あなたまでの距離(後編) 〜pm.11:00・佐東〜 Retiroはオフィスビルの一階にあって、トイレはフロアで共用だった。インテリアや雑貨のショップやカフェはすでに閉店しているので、遅い時間に使用するのはRetiroの客くらいだ。 いつ誰が入ってくるとも知れない状況で、よもや北条と言う男が館野さんに何かをするとは考えられないが――ここはその手の界隈ではないから、お仲間なら重々心得ているだろうし――、それでも俺の気持ちは逸った。 男子トイレの入口から短いアプローチに入ると、ボソボソと話し声が聞こえた。聞き耳を立てても内容は拾えない。切羽詰まった感はないし、話しているのが館野さんと北条とも限らないので、俺はそのまま進んだ。 洗面台のところにいたのは、はたしてあの二人だった。北条はこちらに背を向け、館野さんはその向いに立っている。入って来た俺をまず館野さんが北条の肩越しに見て、次に北条が振り返った。 「佐東さん」 「大丈夫? 具合、悪そうに見えたから」 一見、二人の間には何もなさそうだったが、館野さんの唇は心なしか色褪せて、店内にいた時より顔色が悪く見えた。 「サトウさん?」 北条が俺の名を口にする。呼びかけたと言うより、思い出すかのように。 「何か?」 大人げなくも少々ムッとした意味合いを含んで答える。彼は「ああ」と言って笑った。 「なんだ、願いが叶って彼氏と上手く行ってるんだ? それじゃあ連絡くれないのも仕方ないなぁ」 館野さんの喉仏が息を呑んで上下する。俺と目が合うと、慌てて逸らした。 北条は俺を見て、ニヤニヤと笑う。 「可愛い人だよね。大事にしなきゃ」 そう言うと、彼はトイレから出て行った。 館野さんは茫然と立ちすくんでいる。俺はと言えば訳が分からず、しばらく声をかけるのを忘れるくらい、ただ彼を見つめていた。 頭の中では今しがた北条に言われたことが、高速で再生されている。 『願いが叶って彼氏と上手く行ってるんだ? それじゃあ連絡くれないのも仕方ないなぁ』 『可愛い人だよね。うらやましい』 何が上手く行って、何がうらやましいのか。まるで俺たちが付き合っているかのような口ぶり。俺は館野さんを好きだが、あの言い方では館野さんも俺のことを? 「たて…」 予期せぬ事態ではあったが、驚きに勝る嬉しい疑問が心の奥から湧き上がる。館野さんに確かめたい気持ちが今まさに言葉になろうとした時、 「…ちょっと体調が悪いので、今日はこのまま帰らせてもらいます。すみません、みなさんにはよろしくお伝えください」 と言って、彼はふらふらと歩き出した。 「館野さん、待って」 思わず腕を掴んだら、館野さんの肩が跳ね上がった。背けて見せる横顔の中の唇が小刻みに震え、眼鏡の中の目は俺を見ない。 「本当にすみません。せっかく楽しい雰囲気なのに」 館野さんは洗面台に片手をついて身体を支えた。 靴音がして、男が二人入ってきた。俺達を見て不審げに見る。館野さんの顔色が悪くなかったら、俺が因縁でもつけていると取られかねないだろう。 「そのままじゃ帰れませんよ」 館野さんはスーツの上着を脱いでいる。コートや鞄もまだ店内に残したままだ。 俺はポケットから携帯電話を取り出し、香西を呼び出した。具合が悪くなった館野さんと帰るからと言って、二人分の荷物を持って来て欲しいと頼んだ。それから館野さんの腕を引いて、トイレの外に出る。 程なく二人分の上着と館野さんの鞄を持って、香西が店から出てきた。後ろから御園生さんも付いてくる。香西は俺に荷物を手渡すと、「タクシーを拾ってくる」と言って場を離れた。 「ずい分具合悪そうだけど、大丈夫ですか?」 御園生さんは心配そうに俯き加減の館野さんを覗き込んだ。 「すみません、飲み過ぎたみたいで」 上着に袖を通しながら、館野さんは答えた。トイレの中よりは幾分、声のトーンははっきりしているが、きっと御園生さんに心配をかけまいとして平静を装っているだけで、少し前の状態を知っている俺にはそれが痛々しく見えた。 「一人で帰れますから、佐東さんは残ってください」 とても一人では帰せない。 「一緒に帰ります」 俺はそれ以上館野さんに有無を言わせず、香西が停めたタクシーに彼を押し込み、続いて乗り込んだ。 香西がこっそり親指を立てて見せる。しかし俺はそれに応える気にはなれなかった。 どうにかして館野さんの気持ちを確かめたい。あの男が言った意味が、俺の思っている方向で合っているのか。合っていると思いたい。そうであるなら、すぐにでも自分の気持ちを打ち明ける。俺もあなたと同じ気持ちですと言いたいのに。言い出せないのは今がタクシーの中だからだ。そして館野さんがひどく憔悴しているからだ。俺を見ようともせず、窓の外を流れる景色をぼんやりと見ている。膝に置いた鞄の持ち手を、拳が白くなるほど力いっぱい握りしめて、全身で話しかけられることを拒んでいる。 せめて、その手に入った力を和らげたい。 俺はそっと彼の手に自分の手を重ねた。驚いて鞄を持つ手が緩んだのを見逃さずに握り込む。 ――冷たい。 暖房の利いた車内で、あんなに力を入れて鞄の持ち手を握りしめていたにもかかわらず、館野さんの指先は冷たかった。俺の体温が移るように強く握りしめる。一緒に想いの熱さも伝わればいいのにと思う。想いが伝わったかどうかは知れないが、館野さんは振りほどこうとしなかった。 二十分足らずでタクシーは俺達の住むマンションに着いた。間もなく午前零時。単身者用のマンションで、法人借り上げの部屋も多いせいか、灯りの漏れる窓は少なくないが、通りから外れた住宅地の中の一角と言うこともあり、周りは静まり返っていた。 タクシーが走り去ると、館野さんは「タクシー代と食事代を」と言って財布を取り出した。 「いいですよ、館野さん。そんなに食べてなかったじゃないですか」 「そんなわけには」 「本当に。あとの三人はこれから夜通し飲み会するんですから、館野さんなんて食べたうちに入りませんよ」 「でも…。じゃあせめてタクシー代を。僕が勝手に中座したわけですし」 「いいんですよ」 館野さんが財布を開けようとするのを押しとどめるつもりが、俺の手が前に出過ぎて突っぱねる形になり、財布と鞄が地面に落ちた。俺が腰を屈めたので、慌てて館野さんがしゃがんだが、財布には俺の方が早く届いた。 財布を渡そうとして目が合う。先に館野さんの気持ちを確かめるつもりだったのに、互いを見つめた目が逸らされた時、理性に反して唇が本心を紡ぐ。 「好きです」 逸らされた彼の目が俺に戻った。もうこうなったらちゃんと言うしかない。 「あなたが好きなんです」 二人の手の間を繋いでいた財布の重みが、俺の手にかかる。館野さんが放したせいだ。それから彼は立ち上がり一歩後ろに下がったかと思うと、踵を返し駆け出した。 「館野さん?!」 不意を衝く館野さんの行動に俺の体が付いていけず、立ち上がるのが一瞬遅れる。彼の後を追いかけたが、エントランスのドアを押し開けた時にはエレベーターの扉が閉まりかけていた。エレベーターの前についてボタンを押してもすでに遅く、階数表示板の上を「1」から「2」、「2」から「3」へと数字が進んで行く。 扉の閉まる間際の、感情を押し殺したような表情で俺を見ていた館野さんの姿が、目に焼き付いていた。 折り返して戻ったエレベーターに乗り、俺の手に残された財布を隣室のドア・ポケットに差し入れた。電話をかけたが出てくれない。留守番サービスに財布の件と、さっき告げたことを繰り返す。言ってしまったことは無しに出来ない。 「驚かせてすみません。でも嘘じゃない。俺は館野さんが好きです」 翌日、大学から帰るとドア・ポケットに白い封筒が入っていた。 中には一万円札が便箋に包まれ、「タクシー代と食事代です。不足分はお言葉に甘えます。館野」と書かれていた。 俺は隣の部屋のドアを見つめた。館野さんは今日、休みのはずだった。ドアベルを押してみたが反応はない。自室に入って壁に耳をつけ、隣の様子を窺ってもみる。しかしひっそりとして、何の物音もしない。 その週から、また館野さんの姿をゴミ出しの朝に見ることはなくなった。 今度は完璧に避けられているのだと悟った。 2012.10.10 (wed) |