などと迷っていたにも関わらず、わずか三日後の木曜日の夜に、細谷は一枝を誘って紹介された店を訪れた。前日、飯田教諭が一枝に私用で早く帰るからと話していたのを聞いたからだ。彼はたいてい指導教諭が帰るまで居残っていた。その飯田教諭がいない上に美術部は休みの日。誘うには絶好の機会だった。
教育実習は今週末で終わる。これが恋なのか、実習の緊張状態が生んだ同期としての連帯感によるものか、確かめておく必要があった。もし恋だとしたら、みすみすチャンスを逃がすことになり、細谷は後悔しそうだった。
マスターが紹介してくれた店は、スペイン料理の『レティーロ』。無垢材の大きな框ドアを入ると石畳の床が広がり、テーブルとテーブルの間を広く取った店内は、木製の調度品で統一されている。アンティークガラスを使った照明、色合いと絵柄の美しいヨーロッパタイルが壁を飾るなど、スペインを意識した内装が、センスの良い異国情緒を醸していた。しかし気取った雰囲気ではなく、わいわいがやがやと居酒屋的で、平日にもかかわらず、男女問わずの客で賑わっていた。
細谷たちのテーブルのオーダーは、ここのオーナー・シェフ自らが取りに来た。時折『エレボス』で見かける顔だと思い出す。向こうも細谷に見覚えがあるのか、「いらっしゃい」と親しげに笑った。『エレボス』のマスターから話が通っているのだろう。早速来店してしまい、細谷は少し気恥ずかしかった。
「この店、よく来るのか?」
一枝は物珍しげに目だけで周りを見回した。彼はどう見ても、この手の店とは縁遠いタイプだ。カジュアルな店ではあるが、会社帰りのサラリーマンやOLが多いせいか通勤用スーツやワンピース姿が目立つ。一枝はと言えばTシャツと、カーキ色のツナギの上半身部分を脱ぎ腰に結んだ格好で、完全に周りから浮いている。
「いや、実は初めて。でも知り合いに紹介されたんだ。さっきの店長も顔は知ってる」
「ふうん」
座って間もなくは居心地の悪そうな一枝だったが、オーダーしたドリンクや料理が運ばれてきて飲み食いするうち、すっかり寛いだ表情になった。
意外なことに彼はあまり飲まない方で、二杯目からはノンアルコールのドリンクを注文した。体質に合わないのか悪酔いするらしい。
「高校の時から、ガンガン飲んでた口かと思った」
「法律破ったことはねぇよ」
「クラブには出入りしてたくせに」
矛盾を突くと一枝は「それはそれ」とはぐらかした。
「まさか一枝とこうして飲みにくるなんて、あの頃は想像もしなかったな」
「細谷のことは、本当に覚えてない」
「俺は普通の高校生でしたから」
腹が満たされると会話が弾む。高校時代は一枝にとって黒歴史なのか、「もういい、あの頃のことは」としばしば話を変えた。細谷はそれが面白くて、都度都度に蒸し返す。今だから出来る話題だった。
話すうちに細谷は、一枝が高校時代は自暴自棄になっていて、自分をコントロール出来ずに反抗を繰り返していたこと、授業内容について行けなくても留年や退学になればいいと覚悟でいたのに、テスト前には『あの』友人達が勉強合宿と称して手助けしてくれたことなどを知る。
「え? えっと勉強合宿って、あの…あいつら?」
「結構みんな成績良かったんだ。二浪したヤツもいるけど医学部だし、それなりの大学に行ったと思う。三木なんて院に進んで数式解いてる」
三木は一枝のグループでリーダー格だった。生活指導に一番マークされていて、補導も一度や二度ではないとの噂だったが、「事実無根」と一枝は笑った。
そんな荒れていた一枝に根気良く接してくれた大人が、飯田教諭なのだと言う。
「三年の時に美術は補習受けないとヤバイってなって、無理やり夏休みに登校させられたんだ。行くところ行くところ先回りされてて、根負けってやつ?」
「へえ」
「絵を描くのは好きだったし、小さい頃から上手いと褒められてたけど、やっても無駄になるってわかってから描く気になれなかった。でも描いてみたらやっぱり楽しくってな」
「専攻は描く方じゃないんだろ?」
料理に伸ばした一枝の手が止まった。それは一瞬で、すぐにフォークは海老を突き刺した。
「好きでも向いてるわけじゃないってこと」
一枝はそう言って海老を口の中に放り込んだ。専攻については黒歴史以上に触れて欲しくなさそうだったので、細谷は詮索せずに話題を変えた。
もっと一枝の違う一面も知りたい細谷は、普段の学生生活や、読む本に聴く音楽、観る映画と話が広げる。一枝の趣味は単独のスケッチ旅行で、出来るだけきれいな風景を見て回りたいらしい。
話をするうち、案外、彼が普通の感覚の持ち主だとわかる。最も意外だったのは教職を履修した理由で、美術教師志望なのだと言う。芸術の道だけで食べて行くのは難しいので、二足の草鞋として考えているのかと思いきや、美大に入ったそもそもの動機がそれだと聞き、細谷はますます意外に思った。
「なんで教師? 一枝、あんなに先生たちに楯突いてたじゃん…じゃなくて」
「ほんと、細谷って正直だよな」
一枝はカラカラと笑った。
「俺、美大受験なんて考えになかった。描いたところで先が知れてるし、辛いだけだと思ってたし。でも飯田先生に描く以外の美術の世界があるって教えられて、俺が諦めなきゃ一生続けられるとも言われた。それがまあ、立体造形。大げさだけど人生が変わった。俺に教師は向いてないかも知れないし、人の人生を変えられるとも思わないけど、方向を考える手助け出来ればとか」
一枝は目の前のグラスをあおった。オレンジがかった柔らかな照明の色によることもあるが、心なしか頬や耳たぶの赤みが増して見える。「語ってダッセー」と呟いたところから、かなり照れくさいようだった。
その話題を続けても良かった。ただ細谷にはなぜか『惚気』にしか聞こえず、掘り下げる気にはなれない。
「案外、熱い男なんだな、一枝って」
だからわざと茶化して、「うるせぇよ。この話は終わり」と一枝に言わせた。
しばらく他愛もない話をし、午後九時を回った頃に席を立った。
まだまだ宵の口の時間だ。繁華街の歩道も人の姿が多い。細谷はこのまま二軒目に梯子しようかとも考えたが、二人は実習最終日の土曜日に研究授業を控えていたので躊躇する。実習の最終週に実施される研究授業は、指導教諭はもとより、現職教師や手の空いた教生が、実習を見学すると言う恐ろしい授業だ。明日はいつにも増して気合いを入れ準備をしなければならない上に、担当授業も普通通りあるので忙しくなるとわかっていた。
しかしここで解散するのは、何だか味気ない。
「あのさ…」
細谷が二軒目に誘おうとした時、一枝の足が止まる。同時に「一枝君」と聞き覚えのある声が聞こえた。途切れることなく行きかう人の中から、こちらに向かって一組のカップルが近づいてくる。男の方は見覚えがあった。
(飯田先生?)
歩いてきたのは飯田教諭だった。
「二人で食事?」
飯田教諭は二人の前で、連れの女性は一歩下がったところで立ち止まった。教諭は彼女の方を振り返り気味に見て、元教え子で今期の教育実習生だと二人を紹介する。彼女は笑んで会釈した。ぽっちゃりとした色白の頬に笑窪が出来る。
「早く帰ったのはデートだったんですね?」
一枝がそう聞くと、飯田教諭は照れたように頷いた。それから婚約者だとあらためて紹介する。細谷は約二十センチ隣りの一枝の顔を視界の隅で伺い見た。口元に笑みを浮かべてはいるが、心なしか頬が白い。
「ちゃんと相手いたんだ? 一生、独身かと思ってた」
「失礼だなぁ、待たせてるだけで君たちが高校生の時からいたさ」
声音も心持ち硬く聞こえる。飯田教諭は気付いていない様子だが、最前まで話していた細谷にはわかった。
「せっかくのデート、お邪魔したら悪いから」
細谷は会話を切るように誘導した。一枝は「そうだな」と、一言、二言、先生カップルを冷やかすやりとりをして会話を終え、二組はそれぞれが向かう方向へと別れた。
彼らを振り返ることなく、細谷と一枝は歩き出した。
時間にしてほんの五分のことだったが、それまでと空気が違う。一枝は唇を引き結んで「話しかけるな」と言わんばかりの様子で、細谷は誘いの言葉を飲み込んだ。
ほんの少し重くなったその空気に背中を押されるうち、地下鉄の入り口に着く。
「俺は地下鉄だけど細谷は?」
「JR」
「じゃあ、ここで。今日は楽しかった」
「俺も。また明日な」
「お疲れ」
一枝はそう言って別れて行った。地下鉄の駅へと下って行く後ろ姿を、細谷はぼんやりと見えなくなるまで見送る。
『レティーロ』の店長に聞くまでもなく、細谷は一枝がゲイだと確信した。バイとも考えられるが、少なくとも今、一枝が好きな相手は同性で、それが誰なのかもわかった。
一枝は飯田教諭が好きなのだ。彼の話をする時の柔らかな表情が、婚約者を伴った彼と話す硬質な声が、想いを正直に物語る。
そして細谷もまたはっきりと自覚した。一枝が好きだということを。
一枝が飯田教諭と、おそらく何事もなかったかのように接するところを見るのは、細谷には他人事ながら切なくて辛い。それに想いを自覚した後で、彼と面と向かって話すのは少々こっぱずかしかった。そんなわけで「また明日」と言ったものの、翌日、細谷は美術室には寄らずに部活指導に行き、終わったらまっすぐ帰った。
実習最終日の土曜日、細谷と一枝は同じ時間に研究授業、その後に見学教諭による検証指導、放課後には実習終了の全体総括と挨拶が続き、結局、教育実習生控室の後片付けが終わっても、細谷は一枝とまともに話せずにいた。しかし本当のところは忙しさを理由に彼を避けたのだった。
とは言え気にはなるし、やはり話がしたい。細谷は一枝の連絡先を知らなかった。このまま終わりにしたら、接点が無くなり関係が途切れてしまう。
教育実習解散後、打ち上げの算段をする実習生の中に一枝の姿はなかった。実習期間中、彼は美術準備室で過ごしたので、そちらの片付けに行ったのだろうか。
「一枝」
細谷の推測通り一枝は美術室にいて、実習中に描いていた絵をイーゼルから外し、持ち帰る支度をしているところだった。実習中に見慣れた美大生ルックではなく、スーツ姿であるのは最終日だからだ。今日で最後なんだなとあらためて思うと、ぎこちなさを恐れて避けていたことなど吹き飛び、細谷は勢い教室の中に入っていた。
「お疲…」
「連絡先、教えてくれ!」
一枝の目の前に立った途端、細谷は彼の言葉を遮っていた。一枝は一瞬、キョトンとして、小さく吹き出す。細谷は首から耳が急激に熱くなるのを感じた。
一枝が携帯電話を取り出したので、細谷も慌ててズボンのポケットから出した。
「赤外線、出来んのか?」
「出来る」
「どうしたんだ? なんか必死っぽいぞ?」
「必死だから」
「変なヤツ」
赤外線通信で交換した情報を、細谷はしみじみと見つめた。それから名前をつけて登録する。頬が緩んで、自分でも笑っているのがわかった。一枝はおかしく思っただろうに、何も言わなかった。
「絶対、連絡するから」
「わかった」
一枝が荷造りの続きを始めたので、細谷はその作業が終わるまで待つことにした。
校庭に面した窓が開いていて、学校を囲むように植樹されたイチョウが見えた。外周の一部はベンチを設えた遊歩道に整備され、近隣の住人も利用している。秋の黄葉が特に有名なのだが、今時分の、初夏の陽光に映える新緑も引けを取らないほど見事だ。
その萌え立つような緑色の並木を見て、「もしかして」と細谷は一枝を振り返った。
「もしかしてその絵、あのイチョウを描いてるのか?」
一枝は大判の風呂敷に絵を包みながら、「そうだ」と答えた。
「ここのイチョウって有名なんだな? 出身校を言ったら知ってる人間が結構多くて。通ってた時はあるのが当たり前だったし、じっくり見たこともなかったから、実習に来て見てびっくりした。秋じゃないから期待はしてなかったけど、緑がすごくて、あの下を歩くと圧倒されるって言うか。実習始まったら生徒の若さにも圧倒されて、それが色にシンクロしたってわけ」
とにかく緑で今の時間を表現したかったのだと、一枝は続ける。
様々な色の緑は見る者の目に迫り、確かに若い芽吹きを細谷に訴えてきた。テーマがわかった上でもう一度見てみたいと思ったが、すでに絵は風呂敷の中だ。
「若さって、いくつも変わらないぞ?」
「そう思ってたけど、『先生』と呼ばれたら、一挙に老け込んだ気分になった」
一枝は風呂敷包みの真ん中で結び目を作った。
「そんな気分も、今日で終わりだけどな」
絵を持ち運ぶ支度をし終え、彼は大きく伸びをした。それから教室をぐるりと見回し、一方の壁に目を止める。そこは作り付けの備品保管棚になっていて、目を引く展示品があるわけではない。ただ、壁の向こうには美術教諭が普段詰める準備室がある。
一枝の絵のテーマを自力で理解出来、共感も出来たことに、胸のうちで細ささやかに喜んだ細谷だが、壁を見つめる彼の表情で、それはすぐさま霧散した。
細谷はキュッと一度唇をかみ、「打ち上げ、しないか?」と、一枝の横顔に言った。
「荷物もあるし、不参加って言ってあっけど?」
彼は実習生全体で予定されている打ち上げだと思ったようだ。
「二人でってこと。荷物は俺が持つから」
細谷は答えを待たずに、絵が収められた包みの結び目を持った。それほど大きくない絵だが、幅を取って持ちにくい。それでも構わずそのままで歩き出す。
「そんな持ち方じゃ持ちにくいだろ?」
一枝が細谷から絵を引き取り、脇に挟むようにしてから結び目を持つ。
「ああ、そうやって持つのか、わかった、貸して」
細谷は再び絵を取り戻し、同じように持って見せる。
「おまえ、本当に変」
さすがに細谷がおかしいとわかって、微妙な表情で一枝は言った。
「わかってる」
そう答えると有無を言わせず、細谷は美術室を出た。後ろに一枝の存在を感じながら。
思い返せば奇跡のような六月の再会から十五年が経ち、今年もあの時と同様に教育実習の季節になった。
初日の職員朝礼時に、一列に並び緊張の面持ちで自己紹介をする実習生を見て、「自分もああだったな」と細谷は毎年思い起こす。
細谷は一般企業に就職するつもりだったが、方向転換し母校の教師になっていた。誰の影響を受けたか、言わずもがなである。
「長谷、俺は今日休むから、あとは頼む」
そして弓道部の顧問も引き受けた――正しくは引き受けさせられた。弱小弓道部はそこそこの強豪となり、多少は知識のある顧問が必要だろうと、教師になって戻ってきたOBの細谷に白羽の矢が立ったのだ。部活顧問に就いたら時間が削られるし、大会間近になると土日も潰れる。興味もやる気もなかったのだが、新任に拒否権はなく、ずるずると今も続けていた。
「細谷様、お待たせいたしました。お品物はこちらになります」
部活を主将にまかせて、細谷は注文した品物を取りにデパートに寄った。店員がうやうやしく臙脂の天鵞絨張りの小箱を差し出した。細谷は中身を確認した後、包装を断って店を出た。どうせすぐ開けることになるし、いちいちリボンを解いて包装を外す手間が面倒くさい。こういうものは外国ドラマのように、スマートに渡すに限る。
(ラッピングに拘るタイプじゃないしな)
それから花屋に寄って、趣旨にあった花束を作ってもらう。自宅がある鎌倉までの二時間弱、帰宅ラッシュの中、花束を持って歩くのはなかなかの試練だが、最寄りの駅に花屋がないので仕方がない。
誰も気にとめないだろうが、細谷は見られている気がして、知らず知らず足早になった。
「ただいま」
帰宅してアトリエに直行した。一枝は轆轤(ろくろ)を回していたが、細谷が帰ったとわかると手を止め、「おかえり」と言った。
細谷は作業台の上に花束を無造作に置いた。微かに花が香り、一枝がスンと息を吸う。
「花か?」
「まあな。大事な日だから」
細谷と一枝は十年前から一緒に暮らしている。もちろん恋人同士としてだ。教育実習が終わってから、細谷が口説いて、口説いて、口説き落とした。
一枝は大学卒業後、母校ではなく系列の高校で美術教師として働いていたが、八年目に退職する。視野狭窄がひどくなり、視力をほぼ失ったからだった。
彼の遺伝性の眼病が発覚したのは高校の時。失明するかどうかは二十五%の確率だったが、症状が出始めていることが新入生の身体検査でわかった。精密検査を受けた大学病院で遅かれ早かれ見えなくなると両親が告知され、本人もそれを知ってしまったらしい。明日か遠い未来かに迫る闇の世界。一枝が高校時代に荒れたのは、その不安と絶望が原因だった。
退職した後、一枝は空き家のまま放置されていた父方の実家を、自宅兼工房にリフォームして移り住み、立体造形作家としての活動を本格的に始めた。小さなギャラリーで定期的に個展を開き、少し名が知られるようになっている。ちなみにここ最近は轆轤での作品制作が彼のマイブームらしい。
すでに一緒に暮らしていた細谷は、リフォーム代を半分負担し――もちろん分割払いだが――、片道二時間の通勤になるのも厭わず、彼と共に引っ越した。
「大事な日って、誕生日とかじゃないだろ?」
細谷はカバンの中からデパートで受け取って来た小箱を取り出し、一枝の傍らに腰を下ろした。
「手、出せよ」
「汚れてるぞ?」
「いいから」
一枝は前掛けの紐に挟みこんだタオルで、無造作に手を拭いた。細谷は彼の両手に小箱を握らせる。天鵞絨の箱は薄鼠色の泥であっと言う間に汚れた。一枝は小箱を開けて、中身に触れる。
「これ?」
触れてすぐに二つ並んだ指輪だとわかり、一枝は戸惑ったような表情をする。細谷は一つを手に取って、まだ泥が残る一枝の左薬指に通した。
「結婚してください」
細谷は彼の左手を両手で包むように握った。シンプルでダイレクトな細谷の言葉に、一枝は眉根に皺を寄せる。
「なんで今更? 十年も一緒に暮らしてて、結婚してるようなもんだろ?」
芸術家だというのに、まったく情緒がない。細谷はため息を吐いた。
「だからだろ、一緒に暮らして十年目、再会して十五年目、出会って…まあそれは中途半端だけど、結婚と言えばジューンブライドだろ、今日は大安だし、それに俺にとって六月は特別なんだ、とにかく返事聞かせてくれ」
息継ぐ間もなく言い切ると、握った手に力を入れる。一枝はくくくと喉を鳴らして笑った。
「なんだよ?」
「ここぞって時、いつも必死な、おまえ。十五年前に連絡先聞いてきた時も、十年前に一緒に住みたいって言ってきた時も」
「だから、なんでそんなに情緒がないんだ。おまえ、芸術家でしょうに」
細谷はため息をついて、手を離した。
一枝は右手に持ったままの小箱から、残った指輪を取り出した。細谷の左手を取り、薬指を選ぶとそれを通す。予想もしない彼のまさかの行動に、一瞬、細谷は固まった。一枝がペチペチと軽く頬を叩く。細谷の目は細かく瞬きし、焦点を彼に戻した。
「よろしくな」
一枝が言った。彼の頬も耳も首も赤かった。
(そうだ、一枝は照れ屋でへそ曲がりだった)
細谷が「ここぞと言う時」に必死なように、一枝は「ここぞと言う時」に素直になれない。
一枝の手首を掴んで引き寄せる。天鵞絨の小箱同様、細谷の服が泥で汚れたが気にしない。それからそのまま抱きしめた。一枝の赤い耳たぶがすぐそばにあった。
「今日、教生が来たんだ。十五年前を思い出した」
「毎年言ってないか?」
「それだけ俺には強く記憶に残ってるんだよ。ハルと知り合えたからな」
「出会ったのは高校の時だろ?」
細谷は脱力し、一枝の肩に額が乗る。
「高校の時は見知ってただけっ。知り合ったとは言えないのっ」
細谷は顔を上げて少しだけ身を引き、一枝の目を見つめた。これくらいの距離なら、ぼんやりながら物の輪郭は見えると聞いている。表情まで読み取れるかどうかは知れないが、少なくとも彼の眸は細谷をまっすぐ見ていた。
「一生大事にする」
自分を見つめる眸に向かって囁くと、一枝の目が一層細くなった。
「大げさなヤツ」
一枝は細谷の唇の位置を確認するように指で触れ――そうして自分の唇を重ねた。
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