温かな時間〜am.８：００・館野〜 「館野、何か良いことあったのか？」 社員食堂で昼食を取っていたら、目の前の席に都賀が座った。 「別に。何で？」 「や、最近、顔つきが戻ってきたからさ」 僕達は同期入社で、新人研修の時に席が隣になって意気投合。最初の三年間は同じ店に配属された。それぞれが移動になり離れてしまったが、互いの結婚式でスピーチをし合うなど交流は途絶えていない。 今回の移動先に都賀がいて、また顔を合わせるようになった。と言っても僕は外商担当、彼は婦人雑貨売り場なので頻繁に会えるわけではなく、そんな都賀に顔つきのことを言われて少し驚いた。思わず自分の顔を触り、「変だったかな」と返す。 「離婚したって聞いてるからな」 自分では表情に出しているつもりはなかった。離婚に対しても、それほどに思うところがあったわけではない。 「そこまでショックを受けてないよ」 「そうか？ 慰謝料で身包み剥がされたんだろ？ ここへもわざわざ転勤願いを出して来たんじゃないのか？」 都賀は声の調子を落として言った。僕は苦笑する。彼の言ったことは正しかったが、そのことは心理的に影響しているとは、思っていなかったからだ。 僕は半年前に離婚した。結婚生活は五年、子供はない。元妻の千咲（ちさき）とは職場結婚で、間を取り持ったのは当時彼女と同じ部署だった都賀である。それもあって、仲人を頼んだ上司以外には進んで話すつもりのなかった離婚の件も、彼にだけは報告した。 「本当のところ、何が原因なんだ？ そろそろ教えろよ」 報告はしたが原因については話していない。都賀が会うたびにそれを聞きたがるのを、「夫婦の問題だから」とのらりくらりとかわす。そうしているうちに休憩時間が終ったり、仕事場から呼び出されたりして、話は核心には到らずに終るのがいつものことだ。今回も話の途中で、都賀に売り場から呼び出しのアナウンスがかかった。僕は内心、ホッとした。 「今度、飲みにつきあえよ。わかったな、館野」 彼はそう言い置くと、昼食もそこそこに席を立った。片手を上げて、おざなりにそれに答える。毎回、同じやりとりで別れて行くのだが、それは未だに実行されたことがない。 食後のコーヒーにミルクを入れてかき混ぜた。原因を話せと言われたところで、どう話していいのか。離婚を切り出したのは僕の方からだったが、原因を明確にするにはためらいがあったからだ。 夫婦の間には何の問題もなかった。喧嘩もなく、家庭内別居の状態であったわけでもない。休日は二人で映画や食事に出かけた。千咲は結婚後も仕事を続け、同じ職場だったので事情がわかって色々と楽だった。周りから理想的な夫婦だと見られていた。 子供は出来なかったが、それについても問題と言うほどのことはない。双方の兄弟にはすでに子供がいて、両親の孫を持つ満足感はとりあえず満たされていたし、千咲自身、子供について「欲しい」とも「欲しくない」とも言わなかったからだ。 でも僕は気づいてしまった――出来ないのではなく、出来る行為をしなくなって久しいことに。同時に、彼女の身体に触れられなくなっている自分に。 「ごめん、今日は疲れているから」 同じベッドで寝すんでいると、そう言う雰囲気になることもある。千咲が僕を求めてさりげなく誘いをかけてくるのだが、どうしても応えられない。 自分がもともとそう言ったことに希薄な性質だと思っていた。それでも接待先でのホステスのしな垂れかかるような接客に、距離を取ることはあっても、千咲を拒むことはなかったのに。 そのことに気づいてから､僕はまっすぐ帰宅しなくなる。同僚と飲みに行ったり、上司の接待に付き合ったり、そうでない時は映画のレイトショーで時間を潰した。 ある日、映画館で隣に座ったサラリーマン風の男が、僕の太ももに手を置いた。驚いて彼を見ると、まるで何事もないかのようにスクリーンを見ている。彼の手はまだ足に置かれたままで、時々、軽く揉み摩る仕草をした。 その動きを凝視し、彼をもう一度見た｡今度は彼も僕を見ていた。スクリーンからの光を吸って、表情が見える。口元が笑んでいた。彼が何かを呟いたが聞き取れなかった。僕は慌てて席を立ってしまったので、聞かなかったと言う方が正しいだろう。他の観客の迷惑も顧みず、館内を飛び出した。 映画館を出て、駅までの道をいつもの数倍の速度で歩いた。あれは普通ではなかった。蠱惑的で、誘うようだった。見ず知らずの、それも同性にあのように触られて、本当なら起こる嫌悪感が起こらなかった。それどころか、触れられたところが熱く火照り、胸は早鐘のように鳴っていた。 ――な、何なんだ…？ 「欲情」と言う言葉が頭に浮かんだ。 ――そんな馬鹿な 打ち消すように頭を振る。同性をそんな目で見たことなど一度もない。結婚するまでに付き合ったガールフレンドもいたし、その彼女とはそれなりの経験もした。確かにガールフレンドより、友人達との約束を優先したことの方が多かったが、恋情とは別次元だ。 自分がその対象で見られるなどとも想像しなかった。十人並の容姿に、成績も中くらい、運動神経も平均的。部活動では「憧れの先輩」でも、「可愛い後輩」でもない一部員に過ぎなかったからだ。 その件に遭遇するまで。 以来、レイトショーには行かなくなった。仕事に没頭することで忘れようとしたが、たった一度のあの出来事、あの感触を身体は忘れることはなく、時々太ももに甦っては僕を苛んだ。 ますます千咲には触れられず、ついには同じベッドに入ることも出来なくなった。 「怜(れい)ちゃん、またソファで寝たの？」 「風呂上りに一杯飲んだら、そのまま寝ちゃったみたいで」 「働き過ぎじゃないの？ 有給残っているでしょう？ ゆっくり休んだら？」 何も知らずに自分を心配してくれる千咲に、心苦しかった。折も折、彼女がそろそろ子供を欲しいと思っていることを知る。 同性にしか興味が持てなくなったかどうかはわからない。職場の同僚や上司には何ら気持ちは動かなかったし、触れたいとも触れて欲しいとも思わなかった。 自分ではもう千咲に『家庭』を作ってやれない――それだけはわかる。 そんな状態が一年ほど続き、僕は離婚を切り出した。理由を言わず、別れて欲しいとのみ伝えた。あの時の千咲の顔が、今も忘れられない。両親も兄弟も、誰もが到底納得するはずがなかった。僕はただ「別れたい」と繰り返した。 マンションも貯金も彼女名義に書き換えた。仕事は辞めるつもりでいたのだが、彼女がそれを望まず、単身者用の社宅が用意されるリニューアル店への転勤願いを出した。結局、三ヵ月後、離婚が成立する。 こんな離婚理由、都賀にも話せない。第一、僕自身、確信が持てずにいる。この半年、ずっと自分のことがわからなかった。表情に出ていたのは離婚による疲労からではなく、わからない『自分』と言う存在を持て余していたからだろう。「戻ってきた」と言うのなら、時を経るにしたがって、気持ちが落ち着いてきたのかも知れない。 腕時計を見ると昼休憩は終わりに近づいていた。コーヒーに一口も口をつけなかった。ぼんやりと考え込んでいたからだ。気持ちを切り替えて、仕事に戻らなければ――カップの中で茶色の液体が、意味深にゆらゆら揺れた。 「おはようございます」 毎週火曜と金曜の朝、エレベーターで隣室の佐東さんと一緒になる。社宅として借り受けているマンションのゴミ収集日で、僕が出勤する時間に、彼もゴミ出しに出るようだった。 佐東さんは自宅で翻訳業をしていた。大学院に進むための学資稼ぎなのだと言う。 「こっちが本業みたいになってますけどね」 エレベーターで一緒になり始めた頃は、その風貌――無精髭に長髪――が胡散臭く思えたのだが、何度か一緒になるうち、彼の気さくで感じの良い人柄を知る。最初は天気の話ばかりだったが、最近では互いの仕事や趣味などの話もするようになった。 「館野さん、自炊してるんですか？ すごいなぁ、俺なんてコンビニ弁当か外食ばっかですよ」 「すごくないですよ。朝食だけですから。それも卵焼きもどき」 「卵焼きもどき？」 「いつも卵焼きのつもりなんですけど、スクランブルになってしまうんです。和風スクランブル・エッグ。それでもやっと一巻き、出来るようになりました」 「それって、オムレツなんじゃないスか？」 「ああ、なるほど、オムレツかぁ」 転勤間もなく、見知った顔が都賀くらいしかいなかった僕には、プライベートを知らない相手との会話は気楽だった。 たった数分のコミュニケーション。それだけのことだったが、気持ちはほっこりと温かくなった。 「いってらっしゃい」 「行ってきます」 ゴミ置き場の前で別れる。数歩行って振り返ると、佐東さんはまだそこにいて、振り返った僕に手を振った。それに応えて手を振ると、僕の心は更に温かくなるのだった。 2009.05.31 （sun） |