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 橋中がゲスト出演した六月の市民コンサートは盛況のうちに終わった。
 この市民コンサートは観客のほとんどが参加出演者で占められ、出番が終わった後は全プログラム終了まで、他の団体の演奏を聴く決まりになっているものの強制力はなく、後半になればなるほど空席が目立つようになることが悩みの種だった。
 そこで数年前からゲストを呼ぶことになったのだが、予算上、地域の有名人、例えば出演団体の指揮や指導者だったり、同市出身の若手演奏家だったり、全国コンクールで入賞した団体だったりになる。敷島も一度、ソリストとして弾いたことがあった。彼は常時二つ三つの合唱団の伴奏を引き受けていたし、楽譜メーカーが作成する合唱CDの伴奏も務めたことがあり、一部ではそれなりに有名人なのである。
 運営部のそうした努力にもかかわらず、ゲストの演奏まで残って、主催者の終了の挨拶を聞いて帰るのはせいぜい参加団体の半数。ところが今年は少し違った。四分の三程度の団体が居残ったのである。
 橋中は関東合唱界の名士である高垣教授の口利きで、出演を承諾してもらったゲストだった。参加団体にはいつもより強い規定遵守の通達があったのだが、それよりも事前に配布されるポスターやチラシが効果を発揮したと言えるかも知れない。ポスターやチラシは橋中の顔写真入りだったからだ。
 適当な写真がなく写真学科の学生に撮らせた。ありきたりのプロフィール写真より、たまたま休憩中に撮ったスナップが居合わせた他の学生達に評判が良く、それを加工してみた。ぼんやりと窓の外を眺めている橋中をサイドから撮ったもので、「ぼんやり」が「アンニュイ」に変化していた。
 橋中は恥ずかしがって出すのを渋ったので、オーソドックスなプロフィール写真と共に運営部に送ったら、本人の希望に反してスナップを加工した方が採用されたのである。
 みんながみんな、その写真につられたわけではないだろうが、高垣教授の愛弟子であることと、イタリア帰りの国際コンクール入賞者等々の情報に、更なる興味を加えたことは確かだった。
 その効果は月島芸大のサマー・ワークショップにも派生し、声楽講座の受講申し込みが市民コンサート後に大幅に増えた。結局、定員の二倍近くとなり、会場は一般教室から階段教室に変更された。
「それで今年の音楽学部のワークショップは盛況なのね、なるほど。おかげで飾りつけが楽っつうか、つまらないっつうか」
 足立はコンサート会場で飾りつけた花を直しながら言った。傍らには敷島と橋中が、会場セッティングが終わるのを待っていた。出演者は午後十三時から十七時までのワークショップの間にリハーサル、受講生が移動を兼ねた二十分の休憩時間を取った後に本番と言うタイムテーブルである。
 コンサートは当初、構内に移築された大正後期の洋館、旧西園寺邸の広間で開かれる予定だった。建築学科の実習を兼ね小規模な演奏会に適した会場に改装も為されているのだが、七十人程度のキャパシティでは今回の受講者を収容出来ないので、音楽ホール型大教室に変更になった。足立は催しの際、花のディスプレイをよく依頼される。旧西園寺邸の方がアレンジャーとして遣り甲斐があるらしい。
「にしても、こき使われてるよね、パンちゃん。デートする時間もないんじゃない?」
「する暇も何も、相手がいないし」
「半年も独り身なんて珍しい!」
 足立は大仰に驚いて見せた。
「人を好きモノみたいに言うなよ。誤解されるだろ」
「ふふん。みんなはもう、違う誤解をしているようだけれどね」
 足立は意味深な横目で橋中を見た。
 違う誤解とは、敷島の次の相手が橋中だと言うものだ。先日、大城が送って寄越したメールの「ついに宗旨替えしたんだってな?」で知った。
 敷島は五月からほぼ隔週に一度、橋中と会っている。仕事上の付き合いであったが、会う日の夕食は必ず一緒にとった。
 食事中に話す内容はと言えば音楽のことがほとんどだ。橋中が話すヨーロッパのクラシック事情は、東京ローカルな敷島の音楽脳を刺激する。橋中はおとなしくはあっても、自分の好きな曲やオペラに対しては熱い一面を持っていた。時々、敷島とは感性の相違から、静かだが白熱した談義にもなり、ローズ・テールの閉店まで居座ったこともある。
 橋中と時間を過ごすのは楽しかったが、そこには音楽が必ず存在し、そしてそれだけだった。
「だから変な誤解を招くなよ」
 敷島がそう言うと、足立はわざと聞き流し橋中に向き直った。
「気をつけなよ、パンちゃんって天然のたらしだから。自覚のないバイって一番性質(たち)が悪い。僕達ゲイのある意味天敵だからね」
「え?」
 『僕達』と言った足立に橋中が目を見開いた。
 ゲイかどうか、橋中からは聞いたことがない。だから今もって敷島には彼の性的指向がどちらかわからなかった。足立の言った『僕達』に対する反応は、ゲイと見られたことに驚いたのか、それともゲイと知られていたことに驚いたのか。一瞬見せた表情は次には消えていた。
「敷島さんってもてるんですね」
「来るものは拒まず、去るものは追わずなんだよ。だからさぁ、男に迫られても成り行きで行っちゃうタイプなの。こんな『本気にならない男』に惚れても虚しいだけだから、君も気をつけなよね」
「馬鹿なこと言ってないで、さっさと仕事しろ。こっちもソプラノが来たから」
 会場セッティングの時間を見計らって、ソプラノがホールに入ってきた。今回は高垣教授が希望したバリトンの『魔王』と、ソプラノの『オンブラ・マイフ』、デュエット・ヴァージョン『コン・テ・パルティロ』の三曲が演奏される。『コン・テ・パルティロ』は英語版で大ヒットした『タイム・トゥ・セイ・グッバイ』のイタリア語の原曲である。ソプラノは大学院生だった。
 敷島はピアノの前に座った。リハーサル一曲目はデュエットで、橋中とソプラノは立ち位置を打ち合わせる。その間にライティングの調整が行われた。
 『コン・テ・パルティロ』は1コーラス目を女声、2コーラス目を男声、3コーラス目は二人でと言う構成になっている。二人はただ立って歌うか、少し演出を加えるかと楽しげに話していた。時々、指ならしで弾く敷島のピアノに合わせ、軽く歌詞を口ずさむ。
 足立とのやりとりで自身がゲイであるかどうか、橋中は否定も肯定もしなかったが、打ち合わせの様子を見るかぎり、マイノリティには見えない。ソプラノの学生は目鼻立ちがはっきりしていて、美人の部類に入る。二人が並ぶと、どことなく華やかな雰囲気を醸し出した。多少、ソプラノの方が恰幅よく見えるのはご愛嬌だ。二人が意気投合して、明日から交際を始めても、誰もおかしいとは思わないだろう。少なくとも、足立が異性と並ぶよりも自然で普通だった。
「気になる?」
「うわっ」
 不意に耳元で囁かれ、敷島は思わず鍵盤を指で押さえつけた。不協和音が大きく響き、橋中達が振り返ったので、足立が「何でもない、何でもない」と手を振った。
 足立を追い払うためには、リハーサルを始めた方が早い。敷島が二人を見ると立ち位置が決まって、橋中はいつでも始められると言うつもりの笑みで頷いた。
「注意するのが遅かったかなぁ」
 足立はため息をつきそう言うと、リハーサルの開始だと見て敷島の側から離れようとした。
「何がだよ?」
 それを引き止める。彼はそっと敷島の耳元に口を寄せた。
「彼、パンちゃんのこと、好きになりかけてる。だから本当にその気がないなら、思わせぶりな態度はよした方がいいよ」
 早口で、しかしちゃんと聞き取れる調子で言うと、敷島の頬を軽く叩き今度こそ離れて行った。
 最初に彼との付き合いを勧めたのは、誰あろう足立である。それを今度は忠告する側に回るとはおかしな話だと思っていると、視線を感じ、目を向けた。互いの視線が刹那の交叉を生んだ後、橋中が顔を背ける。今の足立の所作で誤解されたかも知れない。
――違うから、足立とはただの友だ…
 と、心の中で言い訳する自分にはたと気づく。足立と同類と見られることに対してではなく、足立とただならぬ関係だと見られることに対しての言い訳だったからだ。
「先生?」
 ソプラノの学生が鈴を鳴らすような高い声で敷島に呼びかけた。橋中に視線を止めたまま、固まっていたらしい。
「ああ、ごめん。じゃあ、始めよっか」

   
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