――いつか『恋』と知る時に――



(2) 帰 国



 肩に軽く触れられ、壽一は目を開ける。
「失礼いたします。まもなく成田に到着いたしますので、シートベルトをご着用ください」
 傍らで屈んだキャビン・アテンダントが、にっこりとほほ笑んで言った。眠っていた感覚はなかったが、ほんの一瞬、意識が遠のいて夢を見ていたらしい。声をかけられるまで壽一は『大学生』だったが、今はスーツ姿の社会人だ。
 留学のために渡米、その後は後継者としての研鑽を積む意味でヨーロッパの関連会社に配属された。今回、本社勤務に決まり、八年ぶりに日本での生活が始まる。これと言って特別な感慨は持たなかった壽一だが、日本を離れた留学の折を夢に見たと言うことは、無意識に思うところがあるのかも知れない。
 窓から見える空がどんどん遠くなり、しばらくすると飛行機は着陸した。
 


 
 鷲尾物産は昭和初期に貿易会社として創業した。「既存大商社の牙城を崩す」を目標に業績を伸ばし、今や日本内外に多数の関連企業を持つ総合商社に成長。関連会社のトップは外部から登用しているが、根幹のグループ本社は創業者直系から選出することを守っている。派閥による後継者争いで企業体力を減退させないための措置であり、それによって強固な団結力が生まれ、目標への邁進が可能だと考えられていた。
 後継者と目される人間には幼い頃から徹底した帝王学が施され、凡庸であった場合を考えて周りを優秀な人材で固める。それは社員間での競争を生んだが、同時に「彼ら」の野心を削ぐ効果も生み、より優秀なスタッフを確保することに繋がった。
 鷲尾壽一(わしお・ひさかず)は周囲が認める後継者である。対抗馬となり得る弟はまだ成人したばかりであるし、何より壽一の経営者としての資質が際立っているからだ。多少、傲慢不遜で独善的なところが無きにしも非ずだが、それを補って余りあるカリスマ性を備えていた。
「長い間、ご苦労だったな。どうだ、久しぶりの日本は?」
 壽一は空港から直接本社の代表取締役オフィスを訪れていた。部屋の主は鷲尾威一郎、壽一の父である。
 威一郎が先代の急死を受け若くして代表取締役に就任して以来、一時停滞期にあった会社は、目覚ましい業績を上げた。確実な投資に先見の明のある買収。優秀なスタッフが集めた情報を精査し決断を下す判断力の良さは、歴代社長の中でも創業者の次にランクされていた。壽一が唯一頭の上がらない人間である。
「まだ日本の地を踏んで一時間だ。お義母さんの味噌汁がやっと飲める…以外の感慨はありませんよ」
「それで義母さんの予定を聞いていたのか。あっちでは仕事の仕方だけじゃなく、人を喜ばせることも学んできたらしい。大人になって、父さんは嬉しいよ」
 威一郎は芝居がかった仕種で目頭を押さえた。
「三十になりましたからね」
「なるほど、確かに大人だ。その年頃には私は会社を継いでいたし、結婚しておまえが生まれた年でもある」
(いきなり本題に入ったな)
 帰国すれば結婚の話が出ることは必定だった。三十才は結婚するに早すぎる年齢ではなかったし、後継者として当然の義務でもある。
「帰って来たばかりですよ。少しはのんびりさせてくれませんかね」
 威一郎の意図するところを先読みして言った。
「おまえが帰国すると決まったらどこで知るのか売込みが激しくてな。今の時代、私はまだ早いと思っているんだが」
 息子の洞察力に父は満足げに笑んだ。
 壽一の異性関係の派手さは学生の頃から周知だった。アメリカやヨーロッパでの浮名も威一郎の耳に入っているに違いない。壽一はそれらの情事を隠さなかったし、あきらかに遊びだとわかる付き合い方で、問題を起こしたことがなかったから今まではそれで良かった。しかしこれからは違う。帰国し後継者としての立場が明確になると、思惑があって近づく、あるいは近づける人間が出てこないとも限らない。遊びで足元を掬われる危険性があり、威一郎としては早く身を固めさせたいと言うのが本音だろう。
「みなさん、なかなかの才媛だ。一通り会ってみてもいいだろう。こればかりは相性もあるからな」
(でも選択肢は『一通り』会う中ってことか)
 おそらく由緒と利害の双方兼ね備えた『お嬢様』達だ。夫の指示には黙って従う、壽一には物足りないタイプだと思われる。恋人ではなく妻にするわけだから、タイプ云々は論外だと壽一もわかっているが、親の言いなりに素直に従うのは性分に合わない。
「そうですね、考えておきますよ」
 しかし帰って早々、親の機嫌を損なうつもりはないので、とりあえず当たり障りのない返事をし、話題を切る。威一郎はまだその話を続けようと、次の言葉を吐くべく息を吸い込んだが、ちょうどその時、内線が鳴った。
「通してくれ」
 どうやら来客らしい。「俺はこれで」と壽一は退席しようとした。見合いの話が蒸し返される前で助かったと思った。
「構わん、雅樹だ。挨拶くらいして行ったらどうだ?」
「『雅樹』? 義兄さん?」
「ゆくゆくはおまえの『顧問弁護士』だ。会って行け、久しぶりだろう?」
「八年ぶりです」
 壽一が雅樹と会うのは、留学直前のあの日――ホテルで関係を持って以来だった。今まで思い出しもしなかった顔が脳裏に浮かぶ。
「俺より義兄さんに嫁さんを世話したらどうです? もういい年でしょ?」
「仕事が忙しくてまだ考えられないそうだ。それにだな、あれに関しては心配しとらん。自分でちゃんと、相応しい相手を探してくることはわかっているからな」
「俺だってこれから忙しくなるし、自分で探せる」
「これまでのおまえの行状を見て、信用出来ると思うのか? 第一、雅樹とおまえとでは立場が違う」
 再婚相手の連れ子である雅樹には、後継者の資格はなかった。本人が望んだことか、威一郎が許さなかったのか、鷲尾グループにも入らず弁護士の道に進んだ。
「結婚もビジネスの一つってことですか」
 威一郎はニヤリと笑って答えない。
 親子がそんな会話を楽しんでいる時――楽しんでいるのは、父の方だけだが――、ノックの音がして、件の雅樹が入ってきた。
「遅くなりました、申し訳ありません」
「いや、時間変更を頼んだのは私だ、構わんよ」
 仕事関連でここに来たのだろうが、時間は壽一の来訪に合わせて変更されたものと思われる。雅樹は将来、壽一を支える優秀な人材の一人とされていた。まずは顔合わせと言ったところか。
「壽一が戻ってきた。これからは力になってやってくれ。八年ぶりなんだって? どうだ、少しは大人になったかな?」
「そうですね、あの頃は学生でしたから。スーツが着慣れて、すっかり大人のビジネスマンだ」
 雅樹は壽一に向き直り微笑んだ。八年前は彼も学生に毛が生えた程度の社会人ぶりだったが、今はどこから見ても弁護士だ。以前はかけていなかった眼鏡が、知的な面差しを際立たせている。
「この年になって大人に見えなかったら変だろ? 眼鏡をかけ始めたんだな」
「視力がかなり落ちてしまってね」
「なんだ、老眼じゃないのか」
「君と四つしか変わらないんだぞ?」
 和やかな会話が続く。八年間の空白など感じられないほど。あの『出来事』など、なかったかのように。雅樹は相変わらず品行方正然としていて、壽一に向ける眼差しの中には兄として弟を見る以外の感情は読み取れない。八年前まではそれが壽一を苛立たせ、是が非でも自分を意識させたいと思ったものだ。あの日以来、もうそんなことはどうでもよくなったが、久しぶりに見た彼の変わらない様子には少しばかり、
(癪に障る)
と思えた。
「今夜ですが、急な案件が入ったので家(うち)に寄るのが遅くなりそうなんです。母には連絡しておきます」
 話しの切れ目で雅樹は威一郎に言った。壽一が義母の手料理を食べたいと希望したので、今夜は実家で一家団らんの予定になっている。
「壽一の帰国もだが、おまえも久しぶりに家で食事をすると言うから、母さんも楽しみにしていたぞ。いつも顔を出すだけですぐ帰るらしいな? 男は仕事を優先する生き物だと言っておいたがね」
「恐れ入ります」
「再会の挨拶も終わったことだし、そろそろ我々は仕事の話に入ろうか。壽一は自分の部署に行きなさい。間嶋に案内させる」
 そう言うと威一郎は受話器を取った。
 壽一の配属先は海外事業部で、肩書は第三課課長だった。三十才の課長は一般社員からすると異例であるが、ジュニアで将来の社長候補としては、他の同族企業と比べて決して高い地位ではない。また課長の肩書も実績に裏打ちされたもので、壽一の場合はヨーロッパ支社の立ち上げと業績向上が考慮されていた。これが鷲尾物産の方針である。加えて威一郎は、十年以内、つまり四十才で部長の器程度に結果を出さなければ、弟が候補に上がると壽一に明言している。
(食えないオヤジだ。是が非でも遊ばせないつもりだな)
「壽一、この原口は久能弁護士同様、将来おまえを支える人間の一人だ。あと十年は秘書としての出番はないだろうが、わからないことがあったら聞くといい」
 隣室から入ってきた秘書が紹介される。壽一と同年代の男だった。
「なんだ、女じゃないのか」
 思わず本音を漏らす。
「オオカミにウサギを与えるようなものだからな」
「いったいどんな報告が行っているんです?」
 威一郎は肩を竦めて見せた。それから間嶋に目配せした。彼はドアの前に向かった。「もう行け」と言うことらしい。
 ドアが閉まる前に壽一は振り返った。部屋に残った二人は応接セットに移動し、雅樹の姿は背の高い観葉植物で死角になり見えなかった。
 

                       

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