誰が彼(たがそれ) 
                 


 未申(ひつじさる=南西)の一画に、『誰が彼(たがそれ)亭』は建っていた。提灯が下がっていないと見過ごしてしまう小さな店構えだが、半間(はんけん)ほどの間口を入ると一枚板のカウンターが長く伸び、外から受ける印象以上の奥行きがある。しかしよくよく見ると止まり木は七脚ほど。奥の壁が鏡張りになっていて、広く見せているだけなのだ。
 人気のなかったはずが、いつの間にやら壁際に客が座っている。金糸銀糸の見事な髪は長く、一見すると若い女と見間違うほどの顔(かんばせ)であるものの、白い単衣の合わせより見える骨格で、男であると知れた。
 その気配を感じたものか、これもまた、つい最前まで人の気配のなかったカウンターの内より、少々年増の女が顔を覗かせる。髪を古風な玉結びに結った様はどこか艶っぽく、襟を大きく抜いた矢鱈縞の紬の着こなしから、素人女には見えない。どうやらこの店の女将と思われる。
「これは白金(しろがね)さま、お早うお越しで」
「早ようないわ」
 白金と呼ばれた客は店にかけられた柱時計を、顎の先で指し示す。
 瞑っているかのように細い女将の目が、時間を見るために開かれた。存外黒目勝ちの大きな目は、爬虫類のそれとよく似ている。
「あれま、これな時刻であったとは。提灯に灯も入れんとに」
 大仰な口ぶりではあるが、声音や所作に少しも慌てる素振りなく、女将は表の提灯を点けに戸口へと向かった。芳町(下駄)履きでありながら足音も立てずに行き戻りすると、手早く徳利と猪口を用意し白金の前に置いた。白いつるりとした手の甲には、青海波(せいがいは)の入れ墨が浮かぶ。
「提灯に灯を入れたところで変わりはせぬだろうに。いつにも増して『そちら』は閑古鳥が鳴いておるではないか。ついに厄払いの札でも貼られたか?」
「それなヘマは致しませんわいな。今日は大晦日、たいていの勤め先は休みに入りますもので、うちだけに限らず、どこの店も閑古鳥が鳴きよるはず」
「ここは年がら年中、鳴いておるのではないか?」
 白金は手酌した酒を口に運ぶ。
「酒気を帯びた生気は甘うて、ほんの一口啜るだけで生き返る思いがいたしますわいな。ゆえに『おやつ』は、一晩に一人二人で充分」
 女将は目を一層細めて笑った。薄く開いた唇の間から一瞬、舌がちろりと動き出る。二又に割れた先が人のそれとは違っているが、白金は気にする風ではない。
「その『おやつ』のうち、一人には手は出せんではないか」
「『出せん』のではのうて、『出さん』のです。唯玄(ゆいげん)さまは白金さまが懸想なさるお方。妾(わらわ)とて、命は惜しいよって」
「まるでその箍がなければ、どうにか出来るような口ぶりよの。懸想などしておらぬわ。唯玄は魔切刀ぞ? 『こちら』界隈で出遭おうものなら、おまえなど近寄ることすら叶わぬ浄在(じょうざい)ゆえであろうに」
 白金の言葉に女将は肩を竦めて見せた。
「参りました。おっしゃる通り、白金さまに境目の在にして頂いたおかげで、唯玄さまとお近づきになれたようなもの、『おやつ』扱いはわきまえの足らんことでしたわいな」
 白金は口の端で笑い、空にした徳利の首をつまんで見せる。女将はすぐさま酒の入った徳利と差し替えた。それから炙って香ばしい匂いを放つ油揚げを刻み、小鉢に盛り付け生醤油を添えて出す。注文されたものではないから、白金の常のつまみの一つであろう。
「ところで、その唯玄さまは今宵、いかがなさりました? いつもは白金さまより先のおいでですのに。妾の刻の感覚が違ごうたのは、そのせいですわいな」
 女将は白金の隣の席を見つめた。先ほどから話に登場する『唯玄』の定席と知れる。白金もちらりとその席に横目をやった。
「うむ、確か『カウントダウン』とやらに出向いておる」
「カウントダウン? 時を数えて年越しする、アレでございまするか?」
「奴が贔屓にしておる桃色何某
(※脚注)と申す女芸人め等の出し物らしいのだ」
 白金の答えに女将は薄く目を開けた。口角が呆れを匂わす笑みを作る。
「白金さまの御刀(おんがたな)でありながら、唯玄さまはほんに俗なお方。いつもそれな女芸人の尻を追いかけまわしておるようにお聞きしますわいな。前世は高僧であったとうかがいおりまするが」
「今生でも僧侶であったがの」
「寺を追い出されて還俗なされたのと違いましたか? いったいいかような破戒をなさったことやら。今や名残を留めるのはあれな坊主頭だけ。稀なる清魂(せいこん)も、宝の持ち腐れではありますまいか?」
「吾(わ)れの魔切刀ぞ? 言葉が過ぎるのではないか?」
 白金は青とも銀ともとれる色の瞳を女将に向けた。不満を感じさせる言葉とは裏腹に、白金のその目は笑っていた。はたして猪口を運ぶ口元が薄らと緩んで見える。
「アレはアレで良いのだ。打つ、呑む、買うと俗欲にまみれていながら堕落の獄に落ちぬのは、清魂ゆえであるのだろうよ。化身すればこれまでのどの刀よりも強靭で頼もしい。それに吾れの刀でありながら、思い通りになりはせぬ。それなところも面白うての」
 声音に慕わしげが感じられる。女将は「やれやれ」とばかりに頭(かぶり)を振った。
「惚れた弱みでござりまするなぁ。名高き天狐であらしゃりまする白金さまが、お手にして三歳(みとせ)に満たん魔切刀をかようにお褒めになるとは。眦(まなじり)が脂下がっておいでですよ」
「惚れておらぬと言うに。惚れたところでどうにもならぬ相手と知りて、想いをかける阿呆ではないわ」
「さようですなぁ。境を越えて『そち』にあれば、唯玄さまは物言わぬ刀となり、さかさま白金さまは『こち』にあれば、愛らしい白狐(しろぎつね)。言葉を交わせるのはこの場かぎりとは、なんと切ないこと」
 よよとばかり女将は袂で目頭を押さえる仕草をするが、わざとらしさが見て取れる。それがわかっているのか白金はふんと鼻を鳴らし、「舌が見えておるぞ、蛟(みずち)」と箸で女将の口元を指し示した。
「箸で人を指すなどと、唯玄さまの悪いところばかり真似をなさる」
「真似などしておらぬわ。だいたいおまえは『人』ではなかろうて?」
 またも女将は頭を振り、三度(みたび)目、徳利を差し替えた。
「唯玄さまは今ごろ、楽しんでおられますやろうか?」
「さあて、『チケット』が手に入らなんだゆえ、外で『盛り上がる』のだと申しておったが?」
「外?」
「見世物小屋の外だそうな。女芸人め等の姿は見えぬが、声は聞こえるとかでの」
「姿は見えず声だけとは、この師走の寒さの中、なんと酔狂な」
「それが『ファン』の心意気なのじゃと。吾れにはわからんがの」
 とその時、店の戸が開く。外套の襟を立てて、見るからに寒そうな様子の男が入ってきた。肩には白いものが薄らと積もる。男が払い落とすと、それは床の上ですぐに消えた。どうやら外は雪が降り始めたらしい。女将が「雪ですか?」と尋ねると、
「ああ、ついに降ってきた。一杯引っかけないことには、寒くてかなわんよ。何か飲ませてくれ」
とカウンターの端に腰を下ろした。
 女将が温めた手拭きを渡し、品書きの中から焼酎の湯割りを勧めた。客は「それでいい」と答えて、渡された手拭きで顔を拭う。心地よい温かさに、客はほうと息を吐いた。
「今日はどこも開いていないと思ったよ。こんなところに店があったとはね。さすがに客は俺だけか」
「あい、閑古鳥が鳴きよります。今夜は早じまいしようかと思うとりましたところで」
「そりゃ運が良かった」
「ほんに、開けた甲斐がありましたわいな」
 女将は鏡に向かってニタリ笑う。その鏡の中で、白金が嫣然と笑みを返したことを『こちら』の客は知る由もない。


 西の空に陽が沈み、鮮やかな夕焼けの余韻の褪せる黄昏時が、『逢魔が時』と言う二つ名を持つのはご存知か。
 昼が夜に溶け、薄墨の霧に包まれるがごとく視界が不明瞭になる中、すれ違う『もの』が人であるとは限らない。さながら魔物と出会いそうではないかと、古来、人は見えざるものへの畏怖と憧憬を込めて、「魔と出逢う時」と呼んだのだが。
 さながら?――はたしてそうであろうか。
 すれ違ったその女の唇がやたらに紅いのは、走り過ぎる子どもの耳が尖って見えるのは、薄暮ゆえの錯覚と言えようか。
 そらそら、気をつけねばなるまいよ。それな妖しげな時刻に灯りをともすその店は、昼間もそれにあるとは限らぬゆえに。


※=この「タレント(モモクロ)のおっかけ」は、テツヲ様の設定によります。


                  2016.01.23 (sat)  



※この話は、テツヲ様より贈られましたイラストからイメージを頂き、創作しました。そのイラストへはこちらから(卯月屋giftに飛びます)

 親愛なるテツヲ様に、この作品を捧げます 

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