薔薇は紅茶色の花弁をしていた。
「香りもアールグレイと言う紅茶によく似ているんですよ。どうです? 良い匂いでしょう?」
花屋の店員が一本取って差し出した。シンは鼻を近づける。確かに良い匂いだ。しかし紅茶に興味のない彼には、花の匂いと区別がつかなかった。
シン・アスカが花屋にいるのは成り行きである。たまたま通りかかって、色とりどりの花が並ぶショーウィンドウに目を止めたら、店先にいた店員が声をかけてきたのだった。
今日は2月14日。聖ヴァレンタインの祭日である。この日は好きな相手に花を贈ると言う日だった。シンが生まれるずっとずっと以前から――太古の昔から続く慣習である。街行くほとんどの人の手に、大小の違いはあれ、花束があった。だから店員がシンに声をかけたのも当然のことなのである。
シンは今日がヴァレンタインであることを忘れていた。思春期を迎えた頃、すでに世界は戦場で、家族を失った怒りだけで生きていた彼にとって、聖ヴァレンタインの祭日は自主訓練か、もしくは一日中眠る日でしかなかった。触れれば感電しそうな一種独特の雰囲気を纏っていたシンに異性は、恋愛対象としてではなく同僚として接した。そして彼自身にも余裕が無く、甘い思い出はヴァレンタインになかった。
今日から3日間のオフではあったが予定は無く、とりあえず街に出てみた…と言ったところなのだ。
「1本ください」
シンは鼻先の花を指差した。
「1本? 大切な人に贈るのに1本なんですかぁ?」
大げさに店員は言った。「私が彼女だったら、がっかりだわ」と付け加えて。
しかし1本でも、普通の薔薇5本分くらいの値段がする。
「それだけ特別な人にプレゼントする花なんですよ」
店員は熱心に勧める。彼女が満足する花束にしたなら、この休暇中の夕食が慎ましいものになることが想像出来た。
「じゃあ、2本」
シンにはそれが精一杯だ。防腐剤が配合されていない天然の花は、蕾で買っても1週間しか保たない。
店員は不満ながらも、『初めて彼女に贈る』風情に好感が持てたらしく、きれいにラッピングしてくれた。シンもヴァレンタインの風景に相応しい体裁となったわけである。
薔薇を1本取って、シンは慰霊碑の前に置いた。潮風がすぐに花を揺らす。シンはしばらくその様を見つめていた。
「オーブに居るんだから、もう少し来ればいいのにな。ごめんね、父さん、母さん、マユ」
3年前のメサイア陥落で戦争は終結した。以後、シンの所属する艦隊はオーブのオノゴロ島沖公海上に駐屯している。母艦ミネルバ艦内で起居する生活は変らない。長期休暇にはプラントに帰還することも許可されていたが、シンは一度も戻らず、オーブ領内に用意されたプラントの福利厚生施設で過ごしていた。だからこの戦没者慰霊碑にはいつでも来れるはずなのに、今日を入れて5回に満たない。来ればシンは思い知らされる――自分が独りだと言うことを。失ってから5年、時間感覚ではそれ以上に感じていたが、それでも思い出すと一瞬で戻ってしまうのだ
今日だって来るつもりはなかった。ただ『特別な人にプレゼントする』花を思いがけなく買ったからだった。
「俺は元気でやってるよ。ミネルバは来年、宇宙艦隊に戻るから、そうなったら気軽に来られなくなる。だからこれからはもう少し来るようしないとね」
風で転がって台座から落ちそうになる薔薇を、元の場所より更に奥、碑銘の下のなるべく風があたらない所に置きなおす。
「また来るよ」
薔薇から手を離してそう呟くと、シンは続く遊歩道を海岸沿い幹線道路に向かって戻った。
ドミトリィ(休暇滞在用の寮)は歩いて小1時間ほど行ったところだ。もともと歩くつもりでラウンド・カーは戻していた。シンは海を視界に入れながら、歩き出した。
薔薇はもう1本、彼の手にある。2本とも慰霊碑に捧げてくれば良かったのに、1本を残した。しかしそれは意識してのことではなく、遊歩道を歩いていた際に持っていることに気がついた。
花屋の店員が「それだけ特別な人にプレゼントする花なんですよ」と言った時、家族よりも先に別の顔が浮かんだことを思い出す。
緑色の瞳、群青の髪、穏やかな笑みが印象的な――アスラン・ザラ。
シンの足が止まる。そうだ、アスランの顔が浮かんだのだ。
――なんで?
アスラン・ザラとはこの3年、まともに話したことがない。シンは公海上に、そして彼は駐在武官としてオノゴロ島のプラント公使館に詰めていた。時折、仕事の席上で彼の姿を見かけたが、交わすのは挨拶程度の言葉で、会話とは言えないものだ。以前はアスランのチームで戦場を共に駆けた。ずい分昔のことのように感じる。それほど2人の立場は変ってしまった。
「シン」
歩くシンの脇に車が停まった。窓から彼を呼び止めたのは、思い浮かべていた顔――アスラン・ザラである。
「こんなところでどうしたんだ?」
この偶然はなんだろう?
「連休が取れたから外出してました。今から戻るところです」
「車は?」
「そんなに遠くないから、訓練がわりに歩いて帰ろうと思って」
「スコールが来るぞ。良かったら、乗って行く?」
アスランは西の空を視線で示した。年中、温暖で多湿なオーブは、2月からのふた月余り雨季に入る。日に一度はスコールに見舞われた。
シンは彼の言葉に従い、車のドアを開けた。
この偶然はなんだろう…?
助手席に座り、シンは少し緊張していた。2人きりで話すのは、どれくらいぶりだろう。『メサイア』以前、シンがアスランの指揮下に配属されていた頃、それ以来かも知れない。あの頃だって、親しくと言うような雰囲気で話したことはなかった。2人の時はたいてい、何かしらの問題が間にあり、そして常にシンはアスランに対して素直のなれずにいたから。
黙ったままのシンに、アスランが話しかける。「ミネルバのクルーはどうしているか」とか、「今はどんな任務が主なのか」とか、その他の他愛もないことを。そうしたアスランの気遣いもあって、シンの受け答えは少しずつ長くなる。
予想通りスコールになって、激しい雨がフロントガラスを打った。視界が悪くなったので、アスランは車をオート・ドライブに切り替え、ハンドルから手を離す。それから体を助手席の方に向けた。
「その花は?」
シンの手にある花を見る。
「これは…」
「ああ、ルナマリアに?」
答えを先回りするようにアスランは続けた。シンは「違いますよ」と慌てて否定する。
「みんな誤解しているようですけど、俺とルナはなんともありませんから」
「そうなのか? ずっとチームを組んでいるし、新型のフォーメーション・パートナーも彼女だと聞いているよ」
「俺が希望したわけじゃないッスよ。身体能力のマッチングが良いだけです」
確かに精神的に不安定だった一時期、シンとルナマリア・ホークは互いに救いを求め合ったこともあったが、それは戦時下と言う異常な状況がさせたことだ。戦後は良き同僚としての立場から、踏み出したことも、踏み出したいとも思ったことがない。
「第一、ルナには好きなヤツがいて、この休みだってルナ・ベース(月基地)に会いに行ってますよ」
「月に? それは知らなかった。ちゃんとヴァレンタインを楽しんでいるんだ。じゃあ、その薔薇は誰に贈るつもりなんだ? おまえだって、今日はオフなんだろう?」
「これは成り行きで…」
シンは薔薇を買った経緯を話す。やっと普通に話せるようになってきた。1本買うつもりが店員に押し切られて2本になったことを言うと、アスランは笑った。
「2本とも手向けてくれば良かったのに」
「それもちょっと癪(しゃく)かなと思って」
本当のところ、1本残したのは無意識だったのだが、それを言うとまた突っ込まれそうなので。「シンらしい」と添えて、アスランはクツクツと笑う。
「俺のことより、あんたはどうなんです? 一昨日からオフでしょう? プラントだったんじゃないんですか?」
彼の笑いが止まらないので、シンは話題を振り替えた。
アスランがオフを利用してプラントに帰ったことは、日時データの送信の際に知っていた。やっぱりヴァレンタインは『彼』と過ごすんだな…と、ぼんやり思ったことを覚えている。実直で勤勉なアスランは有給休暇も消化しきれていないはずだから、一週間は戻らないだろうとも。
「ヤマト中尉に会いに行ったんでしょう?」
『彼』キラ・ヤマトの名前を出すと、アスランの笑いが止まった。一瞬、その頬が朱くなったように見えたが、次にはもう戻っていたから、シンの錯覚だったかも知れない。
「それだけが目的じゃないけど」
否定はしなかったが、その答えにシンは「あ」と気付く。
――『血のヴァレンタイン』か…
聖ヴァレンタインがプラントで祭日になったのは、過去の悲劇を忘れないためだ。24万人余の命が核攻撃で消滅した日。アスラン・ザラはその日に母親を亡くしている。悲劇の舞台ユニウス・セブンはすでになく、その座標には慰霊碑コロニー『セナタフ』が浮かんでいて、毎年、追悼式が行なわれるようになっていた。
「キラはラクスに随行してセナタフに行くことになったので、俺は帰ることにしたんだ」
「あんた…あなたは出ないんですか?」
「せっかくのオフなのに、形式的な行事で疲れたくないよ。それに場所なんて関係ない。亡くなった人を想うのは独りでも出来るし」
アスランは明るく言った。また気を遣わせてしまったのかと、シンは小さく息を吐いた。それから声のトーンを上げて、彼の言葉にわざと突っ込む。
「じゃあ、やっぱりヤマト中尉に会うのがメインじゃないですか。どこででも追悼出来るんでしたら」
「あ、そうか。そう言うことになるんだ」
2人は顔を見合わせて笑った。
『メサイア』の英雄キラ・ヤマトとアスランが友達以上の関係であることは、周知のことだった。自然妊娠での出生率が低いプラントでは人工授精が一般的だったから、同性婚も認められている。キラはアスランとのことを隠そうとしなかったが、ベタベタと公私を混同したことは一度も無く、むしろお互いを尊重しあって職務を果たす姿に好感を持たれていた。
あの人には叶わない。一度も超えたことがない壁だ。戦闘能力においても、立場においても――アスランを想う気持ちも。
――アスランを想う気持ち?
雨が止んで、雲間から陽が射し始めた。窓を開けてそれを見るアスランの横顔に、シンの視線が止まる。
アスランを前にすると、シンはいつも素直になれなかった。反抗するつもりがなくても、言葉はそれを裏切って、心にもないことを言ってしまったこともある。アスランはそんなシンに辛抱強くつきあってくれた。彼が気にかけてくれることを、無意識に求めていたのかも知れない。
――そっか、俺はこの人が好きなんだ
握られたままの薔薇がそれをとっくに証明している。慰霊碑に行ったのは自分に対する言い訳だ。花は手向けるために買ったのであって、他意はないのだと。しかし結局、花は残ってしまった、シンの手の中に。
窓から入る風が、物言いたげな花弁を揺らした。
車はドミトリィの前に停まった。シンは助手席を離れ、運転席の窓の外に立つ。アスランは窓を開けた。
「久しぶりに話せて楽しかった。座っていた時は気付かなかったけど、ずいぶん背が伸びたんだな?」
見上げるアスランの緑の目は、未だにシンを子供扱いしているようだった。6センチの身長差は超えたが、2才の年令差はいつまで経っても縮まらないのだから、そう映っても仕方がない。
シンはアスランの鼻先に無雑作に薔薇を差し出した。
「何だ?」
アスランは反射的に薔薇を手に取った。
「差し上げます」
「俺に? なぜ?」
「あなたが好きだから」
アスランは目を見開いた。
「この花は、あなたに贈るために買ったんです。最初はわからなかったけど、今はわかる。俺はあんたが好きなんだ」
シンは薔薇を持つアスランの手を取り、窓に一層引き寄せた。それから意味がわからず呆けている彼の唇に、唇を重ねた――重ねただけの子供のキス。彼の唇は温かく、シンは体温が1℃上昇したように感じた。
唇と手を離した。アスランが2、3度瞬きする。シンは笑った。
「本気にしました? 相変わらず、冗談が通じないッスね」
「シン」
からかわれたと知ったアスランは語調を強めてシンの名を呼んだ。懐かしい、あの頃と同じだ。よくこの口調で呼ばれた。時に嗜めるように、時には諭すように。シンの知っているアスラン・ザラの声だ。
「おまえも相変わらずだ。どうやら成長したのは、身長だけみたいだな?」
「変りますよ、俺」
アスランが変っていないのなら、自分は変ろう。2年の差を感じさせないくらいに精神的に成長しよう。あの人に引けをとらないくらいに、あの人と並べるくらいになって、アスランの前に立てばいい。今はまだ、ダメだ。
――俺は気付いたばかりだ。言ったところで、伝わらない
だから冗談にすりかえる。
「ありがとうございました。またいつか」
シンが敬礼をすると、アスランも返した。
「またいつか」
そうして車は動き出す。
『またいつか』は不確定で曖昧な言葉。次に会えるのはいつだろう。今日のような偶然が再び巡り来た時に、同じ自分ではいたくない…と、シンは滑るように去って行く車を目で追いながら思った。
耳には彼の声が、唇には彼の唇の感触が、そして手には薔薇の感触が残っている。
「さ、頑張らなけりゃな」
緑色の残像を反芻しながら、シンはドミトリィへ向かって踏み出した。
2006.02.06
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