まるで茶番だ――シンは鼻先に触れる群青の髪を見つめた。それから彼を起こしてしまわないように気遣いながら、枕代わりにされた腕をそっと抜く。一瞬、その眉が動いたが、起きる気配はない。シンはため息にも似た息を吐いて起き上がった。
外はまだ暗く、傍らの窓にぼんやりと自分の裸体が映った。
自分の? いや、違う。それを見ているのは確かにシンなのだが、映し出された姿は別人だ。髪の色が暖かな茶色であることも、瞳の色が神秘的な紫であることも、闇で不鮮明でありながらシンにはよく『見えて』いた。これらは全て、キラ・ヤマトのものだった。
シンがこの姿になって、2週間が経とうとしていた。
頭が割れそうに痛む。目蓋が重くて、目はなかなか開かない。何度も何度も試みて、シンの目はやっと持ち主の意思に従い、勢いよく開いた。白い天井が久しぶりに機能した視力を刺激する。せっかく開いた目を、閉じずにいられないほどに。
シンは今度はゆっくり目を開き、少し首を動かして辺りを見回した。左腕から点滴の管が数本伸びている。喉には異物感が。腕の物よりはるかに太い管が口から生えていた。自由の利く右手で、それをずらそうとして止めた。レスピレーター(人工呼吸器)の気管チューブだとわかったからだ。嗅覚が反応し病院特有の匂いが鼻腔を刺激する。自分がどこにいるのか何となく理解出来た。
「…ラ? キラ!?」
と、声がした。この声は知っている。
――アスランの声だ
キラ・ヤマトを呼んでいる。彼も同じ部屋にいるのだろうか? 痛む頭で、シンは自分の置かれた状況を把握しようと、再び目を閉じた。
確かラクス・クラインを長とするプラント一行の護衛のため、オーブの宇宙港に配備されたのではなかったか。稀代の歌姫であり、現プラントの最高評議会議長を務めるラクス・クラインが、サミット(国際代表会議)のために今回の開催地オノゴロ入りをすると言う。彼女を一目見ようと空港には数千人が押しかけていた。セキュリティの為、オーブ駐留のザフト軍からも人員が割かれたが、一般人との距離を取りたくないとの彼女の希望で、なるべく目立たないように私服で配備された。これには駐在武官のアスラン・ザラと、新任武官のイザーク・ジュールが最後まで反対したのだが、中立国としての威信をかけて万全を期すと言うオーブ側の進言もあって、結局、ラクス・クラインの意思は尊重された。
これ以上文句のつけようのないガードとも言えるキラ・ヤマトが同行し、身体能力では彼に劣らないシンがすぐ傍らに付けられた。それに政府が自負するように、今のオーブは地球のどこよりも安全だと言える。
「キラッ!」
一際、大きな声が今度は耳元で聞こえ、シンは目を開ける。アスランの顔がすぐ近くに見えた。シンは自分の眉根が寄ったのを感じた――なぜ彼は、キラ・ヤマトの名を自分の耳元で叫ぶのだろう。
否応なしに供給されている高濃度酸素のせいか、喉がカラカラしている。喉の奥の不快感に意識が遠くなりかけるのを引き止めたのは、右手を掴む手の感触。目の焦点がはっきりと合って、覗き込む緑の瞳をとらえた。
「気がついたのか、キラッ!? ドクター!」
キラ――自分に向かって発せられるアスランの声。間違いない。彼はシンに向かって呼びかけている。
次の瞬間には、彼の声以外を認知しなかった聴覚に音が押し寄せて、今度こそシンは完全に覚醒した。
毎朝、起きて顔洗う度、シンは鏡に映る自分の顔に、ギクリと目を見開く。茶の髪に紫の瞳。十日を過ぎてもまだ慣れない。このキラ・ヤマトの姿に。
あの日、テロはなかった。しかしラクス・クラインが空港ロビーに姿を現した時、集まった数千人が一斉に動いたのだ。セキュリティは十分に機能していたが、それは彼女に対してだけであって、興奮した人々が将棋倒しにエスカレーターや非常階段から落ちて行くのを、止める術は誰も持ち合わせていなかった。
雪崩のように落ちてくる人の身体から、まず傍らのキラ・ヤマトがラクス・クラインの腕を引っ張るや、別のガードに放り投げるようにして渡した。屈強な男が彼女を抱きとめた。横抱きにされてその場を離れたラクスは、間一髪、巻き込まれずにすんだのだが、キラ・ヤマトのバランスは崩れ、次々と降ってくる人間の下敷きになろうとしていた。シンの身体は咄嗟に動き、彼の上に覆いかぶさる。記憶はそこまでだった。
次に気づいた時は病院のベッドで、意識は確かにシン自身のものだったが、身体は別人になっていた。つまり、キラ・ヤマトに。原因はわからない。そして、そのことを認識しているのは、シン以外にはいなかった。
「おはよう、キラ」
「お、おはようございます」
居間のテーブルの上には朝食が用意されていた。アスラン・ザラがコーヒー・メーカーからコーヒーを注いでくれる。彼は何でも器用にこなしそうなのに、料理は今一つ不得手らしく、今朝もまたオーバー・イージー(片面焼きで軟らかめの黄身の目玉焼き)の成れの果て、スクランブル・エッグが皿に乗っていた。トーストは最初の日に焦がして以来――コンピューター内蔵であるのに、「どうして、そこまで?」と言う焦げ具合――、バターロールかクロワッサンに変更されている。シンは席について、思わず笑みが漏れた。
「笑うなよ、これでも少しは進歩しただろう?」
スクランブル・エッグのふんわりとやわらかい一部分を指差した。同じくやわらかい笑顔が浮かんでいて、それはシンが知らない表情だ。そして、シンのためではなく『キラ』のために作られた表情でもある。
病院のベッドで気づいたシンは、自分の身体に起こったことを、すぐには理解出来なかった。『キラ』と呼ぶアスラン、『キラ』として経緯を話す医師、『キラ』として扱う看護師。当然、中身はシンなのだからキラ・ヤマトとして辻褄の合わない言動も、らしからぬ口調も出たのだが、それらは全て、強度の脳震盪(のうしんとう)と二日間の昏睡の影響による記憶の混乱だとされた。それで三日に及ぶ精密検査の後、アスハ家の別荘で静養することになったのだ。
アスランが休暇をとって同行することになった。彼が付き添った検査では、精神的リラックスを示すアルファ波が高値を示したからだ。秋からクリスマス、新年に至る季節が目前に迫っている。政府要人としてのスケジュールが、キラ・ヤマトのゆっくりとした回復など待っていられない。
「キラ、陽が高くならないうちに、歩かないか?」
検査結果で異常が見られなかったので、キラ=シンは適度の運動を奨励された。これも速やかな回復のためで、午前と日暮れの気温が低い時間は、プライベート・ビーチでのウォーキングが半ば強制的にプログラムされていた。砂は足に負荷をかけるから、歩くだけでもかなりの運動量にはなる。病院のベッドで過ごした身体は初め、歩くこともぎこちなかったが、三日も過ぎると本来の速度で歩けるようにはなった。もともと常人離れの身体能力を持つコーディネーターだが――特に軍人クラス――、キラ・ヤマトのそれは尋常ではなかった。その身体に入ってみて、いかに彼が何事に於いても秀でているか、シンは思い知る。
それでもアスランの歩速はゆっくりで、それは『キラ』の身体を慮ってのことだとわかった。
――この人は、キラ・ヤマトの前でも無口なんだな
ここに来て五日を共に過ごして、知らないアスランをシンは知る。口数は上官であった頃とさほど変わりはない。ただ向けられる瞳の色は、相手を想う気持ちに比例してか、とても温かく感じられた。この色は知らない。
「どうかしたか?」
落とした速度よりも更に遅くなるシンを、アスランが振り返る。波打ち際を歩く彼の後姿に見惚れていたことは、内緒だ。
「何でも」
ありません…と続けようとして、シンは口ごもった。きっとキラなら、そんな言葉遣いはしないだろう。二人は周知の恋人同士。しかし、シンは彼らのプライベートな会話を、聞いたことがなかった。公私をはっきり分けている上に、今は地上と宇宙(そら)とに離れている。ツーショットで見かけるのは、たいてい公の場だった。
キラ・ヤマトは、潮風に揺れる群青の髪や、折ったズボンの裾から出ている素足が波に洗われる様を見て、何と言葉を返すのだろう? 振り返る彼の笑みを、自分が思っているように、素直に「きれいだ」と口にしてしまってもいいのだろうか? たとえ普段のシンでも言えはしない言葉なのだが。
シン・アスカの意思を持ちながら、キラ・ヤマトを意識せざるをえない。この状況はシンにとって、かなりキツくなってきている。拍動に合わせた疼痛が、打った側頭部を刺激するのは、高くなり始めた陽の暑さのせいか、それともストレスからくるものなのか。シンはこめかみを軽く押さえた。
「キラ、痛むのか?」
「あ、いや、その…、陽が」
シンの答えにアスランは空を見上げた。今朝はビーチに出るのが遅れたため、陽はいつもより高い位置にある。
「そろそろ戻ろうか。気温も上がってきたし」
差し伸べる彼の手にシンのこめかみに当てた指はピクリと動く。結局、そこから外れただけで、アスランの手を取らなかった。シンの躊躇いが見てとれたのか、彼は少し困ったような笑みを浮かべた。あきらかに彼の知るキラ・ヤマトとは違っているだろう。それは事故による記憶の混乱がまだ続いているのだと理解しているらしく、困惑の笑みもほんの一瞬で消えた。シンが隣に並ぶのを待って、二人は歩き出した。
静養期間の間、アスランと二人きりかと言うとそうでもない。三〜四日おきに医師が往診に訪れることになっていた。その日は終日、看護師が詰めていて、アスランはキラ(=シン)を彼らに預けて中央に戻る。今回の事故のため、代表会議は一旦、延期されたが、出来れば早い内に開催したいと言うのが各方面の希望で、日程の調整のために公務を執る人間は誰しもが忙しい。
「イザークが書類にまみれて憤死する」
とアスランは医師の診断結果を聞いてから、午後、公使館に出かけて行った。
看護師が詰めるのに合わせてクリーニング・サービスも入り、一日、見知らぬ人間と過ごすことになるのだが、日が経つにつれシンはその方が楽に感じるようになっていた。
アスランと二人きりの日々は、今のシンにとって複雑だ。
彼は知らない面を見せてくれる。しかしそれは『キラ』に対してであって、シンに対してではない。記憶の混乱――と思われている――を是正するために、真摯に接してくれる。それも『キラ』のためであって、シンのためではない。
アスランの目の前にいるのは、あくまでも『キラ』なのだ。そこにシンの人格は存在しない。彼がやさしく接すれば接するほど、シンの胸の奥底に重苦しい感情が、澱のように沈んで行く。吐き出してしまったとしても、それは『キラ』の精神不安として片付けられ、きっとシン自身は置き去りにされるだろう。
入浴後のアスランも要注意だ。定番のボディ・ソープ『ヘレン・ヘレン』の芳香をまとった彼には、そこはかとない色気がある。ツインのベッド・ルームで寝すむ夜ともなれば、甘やかな寝息に慣れなくて、シンはなかなか寝付けない。思わず抱きしめたくなる衝動を抑えるのは、いつも自分が『キラ』だと言う精神的な枷(かせ)だった。
この状況は、いったいいつまで続くのだろう? これから先、シンが『シン』に戻れなかったら、一生この澱を沈め続けなくてはならないのだろうか? だいたいキラ・ヤマトの精神はどこに行ったのだろう? 自分がこの器に入っているように、彼も病床のあの器に入って昏睡しているのだろうか? それとも同じ『キラ』の中に存在しているのだろうか?
「なんだ、元気そうじゃないか?」
海に面したテラスでぐるぐると物思いに耽っていたシンは、聞き覚えのない声に振り返る。そこにはつい一ヶ月ほど前に着任した、駐在武官のイザーク・ジュールが立っていた。新任の閲兵式で会ったし、以前、宇宙艦隊の何かの行事で一緒になったことはあったが、話したことはない。
思わず立ち上がり敬礼する。シンからすれば上官だ。その仕草に、イザークの片方の眉が上がった。「あ」と上げた手を下げる。
「ふん、まだ本調子じゃないと見えるな。アスランはどうした?」
彼は持っていたデータ・ファイルをテーブルの上に置くと、ネクタイを緩めて座った。シンも腰を下ろす。
「公使館に行くと言ってましたが」
アスランは小一時間ほど決済書類などに目を通して、すぐに帰ったのだと言う。
「持って帰ると言ったこれを忘れたから、様子を見がてら持って来たんだ」
ジッと彼はシンを見つめる。薄青の瞳がまるで探るようだ。シンが一瞬、背を引いて身じろぐと、彼は「フン」と鼻を鳴らした。
「まったくなんて様だ、キラ・ヤマト。たかだか脳震盪くらいで。そんなのはだなぁ、軍の訓練にでも出ればすぐに良くなるんだ。こんな田舎で何が出来るって言うんだ、まったく。誰も彼も、きさまを甘やかし過ぎだ」
機関銃のように言葉が吐き出される。一しきり喋った後、また「フン」と鼻を鳴らして腕組みをしたまま、シン、つまり彼にとっては『キラ』の反応を待つ。『キラ』としてどう答えてよいものか分からず、シンは沈黙する。イザークの発する気に圧されて身が竦むのを感じた。
「イザーク、来ていたのか?」
アスランの声が緊張した空気に割って入った。イザークの気が逸れる。シンはホッと肩の力を抜いた。
「それ、忘れていたぞ。今までどこ、ほっつき歩いていたんだ? まっすぐここに帰らないなら、もう少し仕事をしていけ」
「俺は今、休暇中だ」
「イレギュラーのな。本当なら、今頃、サミットの真っ最中で、こんなところで遊んでられんはずだ」
イザークはそう言うと立ち上がった。
「帰るのか? 夕食、よければ一緒にどうだ?」
「『休暇中』のきさまと違って、俺はまだ勤務中だ。今日は偵察。その分だと予定通りに復帰出来そうだな。いいか、キラ・ヤマト。俺を書類まみれの状況に押し込めたのはきさまなんだからな。さっさと現場復帰して、自分の役割を全うしろ」
玄関口まで送ろうと立ち上がるアスランを制して、彼はさっさとその場を後にした。アスランはその後姿を見送りながら、苦笑する。
「彼は彼なりに、キラを心配しているんだよ」
笑顔のまま、アスランはシンに向き直る。
「疲れた顔をしているけど、何か運動でもしたのか?」
傾き始めた西陽に片頬をオレンジに染めて、アスランは覗き込むようにして見つめた。シンの肩が再び緊張する。
プンと、病院の匂いがした。
「病院に…行ってきたんですか?」
「うん。シンの様子を見てきた」
シンがあまりに引くので、アスランは少し距離をとった。
アスランは仕事を早く済ませて、そのまま『シン』を見舞ったのだと言う。事故から二週間近く経った今も、まだ『シン』は昏睡していた。脳波は正常で自立呼吸もしている。医師の診断では脳死ではなく、ただ意識がない、言わば眠っている状態なのだそうだ。外傷も肋骨のヒビ以外はほとんど治癒していて、顔色もすっかり元通りになっているらしい。
『シン』――久しぶりに彼の口から聞く自分の名前。それだけで、胸が熱くなった。
「話しかけると脳波が反応するし、手を握ると握り返してくるから、わかるのかも知れない。何だか今にも目が開きそうだったから、つい長居をしてしまった」
『シン』の様子をアスランが語る。キラではなく、自分のことを話している。無意識にシンの手がて、テーブルの上に乗った彼の手に触れていた。この手が自分の手を握ってくれたのだ。『キラ』の手ではなく『シン』の手を。
「どうした?」
アスランは重なった手を握り返した。
「この手が、彼の手を握ったんだなぁと思って」
シンの言葉にアスランは、目を見開く。
「なんだ、妬いているのか? 相手は病人だぞ?」
「そ、そんなことはないけど」
シンは慌てて否定する。握られた手も振り払う勢いで外した。そんなシンを見て、アスランは破顔する。それから「でも」と続ける。
「でも嬉しいよ。やっと俺に触れてくれたな?」
「アスラン?」
シンの手を再び取って、両手で包み込むように握り締めると、彼は自分の額にその手をつけた。
「良かった…、少しずつ戻って来てるんだな…?」
ホウと長く息を吐いてポソリと呟く。肩がいつになく細く見えた。
この別荘に来て、アスランは常にシンを気遣い普通に接していた。彼の知る『キラ』と時折ズレる感覚もあっただろう。それも笑みの端に止めて。彼がこの状況に何も思わないはずがない。あきらかに『キラ』は本調子ではないのだから。シンが自分自身のこれからを不安に思うのと同様に、きっとアスランも不安だったに違いなかった。
「キラ?」
もう片方の手で、シンはその細い彼の肩を引き寄せていた。
――この人の、不安を取り除きたい
シンの手を握っていたアスランの手が解けた。自由になったその手で、シンは彼の頬に触れる。
緑の瞳を見つめ返してしまったら、もう引けないことはわかっていた。たとえ彼の瞳に映る姿が『キラ』であっても、彼が求めているものが自分ではないと言うことがわかっていても、シンは抱きしめずにはいられなかった。
そして――背中に回されたアスランの腕を感じた時、何かから奪うように口づけた。
茶番だと言うことは、初めからわかっていたことだ。それを承知でアスランを抱いたと言うのに、昂った気持ちが治まって熱が去った後、腕の中で安心したかのように眠る彼を見る頃には、シンの心はすでに後悔に支配されていた。
身体を離して起き上がると、窓には朧に裸体が映る。自分――ではない姿。アスランを抱きしめたのも口づけたのも、自分のものではない身体だ。確かに腕には感触が残る。唇は彼を覚えている。しかしこの感覚は、本当に自分のものなのだろうか? アスランのこの夜の記憶に、シンは存在しないのだ。
この意思は本当に自分のものなのだろうか? キラ・ヤマトが混乱をきたしているだけではないのか?
頭が痛む、ズキズキと。
シンはいつまでも窓に映る『キラ』を見つめ続けた。
別荘での静養は、予定の二週間で終わった。医師の所見は「若干の記憶の混乱は認められるが、その他に異常は見受けられない。外傷も治癒し日常生活に支障はない」と言うもので、記憶の混乱も仕事を含む日常生活によって快方に向かうだろうと付記された。それで、とりあえず中央に戻り、延期されていた代表会議の準備に携わることとなったのである。
別荘を引き払ったその足で、最終検査を受けるためにシンは病院に向かった。アスランは『キラ』を送り届けると仕事に戻った。イザーク・ジュールから「検査は医者にまかせておけ」の一言があったらしい。
丸一日の検査の後、結果が出るまでの間、シンはいまだに昏睡状態の『シン』の病室を訪ねた。
横たわる『シン』は規則正しい鼓動と、緩やかで正常な脳波をモニター画面に示していた。自立呼吸を助ける鼻腔用の酸素チューブと、腕から伸びる点滴チューブ、それらを見なければ眠っているようにしか見えない。
シンはそっと横たわる自分の手を取った。温かい、生きている。
「シン」
と呼びかけてみる。目蓋の微かな動きを見逃すまいと目の辺りを見つめたが、気配すらなかった。
「俺、これからキラ・ヤマトとして生活するんだぜ。俺が『キラ』になってしまったら、おまえはどうなるんだ?」
反応はない。
「キラ…?」
試しに呼びかけてみる。脳の波形が大きくうねる。気のせいか…と、もう一度「キラ」と呼ぶ。波形はやはり変化した。シンは思わず握った手に力を込める。
「キラ、キラ・ヤマト!」
モニターの心拍数が上がる。すぐに元には戻るのだが、確かに「キラ」と言う呼びかけに反応しているのだ。
目の前の身体の中には、キラ・ヤマトがやはり入っているのか? だから反応するのか?
――その逆も考えられる
自分以外の名前を呼ばれて反応しているとも考えられる。
アスランが話しかけた時も反応したと聞いている。彼はきっと「シン」と呼びかけたことだろう。ただシンは、他の名を呼ぶことはしなかった。アスランの声に『キラ』として応えたのかも知れない。意識はないにしろ、その声に。
シンは目の前の『キラ』に話しかける。
「キラ、戻ってくれ。俺を戻してくれ。ダメなんだ。俺はあんたにはなれない。あの人のことは好きだけど、こんな形を望んだわけじゃない。俺の名を呼んで欲しいんだ。あの人を支えることがこの先、必要になったとして、それは俺自身として支えたいんだ。たとえそう言うことが一生来なくても、俺はあんたになりたいわけじゃない。俺は俺としてあの人に見てもらいたいんだ」
声に熱がこもり、握った手にも更に力が入る。頭痛がまたひどくなってきた。アスランを想うと起こるこの頭痛は、『キラ』の身体がシンを拒んでいるせいではないのか。
「もう、疑問形はたくさんだ。だから、この身体に戻ってくれ」
心電図モニターが警告音を発した。拍動が異様に早くなっている。脳波は鋭角に短い間隔を取り始め、やはり警告音を上げ始めた。それを聞きつけて医師や看護師が駆けつけ、シンは部屋の隅に追いやられた。
シンの視界がグラリと揺れる。壁に背をつけ、そのままズルズルと座り込んだ。目の前では処置が始まっている。自分の身体のことであるにもかかわらず、まるで他人事のように感じた。
――このまま、『俺』は死ぬのかな…
と、ぼんやり思いながら。
シンはポカリと目を開く。消毒薬の匂いがして、白い天井が見える。
――そっか、ここは病院だった
ベッドに横たわっていた。もしかしたらあのまま、気を失ったのかも知れない。頭痛がひどかったし、精神状態は最悪だった。不快な機械音が耳に響いて、吐き気を誘った。しかし今はそう言った症状はなく、頭痛も止んで、気分もすっきりしている。ずっと睡眠不足気味だったのが、この一時(いっとき)の眠りで解消されたのだろう。
と、右手に温かみを感じた。誰かが手を握ってくれている。
「シン」
自分の右手に視線を移すシンの耳元で声がした。首を声のした方向に向けると、緑色の瞳がシンを見ていた。
「シン」
アスランだ。シンは二、三度瞬きをする。今のは聞き違いだろうか? 彼は『シン』と呼んだ。
「ア…スラン?」
喉がカラカラして、うまく声にならない。これは経験したことのある渇きだった。
「シン。目が覚めたか?」
「な…ぜ?」
なぜ、アスランは『シン』と呼ぶのだろうか。自分は今、『キラ』のはずだ。日常生活に復帰するため、最終チェックを受け、その結果を『シン』の病室で待っていた。
――まさか
無意識に身体が起き上がろうとする。胸に走った痛みがそれを許さなかった。吸い込んだ息を吐き出せず、右手の中のアスランの手を強く握った。彼のもう片方の手が額に触れるのを、治まりつつある痛みの中でシンは感じていた。
「肋骨にヒビが入っているんだ。急に動くと痛いぞ」
アスランの手は額から頭に向かってゆっくりと撫でさする。何度も、何度も。それに合わせてシンの呼吸は徐々に回復した。痛みが薄れるのと同時に思い出す。肋骨にヒビを入れているのは『シン』だ。数日前、見舞ったアスランから聞いた。間違いない、今、自分は『キラ』ではなく、『シン』なのだ。
戻ったのか、それとも今までのことは全て夢だったのか。
看護師が緊張の取れた腕に注射をする。少し身体が楽になった。
「どうやら、今度ははっきり意識が戻ったらしいね?」
様子を見に来た医師が説明する。一ヶ月近く昏睡状態だったシンの容態は、三日前の午後から急変。ほどなく覚醒して、それからは眠ったり起きたりだったらしい。起きている時間は短く朦朧としていたが、尋ねることには答えることは出来て、
「何か欲しいものはあるかと尋ねたら、『アスラン』と答えたことは覚えているかい?」
と医師は笑った。だから今、傍らに彼がいるのだと。
シンは赤面した。まだアスランの手を握っていることに気づく。慌てて外した。今度はアスランが笑む。シンは自分が体中で赤くなっているように感じた。
医師はコンピューターが示すシンの今の状態を確認して、明日からは一般病棟に移れるだろうと説明した。それから「お大事に」と添えると、その場を離れた。
そしてまたアスランと二人きりになる。
「意識が戻って良かった。あのままだったら、ザフトにとっては大損失だからな」
珍しくアスランが冗談を言うのは、シンがいつまでも赤面して沈黙しているからだった。その気遣いが一層、シンの口を貝にする。自分はいつもそうだ。彼の前では素直になれない。思うことを言葉に出来ない。壁にかかる時計が表示する日付はウィーク・デイで、時刻は本来、アスランの勤務時間。彼は仕事を抜けてシンについてくれていることがわかるのに、礼の一言も出てこなかった。
「気分はどうだ、シン?」
気遣ってくれるアスランに、夢の中の彼が重なった。温かな緑の瞳はシンを見る。穏やかな声はシンの名を呼んだ――夢の中では呼ばれることのなかった自分の名前を。
「…長い夢を見ていました」
アスランの問いからずい分と経って、シンはやっと答えを紡ぐ。それは答えにはなっていなかったが、アスランは気にする風でもなく、「良い夢だったか?」と話の糸を繋いでくれた。
「いいえ、あんまり」
シンは目を伏せる。
あれはシンの心の奥底に仕舞った想いが見せた願望だ。アスランと共にありたいと思う気持ちは、常に彼の後ろに目隠れするキラ・ヤマトの影にシンクロしたのだろう。キラになりたいと願ったことはないはずなのに、心の成長よりも先んじる想いは、いつの間にかシンの焦りを助長していて、あんなものを見せたに違いない。
夢はアスランの色々な表情を映し出した。見掛けによらず不器用なところ、相手を思いやる何気ない仕草、それから不安を隠して微笑む瞳。しかしそれらは、すべて『キラ』のためのもの。恋人を求めて泳ぐ腕も、甘い吐息も、喜悦に潤む瞳も、『キラ』の存在をシンに思い知らせる道具でしかなく…――幸せであり、辛い夢だった。
「悪い夢から覚めて良かったな?」
アスランの声に促されて、シンの閉じた目から涙が零れた。「はい」と答えるのが精一杯だった。
足音が聞こえて、シンはあわてて涙を拭う。
「アスラン」
その声を聞いて、シンは目を覆った手を外した。
――キラ・ヤマト…!?
アスランの傍らに立ち、彼と二言三言、言葉を交わすのはキラ・ヤマトだった。
シンと目が合うと、あの神秘的な紫の瞳がゆっくりと笑んだ。シンは横たわったまま、ペコリと首を折る。ヒビの入った肋骨がちりりと痛んだ。
「すっかり意識が戻ったようだね、大丈夫かい?」
シンが顔を一瞬しかめたので、キラの笑みが消え、気遣う様子でベッドに一歩、近づく。
「はい。あなたは?」
「僕は大丈夫。君が庇ってくれたおかげで、脳震盪だけで済んだよ。大したことなかったのに一ヶ月近くも休んだから、イザークにこき使われているけれどね」
今日は簡単な身体チェックを受けに来ただけで、これから公使館に戻り、イザーク・ジュールを手伝うのだと再び笑みを作った。この答えにはアスランが少し表情を曇らせる。
「今日はもう帰ったらどうだ?」
「疲れていないよ」
「でも、三日前だって急に…」
「そうやって皆が僕を甘やかすから、いつまでも本調子にならないんだって、またイザークが怒る」
キラの笑みはシンからアスランへ移動した。アスランの表情が緩んで、苦笑が浮かんだ。きっとイザークの不機嫌な顔でも想像したのだろう。夢の中にもそのイザークは出てきた。そして「誰も彼も、きさまを甘やかし過ぎだ」とやっぱり不機嫌だった。
「そろそろ行くよ。お大事に。アスラン、また後で」
キラはそう言うとICUから出て行った。アスランがその後姿を見えなくなるまで目で追う。気遣わしげに。脳震盪がどの程度だったかわからないが、一ヶ月近くも休んだのだから、軽いものではなかったろう。
不思議な符牒だ。夢の中のキラも事故から一ヶ月ほど静養していた。
やがて彼の姿が視界から消えると、アスランはシンに向き直る。
「あの人は大丈夫なんですか?」
「すっかりね。脳震盪でところどころ記憶を失っていたんだけど、それも三日前に思い出して、昨日から公使館に入っている」
「三日前?」
「ああ。実はシンの容態が急変した時、キラが丁度、その場にいて」
ドキリ…とシンの胸の内が鳴る。肋骨が軋んだ。
「処置を見ているうちに彼自身も調子が悪くなって倒れたんだけど、気がついたらすっかり記憶が整合していたらしい」
夢の光景が、シンの記憶に押し寄せる。見えない気圧で身体がベッドに沈みこむ感覚――シンの鼓動が早鐘となって、体中に響いた。
あれら全て、夢ではなかったのか?
「シン? どうした? 気分が悪いのか?」
――アスラン
夢と現実の判別が出来ない、今、この瞬間さえも。そのどちらでも鮮やかなのは、アスランの存在だけ。緑の瞳が『キラ』と『シン』を繋ぐ。
シンはその瞳から逃れるように、目を逸らした。
Tacitum vivit sub pectore vulnus.――傷は静かに胸の下で生きる
2006.07.08
Tacitum vulnus(タキトゥム ウルヌス)=静かな傷
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