ドアを開けた上川は呆れたように言った。
「もし俺がいなかったら、どうするつもりだったんだ?」
「その時はビジネスホテルか、ネットカフェでも探すさ」
上り框(かまち)に足をかけ、呉羽は答えた。
時刻は午前十二時五十分。他人の家を訪れるには不躾に過ぎる時間だ。そして呉羽が「終電逃した。今から行ってもいいか」と電話したのは、つい三分ほど前。マンションの前からかけていると言われれば、上川も「ダメだ」とは言えなかっただろう。
通されたリビングダイニングは雑然としていた。小ぶりのダイニングテーブルの上には夕食だったと思われる、食べ残されたままのコンビニ弁当と缶ビール、食パンの袋やインスタントコーヒーの瓶が乗っている。帰宅して脱いだスーツの上着とネクタイはソファの背もたれにかけられ、センターテーブルには社用のノートパソコンと、書類がはみ出したビジネスバッグが、最前まで仕事をしていた形跡を残していた。
ソファの端に寄せられた毛布が、ここで寝起きしていることを物語っている。それらに走らせる呉羽の視線に気づいたのか、上川は枕替わりに使っていたと思しきクッションの形を整え、ソファの隅に置いた。本来、そこが定位置なのだろう。毛布を小さく畳んで、ノートパソコンとビジネスバッグと一緒にダイニングチェアへ運ぶ。
背もたれの上着を掴み、とりあえず体裁を整えたソファに座るよう呉羽に勧めた。
「お茶淹れるよ」
「小腹が空いた気分」
「カップラーメンと味噌汁の残りくらいしかないぞ?」
「味噌汁がいい」
夜中に急に訪ねて来て、あげく何か夜食を食べさせろと言う呉羽のわがままに、上川は文句を言うでもなくキッチンへと入った。
こちらに背を向けてコンロに火を点け、鍋の蓋を取り首を傾げる。それから冷蔵庫を開けて、小さく息を吐くのがわかった。
「具、ほとんど無いんだけど?」
キッチンとリビングを仕切るカウンター越しに声が飛ぶ。
「気を遣わなくていいぞ」
と答えると、「それじゃお茶でもいいじゃないか」と返ってきた。
呉羽はあらためて部屋を見回した。
生活感があるようで無い室内。ファミリー・タイプの間取りであるにもかかわらず、家族の存在が感じられず、どことなく閑散としている。おそらく毎日、寝に戻るだけの生活なのではないか。
上川の背中に目を戻した。
三か月前、今夜とは逆に上川が夜遅くに呉羽を訪ねて来た。呉羽が会社を辞めて二年近く経っている。その間(かん)、互いに会うことはおろか、電話もメールすらもしなかったから、突然の来訪は呉羽を驚かせた。途中降り出したと思われる雨に濡れていたこともあるが、上川はひどく疲れて見えた。
彼の顔を見た途端、呉羽の彼に対する気持ちが蘇える。
退職前に二人で飲みに行ったその帰り、自分の気持ちにケリをつけるために上川に「好きだった」と告げた。それ以降、仕事以外の接点を避けたまま、呉羽は会社を去った。しかしケリをつけるつもりが想いを口にしてしまったことで、上川の存在が呉羽の中でどんどん大きくなる。そんな未練に似たものを押さえつけたまま月日が過ぎ、ようやく存在が過去になろうとした頃に、再び目の前に現れた上川。押し込めていた未練に似たものが、再び恋情を形作る。
ただ間が悪いことに、呉羽はその夜一人ではなかった。友人で仕事仲間でもある江島美波が来ていた。彼女とはかつて身体の関係を持ったこともあったが、今は仕事の付き合いがメインだ。その日は仕事の打ち合わせを兼ねた食事会があった。散会した後、場所を変えて二人で遅くまで飲んだ結果、彼女に一晩の宿を提供することになったのである。確かに互いにその気になりかけていたことは否定しない。上川の訪れより彼女のシャワーの方が早く終わっていたなら、部屋の明かりは落ちていただろう。そう言う雰囲気が醸し出された風呂上りの彼女の姿は、上川に誤解を与えるに十分だった。
「邪魔して悪かった」
上川はそう言ってぎこちなく笑うと、呉羽が引き止めるのを固辞して、通りかかった流しのタクシーに乗り込み帰ってしまった。
チンと電子レンジの音が、呉羽を回想の世界から現実に戻す。
湯気を上げる味噌汁と真空パックのご飯、ごま塩のふりかけ瓶が呉羽の目の前に置かれた。ご飯はパックのままである。
「茶碗は?」
「洗い物を増やしたくない」
「おまえって、そんな不精だったっけ?」
呉羽はそう言って笑うと、ソファからラグマットの上に座り直し、まず味噌汁に手を付ける。具がほとんどないと言った割には、半円の何かが浮かんでいた。箸で摘むとミニトマトだった。
「味噌汁にトマト?」
「見ての通り、具があまりなかったから。ああ、でも結構イケるぞ。俺も最初は半信半疑だったんだけど」
上川はふりかけをご飯にかけながら答える。
「具はともかく、味噌汁は美味い」
「出汁入り味噌だからな。入れるだけでそれなりになるんだ」
「大学の時も、そんなこと言ってたな?」
「そうだったかな」
炬燵テーブルに差し向かい、味噌汁を啜りつつ二人でレポートを書いていたことを懐かしく思い出す。
「よく作ってもらったよ、おまえには」
「おかげで今でも作り方は忘れてないから、これだけは独りになっても作れて助かるよ」
上川は苦笑した。
独りになっても――呉羽が上川の離婚を知ったのは一週間前。離婚自体は三か月前に成立していたらしいが、呉羽は知らなかった。仕事柄、前職とも取引があり、その打ち合わせで先方に出向いた際、仲の良かった元同僚が教えてくれた。かなり揉めたようだと付け加えて。三か月前と言えば上川が呉羽を訪ねて来た頃だ。
離婚の原因や揉めた理由などに興味はない。呉羽にとって大事なのは上川が独り身になったことだった。
こうして差し向かいで座ると昔に戻ったように感じる。呉羽が上川に対し友情以上の感情を、我知らずに抱いていた学生時代に。あの頃の感情は鮮明な自覚となって、呉羽の中に蘇り息づいている。
上川が離婚したと聞いて、居ても立ってもいられなくなった。だから今夜ここへ来たのは意図的だった。呉羽の愛車は少し離れたコイン・パーキングに停めている。自分の恋は若気の至りだったとか、青少年期にありがちな友情が特化した同性に対する疑似恋愛ではなく、本物だったのだと上川を目の前にして呉羽は痛感していた。
「どうかしたのか?」
食べる手が止まって、しみじみと自分を見つめる呉羽に上川は尋ねる。
「…部屋、散らかってるな」
少々焦って呉羽はとっさにそう答えた。せっかく良い雰囲気なのに、変に警戒させたくない。場合によってはもう一度気持ちを上川にぶつけてもいいかと思っては来たが、いざとなると慎重になってしまう。
「おまえには言われたくない。それに急に来るからだろう? アポ取ってくれれば、ちゃんときれいにして御出迎えしたさ」
「自分だって、急に来たくせに」
呉羽は味噌汁の最後の一口を呑み干し、「ごちそうさま」と箸を置いた。
「あの日は突然で済まなかったな。都合も確認しないで、彼女にも悪いことをした」
テーブルの上のものを片づけながら上川が詫びる。
「『彼女』じゃない」
呉羽は即行で否定した。仕事で遅くなったから泊めただけだと付け加える。事実、泊めただけになった。上川の顔を見た途端、呉羽の『その気』は失せてしまい、その気継続中の江島美波のために一応はベッドインしたのだが、役に立たなかったのである。と言う上川が帰った後のことは、もちろん彼には伏せた。
「そうなのか」
上川は缶ビールを二、三本持って戻った。これは呉羽の希望的観測だが、上川の表情は少しホッとしたように見えた。
「あの日、何か用があったんじゃないのか?」
三か月前の話が出ると、聞かない方が不自然だ。
「いや、今日のおまえと一緒だ。残業で最終を逃して、タクシー代をケチろうって考えただけ」
「嘘つけ。俺にはありえても、おまえにはないだろう? それにスーツじゃなかった」
呉羽の仕事場兼住居は、上川の会社から近いところにあったので理由としては筋が通っている。しかしあの夜の上川はスーツではなく、手には鞄もなかった。毎月一度設けられているカジュアルデーであったとしても、手ぶらと言うのはおかしい。
「あの頃、いろんなことがあったからな…」
上川が漏らし、言葉を切って口をつぐんだ。その後には「聞いて欲しかったんだ」と続くのではないか。
上川は滅多に弱音を吐かない。冗談めかして愚痴ることはあっても、それらはたいてい些細なことだ。深刻なことは解決して話せるようになってから、初めて呉羽の知るところとなる。離婚成立前後の最も精神的にきつかったと思われる時期に、タイムリーに呉羽を訪ねてくるなど、よほどのことだったに違いない。
「今で良ければ、聞くぞ?」
本当は聞きたくなかった。話の内容は揉めたと言う離婚に関することだとわかる。せっかく学生時代のような雰囲気でいると言うのに、自分が知らない間のことを、それも結婚生活に纏わることなど聞かされたくないと思った呉羽だが、同時に簡単には他人に話せないことを話してくれることは嬉しくもあった。
「離婚したんだ。それで一杯付き合ってもらおうと思っただけ」
上川はそう言うと複雑な笑みを浮かべた。後は続かない。
(それだけで済ませる気か)
呉羽は「理由は?」と尋ねる。
「元凶は俺だよ。仕事優先で家庭を顧みなかった」
周りに勧められるまま見合い結婚をしたせいか、家庭を持ったと言う実感に乏しかった。「家族のため」と言うよりやりがいが先に立って仕事を優先した。特にここ数年は大学時代専門だった都市および建築環境リサーチも手掛けるようになり、大規模プロジェクトのチームに配属されることが多くなった。その結果、家族には寂しい思いをさせることに。自分の多忙に比例して、妻が他に優しさを求めたのは仕方がなかった――上川は淡々と、箇条書きのように話した。
はっきりと口にはしなかったが、離婚の原因の一つには妻の浮気もあったろうと呉羽は推測する。「優しさを他に求めた」とは控えめな表現だが、つまりはそう言う意味なのだ。
「揉めたのか?」
「離婚自体はそれほどでもなかった。どちらも自分の非は認めていたし、彼女は再婚するから慰謝料は要らないと言ったくらいなんだ。ただまあ、二人とも子供は欲しかった。揉めたのはその部分」
上川の表情は初めて曇る。
(不利だったろうな)
呉羽は彼のその表情から推し量る。
それでなくとも離婚の際、子供は母親が引き取るケースが多い。ましてや上川は大規模なプロジェクトが立ち上がる時、必ずメンバーに名を連ねる第一線の社員で、仕事柄、短・長期の出張も多かった。そんな状況での子育ては難しい。抱えている仕事が終われば配置換えの希望も出せるだろうが、上川の実績を考えれば通るかどうかは微妙だと言える。
「最終的には尋生(ひろき)が母親を選んだんだ。再婚相手の転勤でイギリスに行くらしい。三年は帰ってこない。今まで家庭を顧みなかったツケが回ってきたってわけさ」
そう言うと上川は缶ビールの中身を呑み干した。それから「これでおしまい」とビールの缶を振って見せる。缶の中を言ったのか、話の終わりを言ったのか。
「話、タイムリーで聞けなくて悪かったな」
「別に、話を聞いてもらいたくて行ったわけじゃないんだ」
「じゃあ、何で?」
「俺にもわからない」
上川は肩を竦めて見せる。それから一度息を吐き、両手で持った缶ビールを見つめた。
「何もかも終わって、誰もいない家に戻った時、なぜかおまえの顔が思い浮かんで。無性に会いたくなっただけ…」
「上川?」
上川の缶ビールを見つめる目が見開いた。自分でも信じられないと言った風に「何を言ってるんだ」と呟いた後、
「寝る支度してくる。客用の布団は何年も使ってないから、かび臭いかも知れないけど」
と不自然に話を切り立ち上がろうとした。
「上川」
呉羽は彼の腕を掴んだ。
「今言ったこと、本当か?」
「冗談さ、一ヶ月ほど前におふくろが泊って、使った後に干して帰ったから」
「布団のことじゃない」
質問の意味をわかっていながら別の答えでかわし、再び腰を浮かせる上川を、呉羽は許さなかった。彼の腕を掴む手に力を入れる。
「その前に言ったことも、冗談なのか?」
「呉羽」
「俺のことを思い出して、会いたくなったと言うのは、冗談なのかって聞いているんだ」
あの言葉が冗談でないことはわかっている。しかし上川の口から冗談を否定させたかった。
呉羽は高揚を自覚した。思いがけず聞かされた彼の本心が、全ての思考を一蹴する。
「冗談じゃない。そうだよ、おまえのことを思い出した」
上川は観念したような笑みを浮かべて答えた。
「勝手な話だ、それまで思い出しもしなかったのに、独りになった途端、おまえの顔が浮かんで、会いたくなって」
「俺の顔が?」
「…おまえの顔だけ」
呉羽は二人の間にあったテーブルを押しやる。空の缶ビールが倒れて、アルミ特有の音を立てた。
「俺が今、どれだけ嬉しいかわかるか?」
息がかかるほど間近に、上川を引き寄せる。上川は少し後ろに身を引いた。
「思い出しもしなかったなんて嘘だ。時々、不意に思い出すんだ。今頃どうしているんだろうとか、どんな仕事を手掛けているんだろうとか」
「俺はいつも思い出してたよ。一人の時間はいつも。いつも会いたいと思っていた」
呉羽は上川の眼鏡に手をかけて外すと、押しのけたテーブルの上を滑らせた。彼はそれを横目で見て、呉羽に目を戻す。
どちらからともなく唇が寄せられ、重なった。重なった刹那、それはキスへと変化する。
戸惑いがまだどこかで残る上川の口腔は、上下の歯列でガードされていた。ほんの少し開いた隙間を、こじ開けるように呉羽の舌先が入り、上川の内側に触れる。驚いて引っ込む上川の舌を、呉羽は追った。
「キスの仕方、忘れたのか?」
この期に及んで往生際が悪い上川の唇から一旦離れる。嫌ではないはずだ。拒む素振りを見せないし、先ほどまでの沈鬱な陰りは顔から消えていた。それがひと時、キスで払拭されたものなら、たとえ彼が嫌がっても呉羽は続ける。心が重かった日々を忘れさせたいと思う。
「誰かさんと違って、ここ何年かは野暮な生活しかして来なかったからな。でもすぐ思い出すよ」
「思い出すなら、俺とのキスを思い出せよ」
上川が小さく吹いて笑った。今夜初めて見る笑顔らしい笑顔だ。
「何だよ」
「クサいセリフだな。あれから何年経つんだか」
「俺は覚えてる」
呉羽は頭を打たないように上川の後頭部を掌で覆うと、そのまま押し倒した。
再び重なった唇――今度は二つの舌は絡み合ったが束の間で、くすくすとまた上川が笑った。
「今度は何だ?」
「言われた通り思い出してる。俺が頭を打たないように、今みたいに手を添えてくれた。あの状況で冷静だったなと思って」
「無意識の思いやりだ。おまえこそ、この状況でそんなこと冷静に思い出してるんじゃない」
「盛り上がったと思ったら邪魔が入った。おまえ、引き攣ってたよな?」
「だから」
呉羽は呆れたように眼下の上川を見る。冗談めかした口調とは裏腹に、緊張からか彼の目の中の瞳が揺れていた。
「今夜はどんな邪魔が入っても止めないから」
後ろから外した手で上川の前髪を梳き上げ、露わになった額に口づける。
上川は、ただ笑むだけだった。
腕の中の温もりの、微かに動く気配で呉羽は目が覚めた。温もりは上川の背中だ。呉羽は彼を後ろから羽交い絞める格好、つまりは抱き枕のようにして眠っていたらしい。
確かな感触として上川の身体は腕の中にある。鼻先には彼のうなじがあり、自分のものとは違うシャンプーの匂いがする。直に触れ合う肌が互いの体温を伝え合ってもいる。しかし呉羽は、昨夜ここを訪ねてから今までの一連の出来事が、まだどこかで信じられずにいた。これは幸せな夢なのではないかと不安が過る。だから、自分が実感出来るまで、少しの動きも許したくない。
夜は明けて、カーテンから陽の光が透けて入っていた。徐々に頭も覚醒してくる。そこがリビングのラグマットの上であることを思いだした。どうりで寝心地が悪いはずだ。毛布からはみ出している肩が少し冷えている。呉羽は毛布を片手で引き上げた。この毛布は呉羽が来た折、ダイニング・チェアに上川が「片づけた」ものだった。いつの間に二人を包んだのだろうか?
また少し上川が動いた。彼も目が覚めているのだろう。呉羽は目の前のうなじに、軽く歯を立てた。びくりと、背中全体が動く。見る間に耳が赤くなるのがわかった。
「おはよう」
その赤く染まった耳たぶを甘噛みして囁くと、「おはよう」と返って上川は身体の重心を前にかける。起きようとするその動きを、呉羽の両腕が封じた。
「シ、シャワー浴びてくるから」
焦りの混じる声を無視して、呉羽は上川を抱きしめた。
「呉羽っ」
「もう少しゆっくりしよう。休みだろ、今日?」
「シャワー浴びてからゆっくりしたい」
「じゃあ、一緒に浴びようか?」
上川の腕が呉羽の頭に回される。夜通し二人を支配した熱情が、復活したかと呉羽は期待したが、意に反して堅い拳が後頭部にあたった。
「痛て」
一瞬、緩んだ呉羽の腕から上川は抜け出した。
「どこのエロオヤジだ、おまえは」
そう言い捨てると、上川はバス・ルームへと向かった。彼の全裸の後ろ姿を見送って、呉羽は仰向けに体勢を変える。
気持ちは満ち足りていた。幸福感に身体中が包まれている。抑えても抑えきれずに漏れた上川の吐息交じりの声が、耳の中で蘇えった。
夢でなかったことは、上川からさっき後頭部にもらった痛みでようやく実感できた。そう言えば、「おはよう」のキスをしていない。
(ほんと、エロオヤジだな)
自分の思考がおかしくて、呉羽は笑った。
十五分ほどして上川が戻ってきた。ちゃんとスエットの上下を身につけている。呉羽を目が合うと、彼はふいと視線を逸らし、「シャワーどうぞ」と言った。それからキッチンカウンターに乗る久しく使用されていなかったと思しきコーヒーメーカーから、サーバーとドリッパーを取り外す。呉羽は背後から抱きしめたい衝動に駆られたが、これ以上のエロオヤジぶりはどうなのかと考え直し、シャワーを浴びることにした。
バス・ルームから戻るとコーヒーの香りがリビングに充満していた。
ダイニングテーブルの上は片づけられて、朝食が用意されている。と言っても構成は、トーストの乗った皿と、コーヒーが注がれるのを待つマグカップと言うシンプルなものだったが。
呉羽がテーブルにつくと、コーヒーサーバーを持って上川も向かいに座った。カップにコーヒーを注ぐ間もその前後も、微妙に視線が合わないのは彼が逸らしているからだ。照れているに違いなく、それは呉羽自身も同じだったが、会話が始まらないのは居心地が悪い。
それでアクションを起こす。カップを持つ上川の手にそっと触れると、やっとその目は呉羽を見た。
「もしかして、後悔しているのか?」
それは呉羽にとって怖い質問だ。「いや」と上川が首を振ってくれたので、ほっとする。
「ただ、どんな顔しておまえを見たらいいかわからん」
「気持ち良くて意識飛ばしたから?」
「な…、飛ばしてない! 毛布取りに行ったの、誰だと思っているんだ」
上川が顔を赤くする。
毛布は上川が取りに行ったらしい。そのまま寝室に戻って寝られただろうに、また自分の腕の中に戻ってくれたのかと思うと、呉羽は嬉しくてならなかったが顔には出さなかった。
「そうだな、あんな序の口で飛ばしてたら、これから先が大変だ。最後までしてないんだからな」
「最後?」
「男同士のセックスにはもう一か所、使う場所があるんだ。そこを使っていたら、確実におまえの意識は飛んでいたさ。俺は上手いから。こんな風に朝飯食ってる余裕もないぞ?」
上川は開いた口が塞がらないようだった。呉羽は吹きだして笑い、「冗談さ」と言った。そうでも言わないと、呉羽自身も気恥ずかしくて上川をまともに見られなかった。
同性とのセックスは初めてではないが、相手が上川だと勝手が違う。親友から理由の知れない感情の対象となり、それを恋だと結論付けるまでに長い時間がかかり、自覚と同時に終止符を打った。これから先、会うことがあっても友人として、あるいは仕事関係者として接しようと心に決めた。にもかかわらず、離婚したと知ると決心は砕け散り、想いは易々と蘇って、呉羽は再び彼の前に導かれた――上川は呉羽にとってそんな特別な存在。行きずりやセックスフレンドの類とは違う。
そして怖さもあった。呉羽は正直にそれらを口にした。
「俺も照れくさいんだ。それに怖い、『後悔してる』って言われるのが」
触れた手で、上川の手を包んだ。
「後悔してない」
「なら良かった」
「それに感謝してる。ここ数か月のもやもやしていたことを、忘れていられた」
上川は自分の手を包む呉羽のそれを見つめる。
「ありがとう」
呉羽は手を彼のまだ少し湿った髪に差し入れ、引き寄せた。音だけのキスを、その唇と交わす。
「じゃあこれからは、ずっと忘れていられるようにしてやる」
上川は目を瞠り、そして破顔した。
「おまえ、本当にクサいよ」
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