音のある風景〜am.6:45〜
                 


 午前六時四十五分、目覚し時計が鳴る――隣室で。
 それまでの隣人達は、ろくなヤツらじゃなかった。
 週末になると仲間を呼んで夜通しマージャンする大学生。男を連れ込んであられもない嬌声を上げるOLもいた。テレビのプロ野球観戦で勝ったの負けたのと大騒ぎするのや、会社でストレスが溜まっているのか、夜中に独り言を怒鳴ったりするヤツもいて、仕事が翻訳業で夜行性の身の上には、迷惑な輩ばかりだった。
 でも今度の隣人は、至って静かだ。昼夜、ほとんど物音がしない。夜遅くにドアが開閉する音が聞こえたが、隣のものとは限らなかった。だからしばらく空き室だと思っていた。
 ある日、仕事が立て込んで徹夜作業になった時、その音に気づく。
 目覚まし時計と、それから始まる生活音。と言っても、今までの隣人に比べたら控えめなものだ。
――なんだ、隣、いたのか。
 



 目覚まし時計は毎日、六時四十五分にほんの数秒間、鳴った。
 最初は聞こえなかった微かな他の音を、慣れた耳が拾う。
 蛇口をひねる、コンロを点ける、レンジかトースターが「チン」と鳴く。カシャカシャと言うのは、卵をかき混ぜてでもいるのだろうか――決して耳障りじゃなく、懐かしささえ覚えた。母が作り出す朝の音に似ていたから。
 どんなに遅く寝んでも、その目覚ましの音で起きるようになった。独居かオフィス使用が条件の1DKには珍しい朝の音に、惹かれたせいかも知れない。
 家庭的な女性なのだと思った。男の気配もないし、自分のために朝食を作り、手弁当で出勤しているのだろうと想像する。
 しかし、朝食から続く身支度の音の中に、電気シェーバーを使っているらしき音が存在した。彼氏が泊まったにしては毎朝続くし、一緒に住んでいるにしては、艶っぽい『夜の音』がしない。
――ヤローかよ?
 『男の気配がない上に、家庭的な女性の独り暮らし』には何の興味もなかった。そのテの対象が異性ではない性質だからだが、相手が男となると話は別だ。
 ただ、片や昼夜が逆転した生活。此方きちんと朝から出かけるサラリーマン――と思う――。若いのか、年配なのか、妻子ある単身赴任者か、ピカピカの新卒か。そして何より『タイプ』なのかどうなのか。隣人の正体はなかなか知ることは出来なかった。
 朝の一連の音だけが彼との接点。いっそ、知らない方が良いのかも知れない。
 目覚ましが鳴っても静かだなと思っていたら、三十分していつもの倍速で動作する音が始まり、寝過ごしたことがわかったり。
 ピーピーと聞き慣れない音が入るようになったのは、沸騰したら音が鳴るケトルに替えたのだろうと想像してみたり。
 規則正しく繰り返される朝の音を聞いて、見知らぬ『彼』についてあれこれ想う。それだけでも結構、楽しいものだ。下手に正体を知って、まったくタイプじゃなかったなら、その時点で毎朝の楽しみは失われてしまうだろう。多分、一抹の寂しさが残ることは否めない。
――でも、もしタイプだったら?
 ノンケに惚れて、上手く行った例(ためし)がなかった。タイプじゃなく楽しみが失われてしまうことよりも、むしろそちらの方が、隣人を強いて知ろうとしないことの理由づけとしては正しい。その気(け)がない相手への片想いほど無駄なことはないと骨身に沁みていた。
――そうそう、『君子、危うきに近寄らず』だ。




 なのにとうとうある夜、出会ってしまった。
 日付が変わる少し前、コンビニに行った帰りのエレベーターに珍しく同乗者がいた。三十前後かもう少し上、同じ年頃のサラリーマンだ。降りる階のボタンは彼によって先に押されていた。乗り合わせた際のお約束になっている儀礼的な挨拶を交わし、そこからは無言。ドアが開いて、「どうぞ」と譲ると、相手は軽く会釈をして先に降りた。
 そして前を歩く彼は、隣の『彼』だった。一足先にドアの中に消える。
 背は高からず低からず、上着を腕にかけたワイシャツ姿は少し痩せて見えるが、見苦しいほどじゃない。
 朝ならちゃんと整えられているに違いない前髪は、一日の疲れで本来の質に戻って中途半端に額にかかり、煩わしげにかき上げた左手の薬指には、幸か不幸か指輪はなかった。
 鍵を開ける横顔は竹久夢二の描く女性像のように骨格が薄く、モンローと同じ位置のホクロが妙に色っぽい。
 うつむくと数ミリずれる眼鏡に愛嬌があり、その日唯一、表情らしいものを見せていた。
 エレベーターを降りてから彼がドアの中に消えるまで一分足らず。そのわずかな時間に、それだけのことを認識してしまう好みのはっきりした『目』に、
「ストライクかよ…」
と思わず声が漏れ、
――だから会いたくなかったのに。
と心の声が続いた。




 今朝も隣室の目覚まし時計が、精勤に六時四十五分を知らせる。
 ケトルがピーピーと湯を沸かし、レンジかトースターが「チン」と鳴く。カシャカシャと卵は割りほぐされ、いつもの朝の営みが始まった。
 隣人は好みのタイプなサラリーマン――恋に発展させてしまうかどうかは自制心にかかっているのだが、さっぱり自信がない。
『ノンケに恋するものじゃない』
 とりあえず今は、その呪文に頼っておくとするか。

           

                 2008.05.28 (wen)

   
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