6月に、君と


 


 大学四年の六月、細谷は一枝と再会する。
 生垣代わりに校庭を囲む名物の銀杏並木の新緑が、眩いくらいに鮮やかだった。




 朝の職員朝礼での挨拶に呼ばれるまで、教育実習生は用意された空き教室で待たされた。長机にパイプ椅子で体裁を整えられたその場所は、三週間の実習期間中、彼らの控室であり「職員室」となる。
 実習生は二十人ほど。一種、同窓会の様相を呈していたが、細谷颯(ほそや・はやて)はその輪の中に入って行き辛い。一年浪人しているので学年が違うからだった。部活の後輩がいるとなると尚更だ。そんな中もう一人、輪から外れている実習生を見つける。天然なのか人工なのか、肩を超すウェーブのかかった髪を後ろで一つに結わえた容姿に、野暮ったい黒縁の眼鏡とスーツがまったく似合っていない。
 同期なのか見覚えはあるが、細谷ははっきりとは思い出せずにいた。在校生だった頃は、一学年が五クラス計二百人。クラスや部活が同じでもないかぎり覚えるのは難しい。
「美術科実習の一枝春視(いちえだ・はるみ)です。よろしくお願いします」
 正規の職員室に呼ばれ、横一列に並んで挨拶する。教育実習生の最後に件の実習生は名乗ったことで細谷は思い出した。やはり同期な上に、高等部二年の時には同じクラスでもあった。
「一枝? 久しぶりだなぁ、おまえが教育実習なんてなぁ」
 教諭の一人が感慨深げに呟いた。細谷が在校時の生活指導だった英語科の大野教諭である。
 大学付属の中・高一貫校である私立遥明学院高校は比較的校則が厳しく、昔から極端に「外れた」生徒は少なかった。特に細谷の時代は無気力・無関心・無責任・無感動・無作法の『五無主義世代』と言ばれ、やる気の抜けた温度の低い生徒が多かったのだが、そんな中にもいわゆる「ツッパリ」と呼ばれる類の毛色の変わったグループはあり、一枝春視はそこに属していた。
 目つきが悪く教師に反抗的、表向き高校生は出入り禁止のクラブに深夜まで入り浸る。犯罪めいた非行には走らなかったものの、やれ睨んだの、肩がぶつかっただのと、他校生との小さな諍いは日常茶飯事だった。着崩した制服は当然大人の理解は得られず――そんなわけで生活指導教諭達からは常に目の敵にされていた。ごくごく普通の生徒だった細谷は、彼らの日々の行いを遠目に見るだけだった。
 その一枝が美大在籍で、その上、教職課程の一環で実習に来たことは、どの教師も驚いただろう。
(あれほど学校生活に合わなかったのに。そりゃ大野先生も感動するよな)
 大野教諭のしみじみとした言葉には、嬉しさが含まれているように細谷は感じた。
「一枝」
 職員朝礼後、実習生は担当指導教諭に付いてそれぞれに散って行く。教科によっては準備室と言う名の教諭室があり、一日の授業が終わって実習日誌を書くまで、控室には戻らない実習生もいる。芸術系の授業などは特にそうだ。分かれ際、細谷は思い切って一枝に声をかけた。彼との関わり合いを避けた在校時代には考えられないことだった。
「二年の時、同じクラスだった細谷だけど、覚えて…ないよな?」
 振り返った一枝は細谷を見る。意外と背が高く、レンズの中の切れ長の目は細谷を見下ろし気味だ。高校時代は眼鏡などかけていなかったせいか、印象が変わって見える。
「うん、覚えてねぇ。同じ学年って、四十一期ってことか?」
「そう。俺、一浪したんだけど、一枝も? 知らないヤツばかりだから、同期がいて嬉しいよ」
 声をかけた言い訳が少し社交辞令っぽい。
「よく俺のこと、覚えてたな」
「まあ、目立ってたから」
 細谷は余計なことを言ったと思ったが、一枝は「そうだった」と気にする風でもなく、ともすれば冷淡に見える切れ長の目が、緩んで細められ、柔和な笑顔を作った。
(こんな笑い方、するんだな)
 美術の指導教諭が一枝を呼び、彼は「じゃあ、また」と離れて行った。
 



「いや〜ん、それってもしかしてフォーリンラブってやつじゃないの?」
 カウンター席の隣に座ったユージが、乙女全開の期待感で聞いてくる。間合いを詰められ厳つい顔が近くなったのを、細谷は押し戻した。
「俺の好みは守ってやりたいタイプなの知ってるだろ? 自分より背が高くて『わが道を行く』のは、アウト・オブ・眼中」
 実習初日を終えて、細谷は行きつけのBar『エレボス』に寄った。
 教育実習中の夜遊びは自重するつもりでいたが、緊張で疲れた細谷の精神が、まっすぐ帰ることを拒否した。あと四、五日もすれば実践的な実習が始まり、それこそ授業の準備に追われて自分の時間はなくなる。そして三週間の教育実習が終われば、いよいよ本格化する就職活動が待っていた。就職が決まるまでのスケジュールを思うと、細谷はどんよりと暗くなったので、気合入れだと自身に言い聞かせての寄り道である。
「だいたいゲイかどうかわかんないし」
「でも男子校なんでしょ? ちょっとした経験くらい、昔はあったかもじゃないの、ハヤテみたいに」
 細谷同様に『エレボス』の常連で、友人として仲の良いユージが面白げに話を広げた。今後の展開か、あるいは何か別の期待をしている節がある。一枝はユージの好みのタイプだった。
「高校の時、俺は自覚してなかったぞ。他のヤツらもそう。男子校に対して変な偏見持つなよ」
「ハヤテはもともとその気(ケ)はあったんじゃない? 大学入って早々に二丁目デビューなんてするかな。そう言う潜在的なの、結構多いって」
 他の生徒がどうだったかはさておき、細谷の場合はユージの言う通りだった。
 細谷が自分の性癖を自覚したのは、むしろ共学になった大学からである。中・高と男子校で女子に対し多大に夢を見すぎていたためか、リアルの女子たちについて行けなかった。自覚のきっかけは何度目かの新歓コンパで行った、女子も出入りするゲイバー。見知らぬ男何人かに声をかけられてまんざらでもなく、それから間もなくゲイの溜り場の店に顔を出し始めた。
「だったらさ、その同期君もそうかも知んないじゃん?」
「だから、もしそうでも、俺のタイプじゃないっての」
 一枝に限らず、他の実習生の中にタイプがいたとしても、実際にはそんな気分になる暇などない。
 教壇に立って生徒相手に一コマ五十分授業を行う実践的な実習が始まると、一日が「あっ」と言う間だった。細谷の国語科は現代国語、古典、漢文と三種類の授業があり、毎日最低どれか二コマは持たされる。三教科用のレジュメ作り、一日を検証し日誌に記して提出。細谷の指導教諭は担任学級を持っていたから、そのHR活動にも駆り出された。プラス、OBと言うだけで部活動に積極的参加を促され、これが体育会系であるとほぼ毎日、放課後は潰れる。
「今年は期待出来るんですよ。インターハイも夢じゃない」
「へえ、廃部寸前だった弓道部が?」
 そして細谷は一応体育会に属する弓道部OBだった。顧問は名ばかりで、OBの指導が代々伝統になっているが、弱小ゆえに外部に指導者を頼む予算がつかないと言うのが、本当のところだった。
「卒業してから顔出してないって聞いたぞ? 実習期間中くらい頼むな」
 たまたま指導に来ていた社会人の先輩に釘を刺されては逃げるわけにもいかず、ゆえに細谷は一番忙しい実習生コースを歩いている。
 他の実習生とはそれなりに話をするようになっていたが、一枝とは初日以来まともに話せずにいた。高校時代と違って話しかけ辛いわけではなく、受け入れ実習枠が一人の美術は、教科準備室に席が用意され、彼はほぼ一日をそこで過ごしているからだった。そんなわけでユージの妄想する展開になる気配はなく、教育実習も後半に入ろうとしていた。
「今日は美術部、部活休みなのか?」
 弓道場へは特別教室が入る校舎内を通るのが近道で、細谷はいつも音楽室や美術室での部活動を横目に見ながら部活に向かう。一枝も細谷同様、部活指導をしていたが、今日は美術室に生徒の姿はなく彼一人だった。
 開け放たれた入り口から声をかけると、一枝は視線をキャンバスから外し、細谷の方を見た。
「美術部は週三回なんだよ。細谷は?」
「俺は今から部活」
「何部?」
「弓道」
「うちにそんなクラブあったか?」
「俺の頃は毎年、廃部寸前だったからな、影は薄かったよ。今は全国行けるかも知れないレベルになってるらしくってさ、部活指導しろってうるさいんだ」
 細谷は美術室に入り、一枝の傍らの丸椅子に座った。
 一枝は長袖のTシャツとカーゴパンツ姿で、絵の具だらけの帆布様のエプロンをつけ、実習初日にかけていたものとは別の、縁のないラウンド(丸型)フレームの眼鏡をかけていた。調光レンズらしく光の加減で色がつくため胡散臭げだが、服装とトータルするとどこから見ても美大生だ。この頃になると実習生の服装もある程度分別のあるものが許され、細谷もポロシャツに綿パンだった。
 一枝のキャンバスは一面、様々な緑色が重なり合った緑で埋め尽くされている。渦のように見えるがそれが正しいかどうかはわからない抽象画だった。細谷は高校時代に芸術科目は美術を選択していたが、造詣が深いわけではなく、絵画の、特に抽象画の良しあしはさっぱりだった。
(でも美大に入ってるヤツが描いてるんだから、上手いってことだよな?)
 目を眇め、何とか気の利いたコメントを試みる。
「上手い…な?」
 だが正直な感想が先に口から洩れた。
「なんだ、その疑問形は?」
「この手の絵はよくわかんねぇんだよ、素人は。もっとこう、物の形がわかるもんじゃないと」
「まあ俺も、最初はよくわからなかったけどな」
「でも絵は上手かったんだろ? 美大入ったくらいなんだから」
「どうだろ。美術は取ってたけど、ほとんどバックれてたし」
「え?」
 細谷は絵から目を離して、一枝を見た。
「ここにいた頃を知ってるなら、絵なんか描くタマに見えたか?」
「まあ、見えなかったよな」
「正直なヤツ」
 一枝は「くく」っと笑った。
 彼自身が言うように、高校時代はとうてい絵を描くタイプに見えなかった。
「そんなだから現役じゃ美大なんて無理で、一浪した」
 美大入試用の予備校に通い、今の大学に引っかかったのだと言う。一枝の大学は超有名どころではないが、多少は名の知られたところだった。一年間の浪人生活だけで入ったのだとしたら、それなりの才能はあるのだろうと細谷は思った。
「こんなところで油売ってていいのか?」
 教室内の時計を見て一枝が言った。すでに一時間近く経って午後五時半になろうとしている。今日、細谷は七限目の補講を持たされたので、部活に向かうのがいつもより遅れていた。全国的に強豪のサッカー部以外は午後六時が部活終了時間で、弓道部は間もなく終わる。
「やっべ。俺、行くよ」
 慌てて立ち上がり、入り口に向かった。出る時に一枝を見ると、すでにキャンバスの上で絵筆を滑らせている。
(何描いてるのか聞きそびれたな。今度、聞いてみよう)
 細谷は弓道場へと急いだ。
 



 小一時間、話す機会を持ってから、細谷と一枝との接点が大きくなった。実習生の控え室も居心地は悪くなかったが、やはりどこか面映い一線があって、日誌を指導教諭に提出したら、細谷は美術室に足を運ぶようになった。もちろん美術部の部活が無い日や、部活が終わる十八時以降に、である。
「部活指導してるんじゃなかったっけ?」
 毎日のように細谷が顔を出すので、一枝は不思議に思ったらしい。
「桂浜と一日置きで行くことにしたんだ」
 と一枝の問いに答えたが、ほとんど後輩の実習生・桂浜に押し付けている。桂浜は在学中主将をしていたので、部活指導を半ば義務だと思っていたし、教育実習で部活に顔を出すことに憧れていたとかで、積極的に参加していた。
「一枝は熱心だな。部活指導してるけど、美術部のOBじゃないんだろう?」
「そうだけど今年はOBが実習に来てないし、『美大からの実習生は珍しいから』って、飯田先生に頼まれてな」
 飯田先生は美術専任で、一枝の指導教諭だった。教育実習生は指導教諭やOBに頭が上がらない。大方、彼も拒否権無く部活指導を押し付けられている口だろう。
「本当は描く方は専門じゃないんだ」
「じゃあ専攻はなんだよ?」
「立体造形。粘土こねくり回したり、彫ったり。立体の勉強してる」
「小学校の時、紙粘土で灰皿作ったりした、あれみたいな?」
 小学生の紙粘土細工と一緒にしたのは失礼だったろうが、つい口から出てしまった。時々、細谷がやってしまう失敗だ。相手に気を許すと起こす失敗なので、一枝が以前の彼であったなら口にはしない。今回は再会した時から余計なことを言っている気がする。
 そんな細谷の無礼を気にもせず、一枝は「そんなとこかな」と言った。それから教室の片隅に設けられた展示コーナーを指差す。そこには大人の拳大の粘土作品が、二つ並べられていた。一つはアニメに出てくるロボットのヘッド部分で、もう一つは三頭身の飯田教諭だ。
「上手いな。『熊五郎』なんてそっくりだ」
「『熊五郎』?」
「飯田先生」
 美術科の飯田教諭は二人が在学時に新卒教諭としてやってきたのだが、ガタイが良くて、顔中髭だらけだったから、生徒は影で『熊五郎』と呼んでいた。今も髭は変わらず顎全体を覆っている。指導教諭自身が身なりに頓着しないせいで、一枝の長髪もツナギやジーパンでの実習も許されているのだろう。
 あだ名の由来を聞くと、一枝は盛大に笑った。
「でも専門外の割には、絵も描くんじゃん」
 細谷は一枝の前にあるキャンバスを横から見た。相変わらず何を描いているのかわからないが、『緑』の迫る勢いと和ませる緩急は感じられ、見ていて心地よい。
「抽象画だから、こじつけが利くんだ」
「テーマはあるんだろ?」
「あるにはあるけど…」
 一枝は考える風に絵を見た後、「何だと思う?」と逆に細谷に問い返した。
「見た人が何を感じるのかってのも面白そうだ」
 切れ長の目が意地悪く光る。美術音痴にわかるわけがないとからかわれているように見えて、細谷の微かな負けず嫌い魂が刺激された。正面から絵を見るつもりで、一枝の後ろに回った。
 しかし絵よりも先に彼の髪を結わえた輪ゴムに目が行く。髪用ではなく普通の輪ゴムであるところが男だなと細谷は思った。その無造作に結わえられた髪は意外と長く、Tシャツ越しに浮かぶ左右の肩甲骨の間まで垂れ下がっている。身長に比例して背中は細長い。前掛けの紐を結んだ腰、そこから続く臀部の形を見るに至って、細谷は我知らず視線が下りていたことに気付いた。
 一枝がいきなり振り返る。
(あ、ピアスの穴。首、細っ。喉ちんこ、結構デカ…じゃなくって!)
 飛び退くように一枝の背後を離れ、もといた場所に戻る。少し椅子をずらし距離を取ったのを一枝に悟られて変に思われないよう、細谷はあわてて「わかんねぇよ、こんな芸術的なの」とごまかした。
「芸術的って、本当に思ってんのか?」
 その時、飯田教諭が美術室に入ってきた。一枝が立ち上がり、細谷もつられて立ってペコリと頭を下げると、彼は「よう」とばかりに軽く手を上げた。
「一枝先生、僕はこれから中等部で会議だから、まだ残るようなら戸締り頼めるかな」
「はい」
 飯田教諭は隣に立つ細谷に目を向けた。それから「君はええっと」と考える風に言う。
「国語の細谷です」
「ごめん。『職業柄』顔を覚えるの得意なんだけど、名前と一致しなくてな」
 照れたように笑って、頭をかく。その姿は黄色い熊のぬいぐるみをイメージさせた。ただし目の前のぬいぐるみには、顔中に髭がある。
「君たちは仲がいいんだな? 高校の時からの知り合い? ああ、一枝は一学年上なのかな?」
「同期なんです。俺も浪人したから」
「同期? でも君は一枝の友達の中に見なかった顔だな?」
 飯田教諭は一枝を見た。二人が高校生の時、彼も生活指導教諭の一人だった。大方、体格の良さと新任らしからぬ貫禄――実際美大に入るのに二浪し、卒業後は院に進んだり何だりで、三十路近かった――で、引き入れられたのだろう。その頃は問題児、つまり一枝のグループがいたからか、生活指導教諭は一見強面が多かったと、細谷は記憶している。
「避けてた口です」
 そう答えると一枝が苦笑した。
「そうかそうか。僕も生活指導じゃなかったら、かかわりはなかっただろうね。授業でも見かけなかったし、目つき悪かったから怖くてなぁ。まさか一枝が敬語を使ってくれるようになるとは。大野先生じゃないけど、感動するよ」
「ひでぇな。いつまでも高校生じゃないっての」
 飯田教諭は大きな手で一枝の頭を撫でた。「やめろよ」と言いながらも一枝は嬉しげで、打ち解けた口調はすっかり高校生に戻っている。在学中、どの教師とも対立状態に見えたが、この教諭との関係は良好だったではと思われた。
「大学の後輩になって、こうして教育実習にまで来てくれて、あの時の苦労が報われた気分だ」
「どんだけ問題児なんだよ、俺。もういいって」
 いつまでも撫でる手から逃れるようにして、一枝はイスに腰を下ろした。
 飯田教諭は細谷に肩をすくめ見せ、「戸締り頼むな」と言って美術室を出て行った。
「高校の時も、先生と仲良かったのか?」
 一枝はくしゃくしゃになった髪を解き、手櫛で梳き上げながら適当に輪ゴムで結わえ直した。
「…んなわけあるか。他の生活指導よりは年が近いから、話易かったってだけ」
「同じ大学なんだ?」
「受験の傾向を聞きやすかったからな」
 一枝はぶっきらぼうに答えて、絵筆を取った。若気の至りの話が出て照れているのか、ほんのり頬が赤らんでいる。飯田教諭とのやりとりで見せた表情もそうだが、高校の時には知り得なかった彼の一面に触れ、心の中を上手く表現出来ない何かが漂って、細谷は戸惑っていた。
 


 
(一枝を意識するなんて、ありえねぇ)
 細谷は可愛い小動物系がタイプのはずだった。今まで付き合った相手も、抱きしめたなら腕の中にすっぽり入ってしまうくらい華奢な男ばかりで、犬に例えればせいぜい柴犬止まり、決してドーベルマンやシベリアンハスキーと言った眼光鋭い大型犬ではない。一枝はそれで言えば完全に後者だった。
 なのに、一枝の背中や髪や喉仏に目が行ったかと思うと、照れて赤らんだ様子に可愛さを見出してしまうとは。
(俺、もしかして一枝に抱いて欲しいと思っているのか?)
 それこそありえない。細谷は抱く側――すなわち『タチ』だった。そんな自分が可愛らしく思ったのなら、一枝を抱く対象として見ているのだ。
「さっきから、何、百面相してるんだ?」
 オーダーしたビールが置かれたと同時に声がかかる。顔を上げると黒レザーのマッスルTシャツに覆われた厚い胸板が目に入り、更に目線を上げると、ここ『エレボス』のマスターの細谷をみる目と目が合った。
 美術室で感じた戸惑いを引きずったまま帰宅する気になれず、細谷の足は実習初日以来の『エルボス』に向いた。
「いや、まあちょっと色々戸惑いが…」
「なんだ、気になる言い方だな? あれか? この前ユージ君と話してた恋バナの続きか?」
 そう言えば、ここで細谷とユージが話していた時、マスターもカウンターの中にいた。接客中だったので話には入って来なかったが、内容は聞いていたのかも知れない。
「ハヤテ君のタイプじゃないんだったっけな、その同窓生? 好みなんて変わるぞ? 小さくて可愛らしいのが良いなんて、若い頃だけさね」
「俺、まだ二十二なんで、十分若いつもりなんだけど」
「じゃあやっぱ恋なんじゃないのか? タイプでもない相手が気になってしようがないなら」
「しようがないってほどじゃ」
 言葉を濁したものの、実は細谷自身、はっきりと否定出来ない。その感覚は、過去、恋愛してきたそれに似ていた。相手がノンケの、あの一枝だから迷いがあるだけで、好みのタイプなら押しているところだ。その細谷の迷いを見透かしたかのように、「ノンケかどうかわからないだろう」とマスターが言った。そして続ける。
「今まで眼中にないタイプだから、鼻が利かないってこともあるぞ? 君のゲイとしての自覚が大学デビューってんなら、まだ経験も浅い方だし。ここに連れてきたら、俺が見てやるけど?」
 とんでもないとばかりに、細谷は首を振った。それから店の中を見回す。客筋が男だけなのはショットバーや町の飲み屋でもありがちだが、やけに顔を近づけて話し込んだり、肩を寄せ合って座ったり、腰に手を回して立ち飲み席で話したりする姿は、なかなか見かけない。モノクロを基調としたスタイリッシュな内装、主に間接照明で薄暗く、店全体が官能的で妖しげだった。雰囲気が一般的な酒場とはあきらかに違う。こんな『お仲間』だらけの店に新顔の一枝を連れて来ようものなら、どれだけ声をかけられるか。その上、話を聞きつけたユージなどが見物に来るに違いなかった。鈍感な性質の男でも、何が目的で声をかけてくるかわかろうと言うものだ。
(一枝がノンケだったら、絶対引く)
 引かれるだけならまだしも、カミングアウトする覚悟が出来ていないというのに周りに知られでもしたら――一枝は吹聴する男には見えないが。
「それなら『お仲間』がやってる普通の店紹介してあげるから、機会があれば連れて行きなよ。そこの店長も経験豊富な男だから、お仲間かそうでないか見極めてくれるさ。連絡しとくよ」
 マスターはそう言ってオーダー用のメモを一枚千切り、裏に店名と住所、電話番号を書いて、細谷の前に置いた。
「あのう、なんか俺がそいつを好きなの前提になってますけど?」
「ハヤテ君、君はね、もう恋をしてるんだよ、その子に」
 マスターが呪いのような言葉をかける。
「まだ会って二週間しか経ってない」
「一目ぼれって言葉、辞書で引いてみたら、センセイ?」
 反論を試みるも、ほぼ倍の年齢差からくる経験値の違いで一蹴された。
 細谷がメモを手にするまでジッと見ているので、仕方なく上着のポケットに入れる。メモを入れた部分が、じんわりと熱を帯びた。
 見極められたとして、ノンケだったら「残念でした」で済むが、ゲイだったら? 
(俺は一枝と、本当にそう言う仲になりたいのかな? この気持ちが恋かどうかもわからないのに?)
 

 
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