(今年は桜、早いのかな)
歩道に植樹されているソメイヨシノを運転席の窓から流し見ながら、悦嗣は春の訪れを感じていた。
三月下旬に入るとそれまでの寒さが嘘のように春めき、桜の蕾は一気に膨らんだ。二、三日前に開花宣言が発表されるやアッと言う間に八分咲きになり、世間はすっかり花見モードである。
今日は天気が良かった。仕事が入っていなければ、どこかで桜を見上げながら昼寝を託っていただろうにと、悦嗣は残念に思う。明日の昼間はオフだったが、一日中雨の予報が出ていた。その次の休みとなると、おそらく葉桜になっている。
大学時代や会社勤めをしていた頃は、友人達とよく花見に行った。若気の至りで馬鹿騒ぎをし、「大人連中」に窘められたこともある。今の仕事を始めてから何だかんだと忙しく、気がつくと花の季節は終わっていた。前回、桜の下を歩いたのはいつのことだったか。
(仕方ない。働かざる者、食うべからずだ)
赤信号で停まった交差点の近くに公園を見つける。そこでも桜の花が夕闇迫る薄暮の中、ほんのり白く存在を誇示していた。
(去年、あいつと待ち合わせたのって、あの公園だっけ)
去年の今頃、さく也とあの公園で待ち合わせたことを悦嗣は思い出す。さく也が座って待っていたベンチの傍らの木々がソメイヨシノであることに今、気づいた。今頃と言っても三月に入ったばかりで吐く息は白かったし、桜の蕾はまだまだ堅く花びらどころか雪がちらついていたからだ。春と言うよりは冬のイメージの方が強かった。
その待ち合わせにはちょっとしたエピソードがついているのだが、それを思い出すと今でも胸に甘酸っぱいものが広がる。思えば、さく也を恋愛の対象として意識したのは、あの時だったかも知れない。
(ウィーンでも桜は咲くのか?)
過去より、現在さく也は何をしているだろうかと想いを馳せる。
彼に対する気持ちを自覚し、腕の中に体温を感じながら眠った夜から二ヶ月が経った。仕事中はまだしも、ふと気を抜いた瞬間にはさく也の、無表情でありながら雄弁な瞳が頭を過る。そんな時はすぐにも会いたい気持ちになるのだが、それは容易なことではなかった。東京とウィーンの距離は想像している以上に遠いのだ。
寝ても覚めても心を占め、どこかにさく也の姿を見る。
(自覚すると、どうしようもないな、俺)
短く控えめなクラクションが後方から鳴った。ハッと目の焦点を合わせると信号は青に変わっている。悦嗣は視界に件の公園を留めつつ、アクセルを踏んだ。
(夜桜でも見て帰るか)
気持ち良く昼寝したり、花見にかこつけて飲み会をする目的で桜の下には行っても、花そのものを愛でるために出かける風流を持ち合わせていない悦嗣だが、今夜はなぜか見に行きたい気分だった――公園のソメイヨシノを。明日の雨で桜は散ってしまうだろう。明後日、明々後日の夜はローズ・テールでの仕事が入っている。
しかし夜気は存外に冷たかった。昼間は高かった気温は、日が暮れるにしたがって急激に下がっている。職場に仕事道具を戻すため、駐車場に車を停めて車外に出た悦嗣は、首元から滑り込む冷気に震えた。今日は上着を持たずに出勤した。これでは公園に行っても一分と持たない。
(上着、取りに戻るか)
一旦室内に入ってしまえば、おそらく出かけるのが面倒臭くなるのはわかっている。そうなったらそうなったで、今年は桜と縁がなかったと悦嗣は思うことにした。
エレベーターを降り、外廊下を自室へと進む。日が落ちきってしまうとますます気温は下がり、知らず知らず歩速が上がった。雨が降る前はたいてい暖かくなるはずだが、今夜にまだその気配はない。
「…マジかよ」
玄関の前に人影があり、こちらを見ている。オレンジ色の常夜灯が浮かび上がらせる面立ちは不明瞭だが、悦嗣には一目でわかった。このパターンは初めてではない。
「中原」
遥かウィーンにいるはずの中原さく也だった。手元、足元を見ると荷物の類はヴァイオリン・ケースしかなく、まるでデジャヴだ。二ヶ月前も彼はヴァイオリン・ケース一つで、ウィーンから日本にやってきた。もしやあの時と同じで、何もかも放り出し、楽団に無断で来たのではないかと、悦嗣はさく也を見る。
「まさか、黙って出てきたんじゃないだろうな?」
「ちゃんとエースケに言って出て来た」
「エースケにだけ? オケには?」
「休暇中だから、言う必要ない」
突然のさく也の出現と、嫌な予感からくる緊張でジワリと悦嗣の首筋に帯びた熱は、「休暇」と言う言葉を聞いて引いた。そこへ風がヒュッと頬を弄り、気温の低さを思い出させる。よく見れば、さく也もシャツにPコートを引っかけただけの軽装で、東京より緯度が高く気温が低いに違いないウィーンから来たにしては、かなりの薄着だ。細い首筋を見るだけで寒さが増した。
「中、入ろう」
彼の頭を軽く撫でた。手に髪の冷たさが伝わる。いったいいつからここにいるのか。悦嗣は急いで鍵を開け、さく也を開いたドアの中に押し込んだ。
鍵をかけて振り返ると、押し込まれた状態のままさく也は悦嗣を見ていた。鼻先をぶつけそうになり、慌てて一歩下がった。
大粒のアーモンドのような目が悦嗣を見つめている。右目の下の泣きぼくろが懐かしい。そのほくろに唇で触れたことが思い出されて、悦嗣の頬は熱くなった――と、そのほくろ付の目が、悦嗣に向かってせり上がって来た。
目の焦点が合わない近さに、さく也の目が迫る。思わず悦嗣が瞬きする刹那、弾力のある冷たいものが唇に触れ、一方的に押し付けられただけで離れた。それが彼の唇であることは、見なくてもわかった。
スローモーションで距離を取る彼の唇を悦嗣はすぐさま追い、冷えた髪に手を差し入れ自らの唇でそれを捕らえる。
互いの吐息を送り、内なる体温を確かめ合った。悦嗣の頬に生まれた熱が唇を通して移動したかのように、さく也の唇が熱くなる。一頻り口づけた後、離れると、さく也の白かった頬は薔薇色に色づいていた。もの言いたげに瞳が揺れ、さく也は悦嗣の背中に腕を回して身体を預けた。
「何時に着いたんだ?」
胸にかかる重みを愛おしく思いながら尋ねると、さく也は「朝」と答えた。
「朝? なんで連絡してこなかったんだ?」
「慌てて出たから、電話を忘れた」
休暇とは言っていたが何もかも二ヶ月前と同じで、悦嗣は訝しげにさく也の横顔を覗き込んだ。
「帰国のための休暇じゃなかったのか?」
さく也は首を振った。
「エースケから昨日聞いたから」
「何を?」
「三月三十一日は加納さんの誕生日だって。それで」
「あっ」と悦嗣が声を出す。今日三月三十一日は誕生日だった。三十三才にもなれば、誰も当日に「おめでとう」など言っては来ない。実家に呼び出され、プレゼントと好きな食べ物で両親と妹が祝ってくれたが、それも先週の日曜の話で、三十一日当日、つまり今日には悦嗣自身も意識下になかった。
さく也の話によれば、昨日、一人でブランチに出かけた先でたまたま英介と出会ったらしい。
『あれ? 日本に帰るんじゃなかったの?』
帰国することが当然のように思っていた口ぶりだったので尋ねると、三月三十一日が悦嗣の誕生日だからと英介が答えたのだと言う。それで慌ててアパートに戻り、必要最低限のものを持って空港に向かったのだとか。必要最低限の中にヴァイオリンは入っていても携帯電話はないところが、さく也らしいと悦嗣は思った。
(それでこんな軽い格好なのか)
近所の店でブランチする程度なら、この軽装も頷ける。さく也が自分の誕生日のために後先考えず飛行機に乗ったと知り更に愛しさが募った。再びキスをしたい衝動に駆られたが、何とか抑える。まだ二人は玄関に立ったままなのだ。ドアの下から冷気が入り込んでくる。
「とりあえず上がって…って、何だ、これ?」
背中に回されたさく也の腕をやんわりと外した時、彼の袖口から何か細長いものが垂れていることに気づいた。目の前に持ってくると、さく也の右手首には解けかけた赤い紐が巻き付いている。紐と言うよりもリボンに近い。
「プレゼントを用意しようと思ってエースケに加納さんの好きなものを聞いたら、赤いリボンを買って俺の首に巻いたら良いって言ったんだ」
それで日本に着いてからデパートに向かい手芸売り場で赤いサテンのリボンを買って、売り場担当の女子店員に左手首に蝶々結びしてもらったのだが、英介の助言通り首に巻かなかったのは恥ずかしかったからだと、さく也は薄らと笑った。さすがに赤いリボンを自分に巻く意味はわかっているらしい――いわゆる「プレゼントはわ・た・し」と言うやつで、悦嗣は眩暈を覚える。
(なんつうことを教えるんだ、エースケ〜)
「やっぱりちゃんと用意をした方が良かったのかな?」
英介に呆れて天を仰ぎ見た悦嗣の耳に、抑揚のないさく也の声が聞こえた。無表情に戻った彼だが、少し不安げに見えなくもない。さく也は表情が乏しく、出会った頃は何を考えているのかわからなかった。海外で生まれ育ったためか、普通の会話には不自由しない程度には日本語を話すが、生粋の「日本人」と比べると語彙は明らかに少なく、表現が簡潔であるため冷たい物言いにとられがちだ。それが端麗な容姿と相まって神秘的な魅力となっているのだが、実体は至って普通の感覚の持ち主であると、つき合ううちに悦嗣にはわかるようになっていた。
「いや、俺が今、一番欲しかったものだから、嬉しいよ、ありがとう」
やり方はどうあれ、英介の助言は正しかった。仕事帰りにあの公園の側を通ってからと言うもの、さく也のことが思い出されてならなかった。今日の悦嗣にはどんなものにも勝るプレゼントだ。
悦嗣は解けてしまったさく也の手首のリボンを結び直す。彼はそれを不思議そうに見ていた。
「じゃあ、今日は俺につき合ってもらおうかな。桜を見に行かないか?」
「桜?」
「去年、待ち合わせた公園、覚えてるか? あそこの桜が見頃なんだ。花見しよう」
悦嗣がそう言って笑いかけると、さく也は口元に笑みを浮かべて頷いた。
「あっと、その前に上着、上着。中原もそれじゃ寒いだろう? 何か着るものを貸すよ。それにヴァイオリンは置いていけ」
さく也の背中を促すように軽く叩き、悦嗣は先に玄関から一歩踏み出した。
まずローズ・テールに電話をして、テイクアウト用に軽くつまめるものを頼もう。花見と言えばアルコールは欠かせない。しかし車で出かけるつもりだからどうするか。公園に近くにコインパーキングがあった。そこに預けて明日取りに行けばいい――次から次へと考えが巡り、自覚以上に浮かれていると悦嗣は感じて照れる。
さく也に貸すセーターの類を見繕いながら、「エースケに感謝しなきゃな」と独りごちた。想う相手と誕生日を過ごすことは、こんなに嬉しいものなのだと実感する。一人よりも二人で見る方が、桜の美しさはきっと、鮮明に記憶に残るだろう。
「行こうか」
さく也が貸したセーターを着込みコートを羽織ったのを確認して、悦嗣は手を差し伸べた。それに応えたさく也の手は、とても温かかった。
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