「そろそろ帰るか?」
呉羽は上川に確認するが、すでに手には伝票が握られ、腰が浮いていた。上川は慌てて身支度をした。
ここに入った時よりも、気温が下がっている。外に出た二人は、コートの前を合わせると歩き始めた。
結局、あの夜の後、二人には何も起こらなかった。すぐに大学が始まり、更に忙しい日々が待っていて、すれ違う時間が増えていった。呉羽は大学の研究室に泊り込むようになり、そして決まりかけていた就職内定を辞退する。卒業制作は規模を拡大、論文も大幅に書き換えにかかった。大学院を受けることにしたからだった。
上川は六月に内定が出て、夏季休暇の半分を帰省して過ごした。大学に戻ってからは本格的に卒論にとりかかり、泊り込みこそしなかったが研究室と図書館に詰めることが多くなった。
アパートの呉羽の部屋は、夜になっても明かりはつかない。広い構内では専攻違いもあって顔を合わすことがなかった。何度か学生食堂で見かけ同席もしたが、他の友人を介しての会話しか弾まない。何かがあの夜を境に変わってしまったことは、顕著にわかった。以来、二十年余り、そのスタンスが続いている。
最寄駅は会社を挟んで反対の方向にあったので、二人は行きの道を戻った。正面玄関の喫煙場所の辺りに差し掛かると、呉羽は急に立ち止まった。
「呉羽?」
「遅くなりついでだ、一本吸っていこう」
口元に指をあてて喫煙の仕草を示した。上川の答えを聞きもしないで歩き出す。
閉館時間を過ぎると、スタンド型の灰皿は片付けられる。昼間は喫煙場所らしい体裁が整えられるが、夜はただの『玄関脇』のスペースでしかなかった。前庭の常夜灯や玄関ホールの非常灯が完全な暗闇にしないまでも、充分に暗い。そんなところで男二人が立ち話をする姿は、かなり怪しいに違いなかったが、呉羽は気にせず煙草に火を点けた。
上川は呉羽の火をもらう。一連の動作は沈黙の中で行われた。煙草を吸い終わるまで、会話がないままになりかねないと上川は感じた。その居心地の悪さを嫌って、話題を作る。
「この社屋、呉羽の設計だろう? 喫煙スペースは考えなかったのか? 外でしか吸えないなんて、冬は寒いじゃないか」
「考えたさ。それなりに確保もした。だから結構、無駄な空間が多いだろ? あれはほとんど、喫煙用に取ったスペースなんだぜ。例えばあそこ」
呉羽はガラス越しに玄関ホールの上の方を指差した。十階分の吹き抜けの中央を渡す廊下が、表示灯や非常灯の光にぼうっと浮かび上がっている。あの渡り廊下の真ん中に、バルコニーのように左右に突き出た休憩スペースがあったことを上川は思い出した。見晴らしのいいところでの仕事の合間の一服は、さぞかし気持ち良いだろう――実現していたとしてだが。
「喫煙ブースなんて、隔離されるみたいで嫌だし、端から作る気はなかった。まさか全館禁煙にするとは思わないさ」
「呉羽ともあろう者が、読みが甘かったな?」
「ほっとけ」
二人は互いを見合って笑った。今日、初めて出た自然な笑みだった。間の空気も和んで、上川は学生の頃の懐かしい雰囲気が戻った気がした。
一本目が吸い終わり、どちらからとなく二本目に火を点ける。
長い息で紫煙を吐いて、呉羽が言った。
「今抱えている仕事のキリが付いたら、ここを辞めることにしたよ」
あまりに突然で、あまりに何気なく。ぼんやりと彼が吐く煙の行方を見ていた上川は、重要なこととも思わずに「え?」と普通に聞き返した。
「独立して、事務所を持つんだ」
「独立?!」
今度ははっきりと聞き取って、声は大きくなった。闇に慣れた目が呉羽の表情を捉える。上川の驚く反応に、彼の口元がほころんだ。
「独立って、おまえ、ガーデン・シティの設計総指揮じゃないか?」
二人が担当しているのは、四企業共同での駅前再開発整備事業である。ランドマークとなる高層ビル、コンサート・ホール、商業施設、高級ホテル等の複合施設を配して人工都市と為す、巨大プロジェクトだ。呉羽はランドマーク・ビルの設計を担当し、他の主だった建築物にも少なからず関わっている中心的存在だった。プロジェクトが動き出して四年目に入ったが、まだ全体の半分近くが残っている。
「俺の担当は本来、タワービルだけなんだよ。後はお手伝い」
呉羽の実力は学生の時から周知だった。むしろ、今まで独立しなかった事の方が不思議なくらいなのだ。今回のプロジェクトで更に『顔』は売れただろうし、独立するにはいいタイミングかも知れない。その口ぶりから、設計部、もしくは上層部ではすでに決定事項であることが察せられた。
「退職までバタバタするだろうし、まともに話さないまま、また別れて行きたくなかった。だからケリをつけておこうと思って、今日、誘ったんだ」
独立と言う言葉をまだ消化しきれずに、半ば呆けている上川に呉羽が続けた。
「ケリ…?」
上川はうつむき加減になっていた顔を上げ、彼を見た。
「ケリと言うより、確認かな。あの時の気持ちを」
『あの時』とは、大学三年の春休みのあの夜だ。上川にはすぐにわかった。誰も知らない二人だけの秘密――昨日のことのように思い出される記憶。
「おまえに触れた自分が信じられなくて、しばらく混乱した。確認するのが恐かったのかもな。上川のことを、ずっとそんな対象で見ていたのかって。同性愛を否定する気はないけど、いざ自分がそうかも知れないと思ったら恐かったんだ」
呉羽があまりにまっすぐ自分を見るので、上川は視線を逸らせなかった。夜の暗い中で良かった。逸らすに逸らせないでいる自分は、どんな顔をしているかわからない。
呉羽は、「だから逃げた」と続けた。何かに没頭することで頭を冷やそうと思い、急遽、大学院を受験することに決め、それを言い訳に研究室に逃げ込んだとも。
「卒論も設計も良い点をもらえたのは、上川のおかげだ」
冗談めかして、彼は笑った。
「だけど気持ちを中途半端にしたままじゃ、何も解決しないってことがよくわかったよ。誰と付き合っても長続きしやしない。思い出の中でおまえはどんどん美化されるし。再会してみたら、ちゃんと年食ってたから、自分の純情さ加減にあきれたけどな」
二本目の煙草は、ほとんど吸われることなく灰になった。呉羽は吸殻を携帯灰皿に突っ込み三本目を手にしたが、火は点けない。しばらく手の中の煙草を見つめて――
「おまえのことが好きだった」
呉羽は目線を上川に戻した。
「二十年前に言えなかったことを、やっと言えた。こんな中坊(中学生)みたいな告白、今更言われても、おまえは困るだろうけどな」
そう言うと彼は三本目に火を点けた。
「呉羽、俺は…」
カラカラに乾いた喉から、やっとのことで上川は言葉を搾り出した。しかしそれは呉羽が止める。
また二人は沈黙した。呉羽は煙草をふかし、上川はその煙を追った。時折吹き抜けるビル風に、煙はすぐに行方を失って消える。それでも目をやらずにはいられなかった。
気持ちを落ち着かせるには、その沈黙は必要だったし、有効だった。
「二十年前へのタイムスリップは終わりだ」
三本目を吸い終えて、呉羽は言った。声の調子が、普段のそれに戻っていた。ケリがついたのかどうなのかは、彼しかわからないことだ。ただ少なくとも、糸口にしようとしている。
「辞めるのは、いつなんだ?」
だからなるべく、上川もいつもの自分に戻る。胸の内は多少なりとも動揺しているが、悟られたくなかった。
「中間決算までにはなんとか。こっちの現場は手を離れるだろうし、今度の長崎もそれまでには形になっているはずだから」
「そうか。きっとうちは、おまえのところに設計を頼むこともあるだろうな」
「優秀だからな」
「本当におまえは変わってないよ」
上川は苦笑した。
呉羽の手が上川の左手に伸び、手首を掴んだ。時間を見る彼の癖。時計の文字盤が見えるところまで引き寄せる。手首が出たおかげでコートの袖口から外気が入ったが、上川は冷たいと感じない。呉羽に触れられているところが、途端に熱を帯びる。
呉羽は引き寄せた上川の手をしばらく見つめた。
上川もまた、自分の手を掴む彼のそれを見つめた。
二人とも、触れ合う二つの手を見つめた。
「誰だ?!」
誰何の声がかかり、同時に小さいながらも鋭い光が二人を照らす。眩しさに思わず上川は手を翳したが、それより先に大きな影が光を遮った。呉羽が上川の前に立ったのだった。彼の肩越しに、相手が見回りのガードマンだとわかった。
「呉羽さんじゃないですか? こんな時間まで残業ですか?」
ガードマンは呉羽だとわかると懐中電灯を地面に向ける。声音が親しげな調子に変わった。
「飲みに行った帰り。こっちは営業二課の上川課長。一服して、酔い醒まししていたんだ。悪いね、もう帰るから」
「そうですか、気をつけて帰ってくださいよ」
さして怪しむ様子も無く、ガードマンは正面玄関の方に去った。残業で遅くなることが多く、退社時には必ずここで喫煙して帰るから、彼ら守衛係とは自然、顔見知りになっているのだと呉羽は笑った。
「今度こそ帰るか。終電に間に合わなくなる」
そう言った呉羽に上川は頷きで答える。二人はここに寄り道した時同様、並んで歩き始めた。
路線が反対方向なので、改札を入ったところで左右に別れた。何事もなかったかのように呉羽は軽く手を挙げ、乗り込むホームへのエスカレーターを上って行った。
上川はその後ろ姿を見送る。頭が見えなくなるほんの一瞬、呉羽が振り返った。視線が合わなかったので、見ている上川に気づいたかどうかわからなかった。彼の姿が階段の上の方に消えた後、上川は反対側のホームへ上り始めた。
上川の息子がまだ幼いのは、結婚が遅かったからだ。仕事が面白く、また忙しかったせいもある。好きな相手もいなかったし、結婚の必要性も感じなかった。しかし本当のところは、心の奥底にしまい込んだ思い出が邪魔をしたから。学生時代と、あの春の夜。どの場面にも、必ず呉羽の姿があった。
誰とも本気になれなかったのは上川も同じだった。合コンや友人の紹介で何度かデートをしたが、そのたびにあのキスの感触が蘇った。時間が経てば経つほど、鮮明になる。成り行きでも、酔った勢いでもなく、自分はあの口付けを受けたのだと思い知らされた。
上川がホームに着いた時、ちょうど向かいホームから電車が動き出すところだった。まばらな乗客の中に、こちらに背を向けて座っている呉羽の姿を見つけた。今度は振り返ることがなかった。
呉羽は今月末から長崎に出張する。リゾート・ホテルの工事が着工されるからで、こちらのプロジェクトと並行することになり、現場が好きな彼は何度も往復することになるだろう。自身で言ったように退職まで忙しいに違いなく、二人きりで過ごす機会はもうないかも知れない。
上川はベンチに腰を下ろした。ぼんやりと向かいのホームに目をやる。呉羽の残像が、自分を見ていた。
『おまえのことが好きだった』
耳に残る呉羽の声に、別の声が重なる。鼓動が少し早くなり、頬は熱を持った。
上川は自嘲気味に笑う。
秘密は秘密の中に、秘密は秘密のままに――あれは確かに恋だったと、いつか過去形で語る日が来るまで、再びその想いを上川は胸の奥に沈めた。
end.(2008.03.09)
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