何処からともなく、君が声す(前編) 〜am.2:00・館野〜 
                 



「お疲れのようですね?」
 目を上げると、この店のオーナー・シェフ、御園生さんが傍らに立っていた。僕の前には赤ピーマンのタパス(小皿料理)と、スライス・バケットがサーブされている。ぼんやりしていた僕は、それに気づかなかった。
「ああ、そう言えばバーゲンの期間だ」
 御園生さんはそう言って笑った。
 確かに今は夏の最終バーゲン期間中だけれど、外商部の僕は売り場担当ほどには忙しくない。そんなことを取り立てて説明する必要もないので、僕は笑みを返した。
「何かお飲み物は?」
「じゃあ、白のサングリアを」
 御園生さんは厨房に戻り、ほどなくオーダーしたサングリアが別のスタッフによって運ばれて来た。
 サングリアはワインに柑橘系のフルーツを漬け込んで風味を出したもので、フレーバード・ワインと言うのだそうだ。フルーツの良い香りと酸味のおかげで、普通のワインより飲みやすい。主流は赤ワインを使ったものだけれど、僕は白ワインを使った方が好みだった。気をつけていないと飲みすぎてしまいがちで、だからいつもは一回の食事でグラス一杯か二杯をやっと空ける程度に止める。
 グラスの縁にデコレートされたカット・ライムの涼しげなグリーンは、『彼女』の着ていたサマーセーターの色とダブる。
 今日の夕方、『彼女』――別れた妻の千咲と二年ぶりに会った。「ぼんやり」の原因だ。
 僕は、グラスを一気にあおった。




 盆が過ぎ、日差しはまだまだ強いものの、どことなく秋めいてきた。残暑は長く厳しいとの予報だったのに、朝晩の空気は夏特有の湿っぽさが薄らいで、心なしか爽やかに感じる。暦上だけではなく、体感的な秋の訪れも間近だと思わせた。
 夏のクリアランス・セールはいよいよ最終段階で、そろそろ客足も鈍くなっている。秋物仕様に変わったばかりのこれと言ったイベントもない初秋、冬の商戦計画も決まっているこの時期はデパートにとって閑散期で、基本的にバーゲン・セールのない外商部、特に僕が所属する輸入家具・雑貨の三課は静かだった。顧客担当は外回りで出払っていたし、今年の春入社の新人達はバーゲンの特設会場に貸し出されていることもあって、人気も少ない。そして買い付け・商談担当の僕はと言えば、午前中こそ昼休憩を挟んで次期内覧会についてのミーティングだったが、午後からはそこで手渡された商品資料に目を通す以外の予定はなく、定時の十七時は無理でも、十八時台には退社出来そうだった。
――『Retiro』で、晩飯食って行こうかな
 『Retiro』は隣町にあるスペイン・バルで、以前、佐東さんに連れて行ってもらって知った。「バル(BAR)」は、スペインでは居酒屋の意味合いらしい。日本のそれと違って一人でも立ち寄れる雰囲気から、社用の帰りに何度か食べに行った。
 帰り道とは反対方向になる。でもたまには『Retiro』に行くことを目的にして寄り道するのも良いかも知れない。僕はすっかりその気になり、残った雑事をさっさと片付けることにした。
――佐東さんを誘ってみようか
 午後七時くらいなら、夜型生活の佐東さんでも起きている時間だ。前に一緒に行った時はとても楽しかった。最近、大学院復学準備で忙しいようだけれど、どうだろう?
 私用の携帯電話を内ポケットから取り出して、電話帳から佐東さんの名前を選ぶ。


『館野さんって、可愛い人ですね』


 不意に頭の中で、佐東さんの声が響いた。
 飲みに行った帰りに彼が言った言葉。三十も半ばの男に「可愛い」だなんて、何でもかんでも「可愛い」と形容する女の子みたいだと思った。
 酔っていたし、意味なく出た言葉だとわかっているのに、時々思い出される時には、なぜだか僕の頬の辺りは熱くなる。
「館野」
 携帯電話の液晶を見つめながら逡巡していると名前を呼ばれた。声がした方向には、都賀が立っていた。
 婦人雑貨売り場の課長で、今の時期でもそれなりに忙しいはずの彼が、売り場を抜けて棟違いの外商部事務所に来ることは珍しい。
「都賀?」
 腰を浮かせて立ち上がりながら、「どうしたんだ」と続けようとした僕は固まった。
 都賀の後ろから、まず彼の奥さんの春香さんが姿を見せ、そして、
「千咲…」
 僕の別れた妻である千咲が入って来たからだった。
 春香さんの会釈が目に入り、僕はやっと瞬きをした。辛うじて彼女に挨拶を返したものの、自分がどう言う表情をしているかわからない。春香さんを見ているはずの僕の目の焦点は、彼女の肩越しに千咲に合わされていた。
 背中まで伸ばされていた千咲の髪は顎の辺りで切りそろえられ、少なからず驚く。幼い頃から肩より短くしたことがないと言っていたのに。
 僕と目が合うと、千咲はぎこちなく笑った。
「今日、何時くらいに上がれそうだ?」
 都賀に聞かれて、僕の意識は彼女から離れた。都賀も春香さんも、まっすぐ僕を見ている。都賀一人なら「遅くなる」とでも言い逃れが出来るけれど、後の二人の存在がそれを許さなかった。たとえ残業になると言ったところで、千咲は待つつもりでいる。彼女も同じ系列百貨店の社員だ。今の時期がそれほど忙しくないことを知っている。だからこそ、訪ねて来たのだろうし。
 都賀夫妻の射るような視線と、微笑んだ後に引き結ばれた千咲の唇を見て、僕は「六時半には」と答える外なかった。




 都賀の自宅は職場から電車で四駅の郊外にあった。家族持ちの社員には会社が用意した物件ではなく、自ら探したマンションなり一戸建てなりに、住宅手当として家賃の一部が補填されるシステムになっていた。学齢前の小さな子供が二人いる都賀は、二階建ての一軒家を借りている。
 僕が彼の家を訪ねるのは二度目だった。と言っても、一度目は酔いつぶれた都賀を送って来ただけで、玄関先で彼を春香さんに引き渡しそのまま帰ったから、訪問と言う点では今回が初めてになる。
 午後六時半に、都賀は外商部まで僕を迎えに来た。売り場責任者と一階フロアのサブ・マネージャーを兼ねる彼が、閉店前に帰宅するなんて。僕と千咲の話し合いの場所に自宅を提供することといい、今夜は簡単に帰らせてもらえないことが予想出来た。
 父親の常にない早い帰宅に、子供達がリビングと思われるドアから飛び出て来て、都賀にまとわりついた。都賀はよちよち歩きの下の子を抱き上げ、上の子の手を引くと、彼らが開け放したドアの方に先立って向う。
 ドアの向こうは、やはりリビングだった。対面式キッチンには春香さんがいて、ダイニングテーブルに座る千咲と話していたけれど、僕達の姿を見ると会話は止まった。気まずさに似た空気が部屋を包む。
「ここはこいつらの遊び場だからな。あっちの部屋に行こう」
 おもちゃが散乱する中で子供達の手を離すと、都賀はリビングを横切って引き戸を開けた。きれいに片付いている和室には、座敷机を挟んで座布団が二つ敷かれていた。
「ゆっくり話せよ。うちは何時になっても構わないから。ひと段落したら出て来い。軽く食べられるものを用意しておくってさ」
 都賀の足下から子供達が覘いている。隙があれば中に入ろうとしているのを、「パパとお風呂に入ろう」と都賀はリビングの方に追いやった。
 春香さんが冷たい麦茶の入ったグラスを机上に置き、そうして和室の戸は閉められて僕と千咲は二人きりになった。
 引き戸の向こうでしていた子供達のはしゃぎ声は、しばらくして聞こえなくなった。バスルームに行ったのか、都賀が気を利かせて別の部屋に連れて行ったのか。途端に辺りは静かになり、時折、春香さんが立てているであろう生活音が聞こえるくらい。
 千咲は伏し目がちにグラスを見つめていた。僕もまたグラスの水滴にしか目のやり場が無かった。
 何を話していいかわからない。彼女からは聞きたいことがあると思うのに、黙りこくったままだ。でも聞かれたら、ちゃんと答えられる自信が僕にはなかった。
「…久しぶりだね」
 ネクタイを緩め、麦茶を口に含んで――結局、重い沈黙に耐えられなかったのは僕の方だった。
「怜ちゃん、少し痩せた?」
「そうかな? 自分ではそうは思わないんだけど」
「痩せたわ。ここに影が入っているもの」
 千咲は左手で自分の頬を触って見せた。薬指には見覚えのあるプラチナの指輪が嵌まったままになっている。僕の目はそれに釘付けになった。彼女は僕の視線に気づいて、手を机の下に引っ込めた。
「きっと食生活が偏っているからだよ。髪、切ったんだね?」
 指輪に動揺した僕は、会話を慌てて繋げた。ただ触れていい話題だったかどうか。女性が長かった髪を切る行為には、理由があることが多いと聞く。もし離婚が原因なのだとしたら、軽々しく聞いて良いことだとは思えない。彼女は髪を触って「変わりたかったの」と、ごく普通に答えた。今度は右手だったけれど、さっきの左薬指の残像がチラついて、息が一瞬詰まった。
「おかしい?」
「いや、似合っているよ」
「あなたは、短い方が好きだった?」
 千咲は目を上げて、僕を見た。
「似合っていれば、ロングもショートも好きだよ?」
「私は長い髪が似合っていた?」
 彼女が続けて聞いた。思いつめた表情に見える。髪の長い短いがそれほどの大事とは思えないのに、彼女は僕の答えをじっと待っていた。「似合っていた」と僕が答えるより先に、今度は着ているサマーセーターが似合っているかどうかを尋ねる。爽やかなグリーンのサマーセーターは、丸い襟元と七部の袖口にレースの縁取りとリボンがあしらわれていた。千咲が選ぶものにしては珍しい色と形だと思った。彼女はシンプルな形が好きで、リボンやフリルの付いたものはほとんど身につけなかった。色も青味のものは顔色が悪く見えるからと、どちらかと言えば赤や黄の暖色系を好んだ。グリーンの服は初めて見る。
「似合う? それとも似合わない?」
「似合っているよ」
「本当に?」
 またさっきと同じ表情。それに違和感を覚えながら僕は頷いた。千咲は僕から目を逸らす。
「どうしても知りたかった。怜ちゃんがどうして離婚したいって言い出したのか」
 核心の話が千咲の口をついて出たのは、五分ほど沈黙の後だった。
「あなたはただ『全部自分が悪いんだ』って言うばかりだったから、みんなが言うように、他に好きな人が出来たのかと思ってた。でも都賀さんから付き合っている人はいないみたいだって聞かされて。だから、興信所で調べてもらったの」
 興信所と言う言葉に、僕は思わず顔を上げて彼女を見た。
「あなたは社用以外では寄り道せずに、毎日、職場とマンションを往復するだけ。休みの日もコンビニに出かける程度で、マンションには誰も訪ねて来ないって聞かされたわ。調査料をもらうのが申し訳ないくらいだって」
 エアコンのよく効いた部屋は涼しいはずなのに、手のひらに汗を感じ太ももで滑らせてそれを拭く。実際、汗はかいていなかったかも知れないけれど、とにかく身体中が熱かった。
 調べられて困ることは何もない。興信所が調べた通り、僕はつまらない毎日を送っている。それでも自分の無意識の行動を指摘されそうで、話を聞くのが怖かった。
 付き合っている人間がいるわけでも、時間や金銭面での自由が欲しかったようにも見えない、では何が原因なのか――報告書を見ながらずっと考えていたと、千咲は淡々と語った。
「やっぱり私に理由があるんじゃないかって思ったの。怜ちゃんは口にこそ出さないけど、私に不満があったんじゃないのかって。髪は短い方が好きなんじゃないか、服の趣味も、もっと女らしい格好が好きなんじゃないのか、料理の味付けだって。怜ちゃんはいつだって我慢していたのかも知れない。仕事なんか辞めて家庭に入って欲しかったのかも、子供だってすぐに欲しかったんじゃ…」
 千咲の言い様はだんだんと彼女自身を追い込むようなものに変わり、僕は堪らなくなった。
「そんなこと、考えたことない。千咲のせいじゃない。君はちっとも悪くないんだ」
「だったら、なぜ? どうして別れなきゃならなかったの? 私は今でもあなたが好き。やり直したい。あなたの子供を生みたい。離れてみて、どんなに怜ちゃんが好きなのかわかったの。だって私は、別れたくなかったんだもの」
「千咲」
「私に悪いところがあるなら、嫌なところがあるなら、直すわ」
 彼女の口調はどんどん感情的になっていた。それでも努めて抑えているのか、声音が大きくなりかけると言葉の最後が不自然にしぼんだ。
 小刻みに震える細い肩が痛々しかった。痩せたのは彼女も同じだ。
「ごめん、出来ない。やり直すことは、もう無理なんだ」
 でも僕は、千咲の望む答えを出せない。彼女が僕の子供を望んでいるのだとしたら、尚更。
「どうして?!」
 とうとう抑えきれなくなり大きくなった千咲の声に、
「だって僕は」
つられかけたけれど辛うじて言葉を切った。
――「だって僕は」、その後、何て言う気なんだ、怜?
 自分でも不確かな理由。認めるにはまだはっきりとしない、そして躊躇いのあることを、どう説明するつもりなのか。よしんば「君を抱けなくなった」と言ったとして、それは今以上に彼女を傷つけるぞ…と、頭の中のもう一人の僕が戒める。
 千咲は次の言葉を待っていた。
「…僕じゃ、千咲を幸せに出来ない。君は、君を幸せにしてくれる人と、やり直した方がいいんだ」
 すり替えなければ続けられなかった。このやりとりは離婚までの半年間に、何度も繰り返されたものだ。
 千咲は表情を歪め、唇をキュッと噛み締めると、バッグをおもむろに手にした。中からメモのようなものを取り出し、机の上に置く。メモではなく、折りたたまれた紙だった。彼女はそれを広げ、僕の前に押し出した。
「え?」
 僕は自分の目を疑った。冒頭には「離婚届」の文字。見慣れた僕の字で「館野怜」、彼女の字で「館野千咲」、住所に本籍、互いの両親のサインなど記入すべき欄に全て記入されている。日付は二年前。記入した後、「自分で出したい」と言った千咲に預けた離婚届だった。
 確認しようと伸ばした僕の手より先に、用紙は千咲の元に引き戻された。そして次には、一瞬の音を残し半分に引き裂かれた。
「千咲?!」
 日焼けしていない千咲の白い手で、見る間に紙は細かく千切られて行く。彼女の手の中から落ちる紙片。僕はどんな顔でそれを見つめているだろう。
「けじめをつけるために、これを自分で出そうとしたわ。もうあなたと他人になるんだって、自分にわからせるために。明日出そう、明日こそ、明日、明日、明日! でもどんどん日が過ぎて、出せなかったの、どうしても!」
「千咲」
「私、別れないわ、別れない!」
 千咲はそう言うと、離婚届の残骸の上に突っ伏して、「わあ」と声を上げて泣いた。二年前は一度も泣かなかった。離婚協議以前も泣いたところを見たことがなかった。その彼女が部屋中に声を響かせ、取り乱して泣いている。
「千咲ちゃん」
 引き戸が開いて、春香さんが入って来た。彼女が入って来ても憚らず泣き続ける千咲の肩を抱き、背中をやさしく撫でさする。リビングでは大きな泣き声に驚いた下の子供が泣き出した。それを都賀が抱いてあやしながら、敷居のところでこちらの様子を窺っている。
 僕はそれらをただ見ていた。千咲に声をかけてやることも出来なかった。自分のことなのに実感がなく、考えることを頭が拒否しているかのようだった。
 でも現実のことだ。号泣する千咲も、破り散らされた離婚届も、僕達が現実にはまだ夫婦であると言う事実も。そして全ての発端は、僕であると言うことも思い知らされた。




 それが都賀家での出来事。
 電車のいくつも乗り継いで帰らなければならない千咲は、そのまま泊まることになった。都賀は僕と飲みに行くつもりで出かける支度をしたけれど、それを丁重に断った。車で送ると言う申し出も、一人で帰りたいからと。都賀が一度で引き下がったのは、きっと僕がひどい顔色をしていたからだろう。千咲の身体の下にあった細切れの紙片で事情を察したようだった。あるいはあらかじめ聞いていたのかも知れない。彼の目の表情は、同情的でさえあった。
 帰る時、落ち着いた千咲が玄関まで僕を見送った。か細い声で「ごめんなさい」と言うと、ようやく止まっていた涙がまた頬を流れた。
 千咲を責める資格は僕にはない。彼女があやまることは何もない――そう言ってやりたいのに言葉にならず、僕は彼女の隣に立つ都賀夫妻に頭を下げ、駅に向った。
 長い時間、都賀のところに居たと思ったのに、実際には二時間も経っていなかった。都賀家からの最寄駅に着くとまだ九時を過ぎたところで、残業を終えたサラリーマンやOLが電車から降りてくる。二駅次には『Retiro』があった。まっすぐ帰りたくなかった。それで途中下車して今に至る。
 夕方起こったことが頭の中で反芻される。離婚届を破る千咲の白い手元の映像が、何度も再生される。彼女の泣き声が耳の中に留まっている。意識があの時間に戻ってしまう。
――早く酔ってしまおう
 グラスはすでに三杯目が乾されていた。とっくにふわふわとした酔う感覚が起こる量なのに、それが感じられない。
「今日はペースが速いようですけど、大丈夫ですか?」
 御園生さんがオーダーしたアルコールのおかわりを、僕の目の前に置く。辛うじて笑って見せて、グラスに手を添えた。
 カウンターの席が僕の『指定席』で、いつもなら手の空いた時に御園生さんが話し相手になってくれるのだけれど、ちょうど同じくらいに入ってきた四、五人のグループと、その後も続いた来店客のオーダーで忙しく、厨房に入ったきりだった。時々、声をかけてはくれても、話をするほどに時間は取れない。せめて会話しながらだったら酔いも早く回るだろうに、上手く行かない日は、何もかもタイミングが悪い。
「隣、良いですか?」
 聞き覚えのある声だったので顔を上げると、見知らぬサラリーマンが立っていた。
「ええ」
 給料日直後のためか、ラスト・オーダーまで一時間を切ってもテーブル席は埋まっている。僕同様、彼も一人だった。夕食をここでと考えて入ってきたのだろうか。それは相手も思ったらしく、
「あなたも一人ですか?」
と言った。僕がうなずくと、彼は「ここは一人でも入りやすいですよね」と笑った。
――この人の声、佐東さんの声に似ているな
 聞き覚えがあると思ったのは、そのせいだった。
 気さくな人で、知らない人間と話すことに躊躇はないみたいだった。サービス業でありながらこの年になっても人見知り気味な僕だけれど、どんどん話しかけてくる彼のペースにいつの間にか乗せられていた。それだけではなく、やはり佐東さんの声に似ていることに親しみを覚える。話せば話すほど、似ているように思えて、傍目から見ると二人で飲みにきている職場の同僚同士に見えるくらいに会話が弾んだ。おかげで千咲とのことを思い出さずに楽しく飲めた。
 スタッフからラスト・オーダーを告げられ、帰る時間が近づいたことを知った。少し酔いは回っていたけれど、頭の芯までアルコールは染みとおっていない感じだ。忘れていた今日の出来事が蘇ってくる。このまま帰って一人になることが憂鬱だった。
 佐東さんに少しの間だけでも話し相手になってもらえれば――それは出来ない。佐東さんはきっと仕事をしている。大学院への復学を本格的に決めて、院生期間の生活費のため、臨時のバイトを増やしていた。復学審査の論文作成もあってここのところ忙しく、本当なら睡眠時間に当てているはずの昼間でも生活音が聞こえた。一人になりたくないからと言う身勝手な理由で、そんな彼に負担をかけられない。
「良かったら、もう一軒、行きませんか? 静かな良い店、知ってるんですよ。歩いて行けますよ?」
 そんな僕の心の内を覘いたかのように、彼が言った。
「それとも、明日の仕事に差し支えるかな?」
 明日もそれほど忙しくならないはずだった。ミーティングや商談の予定もない。
 何より、一人で過ごしたくなかった。
「いえ、大丈夫です」
 僕はそう答えると、彼と二人して立ち上がった。
 御園生さんは厨房の中に入ったきりなのか姿が見えない。会計で応対したスタッフに「帰ったことを伝えておいてください」と一声かけて、僕は先に表に出ていた彼を追った。

 
 

                  2011.03.05 (sat)



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