――いつか『恋』と知る時に――



(1) あの日



 壽一は目の下で動きに合わせて波打つ背中をあらためて見る。
 骨ばった肩甲骨、細身ではあるが華奢ではなく、括れてもいない腰、その腰を掴んでいる己が手を内側に滑らすと、片方に平らかな胸が、もう片方には劣情の証が触れた。紛れもなく同じ性の身体だ。触れられて背中は弱弱しく仰け反り、身の内に収まっている異物を締め付ける。異物の持ち主である壽一は、危うく気をやりそうになるのを何とか耐えた。
 同性とのセックスは初めてだったが、これほど悦いとは思わなかった。彼を手に入れたいがため激情のまま事に及んだのだが、異性とのそれで得られるほどの快感は期待していなかったのだ。
 事実、女と違って濡れない『身体』は面倒だった。手間暇かける必要があると一応は知識としてあったものの、その間に盛り上がった気持ちが萎えてしまわないのか、そうまでして身体を繋げたとして、もともと男を受け入れるようには出来ていない場所で愉悦は得られるのか――果たしてそれらのことは杞憂に終わった。気がつけば彼に猛った自身を打ち付けていた、何度も何度も。
 彼も確かに感じているはずだ。男として敏感な部分は正直に形を変え、触ってやれば身体中が戦慄くように反応した。にもかかわらず口元をシーツに押し付け、漏れる声を最小限に抑えている。それが壽一は気に入らない。顎を掴み、シーツから引きはがした。口元に向かう彼の手を払いのけ、無理やり自分の方に向かせる。唾液に濡れて切なげに息を吐く唇はこの上もなく扇情的で、壽一はますます昂った。
「声、聴かせろよ」
 噛みつくように口づけると、彼は堪らず短い声を上げる。普段とは違い艶めいて聴こえるのは、この状況だからか。
 鉄の匂いが口の中に広がった。彼の唇が切れたのだろう。その部分を舐り口腔に入って舌を絡ませる。無理な体勢でのキスで彼の舌はすっかり無防備だ。応えないが逃げもしない。更に快感の波が壽一に打ち寄せた。
 彼を手に入れたと言う満足感が頭の中を満たす。同時に興ざめにも似た『何か』も過った。ただほんの一瞬で、ほどなくオーガズムが頂点に達し、押しとどめていたものが一気に解放されると、そんな形にならない『何か』など消し飛んだ。
 
 


 微かな物音を耳が拾い、壽一は目を開けた。遮光カーテンの効果で暗いはずの室内の一角が、ぼんやりと明るい。照度を抑えたデスクライトの前で、こちらに背を向け身支度する人影が見えた。
 一つ一つの動作が緩慢であるのは、物音を立てないようにしているからばかりではないだろう。気怠さや小さな痛みで眉間に皺を寄せている様子が、その後ろ姿からもわかる。夜通し情欲の中にいたのだから無理からぬことだ。
 壽一は起き上がり、彼を横目にしてバスルームに向かう。声はかけなかったし、相手もかけてこなかった。
(案外、簡単に陥ちたな)
 人肌にも似た温いシャワーを浴びながら壽一は思い返す。
 彼こと久能雅樹は、壽一と違って正しい倫理観を持ち、常に品行方正だった。その雅樹が、たとえ血や戸籍上の繋がりがなくとも、幼い頃から兄弟として育った自分との肉体関係――同性同士の――を、簡単に享受するとは。
 組み敷いた時、当然ある程度の抵抗を覚悟していた。身長に差はなく、壽一より幾分細くとも、成人した男の身体だ、屈服させることは容易でないと心構えをしていたのだが、ベッドに引き倒した時、雅樹は瞠目して一度「やめろ」と言っただけで大人しくその身を委ねたのである。
 いつの頃からか壽一は四才年上の義兄・雅樹を、恋愛の対象として見ていた。隠しておけない性格だから態度に出ていただろうし、あからさまに誘いもかけた。もちろん雅樹にだけわかるようにである。周りに知られたなら想いを遂げる前に引き離される。壽一は大手商社・鷲尾物産の跡取りで、家系を繋げていく責任があった。何も産まない同性間の行為は許されない。後妻の連れ子とは言え兄弟同様の雅樹が相手とあっては、親世代の倫理感からすれば尚更だ。
 雅樹からは困惑が見て取れた。極力、壽一と二人きりの状況を避けるようになる。大学卒業後に独り暮らしを始めた彼の元を訪ねても、居留守を使われて中に入れてもらえなかった。多忙を理由に実家(鷲尾家)に顔を出すことが稀になり、それがますます壽一の『飢餓感』を助長する。
 シャワーを終えて部屋に戻ると、雅樹の姿はなかった。ライティングデスクの上に幾ばくかの紙幣が乗っているのは、おそらく部屋代、年上の義務とでも思っているのだろう。
(あんな目にあっても律義なことだ)
 それをチラリと見ただけで、昨夜使われていない方のベッドに仰向けに寝転がった。
 壽一は大学四年になり、この九月からアメリカへの留学が決まっている。単位は足りていたのでそのまま向こうの院に進む予定だった。その後は買収したドイツの関連企業に配属が決まっている。長期休暇で日本に戻るにしても、理由をつけて会うことを拒まれれば、何年も会えない。それもあって、どうにも雅樹が欲しくなった。
「しばらく会えないから、せめて飲みに行かないか?」
 法人契約し、親族・家族も利用する有名シティホテルのバーではあっても、そこに呼び出されたら何かあると勘ぐるはずだ。あれほど壽一を避けていたにもかかわらず、雅樹はあっさりと応じた。酔ったふりをして、あらかじめ取っておいた部屋に送るように頼んだ時もしかりである。彼は安っぽい芝居だと見破ったろう。壽一が天井知らずの「笊」であると誰もが知っている。つまりは応じた時点で、雅樹は同意していたのだ。
 肩を借りてベッドに座った。水を持ってくると言う雅樹の腕を掴んで引き倒し、後はあの身体を朝まで貪った。
 雅樹が自分の愛撫で乱れる様には興奮した。子供の頃から聖人君子然とした優等生、泣いた顔は見たことがなく、涙を流す彼はどんなだろうかと想像していた。だから身体に与えられる苦痛と快感とで生理的に溢れ頬を伝う涙を、何度も舐めとった。名前を呼ばせ、「欲しい」と言わせ、何もかも壽一の望んだ通り、壽一の成すがままに、雅樹は応え続けた。
 満ち足りた濃厚な時間――しかし目が覚めた時、雅樹が帰り支度を始め、入浴中の壽一を待たずに帰ってしまったと知っても気に障らない。あれほど欲し、焦がれた雅樹であるはずなのに、興味はすっかり失われていた。
 これは壽一の悪い癖だ。手に入るとそれで満足してしまう。物でも人でも。充足した環境に生まれ育ったせいか、障害があれば執着するが、達成されてしまうと冷静になってどうでも良くなるのだ。
「おまえはそれが良くない。いずれはグループを背負って行くというのに、手に入れるだけで満足するようでは、会社の成長は望めんぞ。少し外国で揉まれてくるといい。ヨーロッパはまだまだこれからだからな」
 だから父親は留学だけではなく、最初の配属先に外国の関連企業を選んだ。そこから進行中の欧州支社立ち上げに関わり、軌道に乗せること――それが壽一に与えられた当面の課題である。
(面倒くせぇ)
 出来上がった性質がどこまで改善されるかは未知である。今回の雅樹とのことは、今まで同様、すでに壽一の中で過去になりつつある。
 携帯電話が鳴った。自宅からだ。
「間に合うように帰ると伝えといてよ」
 午後は那須に住む父方の曾祖母に会いに行き、留学前に夕食を共にする予定になっていた。壽一は起き上がると帰り支度を始める。
 


 
 翌週、壽一は渡米した。義母と夏休み中の弟妹が見送りに来たが、雅樹は仕事を理由に姿を見せなかった。


                       

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