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「飲めないんだったら、やっぱり日を改めて食いに行った方が良かったかな」
 橋中の前に出されたのはオレンジ・スカッシュ。
 訪れたのは『ローズ・テール』と言うアルコールが主の店だった。食事をするつもりだったのだが、敷島は夜に一件、個人レッスンの予定が入っているのを思い出した。日を改めるとなると、流動的な面を持つ二人の職業柄、スケジュールが合うかどうかわからない。せっかく初対面の堅苦しさが薄らいできたことだし、時間をずらし目的を「食べる」から「飲む」の方向に変えた。
 しかし喉が資本の、それもクラシック系歌手がアルコールを控えることは、少し考えてみればわかることだった。
「いえ、自分は飲まないんですけど、飲みに行くのは好きなんです。ここは雰囲気が良いですね?」
 橋中は視線を周りに巡らせた。
 ローズ・テールは日替わりの生演奏が売りのライブ・バーである。楽器の演奏や歌、ジャンルもクラシックからジャズ、フォルクローレなど様々、敷島も月島芸大の講師が決まるまで週に一、二度、ピアノ演奏で入っていた。軽食も出すがあくまでもアルコールがメインで、客はどこかで食事を済ませてから訪れる。だから閉店時間が午前二時と遅い。
 今夜はピアノがスタンダード・ジャズの名曲を奏でていた。これはライブ・ゲストがいない時の状態である。
「今日は、時間を割いて頂いてありがとうございました。助かりました。僕一人じゃ、候補も決められなかったと思います」
 橋中があらためて昼間の礼を言うので、敷島は恐縮した。
「こっちの時間に合わせてもらったし、催促みたいで悪いと思ってるよ」
「とんでもない。六月の方は特に急で、本当ならちゃんと曲を決めてから依頼すべきなのに。ご迷惑ではなかったですか? 立浪先生がついでだから頼めって仰ってくれて。…あ、」
 「ついで」は余計だったと思ったのか、橋中は言葉を詰まらせる。敷島は「教授らしいや」と笑った。
「出来ないことだったらちゃんと断るから気にしなくていい。一応、ピアノで食ってるしね。それより、その敬語みたいなの、何とかならない? 二コ上なんて、タメと変わんないし」
「でも」
「他のヤツは知らないけど、俺はいいよ。外国なら敬語も何もないだろ? なんだか、自分がすごく年食った気になるから」
 敷島がそう言うと、ある意味納得したのか、やっと橋中は「わかりました」と頷いた。それもまた丁寧語だと指摘すると、彼は苦笑した。
 前半は九月の選曲に関する話が中心になった。日が迫っている六月の曲はほぼ決まったが、九月はまだ先のことなので候補を揃えるに留めていた。
 橋中はプロであるにもかかわらず、これと言って選曲にこだわりがない。昼間のライブラリでも敷島が「これなんかも日本では人気がある」と候補を示すと、素直にそれをリストした。
 六月は市民発表会レベルなコンサートだが、九月の方は違う。『菊月の夕べ』と題され、ちゃんとチケットがプレイガイドなどで売られる本格的なコンサートだ。出演者の顔ぶれを聞くと、伴奏者として自分が出演して良いのかと敷島が思うほど、それぞれの道で名を知られた演奏者ばかりだった。
 これから日本で活動して行くつもりなら、コンサートで強い印象を残すことが得策であるし、誰しもがそう考えるだろうに、橋中からはそんな気概が感じられない。六月のゲスト出演同様、今一つ力が入っていないように敷島には思えた。性格もあるのだろう。
「この先はやっぱりオペラとかにも出る予定あるの?」
「実はオペラはあまり得意じゃなくて」
「でも、イタリアに留学してたくらいだからオペラだろう? 舞台にも立ってたって聞いたけど?」
「演技するのが苦手で役に入りきれないから。本当は歌曲とかの方が向いてると思う」
「なんでイタリア?」
「声質はオペラ向きだって言われて。演技力は勉強するうちに身につくけど、声は持って生まれた点も大きいから。でも演技力はあまり身につかなかった」
「じゃあ、これからは歌曲とかでコンサート中心にするつもりなんだ?」
「朗読とか」
「朗読? 歌を勉強したのに?」
 敷島は思わず笑ってしまった。高校の時から声楽を学び、オペラにしろ、歌曲にしろ、本場イタリアに留学までしているのに朗読とは。確かに普通に話しているだけでも美しい声をしている。この声で本を読まれたなら心地良いだろうが。
「朗読だって演技力いるだろ?」
「座ったままで、身体を動かさなくて良いでしょう?」
 きっと舞台映えするだろうに…と、すらりとした長身の橋中の立ち姿を思い浮かべる。
「もったいない。せっかく良い身体してるのに」
 橋中は赤面した。その反応が初々しいと言うか、変に色気があるというか。足立が「お仲間の匂いがする」と言っていたが、当たっているかも知れない。考え無しで言った言葉だが、口説いているような気分になる。ここは「舞台映えのする良い身体」と言うべきだった。ひょっこりと足立が脳裏で顔を出す。「いやいや、違うから」と敷島は頭の中の彼を振り払った。
「歌は大学までにするつもりでした。後は声を使う仕事に就ければいいなぁと思って、夜間のアナウンサーの学校にも通ったりしてたんだけど、度胸試しで出たコンクールで優勝してしまって」
 喜んだ両親と高校・大学時代の恩師に、そのまま声楽の道を進むべきだと説得されたのだそうだ。
「人前で歌ったリ演じたりするタイプじゃなかったんだけどな」
「でも声は良いって自覚はあるんだ?」
「唯一の取り柄だから、出来ればそれが生かせる仕事が良いと思ってただけ」
 音楽の世界に入るきっかけは、中学の音楽教師の勧めで月島芸術大付属高校を受験候補に入れたことからで、それまでは何もそれらしいことはしていなかったと橋中は語った。
 小学生の時、クラスで誰よりも先に変声期を迎え、卒業間近になると大人と比べればまだまだ幼さの残る声だったが、子供からすれば大人声に聞こえるほど変声していた。大人が聞けば「良い声」でも子供にとっては恥ずかしく、むしろコンプレックスだったと言う。今の橋中から見て、さぞかし大人しい生徒だったことが伺え、それは安易に想像出来た。
 卒業式の歌の練習は歌う振りでやり過ごしていたが、思いがけず声が通ってしまったことがあったとか。
「みんなにからかわれたら、友達が『おかしくない、かっこいい声だ』ってかばってくれたんです」
 「友達がかばってくれた」と言う件(くだり)の橋中の表情はとても良く、
「もしかして、初恋の子とか?」
と敷島が尋ねると、彼は曖昧に笑った。話の内容から、どう聞いてもそのクラスメイトは男だとわかる。
「中学に入ったら音楽の先生も褒めてくれて、自分にとってこの声はコンプレックスじゃなくて取り柄なんだって思うようになりました。だから生かしたいんです」
 そう言った後、ちょっと恥ずかしくなったのか、橋中はごまかすようにグラスに口をつけた。また丁寧な口調に戻っていたが、これが彼にとってごくあたりまえのことなのだろう。口数も増えてきたことだし、敷島は指摘しなかった。
「パン」
 ニックネームを呼ばれて敷島は声の方向に目をやると、見知った顔がテーブルに近づいてきた。
「あ、ども」
 反射的に立ち上がる。三年上で専攻でもサークルでも先輩の加納だった。彼は先ほどまでピアノの前に座っていた。BGMがCDに変わっているので、休憩に入ったのだろう。
「久しぶりだな。あの講師の仕事、受けたんだって?」
「聞きましたよ、最初、先輩のところに行った話しだって言うじゃないですか」
「職場でまで立浪さんにこき使われたくないからな」
 加納は肩をすくめた。卒業の時の恩を盾に、その後も何かと使われているのは彼である。実は伴奏法の講師は、加納が断ったので敷島に回ってきた話だった。彼は大学院には進まず畑違いの一般企業に就職した後、調律師になった変り種で、今は副業として実家の音楽教室の講師もしている。在学中は敷島の前に立浪教授にこき使われ――目をかけられていた。立浪教授は今でも「本気で身を入れてくれていたら」と嘆き、ピアノ専攻の講師の口が空けば必ず最初に声をかけているらしい。
「講師を受けるくらいだから、いよいよ身を固めるのかと思ったけど、別れたんだって?」
  加納はニヤニヤと笑う。まったく、どこまで話が広がっているのか…と、敷島は噂の元と思われる大城の顔を思い浮かべた。敷島が答えようとするより先に、加納は橋中の存在に気づき彼を見下ろした。
「あ、すまん。連れがいたんだな」
 敷島の口調から自分にとっても先輩だと悟ったのか、橋中は慌てて立ち上がろうとする。それを加納は制し、空いているイスに腰を下ろした。
 敷島は橋中を簡単に紹介したが、加納は経歴を知っている風だった。立浪教授が絡んでいる限り、今回の伴奏の話も初めは加納に行ったものと推測される。
「やっぱり良い声してるなぁ。良ければ、一曲歌ってかないか? ノーギャラだけど」
 加納は橋中に申し出た。
「あ、俺も聴きたい」
 敷島も同調した。まだ橋中の歌声を聴いたことがないので、この機会に聴いておきたいと思ったのだが、加納があっさりと「おまえは伴奏」と付け加える。
「でもクラシックでは今夜の雰囲気に合わないんじゃ」
 さっきまでスタンダード・ジャズの生演奏で、今も流れているのはジャズ系だった。橋中はジャズは歌ったことがないと言ったが、加納はクラシックでも大丈夫だからと、さっさと店のオーナーに了解を取りに行ってしまった。
「適当な伴奏で嫌じゃなければ歌ってよ。俺も聴きたいから。発声しとく? 多分、エツ先輩の休憩が終わってからだと思うから、十五分くらい時間があるはず」
「じゃあ、少し喉を温めます」
  加納がオーナーの許可をもらって戻ってきた。敷島が予想した通り、彼の休憩が終わるまで十五分の余裕があった。橋中はすでに席で声を出さない呼吸法のみで発声準備を始めていた。
「曲は?」
 橋中は考える風に目線を天井に向け、「ヘンデルの『私を泣かせてください』を」と答えた。九月のコンサート用の候補曲に敷島が挙げた一曲である。候補に挙げるくらいだから、敷島が弾いたことがあると考えたのだろう。どこかで聴いたことのある知られた曲で、その上、歌い上げなくとも聴かせられるから、客が「クラシックだ」と身構えずに済む。
 原曲はF-durでバリトンの橋中には高い。それをC-durに移調出来るかと聞かれて、答えたのは加納だった。
「出来るよな? 曲りなりにもピアノ専攻で伴奏法のセンセイなんだから」
――言い方はともかく、先輩は年々、立浪教授に似てくるなぁ。
 それを言ったなら多分、彼は嫌な顔をするだろうと、敷島は喉の奥から飛び出そうとした言葉を飲み込んだ。

   
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