恋に道理のなきものを〜am.8:00〜 隣室の住人は、名を館野と言った。年の頃は三十才前半。仕事は何か知れないが、サラリーマンであることはわかる。 午前六時四十五分起床、八時に出勤、帰宅はだいたい午後九時前後で、日付が変わる頃になることもしばしば。 瓜実顔で、細い銀縁眼鏡の中には一重瞼の切れ長の目。モンローと同じ位置にある口元の小さなホクロは、それだけを見るととても色っぽいが、全体的には無いに等しいくらい目立たない。中肉中背の体躯も合わせて、どこにでもいる日本人と言えば言える。 「おはようございます」 「おはようございます」 毎週火曜日と金曜日は普通ゴミの日だ。顔をまともに合わせるのはその二日しかない。彼の出勤時間に合わせゴミ出しに出るようにして、短い会話が交わせる程度にはなった。と言っても、五階から一階までの距離では天気の話題がせいぜい。それに彼自身、人見知りをする性質なのか、それとも職業が想像し難いこちらの風貌に警戒しているのか、どことなくガードが固い感じを受ける。多分、後者だろう。何しろずい分前に散髪に行ったきりで髪は伸び放題だし、毎日剃らないので常に無精ヒゲ状態。無駄に身長があるし、自分から見てもかなり怪しかった。 とりあえず火曜と金曜の朝には髭を剃り、髪は後で結わえることにした。 「いつまでも暑いッスね。館野さんのところはクールビズとかじゃないんですか?」 いつもきっちりとしたスーツ姿の彼は、定着されつつあるクールビズとは縁遠かった。 「ええ、サービス業なので」 「サービス業?」 週二回、朝に顔を合わせるようになって三ヶ月が経った頃、やっと館野さんの職業を知った。駅前にある百貨店の外商部勤務で、その百貨店がこの春リニューアルした際に、別の支店から転勤してきたのだと言う。なるほど、そんな仕事なら、スーツ姿も頷ける。 「ええっと…」 「佐東です」 「サトウさんは何を?」 「翻訳の仕事をしてます」 「翻訳? 英語ですか?」 「ええ、まあ。専門はポーランドなんですけど、ニーズがなくって」 ポーランド史で院に進むつもりだったが、経済的理由から一次中断。その資金を貯めるために今の仕事を始めた…と話すと胡散臭さが薄らいだらしく、彼のガードは緩んだ。 「じゃあ、二ヶ国語が堪能なんですね?」 「いやあ、喋るのは苦手ッスよ」 「それでも外国語がわかるなんてすごいですよ。中学から大学まで英語の授業があったけど、全然、身についていないですから」 館野さんは輸入雑貨・家具などを担当していて、苦手な横文字と日々格闘しているのだと笑んだ。 会話の内容も「天気」から脱却した。短いながらも一つ一つ、お互いのことを知って行く。年齢とか――彼は四つ上の三十四才――、独身であることとか、田舎はどことか、食べ物の好き嫌いなどなど。館野さんの声は、少し掠れたような、それでいて決して耳障りではなく、妙に耳に残った。その日の会話を、何度も反芻させるくらいに。 一回二分足らず、週に二回の接点、他愛もない日常会話――さりげなく慎重になっている自分がいて、戸惑いを禁じえない。相手は「お仲間じゃない」、つまり「ゲイじゃない」と言い聞かせる。 でもこれは…ヤバイかも知れない。 ある金曜日の朝、前日に引き込んだ風邪のおかげで、午前六時四十五分に鳴る『館野さん宅の目覚まし』の音に気づかなかった。ゴミ出しの時間にも間に合わなかった。週末に出版社の飲み会に誘われて、体調不良のまま出席したなら、案の定、風邪がぶり返した。 そんなわけで火曜日の朝もタッチの差で起きられず、ゴミ袋を持って飛び出したが、館野さんには追いつけなかった。週二回しかない貴重な彼とのひと時を無駄にして落胆したのと、走ったため気分が悪くなったのとで、ゴミ置き場で思わずしゃがみ込む。 「佐東さん?」 聞き覚えのある声が頭の上から降ってくる。顔を上げると出勤したはずの館野さんが立っていた。 「館野さん? あれ、出勤したんじゃ?」 「出掛けに電話があって、出るのが遅れたんです。それより具合が悪いようですけど、大丈夫ですか?」 彼は腰を折ってこちらを見る。 「立てますか? 部屋まで手を貸します」 「いえ、いえいえいえいえ、大丈夫。立てます、立てます。遅れますよ。それに館野さんに移したりしたら大変だから」 勢い、立ち上がると眩暈がする。それでも平静を装って丁重にお断りした。魅力的な申し出だったが、サービス業の勤め人に風邪を移したら大変だ。健康が取り得の人間を二度も襲ったウィルスだから、気の張る仕事で疲れている彼など一たまりもないに違いない。 振り返る館野さんに手を振り、その後姿を名残惜しく見送る。熱と頭痛で身体は辛かったが、一週間ぶりに彼の顔を見た上に、優しく言葉をかけてもらえて、気持ちはかなり持ち直した。 その夜、ドアベルが鳴った。それをベッドの中で聞きながら、居留守を決め込む。友人や仕事関係者なら電話をかけてから来るだろうし、事前連絡無しはセールスか、それに似た類に決まっている。ドアベルは一度鳴ったきりだった。 ――やっぱりセールスか しばらくしてドアポケットに何かが入る音がした。チラシや冊子のそれとは違う重さのある音。その後に隣のドアが開閉する。 「え?」 慌てて起き上がって、ドアポケットを開けた。百貨店の食料品売り場の袋に、レトルトの白粥と梅干パックが入っていた。それからボールペンで走り書きのメモが一枚。 『ドアノブの袋にはオレンジが入っています。薬はありますか? 必要なものがあれば連絡してください』 携帯電話の番号も書かれていた。館野さんだった。ドアを開けるとメモの通りに、オレンジが二個入った袋がノブにかけられていた。 「もしもし、佐東です」 部屋に戻り、書かれた番号を回すと、すぐに館野さんが出た。 ドアポケットに入れてくれたものの礼を言って、居留守を使った無作法を侘びると、「気にしないでください」と返った。朝、ゴミ置き場でかなり具合が悪そうに見えたらしい。鼻声がひどくなっているのを気遣ってくれる。 「大丈夫です。熱も下がりましたから」 「腹の調子はどうですか? もし食べられるようなら、もっと栄養のあるものがいいと思ったんだけど」 「食欲はそこそこあるんです。ちょうど食べるものがなかったから、助かりました」 「あ、食べられるんだ。やっぱり聞いてからにすれば良かった」 「そんな、充分ですよ。明日になったら、何か調達します」 「明日定休日で休みなんです。言ってくれれば、代わりに行きますよ? 買出しに行く予定があるので」 「あ、ありがとうございます。その時はお願いします」 「遠慮なく言ってください。それと、差し支えなければ、電話番号を教えてくれませんか?」 携帯電話の番号を教えると、「お大事に」と添えて館野さんは電話を切った。切れた後もしばらく、耳に受話器をつけたまま動けなかった。 熱は平熱近くに下がっていた。しかし別の熱が頬に帯びる。彼が気にかけていてくれたことが嬉しかった。 『ノンケに恋するものじゃない』と言う呪文には、実は効力などない。そんなものに頼らなくてはならなかった時点で、恋は始まっているのだ。どこがどう良いのかなんて後からの理由付けに過ぎず、一目惚れに道理など存在しなかった。悪あがきしたところで、想いを抑えることは難しいと、恋をする度に思い知る。 ――どうすんだよ、俺… 2008.08.16 (sat) |