!?」 押し戻して身体を離す。 「シムル・ウェグラントを戻すわけにはいかない。彼はあの方を選んだ大事な駒だからな」 「駒!? あの方!?」 「そう。あの方、トレモント公ユリウス様だ」 グレンは目を見開いて、カインを凝視した。一瞬止まった動きをカインは見逃さない。ソードの足を止めるべく、グレンの脇を抜けようとした。しかし戦場で培われたグレンの能力は、彼の動きを無意識に追う。 再び交わる剣。池から立ち上る靄(もや)が、いつの間にか辺りを白く覆い始めていた。 「行ってくださいっ! ここは俺が」 ソードを背後に置いて、グレンは叫んだ。これほど剣の音がすれば、追っ手が気づくのも時間の問題だ。 「深入りするなよ」 「わかっていますっ…!」 切りかかるカインの剣をかわしながら、グレンは叫ぶように答えた。 どうしてこんなことになっているのだ――打ちつけ合う剣の感触に、グレンの心中は動揺していた。 剣を交合わせているのは、つい先ほどまでの同朋。それもただの仲間ではなく、オルドヴィネ修道院で寝食を共にし、騎士として戦場を駆けた、誰よりも近い存在のカインなのだ。 そのカインが今まで見せたことのない表情で剣をかざす。確かな殺気をもって、グレンに何度も切りかかった。後方に走り去るソードの後を追うためには、グレンを倒すことも厭わない。彼の青い瞳は、いつにも増して冷たく見えた。 グレンは防御するのに必死だった。攻撃に転じることなど、とても出来そうになかった。まだ信じられない。こうして真剣を交える相手が、カインであることが。 カインがトレモント公国の間諜? 「カインッ!」 剣を受ける度に、『兄弟』と呼び合った彼に呼びかける。グレンの中で様々な思いが交錯していた。信じたくないと思う気持ちと、倒さなければと言う危機感。カインの技量はグレンと拮抗している。今の気迫で言えば、あるいはグレンよりも優位に立っているかも知れない。グレンはまだ、同朋としての彼の姿を払拭出来ないでいるのに対し、彼の太刀筋にはまったく迷いがなかった。 あきらかに一個の敵としてしか、グレンを認識していない。 「カイン、どうしてっ、いつからなんだっ!?」 グレンの声は打ち合う音に消されがちとなる。辺りに響くのも構わず、グレンは叫ぶほかなかった、「なぜ!?」と。 重い剣を扱いなれた騎士とは言え、続けざまに打ち合うのには、やがて限界もくる。少しずつ二人の動きは鈍くなり、受け止めては離れるという一連の動作に、時を挟むようになっていた。 「私は元よりトレモントの民だ。今まで、そしてこれからも忠誠は公爵以外に誓わない」 「では、オルドヴィネには最初から!?」 間諜として入り込んだのか…と言う言葉は続かなかった。それを口にして、彼が肯定するのを見たくはなかった。 「雨の中で瀕死の状態だった孤児を助けてくださったのはあの方だ。あの時、私は死んでいた。それを救ってくださったのは神でも誰でもない」 「カイン!」 「私を生かしてくださった。学問も剣も、あの方が私に与えて下さったものだ」 「じゃあ、俺は!? 俺たちは友ではなかったのか!? いくつもの役(=戦)を一緒に戦ったのに!? おまえは何度も俺を助けてくれたじゃないか!?」 「間諜に友はいらぬ」 「偽りだったのか!? 神への誓いも!? 」 「私の神は、ユリウス様だけだ。そこをどけ、グレン。そうすればおまえは打たぬ」 「カイン!」 闇に響く剣の音と声は人を呼ぶ。それほど遠くない場所で、数人の気配を感じた。 ソードはどれほど離れたろうか。カイン一人でも手こずっている自分に、これ以上の人間を相手に出来るはずもない。そろそろ、潮時だ。これ以上カインと打ち合っても、彼がグレンの言葉や思いに応えないだろう。目の前にいるのはもう、友であり同朋だったカインではないのだ。友の剣がこんなに重いはずはない――グレンは落胆に打ちのめされそうになる気持ちを、何とか奮い立たせる。 何度目か知れないカインの切っ先がグレンに向かった。身を低くかがめ、グレンはそれを交わしながら、自分の剣を思い切り振り抜いた。 柔らかいものを捉える感触。先ほどまでの硬い剣の感触とは異質な。その刹那、血の匂いが鼻腔に滑り込む。 「カイン!」 慌てて視線を転じると、カインが片膝をついてわき腹の辺りを押さえていた。その押さえた指の間から、血が滴り落ちるのが見える。 グレンが彼に駆け寄ろうと、一歩踏み出した時、 「いたぞ、あそこだ!」 とこちらに向かって叫ぶ声が耳に入った。人数はかなりの数だ。あれを相手にしていては、生きては戻れない。 グレンは剣を鞘に収めると、踵(きびす)を返す。一度振り返って、カインを見た。彼は今しも倒れる身体を、剣で支えてグレンを見ていた。その目は「早く去れ」と言っているようだったが、グレンの希望的観測なのかも知れない。友としての彼の良心を信じたいと思う自分が、グレンの中には在ったから。 唇を噛み締め、グレンはその場を後にした。 振り返ることはなく、靄ではっきりしない明け初めの朝の中、ただ、ただ、走った。 その頬を伝うものが、汗なのか…涙なのかわからないままに。 (2011.08.28) |