大学の四年に上がる春休み――就職活動と卒業論文・製作のため、上川と呉羽は帰省せずに下宿先のアパートに留まっていた。
「呉羽、飯、買ってきたけど、どうする?」
「んー、もうちょい、キリのいいとこまでやっちまう」
「じゃあ、その間に味噌汁、作るよ」
建築設計学専攻の呉羽は、論文と卒業設計を出さなければならず、論文だけの上川よりも忙しい身の上だ。その上、週末だけとは言えアルバイトが入り、就職活動も絡んでくる。さすがに体力に自信ありの彼も疲れを隠せなくなっていた。放っておくと空腹凌ぎの菓子パンしか口にしないので、上川は時間がある時、なるべく彼の食事の面倒をみた。と言っても、たいていファスト・フードやコンビニ弁当の類なのだが、菓子パンよりはマシだ。それに味噌汁くらいなら小学校の家庭科で習ったから、上川にも作ることが出来た。一度、それを出したら呉羽はすごく感動し、それ以来、味噌汁だけは手作りのものを要求するようになった。
「おまえの作る味噌汁、本当、美味いよ」
「だし入り味噌を溶くだけだぞ。具だって、適当に切って放り込むだけだし。栗原、料理上手いんだって。新学期始まったら、来てもらえば?」
「女子なんか来たら、時間取られるじゃねえか。作らせて、片付けさせて、『ハイ、さよなら』ってわけにいかないだろ?」
呉羽の周りはいつも華やかだった。サークルでもコンパでも、目星い女子は彼狙いで、一声かければ喜んで食事の仕度に飛んで来ると思われた。
「いかないの?」
「いかないの。男の生理として」
「左様ですか」
上川は自分の部屋よりも、呉羽の部屋で過ごすことが多くなった。卒論の資料やノートパソコンを持ち込んで、ホーム・ゴタツで眠る。建築学科のホープだった呉羽は、上川が専攻する建築計画学(都市計画)にも明るく、資料を調べるより彼に聞く方が早いこともあった。
「おまえさぁ、俺を辞書代わりに使うなよ」
と言いつつも、呉羽は忙しい中、上川の卒論に貢献してくれた。新年度最初のゼミ発表の目処がついたのは、彼のおかげだ。
居心地の良い空間――就職活動、卒論の準備、合間に単発のアルバイト。上川もそれなりに忙しい毎日だったが、夜戻って、呉羽と一緒に食事をし、たまに晩酌をして過ごす時間は心地良かった。
コンパの誘いが来ないではなかった。地方出身者が多い大学では、長期休暇の間、頭数を揃えるのに苦労するからだ。呉羽はもちろんそんなものに割く時間も、気もない。みんなそれがわかっていているので、上川に誘いが集中したが応じなかった。
「最近、断ってばっかだな?」
大学生の嗜みとして、上川もご他聞に漏れずコンパにハマッた時期はある。
「昼間、歩き回ってるんだから、夜ぐらいゆっくりしたいさ。それに誰かさんの飯の仕度もしなきゃなんないし」
「後半は言い訳だな。単に年食っただけだろ?」
「失礼な。おまえより半年以上、年下だぞ」
断りきれない誘いもあった。OBがお膳立てしたもので、呉羽が出られない分、上川には必ず来いとのお達しだった。内定しかかっている呉羽と違って、上川はまだまだ就職の口利きを頼むことがあるかも知れない。無碍に断ることも出来ず、ある日、久しぶりにコンパに出かけた。
アパートに帰ったのは午前一時。呉羽の部屋にはまだ灯りがついていたので、いつもの癖でそちらに入る。
「ただいま。呉羽、飯、食った?」
「食った。味噌汁、まだ残ってるぞ。酒、抜くのに温めてやろうか?」
「うん。そんなに飲んでないけど、久しぶりだからさすがにクルな」
コタツに足を突っ込むと、途端に睡魔が襲ってきた。次の日に会社説明会の予定が入っていたので、飲んだのはビールをコップに二、三杯、チューハイ一杯と言うところ。全盛期に比べたら飲んでいないにも等しいくらいだ。場の雰囲気にあてられ、疲れたせいもあるだろう。知らず知らずに上川の身体は、前に傾いでいた。
「上川、上川、ほら、眼鏡外せよ。型つくぞ。味噌汁はどーすんだ?」
上川は頭を上げた。目の前に呉羽が見える。「もういい」と辛うじて答えると、彼の手が眼鏡を外そうとした。
「ああ、ごめん、自分でするよ」
上川は眼鏡に指をかけた――と、手首をつかまれ指は離れた。弾みで眼鏡は外れ、軽い音を立ててテーブルの上を滑った。
奇妙に間が空いて、上川は顔を上げる。呉羽が見つめていた。裸眼でぼんやりとした視界の中、彼だけがはっきりしている。
「呉…」
上川の声は途中で途切れた。呉羽の唇が塞いだのだ。
ぎこちなく重ねられただけの唇。場数を踏んでいるはずの彼には似つかわしくないキス。上川は何がどうなっているのか、すぐには理解出来なかった。ただ不思議と、拒む気持ちは湧かなかった。
重なっていただけの唇は、一瞬の温もりを残して離れて行く。バツの悪そうな呉羽の表情を伴って。
酔ってはいない。眠気も覚めた。離れていく彼の唇を追ったのは、だから上川のはっきりした意思。残った温もりが消えないうちに、再び、二人の唇は重なった。
上川の髪に差し入れられた呉羽の手の指先は冷たかった。緊張しているのだ、あの呉羽が。自信家で、どんな時も動じない彼が。
今度は唇が重ねられただけのキスではなく、呉羽は上川の下唇を軽く噛んで、開くことを促した。少し上川の唇が開くと、待ちかねたように彼の舌先が歯列を割る。勢いで仰け反った上川は、そのまま畳の上に倒れた。頭を打たなかったのは、呉羽の手があったからだ。
冷たかった呉羽の指先は熱を取り戻し、抱き込むように肩を抱いた。もう片方の手が、上川の髪を梳く。その間も、キスは止まらなかった。
上川は目眩を感じていた。それは甘い火照りとなって身体中に広がり、全てを委ねてしまいたい誘惑を呼ぶ。
呉羽の唇が離れ、上川の耳朶を軽く啄ばみ、首筋に落ちたその時、どやどやと、夜中に響く足音が耳に入った。
部屋の前の廊下を行く数人。酔って呂律が回っていない声が、「夜中だから、静かにしろよ」と嗜める。
呉羽は身を起こして、そちらを振り返っていた。上川もまた、彼の肩越しに見る。急速に何もかもが冷めていくのを感じながら。
呉羽は上川を引き起こした。うるさく行き過ぎた一行はどこかの部屋に入ったらしく、再び静けさが戻ったが、甘い火照りは戻らなかった。
二人とも黙ったまま、壁に背をもたせて並んで座った。唇は二度と重なることは無く、あの数分が夢だったのではないかと思うほど遠く感じる。それでも触れ合う肩は離れられず、知らず知らずにどちらからともなく手を握った。
そのまま朝を迎えるまで。
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