何処からともなく、君が声す(後編) 〜am.2:00・館野〜 身体の奥底から湧き上がる快感に揺り起こされるようにして、僕は一度、目が覚めた。忘れていただけで、知らないわけじゃない心地良さ。誰かの手が身体に触れている。 千咲? 彼女の手はもっと小さい。僕の身体に触れている手は大きく、手のひらがしっとりと汗を帯びて熱かった。 目を、もっとしっかりと開けて確かめたくても、瞼が重くてそれ以上には上がらない。半分、眠りの中にいる感覚。 「ち…さき?」 手は違う。でも彼女以外に誰がこんな風に僕に触るだろう。 あんな別れ方をしたばかりなのに。憚ることなく泣きじゃくる彼女に声もかけず、春香さんが慰めて落ち着くのを、ただ黙って僕は見ていた。そして「送る」と言う都賀を断って帰路についた。 玄関まで僕を見送りに出た千咲。僕は振り返らなかった――振り返らなかったはずだ。 なのにこうして、ベッドを同じくしているのか? 「どうかした?」 耳元で低い声がして、耳たぶを軽く噛まれた。男の声だった。 重い瞼を何とか上げる。声の主の顔が、真上の近い位置にあった。 視界はとても暗く、相手は黒いシルエットとしてわかるだけ。じわりじわりと、朧げに開(ひら)けた視界を闇が侵食するので、「ああ、これは夢なんだ」と思った。でなければありえない。男とセックスするだなんて。 そう、これはセックスだ。人肌に直に触れる感じ。僕は裸で男と抱き合っている。 起きないと。目を覚まさないと。 思いながらも、緩やかに押し寄せる快感に抗えなかった。不安になりながら、夢の中の快楽に縋ってしまった。 「気持ちいい? でももう眠っちゃダメだよ」 そしてその声を聞いて不安も払拭された。 ――この声…、佐東さん? 「なに?」 声は出していないつもりの疑問に答えがきた。 ああ、やっぱり夢なんだ。佐東さんは今頃、勉強か仕事をしている。それに佐東さんが男とセックスなんかしない。 夢なんだ。あまりに気弱くなっているから、こんなろくでもない夢を見る。 でも、なんて甘美な夢なんだろう。このまま見続けても構わないだろうか。一時でもいいから、現実を忘れさせてくれたなら。 同性とのセックスなんて現実離れも甚だしい。だからこそ、良い。夢だと割り切って、何もかも忘れて、溺れることが許される。こうして彼に手を伸ばせば、応えてくれる。彼の首に腕を回して抱きしめると、抱き返された。 導かれるままに迎えた下肢に広がる確かな解放感で、その夢は瞬く間に覚めてしまった。あれほど重かった瞼が開き、薄明かりの空間がまず広がった。 見知らぬ部屋だ。目の前には僕の顔を覗き込む男の顔があった。佐東さんじゃない知らない男。いや、知らないわけじゃない。『Retiro』で一緒になった人だ。 どうして、この人と僕が? 触れている肌の温かみに、夢ではないことが更に実証される。一瞬にして僕の身体は固まったに違いなく、それに気づいた彼が 少し首を傾げたのがわかった。 「どうしたの? 夜はまだこれからなのに。唇が震えているけど、エアコン、効きすぎているかな?」 僕は思わず口元を両手で隠した。彼はクスクスと笑って、僕の耳元に唇を寄せた。 「可愛い人だね」 『可愛い人ですね』 佐東さんの声が、耳の中に広がった。途端に僕の身体から力が抜ける。彼の手がやんわりと僕の手首を掴み、口元から外した。それから僕の腰から後ろに手を回し、思いもよらないところに触れる。僕の身体が再び強張った。 「もしかして、初めてなのかな? だったら『ここ』は使わずにおくよ。だから怖がらないで。ほら、身体の力を抜いて。お互いゆっくり楽しもう」 唇が重なって、ぬるりとしたものが口の中に入ってきた。僕の舌を探しあてると絡ませる。あやすように与えられるキスにわけがわからないまま、僕はそれに応えた。 理性的な記憶はそこで途切れている。あとはもう、欲望のむき出しになった感覚的な記憶だけ。 湯になる前の冷たい水で、頭が冷やされて行く。一時間ほど前の出来事が夢ではなかったことを、僕に思い知らせる。 あの時――映画館で、得体の知れない自分の「何か」を感じ取った時と同じ。どこからタクシーに乗って、どのルートで帰り着いたのか。気がつくとマンションの部屋の前だった。 手が震えて鍵を差し込むのも覚束なかった。ようやくドアを開けて、そのまま風呂場に飛び込み、シャワーの蛇口を捻った。 湯温に上がったシャワーがシャツやズボンを濡らして行く。肌への直接ではない湯水の滴りは、水によるものではない別の感触を思い出させた。シャツのボタンを外す手の動きが、足から引き抜くズボンの衣擦れが、時間を遡らせ、僕の意思に反してあの感覚をトレースしたがる。 水温を一番低くして蛇口を目一杯ひねり、シャワーの水圧を上げた。水の冷たさと強さで、記憶を摩り替えてしまいたかった。 自分自身に吐き気がする。確かに精神的にきつかった。でも千咲とのことで鬱々としながら、行きずりの、それも男とセックスするだなんて。 夢だと思っていたから? そんな言い訳、通用すると思っているのか? 現実だとわかっても、強いて拒まなかったじゃないか。それどころか、理性も何もかも飛ばして、応えていたのじゃなかったか? 貪欲に求めたのは、おまえじゃないのか? 「違う!」 違わない。内腿に残る、あの男の「存在」を覚えている。気を抜くと、生生しく反芻している。 戸惑いと混乱は始めのうちだけで、優しく触れてくる彼の手を求めていた。自分の中の変化に畏怖しながら、「聞き知った」声に安心して身をまかせた。 僕のセクシュアリティは、もう疑いようが無い。身体は施される愛撫に感じ、ちゃんと反応していた。耳元で囁かれる度に、悦びで身体が震えた。僕は確かに欲情したのだ。あの、佐東さんによく似た声に。 欲の前では何もかも消し飛んで、どんな痴態を演じたか思い出せもしない。 「ふふ、なんて…淫乱なんだ」 情けなくて、おかしかった。 痛いくらいに身体中をタオルで擦る。何度も何度もシャワーで流して、また擦る。痕跡を消したい。蘇ってくる僕の中の淫らな部分を消したい。ヒリリとする痛みは、一瞬でも意識を逸らしてくれる。既成の事実が消えるわけがないことを知っていたけれど、そうしないではいられない。 あのホテルを出た時からずっと続いていた緊張が、痛みと冷たさに紛れて行く。冴えて現実に戻りきった頭に、代わって後悔と嫌悪感が満ちていく。冷静になって、無駄なことをしているとあらためて認識出来た時、僕の手はやっと止まった。 固定電話の留守番メッセージは四件。全て都賀からだった。携帯電話やメールにも彼からのメッセージが入っていた。内容はどれも同じで、戻ったら連絡しろと言うもの。 「どこをほっつき歩いているんだ」、「帰ったら電話してくれ」、「どんなに遅くなってもいいから」、「連絡を待っている」、録音時間が後になるにつれ、心配している様子に声色が変わっていく。都賀をこんなに心配させて、それなのに僕は。 午前三時に近かった。「どんなに遅く」の許容範囲はどれくらいだろうか。それとも、何時であっても連絡すべきなのだろうか。でも今は、誰とも話したくない。多分、話せない。 ベッドに上がって、壁に背中をもたせ掛けて座る。壁の向こうは隣の部屋だ。微かな物音を僕の耳が拾った。佐東さんが起きている。 自分のしでかしたことに対しての混乱に拍車をかけているのは、僕があの時、佐東さんの声だと思い込もうとしたことだった。触れる手が佐東さんのものだと思うことで、初対面の男とホテルに入った後ろめたさを緩和させていた――この男が佐東さんだったらと。そう思うと、身体の奥底からどんどんと熱が生まれ、気持ちは昂って行った。 すみません、佐東さん。辛さから逃れたくて逃げ込んだ情欲の中で、僕はあなたを利用してしまった。 知らない土地に来て孤独だった僕に、仕事以外で初めて親しく接してくれた人。週二回のゴミ出しの朝に、一言、二言交わすだけの間柄だった。仕事のことや過去のことに触れない、天気の話などの他愛ない日常会話。火曜と金曜の朝が楽しみになって、他の日に出会うと何となく華やいだ気分になれたけれど、それが特別なことと思わなかった。 なのに、いつの間に僕は、劣情の糧に出来るほど佐東さんを意識するようになったのだろう。一時でも邪な気持ちを抱くなんて。なんて僕は浅ましいんだ。 拭ききれていない前髪から、ポタリポタリと滴が落ちる。頬を伝い、顎を伝って体温を吸った生温かい滴が、膝を抱える手に落ちるその様をまんじりと見つめた。 髪が乾ききって滴がとっくに止まっても僕の目は手から離れず、目覚まし時計の音でやっと時間の経過を知る。 眠れないままに朝を迎えた。時間通りに鳴る目覚ましを、僕はすぐには止めずに聞いていた。徐々に大きくなる音量に何があっても朝はやってくるのだなと、ぼんやりと思った。 身体は動くことを拒んでいるかのように重かった。でも仕事は休めない。都賀はきっと連絡がないのを心配して外商部に顔を出し、そして僕が休んでいることを知ると帰りに様子を見に寄るだろう。社内ならまだしも、彼と二人きりになることは避けたかった。千咲とのことが話題にならないはずはなく、そうなると僕は自分のことを棚上げにして、彼女を罵ってしまうかも知れない。あるいは、離婚の理由を口にしてしまうかも知れない。 「支度、しないと」 自分を鼓舞してベッドから足を下ろしたところで、今日が金曜日であることを思い出した。ゴミ出しの日だ。佐東さんと会ってしまう。 どんな顔をして佐東さんに会えばいいのか。声を聞いて平静でいられる自信がない。「彼」は佐東さんじゃない。でも「彼」の声は、僕にとって確かに佐東さんのものだった。 気持ちが温かくなる唯一の時間だったのに、もう以前のように話せない。 ――少し早く出よう 食欲はなく、その分、身支度は早く済むはず。僕は立ち上がって、洗面所に向かった。 鏡の前に立ち愕然とする。首元から鎖骨にかけて鬱血した跡があった。帰宅してシャワーを浴びた時にもこの鏡は見ている。でもさんざんタオルで擦ったため皮膚は赤くなっていた上に、白熱灯の光に紛れてわからなかった。何よりも、僕は自分の身体を見ないようにしていた。跡があるのを、無意識に知っていたからだ。他人の唇と舌が、何度も首や鎖骨の辺りに触れていたのを覚えていた。 身体が震える。膝が折れそうになるのをなんとか堪えた。 ――しっかりしろ そう言い聞かせ、鏡から目をそらして支度を続ける。気を抜くと手が止まって、五分、十分があっと言う間に過ぎた。早くしないと、いつもの時間になってしまう。 シャツを着て、ネクタイを締めて、跡が見えないかを確認した。触れられた記憶が首にまとわり付いている。昨夜の出来事がスライド・ショーとなってフラッシュバックするのを、振り払うように頭を振った。 玄関ドアを開けると涼やかな空気が僕を包んだ。七時を過ぎたところで、辺りは静かだった。 隣の部屋のドアに目が行く。一時間以上早い出勤だから、佐東さんと会うことはないだろう。いつもならエレベーター前か中で一緒になる。そのままゴミ置き場まで一言二言話して、彼はコンビニへ、僕は反対方向の駅へと分かれるのに。 ゴミ置き場に袋を放り込んだ。生乾きのスーツが入っているせいか、袋は重い音を立てた。 「館野さん」 突然、背後から呼びかけられ、その声に僕の肩は跳ね上がった。振り返らなくても誰だかわかる。佐東さんだ。 「おはようございます。すみません、驚かせました?」 「あ、いえ、おはようございます」 心臓の鼓動が大きくなる。それは全身に伝染して、佐東さんに聞こえるのではないかと思うほどに、僕の中で鳴り響いた。 「今日は早出ですか?」 そう言って佐東さんはゴミ袋を放り込んだ。早く彼の前から去りたいのに、自然に振舞うことは今の僕には難しく、足が動かなかった。 「え…ええ。朝一番に会議があって」 声の震えを抑えるのが精一杯。「いつも通りに、いつも通りに」と頭の中で唱えながら、笑みを作る。 「そうですか、大変ですね」 「…佐東さんこそ、今日は早いんですね?」 「あー、いや、その、すごく腹減っちゃって」 佐東さんは笑った。 彼の笑顔に僕は居た堪れなくなった。会いたいと思う時には会えず、会いたくないと思う時に会ってしまう皮肉を呪う。 「大丈夫ですか? 何だか顔色が良くないみたいだけど」 佐東さんがじっと僕を見る。彼の視線が首辺りにあるようで、一歩下がってしまった。 「二日酔いです。昨日、飲みすぎてしまって。酒臭いでしょう?」 身体を引いた理由付けにする。佐東さんは気にした風でもなく、 「ああ、それで遅かったんですね」 と言った。 「すみません。もしかしてうるさかったですか? その…、よく覚えてなくて。スーツのままでシャワー浴びてダメにしてしまったし、そのまま風呂場で居眠りしてしまって。め、目覚ましに起こされるまで、どうやってベッドに入ったかもわからないんです」 不必要に饒舌になる。努めてゆっくり話しているつもりだけれど、どうなのか。佐東さんから目を逸らすことだけは、何とか押し止めた。 「俺は夜型だから、気にならなかったですよ。それより本当に大丈夫ですか? もしかして風呂で居眠りしたから風邪でも引いているんじゃないですか?」 「大丈夫です。胃液が上がって、自分の息の酒臭さに酔いそうですけど」 「二日酔いには迎え酒が良いって言うから、ちょうど良いんじゃ?」 「自分の息が『迎え酒』なんて、嫌だなぁ」 佐東さんは吹き出して笑い、僕も釣られて笑いを返した。 「そろそろ行きます」 「ああ、すみません、引き止めちゃって。電車、乗り過ごさないように。行ってらっしゃい」 「…行ってきます」 佐東さんに背を向けて、やっと歩きだす。 僕は、ちゃんと笑えていただろうか。ちゃんと会話出来ていただろうか。再び踏み出した足は重い。それでも早くこの場から立ち去りたい一心で前に進む。 しばらく行って、振り返った。佐東さんは大きく伸びをし、首を回しながら、駅とは反対方向のコンビニへと歩き出していた。広い背中。伸ばした長い手をゆっくり下ろす姿が鳥の羽ばたきに似ている。 僕は、彼の姿が小さくなって見えなくなるまで、ずっと見送った。 2011.04.27 (wed) |