[ 秘密は秘密のままに  page1 ]





―あ、呉羽
 午後の会議の休憩時間、正面玄関脇に設けられた喫煙場所に出た上川は、タクシーから降り立つ呉羽を見とめた。彼も上川に気づいたようで、社内に向いていた足を逸らす。
「よう、休憩か?」
「ああ。確かお前のとこも会議じゃなかったっけ?」
 上川の言葉に「大遅刻」と彼は肩をすくめた。作業服姿だから、現場に出ていたのだろう。彼は上川の左手首を掴み、腕時計で時間を確認すると顔を顰めた。その表情で、かなりの遅刻だと察せられる。
「俺、行くわ。そうだ、上川、今日帰り空いているか? 久しぶりに飲みに行かないか?」
「夕方からミーティングなんだ。定時は無理だと思うぞ」
「いいさ、図面引いているから、終わったら声をかけてくれ」
 呉羽はそう言うと、慌てて社内に入って行った。
 大きく歩幅を取って玄関ホールを横切って行く様が、上川のところからも見えた。長身な上に作業服の彼は、スーツ姿ばかりの中でかなり目立つため、見えなくなるまで追うのは難しくなかった。
 上川千尋(かみかわ・ちひろ)と呉羽一樹(くれは・かずき)は大学の同期だ。下宿先のアパートの部屋が隣同士で、学部も、選んだサークルも同じだったことから意気投合し、大学時代はつるんで過ごした。卒業後、上川は中堅の建設会社に、呉羽は院に進んでからスーパー・ゼネコンと呼ばれる大手に就職してからは、すっかり間遠くなっていた。四年前に双方の会社が合併。事実上、上川の所属した側が吸収されたのだ。合併後の本社勤務となった上川は、呉羽と十五年ぶりに再会した。
 片や営業部、此方設計部。巨大組織内での部署違いでは、顔を合わすことなどほとんどない。実際、合併して半年近く経ち、新プロジェクトの立ち上げ会議の席上で呉羽の姿を見るまで、同じ社屋に勤務していることを上川は知らなかったくらいだ。予期しない再会で驚く上川に、少し離れた席についた呉羽はニヤリと笑って見せた。学生の頃と変わらない、不敵とも取れる笑みだった。
 上川は二本目の煙草に火を点ける前に腕時計を見た。休憩に割かれた時間がいくらも残っていない。二十一階の営業本部フロアまで戻ることを考えると、二本目はあきらめなければならなかった。
――まったく愛煙家の肩身は年々狭くなるなぁ
 煙草を胸ポケットにしまって、全館禁煙の本社ビルを恨めしげに見上げた。午後の光が壁面にあたってキラキラと光っている。オフィスビルとしての高機能を持ちながら、さりげない芸術性が感じられる外観の社屋は、社内コンペの結果採用された、呉羽の設計によるものだと聞く。
「ヘビースモーカーのくせして、豪華喫煙ルームくらい作っておけよ」
 上川は見上げたまま、独りごちた。




 午後九時を回った玄関ホールは、まだ人が行き来していた。残業は奨励されていないし、コスト・カットの折、費やした時間全てが給料に反映されるわけではなかったが、毎日を定時で帰ることが出来ない社員が大半だった。上川もその一人だ。
 エレベーターを降りると、上川は喫煙場所に向かった。内外の温度差で眼鏡が白く曇った。春とは言え、夜はまだ冷える。先に着いた呉羽が、コートの襟を立てて煙草を吸っていた。
「すまん、待ったか?」
「いや」
 呉羽は携帯灰皿の中に吸いかけの煙草を突っ込み、それを合図に二人は歩き始めた。
 二人きりで飲みに行くのは学生時代以来で、二十年は経っているだろう。当時は周りも認める親友同士だったが、卒業してからは一度も会うことはなかった。お互いの結婚式にさえ、出席していない。
 計らずも会社が合併し、新規のプロジェクトに営業と設計の立場で参加することに決まってからも、そう言う機会を持たなかった。部署も違うし、『畑』も違う。会議で顔を合わせることはあっても、終わればそれぞれのテリトリーに戻って行った。二人が担当している足掛け三年の大型プロジェクトでも、居合わせることは稀だった。設計の総責任者ながら呉羽は現場が好きで、急ぎの図面がないかぎり席にいることは珍しかった。一方のプロジェクト開発推進本部に身を置く上川は、デスク・ワークと外部折衝案に忙殺され、こちらは机に縛り付けられている。かつての親友同士、同じ会社、同じプロジェクトの担当――実は二十年近くもまともに言葉を交わしていないなど、学生時代の二人を知る者なら、さぞ意外に思うだろう。
「こんな時間か、近場でいいか?」
 呉羽は上川の左手首をヒョイと掴んで腕時計を見た。










スーツでも相変わらず時計、しないのか?」
 両手を自在に使う呉羽は、邪魔になるからと腕時計はしなかった。学生の頃は上川の左手で時間を確認していたのだが、今も変わっていない。
「携帯(電話)は? 時計代わりになるだろ?」
「カバンの中に入れっぱなし。あんなもの持ち歩いていたら、四六時中、追い回されるじゃないか」
「じゃあ仕事中、おまえと連絡取りたい時は、みんなどうしてるんだ?」
「側にいる誰かのところにかかってくる。一応、行き先だけはハッキリさせるようにしているからな」
「相変わらずだな?」
「相変わらずさ」
 会社から二ブロック先の角を曲がると、店先に赤い提灯を吊るした小料理屋が目に入った。
「結構、イケるぜ」
と言って、呉羽は先んじて暖簾をくぐった。




「上川のところって、子供いたっけ?」
 小ざっぱりした店内の一番奥の座敷に席を取る。飲み物以外は適当に料理が運ばれてきた。呉羽がその店の常連だと言うことが、店員とのやり取りでわかった。
「小一の息子がいる」
 呉羽が「おや?」と言う表情を浮かべる。自分たちの年齢からみて、上川の子供は少し幼く感じたのかも知れない。
「まだ小さいんだな。かまってやる時間、ないんじゃないのか?」
「まあな。休みの日は、だから大変さ。こっちは一週間の疲れを取りたいんだけど。いったい誰が子供を週休二日にしたのか、文句を言ってやりたいよ。呉羽のところは?」
「いない。出来る前に別れた」
 ああ、だからか…と上川は納得した。この料理屋で夕食を済ませて帰ることが多いのだろう。素朴な家庭料理と、さして高級ではない酒類。毎日食べても飽きない感じの品書きだった。
 学生の頃なら、知らないことは二人の間にはなかったが、今は知らないことばかりだ。二十年の月日は長く、それらを知るにはこのひと時では足りない。奇妙な緊張感。人見知りを隠して合コンの席にいる時のそれに似ている。会話は自然、途切れがちとなり、間を埋めるためには結局、仕事の話に頼らざるを得なかった。
 過ごした時間の思い出は何年経っても鮮やかで、上川の脳裏を去来する。きっと呉羽もそうに違いないはずだったが、一つの記憶が思い出話をすることを躊躇わせた。




 二人には秘密があった。







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