[ ただ、静かな群青 ] 



 目の前に広がる群青の宇宙(そら)は、静かだった。


 艦内ではパーティが催され、新年を迎えるカウント・ダウンが二時間も前から表示されていた。地上ほど十分ではないにしろ、それなりの雰囲気が漂っている。通常勤務は交代でこなすことになっていたが、たいてい年長者が進んで各部署に詰めていた。クリスマスから続く一年で最も華やかな時期を、宇宙に浮かぶ艦船で過ごさなければならない若者達に、せめて羽目を外させてやろうと言う心遣いからであった。
 ほとんどの若いクルーがその『親心』に甘える中、奇特な人間もいる――シン・アスカはメイン・ブリッジのオペレーター・シートに座り、ぼんやりとスクリーンを見つめていた。
 あと30分足らずで新年だ。カウント・ダウンは大晦日の一大イベントである。クラッカーにシャンパン・シャワー。日ごろ憎からず思っている人間に、キスをする無礼講も許されている。それを機会にステディとなることも珍しくないので、パートナーのいない者にとっては大事な時間のはずだが、シンは自ら進んで『居残り』メンバーに入った。華やかな場はもともと苦手だったし、クリスマスの時のように次から次へとアルコールを勧められ、恋愛談義に付き合わされるのは御免だったからだ。口の端に浮いた話が上ったことのないシンは、良いターゲットにされた。
 シンが大晦日当日、ブリッジに詰めると知れた時、女性クルーの間に落胆の溜め息が、男性クルーの間には安堵のそれが、リレーされるように広がった。
 シンはある時期から急に大人びて、少年から青年の面差しに脱皮した。背も伸びたこともあるが、雰囲気が妙に落ち着いて、男の色気のようなものが出てきたと、もっぱらの評判なのである。決まった相手も作らないし、恋の噂も聞かない彼は、今回の年越しパーティにおいて主役の一人とも言えた。女性達の溜め息は、淡い期待を持った心の表れである。
 パーティが始まった頃は、入れ替わり立ち代り、メイン・ブリッジに人の出入りがあった。『居残り』メンバーに気を遣って、ドリンク以外持込禁止のブリッジにも特別に差し入れが許可され、会場の雰囲気のお裾分けがされたのだ。しかし新年が近づくにつれてその足も途絶え、普段の三分の一以下の人数で動くブリッジは、静かに新しい年を迎えようとしていた。


 目の前に広がる群青の宇宙(そら)は、ただ静かだった。


 持ち込まれた年越しパーティの余韻も去り、規則正しい機械音が辺りを占めるようになると、シンは視界に地球を収めた。
 遥か前方に浮かぶ青白い惑星(ほし)。肉眼でやっと「それ」と判別される地球の小ささが、その距離を思わせた。所属艦隊の任地が変わり離れて三ヶ月、意識下に封印した面差しは、いつもと違う静けさに誘われるようにして鮮やかに甦った。
 この宇宙(そら)の色と同じ群青色の髪、翡翠と称された温かな緑の瞳――のアスラン・ザラ。

『あなたが好きです』

 その言葉をシンが零したのは、九月の、地球を離れる前日。
 オーブ滞在最後の日と言うことで、クルーには特別に休みが与えられた。各自が思い思いに休日を楽しむ中、シンは駐在武官のアスラン・ザラと過ごしていた。当初は同僚のルナマリア・ホークを加えて三人で会うことになっていたのだが、彼女は出がけに腹痛を起こしたとかで出てこられなくなった。それはシンとアスランを二人きりにするために彼女がついた嘘。九月はシンの誕生月で、気を利かせた彼女が始めからプレゼントとして仕組んだことだった。ルナマリアが何時、シンの仕舞い込んだ想いを知ったのか定かでない。入隊以来、常に行動を共にし、シンをパートナーにした戦闘フォーメーションで、抜群の適合率を誇る彼女だからこそ、何か感じ取ることが出来たのだろう。
――まだ、言うつもり、なかったのに…。
 アスランの少し見開いた目が忘れられない。

『それは…』

 海沿いの公園で、風が強かった。問い返しとも戸惑いとも取れるアスランの言葉は遮られる。
 二月にもシンはアスランと二人きりになる機会を持ったことがある。聖ヴァレンタインの祭日に、両親と妹の墓参として戦没者慰霊碑を訪れた帰り、たまたま通りかかった彼の車に同乗したのだ。
 その時、シンはアスランに対して、特別な気持ちを抱いていることに気がついた。
 かつて自分の上官だった人――ことあるごとに反発し、彼の瞳の色を翳らせたことが幾度もある。一度は彼の搭乗機に砲口を向け、敵として眼前に立ったこともあった。
 素直になれずに困らせてばかり、一時期、道が分かれた際の言い知れぬ寂しさと過剰なまでの憎しみ、それら全てが形にならないほどに幼い『恋心』だったのだと知って、彼の唇に触れずにはいられなかった。シン自身、予想しなかった行動だ。だからアスランの驚いた表情に、「冗談ですよ」と笑って返した。すでに他の人間に向いている彼の心と対峙するには、ようやく形になったシンの恋心では弱すぎる。追い越した身長以上に精神的にも成長しなければ、本当の気持ちを告げるべきではないと思った。
 しかし九月のシンは、冗談で誤魔化すことはしなかった。風で途切れたアスランの言葉を聞き返すこともしなかった。二月の自分よりも成長したと思っていない。
 
『あなたの心が誰にあるか知っています。その想いの強さも。今の俺では、まだあの人に及ばない。ただ想うことは俺の自由ですから、好きだと言う気持ちを否定しないことにしたんです』

 告げる時期ではないと十分に分かっていた。言ってしまえば、微妙ながらも保っていた関係は崩れてしまうことも。それでも言葉にせずにはいられなかった。しばらく会えなくなると言う高揚感が、シンの気持ちを煽ったせいもある。八月に触れたアスランの気丈な『弱さ』が、頭から離れなかったせいもある。
 次に会うその時まで、自分と言う存在を、心のどこかに留めて欲しい――子供じみたこの理由が、実は一番相応しいかも知れない。
 緑の瞳は伏せ目がちとなり、シンから視線は外れた。それをまた自分に向かせたくて、シンは彼の軽く握られた手に触れた。振り払うことはしなかったが、それ以上を許さずにアスランは手を後ろに回した。

『…雲が出てきた。もう戻ろう』
『好きです』
『シン、俺は』
『好きです』
『俺はキ…』
『それでも好きです』

「…それでも好きです」
 スクリーンの中の地球に、そっと呟く。困ったようなアスランの表情が被った。
 一年が終わるこの時を、彼は誰と過ごしているのだろう。 
 仕事の一環としてパーティに引っ張りだされているのだろうか? それとも今年こそは休みがとれて、想う人と過ごせているだろうか? やさしい笑顔を浮かべて、新しい年を迎えようしているだろうか? 
 彼は幸せだろうか? そして、何かの折りに自分を思い出してくれるだろうか?
 だんだん欲張りに育つ恋心に、シンは苦笑せずにいられない。
新しい年まで、あと10秒です。8、7、6…
 スピーカーから新年までの残り十秒がカウントされる。パーティ会場からの音声であるらしく、唱和する賑やかな声も響いた。シンの意識は地球から――過去から離れ、現実に戻った。
…2、1、Happy New Year!
 クラッカーの音が聞こえる。歓声にシャンパンを開ける音が加わり、静かだったブリッジ内にも連動して声が上がった。
「新年、おめでとう!」
 中身はソフト・ドリンクの紙コップを、気分でシャンパン・グラスに変えて、居残りメンバーの間で乾杯が繰り返される。シンも席を離れ、パーティ会場よりもずいぶんとささやかなその輪に入って、新年を祝う。無礼講のキスの行事も、もちろんジョークとして催された。「これは誰某の分」と言われ、シンの両頬は喧騒の肴にされた。
 キスの雨が降り注ぐ中、シンは全天空型に切り替えられたスクリーンを振り仰ぐ。
 地球は変わらず、そこにあった。
 

 広がる群青の宇宙(そら)は、ただ静かだった。
 ただただ静かに、ただただ静かに、想いを包み込むように…。

 
 

                                         
2006.12.30

2月のシンは『Tea Rose』で、8月のシンは『Tacitum vulnus』でお読みになれます

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