(7)


 リハーサルが終わって本番まで小一時間あった。敷島と橋中には同じ控え室が用意され、着替えを済ませた後、九月のコンサートの件や、今後の予定など雑談する。橋中は年末の第九と年明けのオラトリオにソリストとして参加することが決まっていた。当面、オペラは考えていないとの事だったが、オファーは何本か来ているらしい。
 ドアをノックする音がした。敷島が「どうぞ」と言ったが入って来る気配はなく、再度ノックされる。橋中が立ち上がりかけるのを制し、敷島がドアを開けた。そこには堂々とした体躯の外国人が立っていた。
「Mitch(ミッチ)」
 彼は目の前の敷島ではなく、頭越しに橋中に呼びかける。ガタンと椅子が倒れる音がして振り返ると、橋中が呆然と立ちすくんでいた。こちらもまた、間にいる敷島を跳び越しノックの人物を見ていた。
「知り合いか?」
 敷島の言葉に橋中は我に返った表情を見せる。
「え…ええ」
「じゃあ、入ってもらったら? 俺は外すから」
 どうも知人がコンサート前に控え室に挨拶に来た風情ではなく、同席する雰囲気でもない。敷島は中に入るよう手振りで促し、彼と入れ替わりにドアの外へと踏み出した。「Grazie」と言うや否や、彼は大股で橋中の方に歩み寄る。「Grazie」はイタリア語の「ありがとう」だ。橋中の留学時代の知り合いだと知れる。
 ドアを閉める時に、敷島はちらりと後ろを窺った。視界の隅でその外国人が、橋中を抱きしめるのが見えた。
 


 
 声楽ワークショップのコンサートにおけるソリスト二人のパフォーマンスは好評で、用意していたそれぞれ一曲ずつのアンコールでは終わらず、拍手が続いた。再度、『コン・テ・パルティロ』を歌い、ようやく受講生たちは満足して帰って行ったのだった。
 ささやかな打ち上げの席が設けられ、珍しく学部長の高垣教授も顔を見せた。よほど橋中のことが可愛いらしく、早めに退席するまで隣に座らせて離さなかった。
 敷島は橋中を見た。彼の様子は傍目には変わらない。が、その手元を敷島は気にした。グラスにはビール。確実に減っては注がれる…が繰り返されていたからだ。
 来客に遠慮して控え室を出ていた敷島は、本番十分前に戻った。客人の姿はなく、橋中は一人だった。彼は酷く憔悴して見えた。深く椅子に腰掛け、敷島が入ってきても床に目線を落としたままだった。歌に影響が出るのではないかと心配したが、それは杞憂に終わる。声は伸びやかで、『魔王』には鬼気迫るものがあった。得意――と思われる切ない曲調の自身用と予定外のデュエットのアンコールでは、目頭を押さえる受講生も少なくなかった。
 しかし実際は何かいつもとは違っている。場に合わせてたしなむ程度と言うには、酒量が多い。楽しげに飲んでいるようには見えても、周りの意識が彼から離れると、頬に影が差した。一軒目ですでに足にきていて、帰る方向が同じの敷島は二次会の参加を断り、橋中と共にタクシーに乗り込んだ。
「大丈夫ですから、みなさんと一緒に行ってください」
 車が走り出したにもかかわらず、橋中はそれを繰り返した。
――こりゃ、相当酔ってるなぁ。
「俺、明日の午前中に用があるんだ。だからあまり遅くまでつきあいたくなくってね。いい口実にさせてもらったわけ」
 嘘も方便だ。気を遣いがちな性格の橋中に、気を遣わせないために。橋中はそれを聞いた後、もう何も言わなかった。
 あきらかにアルコールが回っていると思うのに、橋中は眠りもせず、漫然と窓の外を見ていた。打ち上げの様子では明るくなる酒に見えたが、車中では黙り込んでいる。午後の控え室での表情だった。
 タクシーはまず橋中を降ろすべく停まった。橋中はメーターを見て財布をさぐる。酔ってはいても、ちゃんと頭は回っているようだった。敷島は払っておくからとそれを仕舞わせた。
「この近く?」
「はい。ありがとうございました。おやすみなさい」
「大丈夫なのか?」
「大丈夫、大丈夫」
 橋中は笑って、開いたドアから外に出た。
 ゆらりゆらりと街灯の少ないわき道へ入り、進んで行く。
「大丈夫ですかねぇ」
 とは、タクシーの運転手の言葉だ。確かに足取りはかなり覚束ない。敷島は料金を支払い、橋中の後を追った。
 住宅街の中を抜ける暗い夜道に橋中の鼻声が響いている。以前、ローズ・テールで歌った『私を泣かせてください』だ。ほろ酔い気分の鼻歌にしては、心なしか沈んで聴こえる。千鳥足な足取りとは対照的だ。
 散歩の小型犬がすれ違い様に吠えて、飼い主がリードを引くより早く橋中の足元にじゃれつこうとする。避けようと一歩下がった彼の足は、酔いで踏ん張りが利かず、後ろに傾いだ。倒れこむ寸前のその腕を、敷島がつかむ。
「敷島…さん?」
「危ないなぁ。送るよ」
「大丈夫ですよ」
「嘘つけ、今、転びかけたくせに」
 散歩に戻った犬と飼い主の後姿を見ながら言うと、橋中は苦笑した。
「家、どこなんだ? 確かマンションだったよな?」
 その辺りは一戸建てばかりの住宅地で、マンションは見当たらない。
「家? 僕の? 府中です」
「府中?! まだ先じゃないか、何で降りたんだよ」
 驚いて聞き返す。府中市はここから直線でも二十キロはある。敷島の声に、橋中は「ああ、」と思い出したように続けた。
「違った、それは実家でした。僕のマンションはそこの角曲がってすぐ」
 橋中が指差した五メートルほど先の角を曲がった。はたして目の前には畑が広がっている。土の匂いがした。「あれ?」と橋中は首をひねり、あたりをキョロキョロと見回した。
「もしかしたら、あそこかも」
 橋中の指差した方向を見ると、畑が切れたところに別の住宅地らしき家々の屋根が見え、その中に一棟、十階ほどのマンションが建っていた。しかしここからだと距離がある。歩くと十五分、いや、今の橋中の状態からだとそれ以上かかりそうだった。どうやら降りる場所を間違えたらしい。敷島は彼の後を追って正解だったと思った。
 流しのタクシーは通りそうもない場所だ。一応、降りたタクシーから連絡カードをもらっておいたのだが、橋中は歩いて帰ると言うので、そうすることにした。

   
(6)  top  (8)