渦巻く潮の轟きが、鯉蔵の胸によみがえる。
真昼の光と海からの照り返しに両の眸子は景をとらえていなかったが、洋々たる海の波動ははっきりとわかった。そしてその波動は、来い、と鯉蔵を呼んだのだ。
お千代を抱いて崖から身を投じた瞬――否、逆巻く海原に手指がふれたそのとき――水面が鏡のごとく鎮まった。飛び込んだ海中は凪のように穏やかだった。
「始末をせぬは、なにゆえ?」
「ぬしがまだ人≠ナあったからよ。三分ほども力に喰われていたが、それでもぬしは人の情を持っていた」
すぐ傍らから声がするも、天狗は後ろにいる。
「渦を鎮めたとき、なにを思うていた?」
「なにも」
「思うていた筈ぞ。おのれの為だけであったなら、ぬしは力に喰われていた」
横手に気配を感じ、鯉蔵は顔を背ける。
(思うてなど……おらぬ)
ただ自分は、
――おれが欲しくば奪ってみよッ!
伊十郎へと叩きつけたおのれの言葉に戸惑っていた。助力を拒み、なにもかも独りで背負おうとする伊十郎に腹が立って、伊十郎の気持ちを自分へと向けさせたかった。
「断髪の若侍か」
心を覗かれ、ハッとする。首をまわして見上げると、狐火に照らされた皺深い翁面がぬるりと笑う。
「おれは、奴に勝ちたいのだッ!」
鯉蔵は吼えた。頬が燃えるのを止められぬ。
「初めて逢うたのだ。血が滾るほど、剣を交えたいと思う相手に――」
伊十郎と初めて刃を合わせた羽音川の、葦原を吹き抜ける風の音や川のせせらぎさえもはっきりと思い出すことができる。凶賊百蛇党を独りで倒したという鷹見伊十郎の噂を耳にし、勝負したいと思ったのだ。
知り合いの河童に頼んで居所を探してもらい、闇の河原で姿を見つけた。傾き者の風体をした、背の高い男だった。足運びや背中から手練れであるのが窺えたが、立ち止ったり溜息をついたりして、考えごとをしているふうだった。
鯉蔵は気配を消して抜刀した。夜討ちは卑怯であるも、それで討たれるなら相手にならぬ。闇に紛れて背後から近づき、息つく間なく一閃する――が、獲物は瞬時に抜き合わせ、鯉蔵の初太刀を止めた。
(できるッ)
肌が粟立つほどの歓喜が、身ぬちを駆けた。あとはもう血肉の滾るまま双刀を振るい続けた。
「尻を許したは、その侍か?」
天狗の寂声に、想いから引き戻される。
「伊十郎ではない……皆川という侍に手籠めにされたのだ。皆川は斬る!」
「ほう、なにやら入り組んでおるの」
天狗が愉快げに笑う。
「その伊十郎という侍になら、尻を許しても良いと思うか?」
「なにが云いたい?」
「わからぬか」
天狗がふうと息をつく。鯉蔵も一つ息をつき、躯から力を抜く。
「伊十郎は、おれを抱きたいと云うたわ」
「ほう」
「おれに首をやると、誰にもやらぬと……約をした」
「ぬしに惚れているな」
「冗談ではない。恵んでもらうなど真っ平だ。おれは堂々勝負して首をもらう。渦を鎮めたとき、奴のことを思うていたとしたら、島で死なれたくなかっただけのこと」
「なるほど」
天狗はしばらく黙っていたが、
「伊十郎とは、どのような男だ?」
またも訊ねる。
「知らぬ」
鯉蔵は云い捨てた。大河童といい、天狗といい、どうしてこうも知りたがるのか。
「剣の他はどうでもよいのか?」
「他に何がある?」
「人柄とか、役向きとか、あるだろう」
「莫迦だ」
「莫迦」
「他人の為に剣を振るう。背負いものが多い。それゆえ雁字搦めになって動きがとれぬ」
「人とはそういうものぞ」
「他人の事など捨て置けば良いものを、奴は捨てぬ――莫迦だ」
「その莫迦に熱うなっているのは誰ぞ」
下腹に嵌りこんでいた陽根がふいに太さと硬さを持ち、あッ、と声を上げる。それだけではない。鯉蔵の身ぬちでぐっと反り返り、みちりと膨れて切ない箇所を突く。
「ううッ……」
淫蕩の潮がじわりと寄せて、鯉蔵は身震いした。
「悦いか?」
掛かった声に凝然とする。伊十郎の声だ。
「戯(ざ)れるなッ!」
鯉蔵はかっとして振り向いた。そのままギヤマンの眸子を見ひらく。
肩にかかるほどの断髪。涼しげだが鋭さの勝った眼。乱れた前髪が、やや浅黒の頬に落ちている。眼が合うや、黒い瞳がほそまり、情の深そうな厚い唇がほころぶ。鍛え込めた逞しい肩、厚い胸、引き締まった若い裸体――背後から鯉蔵を抱いていたのは、紛れもなく伊十郎であった。
「おぬし……なぜ………此所に?」
「さあ」
伊十郎が顔を寄せてくる。肩ごしに顎をすくわれ唇を吸われる。そのまま突き上げられ、思わず悦がり声を上げる。
「よせ……」
自分の声に羞恥して、伊十郎を押しやる。交合を解こうとするも背中から抱きすくめられる。
「放さぬ」
さらに硬さを増した陽根がゆさりゆさりと動きだし、官能の潮がうねりだす。
「うッ……伊十郎」
揺すり上げられるまま声を上げる。声を殺そうとて喉の奥から溢れでて、どうにもならぬ。次第に甘く掠れて尾を引きだし、烈しい羞恥に眼がくらむ。
「よせ……伊十郎、放せッ」
腰をひねって押し離そうともがくも、逆に深く受け容れさせられ腰が蕩ける。
(このままでは……)
気を遣ってしまう。
「伊十郎ッ!」
鯉蔵は怒鳴った。
打ちつける腰が止まる。
「いやか?」
気弱な声が降ってくる。
「……いやでは……ないが」
「好きか?」
「……わからぬ」
「おれは好きだ。おぬしが欲しい」
「莫迦な……」
「奪えと云うたは、おぬしぞ。それゆえ奪いに来た」
躯を返され正面から伊十郎を見上げる。なにか云わねばと口をひらいた直後、深々とまた陽根を打ちこまれた。
(これは……天狗の幻術だ)
伊十郎は肩に矢傷を負っているも、目の前の伊十郎に傷はない。だが肌合いも、温もりも、汗の匂いも、鯉蔵の知る伊十郎である。
「ああ……」
喘ぎを洩らした唇を、厚い唇が塞ぐ。下腹に伊十郎の男が深く入りこんでは引き、また穿っては引き抜かれる。
(色に溺れるなど愚かな……)
おのれをなじるも、うねり立つ潮の波には逆らえぬ。
寄せては返す喜悦の波間で、鯉蔵は伊十郎と堅く抱き合ったまま、海の底へと沈んでゆく幻影をみた。やがて二人は泡となり、ゆっくりと溶けてゆく。
おぬしは、おれの――
言葉のつづきが聞こえない。
ふいにまばゆい光が差し、意識が上昇する。
「伊十郎……どこにいる?」
「此処だ」
声の方へと眼を凝らすも、見えぬ。ふいに強い力で手を引かれる。
「おれは此処にいる」
鯉蔵は笑った。見えぬが伊十郎も笑っている。触れあう指から放たれた熱に包まれる。
(ああ……おぬしは、おれの――)
烈しく精をほとばしらせ、白い躯ががくりとのけぞる。
意識のない裸体から、天狗は腰を退いた。臥所に横たわる若い躯を返すと、笞痕がわずかに残る白い背中の皮膚の下で、金朱の鱗を纏った小竜が気持よさげにうねっている。
「鷹見伊十郎――」
天狗はつぶやき、盥に張られた水鏡をのぞく。
戯れながら天空へと飛翔する一頭の鷹と、一匹の黄金竜――
「ついに見(まみ)えたか」
眩しげに眼をほそめ、口辺をゆるめた。
了
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