君を知る 〜pm.10:00・佐東〜 
                 



 向かいに座る館野さんは楽しそうだった。
 微笑以外の彼の笑顔を初めて見た。眉と目じりが少し八の字に下がって、口元には並びのきれいな歯列が覗く。そんな館野さんからは、少年の頃の面影が想像出来た。
 アルコールにそれほど強い方ではないらしく、二杯目のサングリア
(脚注1)で彼の頬はすぐに上気した。耳たぶも首も薄っすらと赤みを帯び、心なしか扇情的でつい目が行く。ネクタイを緩め、ボタンを一つ外したところから見える鎖骨に小さなホクロを発見。よく見ると喉仏の辺りにもあって、モンローと同じ位置にある口元のとで三つ、一線に結べた。
 煙草を吸う姿を見るのも初めてだ。館野さんには喫煙するイメージがなかった。
「飲みに行くと吸いたくなるんです」
 魚介類が苦手なのか、新鮮な鰯が入荷した時にだけ出されるこの店自慢の真鰯の酢漬けや、魚介類ふんだんのイカ墨のパエジャには、ほとんど箸が動かない。「まったく」でないのは、勧められるととりあえず口に運ぶから。申し訳程度の量を飲み込む様がわかって思わず笑ってしまった俺に、彼は照れた笑みを返した。
 何もかもが新鮮で、館野さんの知らない部分を一つずつ知ることが嬉しかった。楽しそうな顔を見ると誘って良かったと思う。
 ただ残念でならないのは、その笑顔が向けられるのは俺にだけではないことだ。
 
 
 ノンケに片想いをしても不毛なことはわかっている。だから週に二回のゴミ出しの朝に挨拶をする程度で良しとしようと思ったし、それで留めることで歯止めにもなると考えた。下手に相手を知ったりすると惹かれて行くことが目に見えていた。
 でも結局、歯止めも長くは続かない。「塵も積もれば何とやら」で、週二回の、時間にして何分もない会話の積み重なりが、やっぱり恋を育ててしまった。
 同じマンションに住むからには、ゴミ出し日以外にも会う機会はある。そう言った偶然を無意識に期待したり、外出の際には、館野さんの勤め先である駅前のデパートの近くを、意図的に通るようにもなった――まったく恋心ってヤツは、人間をどんどん欲深くする。
 そんな「不毛な片想い」にハマリ込んでしまったわけだが、育った恋を無理に抑え込むことは不可能だと経験上知っていたので、少しアクションを起こすことにした。
「明日、休みですよね? 今夜、良かったら飲みに行きませんか?」
 と言っても、この程度。彼はご同類ではないのだから、多くは望まない。
 恋愛対象が同性でない者同士なら何でもない誘い文句だろうが、相手にただならぬ感情を抱いている身としては、邪に聞こえてやしないかと変に意識する。前回のゴミ出し日からどれだけシミュレートしたことか。
 そんな胸のうちから搾り出した言葉は、
「すみません。今夜は予定があって」
と、あっさりかわされた。
「ああ、そうですか。じゃ、またの機会に」
 今日の今日では先約がある可能性の方が高い。「来週は?」ではなく「またの機会に」が先に出る自分の弱気な口が恨めしかった。
 仕方がない、仕切りなおしだ。いつも通りにゴミ置き場の前で「いってらっしゃい」を言って、俺はエレベーター・ホールに足を向けた。
「あの、少し遅くなっても良ければ。多分、九時には終わると思うので」
 背後から思いがけない言葉がかかって、慌てて振り返る。
「俺は、構いませんけど、大丈夫なんですか?」
 九時であろうと何時であろうと、悪いはずがなかった。そう答えたいのをグッと抑えて館野さんを見る。
「ええ、取引先との会食なんです。それに助かります。いつも『梯子』を断るのに苦労するので。あ、すみません、利用するみたいですね?」
「どんどん利用してください!」
 力いっぱい答えてしまった。飲みに誘うよりも、よほど怪しい。今度は抑えられずに声が大きくなった。館野さんは別段気にした風でもなく、「あとで連絡します」と出勤して行った。
 俺は小さくガッツポーズをして、足取りも軽く自室に戻った。ゴミ出しの日は二度寝するのが常だが、寝入って電話を取りそびれる危険があったので、ベッドには入らなかった。そんなことをしなくても、眠れなかったろうけど。
 一日がどれだけウキウキしたものになったことか。初めて恋と言うものを知った頃の気持ちが蘇る。気恥ずかしくて甘酸っぱくて、「中学生かよ」と自分で自分にツッコミつつ、その気持ちに浸った。
 


 二人きりで飲みに行く予定が四人になってしまった。
 館野さんからの連絡は午後に入った。商談で出向く先が隣町で戻るとなると更に遅くなるから、良ければそちらまで出てきてもらえないか、もし都合が悪いならまたの機会にとのことで、もちろん俺は「構わない」と答えた。隣町には仕事を回してくれる出版社があって普段から行き来していたし、飲み食いするのにちょうど良い店も何軒か知っている――が一つ、心配なことが。
 隣町は大きな繁華街を抱え、『そのテ』の仲間が集まる店もあるのだ。俺は学生の頃からの常連で、頻度は減ったが今も時々顔を出す。待ち合わせた場所がその繁華街の最寄り駅で、嫌な予感がしないでもなかった。ただ俺の知人は別の町で働いている人間がほとんどで、平日の夜に会う確率は低い。その場所に近寄らなければ、確率はもっと低くなる。ところがそう言う時に限って、道すがら偶然に会ってしまうものなのだ。
「へえ、館野さんって一月生まれ? 俺も一月なんですよ」
 館野さんの隣に座る香西が、デキャンターのワインを新しいグラスに注いで、彼の前に差し出した。
「幾つなの? 三十五? 僕より十歳も上なんだぁ。若く見えますねぇ。お肌だってくたびれてないしさ。ここのほくろ、何とかって女優も同じとこにありますよね? 口元のほくろって、何げに色っぽいなぁ」
 友坂の手が俺の前を横切り、館野さんの口元のほくろに向って伸びる。俺はその手をハエ叩きよろしく掃った。友坂はペロッと舌を出して笑い、香西は意味深な視線を寄越した。もしかしなくても俺の反応を見て面白がっていることがわかる。
 苦労して飲みに行く約束をとりつけたと言うのに、よりにもよってこの二人に出くわすなんてついていない。
 美容師の香西とスポーツ・ジムのパーソナル・トレーナーである友坂は、そのテの店で知り合った友人だ。そしてここ『Retiro』はそのテの店ではないものの、ご同類が経営するスペイン・バルだった。オーナー・シェフの御園生さんと俺達三人は、恋愛対象外で気が合う仲間で、以前はよく、月曜日の夜にこの店に集まって朝まで飲み明かしたものだが、俺は半年以上前からご無沙汰している。と言うのも、館野さんと出会って、彼と確実に会える火曜日の朝のゴミ出しを逃すわけにはいかなかったからだ。
 香西にはひょんなことから館野さんの存在を知られた。後日、『Retiro』に呼び出されて、後の二人にもばれてしまう。でもまさか、こんなに早く、館野さんを引き合わせることになるとは思わなかった。今夜の待ち合わせは『Retiro』のある街でもあったけれど、曜日が違ったので油断したのが敗因だ。この世に神様がいるのだとしたら、意地悪過ぎる。
「このほくろ、あまり好きじゃないんです。子供の頃は、よく『鼻くそついてる』ってからかわれたし。女性だったら、仰るように色っぽいんだろうけど」
 届かなかった友坂の手のかわりに、館野さんは自身で口元のほくろを触った。
「鼻くそだなんて、ひどいな。館野さんには良く似合ってる。充分色っぽいですよ」
 香西が館野さんの方に少し向き直る。相手の目を横目で捉え、逸らさない。香西が口説きに入る時の目線だった。
――香西、何、口説きモードに入ってるんだ、おまえは!
 しかしノンケである館野さんにはわかるはずもなく、「色っぽいかなぁ?」とにこにこと笑って香西を見つめ返している。香西の口説きモードの眼力は通じていない。ほっとする反面、住む『世界』が違うことと希望がないことを思い知らされ、俺の胸中は複雑だった。
 香西の目が、向かいに座るそんな俺をチラリと見た。
「口説きたくなるくらいだ」
 香西が俺の反応を面白がっているのをわかっていながら、つい反応してしまうのは仕方がないじゃないか。俺は喉元まで出かかった声を、隣では友坂が笑いを、それぞれ抑える。
「それこそ、女性だったらね」
 そう続けた香西に、館野さんは何も気づかずまた笑った。
 俺は飲み物の追加オーダーを理由に席を立つ。香西と友坂があることないことを館野さんに吹き込む危険はあったが、反応を試されるのに辟易していた。からかう俺が席にいなければ、彼らも余計なことは言わないだろうし。
「楽しんでいるかい?」
 厨房から御園生さんが出てきた。店本来のラスト・オーダーの時間は過ぎ、後片付けに入っているようだった。ついいつもの癖でオーダーを出しにきたが、考えてみれば今夜は『月曜の集まり』ではないから、閉店は通常通りのはず。それを言うと「曜日が違うだけだから構わない」と彼は答えた。
「心臓に良くない」
 俺は肩をすくめて見せた。席は厨房から見える位置にある。やりとりで赤くなったり青くなったりする俺の表情は見えていたのだろう、御園生さんは苦笑した。
「でも香西は他人のことはばらさないよ」
 香西に限らず俺達四人は、一般人と棲み分けのない場所で、それもノンケ相手に、自分達の性癖を匂わせることは言わない。それはよくわかっている。
「わかってる。遊ばれるのが癪に障るんです」
「まあまあ。彼は彼なりに和ませているんだよ。ほら、楽しそうじゃないの、館野さん」
 ホロ酔い加減の館野さんは本当に楽しそうだ。彼の笑顔を見ると、俺の口元も緩む。二人きりだと、あの表情を引き出せたかどうか。
 知り合って間もないわけではないけれど、話した時間を換算すると半日にもならず、飲みに誘ったのだって今日が初めてでは、多分、他人行儀な――そりゃあ、他人だけれど――会話に終始したと思う。一杯のアルコールで赤くなるのは同じでも、あんなに寛いだ姿を見せてくれなかったに違いない。
「感じの良い人だ。 隣同士になれてラッキーだったね?」
「うん、まあ。でも…」
 でも普通の人だ。館野さんにとって俺はきっと一生『隣人』止まりで、いずれ転勤になることがあったら、忘れ去られて行く存在。その時のことを考えると、アクションを起こしたことが途端に悔やまれる。
「俺達基準でのラッキーはないかも」
 最初の誓い、「君子、危うきに近寄らず」通りに、いくらタイプでもノンケとは距離を置くべきだった。こうして彼を知れば知るほど、間近で見れば見るほど、想いも欲も募ってくる。
 テーブルを見ると、館野さんもこちらを見た。向けられる柔らかな笑顔に、甘さと切なさが()い交ぜになった感情がじわりと胸に拡がる。
「これ、持って行ってくれる? さっさと片付けて、僕もそっちに行きたいから」
 御園生さんの声が耳元で響いた。俺がぼんやりしていたちょっとの間にオーダーの飲み物がトレーに揃えられていた。
「僕にはまったく希望がないとは思えないけど?」
 俺の肩に御園生さんの手が触れる。
「御園生さん?」
「何となくね。君より十年以上長く生きている分、『この道』も長いから鼻が利くと思う」 
 ポンと軽く押し出された。
「でも煽って恨まれるのは嫌だから、強くはおススメしないよ」
 御園生さんの目からは、香西や友坂と同様の面白がっている表情が見て取れた。彼の言葉の前半部分の年の功的嗅覚も俄然、怪しくなってくる。深く追求しないで、俺は席に戻った。
 
 

 時計は午前一時半を回っていた。以前の月曜日の夜に比べれば宵の口だったので香西達はそのまま残り、俺と館野さんは一足先に『Retiro』を出た。冷やかすような視線を背中に感じたが、当然、無視だ。
 終電はとっくに終わっていた。タクシーを拾うにもなかなか捕まらず、しばらく二人して歩道を歩いた。
「すみません、遠慮のない奴らで」
 片付けを済ませた御園生さんが加わる頃には、他の客やスタッフが帰って店は俺達の貸切状態になった。そうなるともう、声のトーンも上がれば話題も際どい方に向って、免疫のない館野さんはさぞ面食らっただろう。御園生さんが言った通り、香西も友坂もマイノリティな性癖をカミングアウトすることはしなかった。しなかったが、話に登場する恋愛やセックスの相手が同性であることを知っている俺の心拍数は、上がったり下がったりを繰り返し、心臓に悪いったらなかった。
「いえ、仕事以外で飲むのは久しぶりで、とても楽しかった。佐東さんは良かったんですか? まだ飲み足りなかったのじゃ」
「いいんです。あんな(ざる)達に付き合ってたら、朝になるまで帰れませんから」
「仲が良いんですね」
と館野さんは笑った。今夜、何度、この笑顔を見ただろう。
「料理も美味しかったし、良い店を教えて頂いて、ありがとうございました」
「あそこは土曜日の夜になるとフラメンコのステージがあるんです。御園生さんがフラメンコの名手で、踊ってくれますよ」
「へえ、それは見てみたいな」
 『Retiro』で打ち解けた雰囲気そのままに会話が続いていく。魚料理が苦手なことを突っ込むと、「原型を留めてないなら大丈夫」と、館野さんはほんの少しムキになって言い訳した。それからお返しとばかりに、俺が煮込み料理の中のズッキーニを避けて食べていたことを指摘するので、「きゅうりに火を通すなんて」と反論すると、彼は全開で笑った。「可愛い」と言う形容詞は、いい年をした大人の、それも年上の男に対して使うには適当じゃないけれど、館野さんは何とも言えず可愛かった。
 深夜で人通りが少ないとは言え、人目も憚らず笑いながら歩く俺達は、周りから見たらきっと立派な酔っ払いだ。アルコールとその場の雰囲気が作り出した勢いで、だからうっかり言ってしまった。
「館野さんって、可愛い人ですね」
 一瞬、「え?」と言うような表情で、館野さんが俺を見る。自分が言った一言に動揺して、俺は取り繕えなかった。それでも真顔に戻ることは押し留め、先ほどの延長の笑みは辛うじて残した。引きつっていることは否めなかったが。
「あ、タクシー」
 館野さんは俺の肩越しに空車のタクシーを見て、車道に向かって手を上げた。さっきの言葉はスルーされた。それとも酔った口が発したそれを、同じく酔った耳が正確に聞き取らなかったのか。いずれにしても助かった。館野さんの意識がタクシーに移るのがもう少し遅れたら、引きつったなりにも保った俺の笑みは崩れていただろうから。
 舗装し直したばかりで黒光りするアスファルトは少しの突起物もなく、滑らかな走りのタクシーのエンジン音は心地よくさえあった。乗車して、行き先を告げて――館野さんはワンメーターもたずに眠ってしまった。
 館野さんはこくり、こくりと俺の方に傾ぐけれど、肩に髪がかかるかかからないかくらいで体勢を立て直す。そしてまた、こくり、こくりの繰り返し。俺は館野さんの方に少し身体をずらした。スリーメーターに数字が変わった頃、彼の頭が俺の肩に落ちてきた。
 店で染み付いた煙草の臭いに混じるシャンプーの微かな匂いを、鼻腔がかぎ分ける。
 柔らかい髪の存在を、頬が感じる。
 雑多な音に紛れる呼吸音を、どうにかして耳が拾おうとする。
 肩に手を回したい。身体をもっと引き寄せて、抱きしめたくて堪らない。
 思った以上に酔っている。アルコールに? それとも館野さんに? 館野さんに向って一歩、踏み出すだけのつもりが、全力疾走しかけている。
 気持ちに比例して身体に火照りが広がった。
「熱いな…」
 俺の独り言を聞き取った運転手が、気を利かせて窓を細く開ける。真夜中の冷気を含んだ空気が途端に熱を奪って、弾ける寸前に高まった感情を抑え込んだ。肩から振動が彼に伝わらないように、俺は浅く息を吐く。
 そして眠った振りをして、館野さんの頭に自分の頭をもたせかけた。
 
 
 
脚注1)
 スペイン産のワインをベースにオレンジやレモンなどの風味を加えたフレーバードワイン。

                  2010.05.16 (sun)



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