[ 一九四七年 十月 ]
日曜の朝の礼拝が終わると、子供達はいっせいに古びたアップライトピアノの周りに群がった。聖歌の伴奏を担当する青年に、好きな曲の演奏をせがむためである。子供達が口々に放つ曲名を、青年は少しも面倒くさがらずに聞いて弾く。知らない曲は子供に一度歌わせ、二度目にはちゃんと弾いてみせた。
司祭のマイケル・スペンサーは礼拝の後片付けをしながら、その様子を微笑ましく見ていた。後片付けの当番にあたっている聖歌隊の三人の少年達はうずうずしている。彼らも早くあの輪に入りたいと思っているからだ。「もう行って良いよ」とスペンサーが言うと、満面に笑みを浮かべて輪の中に加わった。
ここ三ヶ月で子供達は急速に青年に慣れてきた。「青年に」と言うより、彼の容姿にと言うべきか。この辺りでは珍しい東洋人だと言うこと以外に、彼ことナオの左顔面には左目を潰して縦に渡る、見るも無残な裂傷痕と、首筋の左半分から肩口に火傷の痕があったからだ。顔面の一番ひどい部分が覆い隠せるほど前髪が伸びたのと、ナオ自身が人見知りを解いたことで、人好きのする気さくで優しい性格がわかってきたからである。
スペンサーは一年半前の春、ハワイの教区で司祭をしている神学校時代の恩師リードから、元日本兵捕虜を預かってもらえないかと言う内容の手紙を受け取った。日本との戦争終結を受けて捕虜は順次送還されたが、その元日本兵はケガの回復が遅れていた上に記憶喪失で帰ることが出来ず、ハワイの教会預かりになっていた。
リードは「彼は神に愛されている」と付け加えていた。当時、海上戦で敗れた敵兵を見つけた時には掃射することが米軍の中では暗黙の了解だったが、彼を見つけたのがそれを固く禁じた艦長指揮下の飛行艇だったらしい。左顔面には何かの大きな破片が突き刺さったままで、首から肩にひどい火傷を負っていた。その上、骨折した左肋骨の一本で内臓が損傷。かなり危うい状態で、本来ならそのまま捨て置くレベルだったのを、軍医と海兵が賭けの対象にして命拾いしたとのことだった。記憶はないものの教養の高さが窺え、英語も少し出来る。おそらく士官クラスだろうとリードは推察もしていた。
リードがスペンサーを預かり先に選んだのは教区が北米内陸部の牧畜地帯で、ハワイほどには日本人に対して風当りが強くないと考えたからだった。スペンサーが住む地域からも戦争に参加した者はいるが、幸い戦死者を出さなかった。パールハーバーからまだ六年しか経っておらず、記憶も鮮明なハワイとは状況が違った。またスペンサー自身が今回の戦争に司祭として従軍、ノルマンディーで敵味方関係なくその悲惨さを目の当たりにした経験を持つ。三十二歳で元日本兵と比較的年齢が近いと思われることも理由の一つに挙げられていた。
スペンサーは二つ返事で引き受けた。そしてやって来たのがナオである。
士官クラスであれば成人しているはずだが、ナオはまだ少年のように見えた。損傷していない右半分の面差しは優しげで、東洋人に対してよく形容される「黄色い猿」はイメージ出来ない。むしろ欧米人のスペンサーの目から見ても美形だと思えた。
「ナオ」と言う名前は本名ではなく、リードによると瀕死の状態で意識がなかった時、うわ言で「ナオユキ」と言う単語を何度も口にしていたので、それを呼び名にしたと言う。
スペンサーもナオの口から「ナオユキ」を聞いたことがあった。ここに来て間もない頃、喉の渇きで夜中に目が覚め、キッチンに水を飲みに行こうと彼の部屋の前を通った時に声が聞こえた。「まだ起きているのか」と覗いてみると、それはナオが夢にうなされる声だった。
スペンサーが部屋に入って彼を揺り起こすと、残った右目が薄く開いた。「大丈夫か?」と尋ねるとスペンサーの首にナオは抱き縋り、「ナオユキ、ナオユキ」と連呼した。まだ覚醒しきっていない様子で、何度も「ナオユキ」と繰り返す。その様子から、「ナオユキ」が人の名前だと推測出来た。スペンサーは安心させようと彼を抱きしめ、背中を優しく摩った。
「落ち着いて、ナオ。夢だ、夢だから」
背中を摩りながら彼の耳に囁きかける。しばらくするとスペンサーの首に回されていたナオの腕の力は緩み、ぐったりと身体を預けて動かなくなった。安らかな寝息が聞こえて来たので、スペンサーは彼をベッドに横たえ、ブランケットをかけてやった――そう言うことが今でも時折ある。ただ不思議なことに、あれほどにうなされ名を呼ぶにもかかわらず、ナオは夢の内容も『ナオユキ』と言う人物のことも何一つ覚えていなかった。夢はともかく、必死に名を呼ぶからにはナオにとって『ナオユキ』はよほど大切な人間だと思うのに。スペンサーはそれが不憫でならなかった。
ナオには教会の自家菜園を手伝わせていたが、ある日、ピアノが弾けることが判明する。クリスマス・ミサの準備で聖堂を掃除していた際、ナオは古びたアップライト・ピアノを磨いていた。蓋を開けて鍵盤の一つ一つを布で拭い始めたかと思うと、次には華やかな音楽が聖堂に響き渡った。その場にいた誰もが驚いて手を止めたのは言うまでもない。手伝いに来ていたクラシック好きの老婦人が、「ショパンだわ」と呟いた。弾き終わったナオは自分でも驚いた風に両手を見ていた。皆が「もっと弾いてくれ」と言うと、戸惑いながらも鍵盤に指を落とし、別の曲を演奏する。それもまたクラシックの名曲だった。
「驚いたな。君はピアノが弾けるんだね?」
「わかりません」
昨日今日で弾ける曲ではないと、クラシックに疎いスペンサーでもわかる。彼は音楽を正式に学んでいる。記憶を失っても身体で覚えたことは簡単には忘れない。毎日のようにピアノを弾いていたに違いない。
ピアノが失われた記憶を呼び戻す糸口になるかも知れないと考えたスペンサーは、以来、聖歌の伴奏をナオに任せている。
するとそれまで敬遠しがちにしていた住人とナオとの距離が少しずつ縮り始めた。大人達は彼が畑仕事をしていると声をかけるようになり、子供達は日曜礼拝の後すぐに帰らず、好きな曲、弾いてもらいたい曲をリクエストするようになった。なかなか人数が集まらなかった聖歌隊に入る子も増えた。練習では聖歌だけではなく、フォスターなどと言った馴染みのある曲も、ナオが歌わせるからだった。
「さあ、みんな、そろそろ帰る時間だよ。ナオにも仕事があるからね」
毎回、『お開き』にするタイミングが難しい。決まってブーイングが起こるのだが、「次は君からだね」と必ずナオが約束するので、それを合図に子供達はおとなしく家路につく。
駆け足で去って行く子供達の後姿を二人で見送りながら、スペンサーは隣に立つナオの横顔を見下ろした。
ナオの記憶の戻る可能性は低い。左顔面に刺さった破片は脳ギリギリで止まっていたらしいが、目に見えないほどの損傷は受けているかも知れないとのことだった。最初に治療を受けたのが巡洋艦の中での応急処置であったし、十分な医療設備ではなかっただろう。ハワイに運ばれてからも昏睡の捕虜にどこまでの治療を施すか。死んでも構わないくらいの扱いだったとしても不思議ではない。
帰る家、家族を持つ子供達を見送りながら、どんな気持ちでいるのだろうか。プレッシャーになってはいけないと思い、記憶に関して触れなかったスペンサーだが、気持ちは聞いてみたい。
「ナオは日本に帰りたいかい?」
彼はスペンサーを見上げ、小首を傾げる。
「何も覚えていないのでわかりません。日本は知らない外国のようです」
(自分の生まれた国なのに)
ナオの答えに、スペンサーは胸が詰まった。一瞬の沈黙で悟ったのか、少し声のトーンを上げて今度はナオがスペンサーに尋ねる。
「あなたは日本に行ったことがありますか?」
「ないよ。でも父が昔、仕事の関係で滞在したことがあるんだ。ちょうど春の花の時期で、とても美しかったと言っていた。君もその花を見たことがあるんだろうね?」
ナオはそれにもまた「わかりません」と答えた。
「いつか日本に行こう。君の生まれ育った国だ、きっと何か覚えていることもあるさ」
スペンサーはそう言って、彼の頭を撫でた。
「さ、中に入ろう。上着を取って来ないと、そんな格好で畑に出たら凍えてしまうぞ」
「大げさです。まだ十月に入ったばかりです。私は寒くても平気のようです」
「見ている私が寒いんだよ」
スペンサーが口をへの字に曲げると、ナオはクスクスと笑った。
「あれ? ピート?」
笑みを途中で止めて、ナオが前方を見た。自転車がこちらに向かって走って来る。乗っているのは先ほど見送った子供の一人、ピートだった。
「神父さま、これ、母さんから!」
彼はオーバーオールの胸ポケットから白い紙包みを出し、スペンサーに渡した。中の物を確認すると、数週間前に注文した品物が入っている。ピートの家はこの辺りで唯一の雑貨店で、教会から目と鼻の先にあり、彼は一旦家に帰ってから母親に使いを頼まれたものと思われた。
「次の日曜でも良かったのに?」
「だいぶ遅れたからって。お代は礼拝の時にもらいますって言ってた」
「ありがとう。お母さんによろしく伝えて」
ピートは自転車の向きを元来た方向に戻して、手を振り振り帰って行く。
スペンサーは子供の姿が見えなくなってから、白い包みをあらためて開け、中から品物を取り出した。掌サイズのハーモニカである。真新しく銀色に光っていた。それを物珍しげに見ているナオに手渡す。
ナオがハワイから持って来たものは、教会から施された衣類数点と靴箱くらいの小さな箱だけ。箱の中には襤褸切れと、ハーモニカが入っていた。襤褸切れは海から引き上げられた時に身に着けていたものの残骸だ。ハーモニカは彼自身が握りしめて離さなかったものだと聞いている。ただナオはそのことはおろかハーモニカの存在自体も憶えていない。しかし大事なものだと言うことはわかった。乗っていた艦は大爆発を起こして沈没し、自身は瀕死の重傷を負ったにもかかわらず離さなかったものだから。
ハーモニカは海水に浸かって内部が錆びついているので音は出ないし、外見も変形して疵がひどく、見たところで記憶を呼び覚ます道具にはならない。それでスペンサーは良く似た新しいものを注文したのだった。ナオが来て一年半、気づくのが遅かったとスペンサーは思わなくなかったが、気づかないよりはマシだ。
ナオは掌の上のハーモニカを黙って見つめている。
「ナオ?」
彼の右目から涙が零れて頬を伝った。
「ナオ? 何か思い出したのか?」
期待が言葉になったが、彼は首を振った。
「いいえ。でも胸が痛いです。なぜかはわからない。言葉に出来ないです。でもとても胸が…」
胸が痛いと言いながらも、ナオは愛おしげにハーモニカを撫でた。
その場限りの思いつきではなく、スペンサーは本当にいつか、ナオを日本に連れて行きたいと思った。何もかも忘れた彼が、無意識に名を呼ぶほど大切な人がいるように、日本にもナオの帰りを待っている人間がいるはずだ。あの戦争を生き延びているなら、きっとナオの帰りを待っている。
ヒュッと、この地方特有の乾いた風が吹き抜けて行った。スペンサーは大げさに身震いして見せると、ハーモニカを見つめたまま動かないナオの肩にそっと手を置き、ドアの中に入った。
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