※原作につきましてはこちら(wik・別窓)をご参照ください。



ハルとAI(第一話 海の匂い)   





「残された研究と知識の履歴は、電理研の管理下に置かれます。従ってこの脳殻を義体に戻すことは出来ません。彼が彼であった記憶や感情は全て失われていますので、戻したところで以前の久島教授ではないと言うことになりますが」
「久島としての存在は、何もないということですか?」
「そうです。ですからこの義体には、基本プログラムのAIチップが埋め込まれることになりますね。それはあなたにとって、辛いことになるかも知れません。それでも、この義体をお引取りになりますか?」




 私は自律成長型AI−Basic2061XYZ。
「2061XYZ、彼が波留真理氏、今日から君のマスターだ」
 波留真理と言う人間のアシスタントとなるべく、つい先日、起動した。
「よろしく、久……、いや、2061XYZ」
 彼はそう言うと、手を差し出した。私は応えて握手する。緊張しているのか、彼の手は少し発汗していた。そして私を見る表情は、複雑なものに見える。人間の喜怒哀楽を表すデータの中には見当たらない表情だ。
 本来、マスターに関するデータは、事前にAIにインプットされる。しかし波留真理については年齢と職業以外、私には何も知らされていない。手を合わせれば可能なIDデータの取得も、特別なガードがかけられていて出来なかった。これから日々の生活の中で、波留真理と言う人間を理解して行くプログラムに書き換えられている。だから私を見る彼の、その複雑な表情を推察することは今のところ不可能だった。
「よろしくお願いします、マスター」
 私の言葉に、またしても彼は表現の出来ない笑みを浮かべた。その笑みの意味を読もうとする私と目が合うと、彼はフイと視線を逸らし、「ところで」と担当のエンジニアに話かける。
 私はしばらく、そのままで放置された。



 
 私は久島永一朗だった義体に埋め込まれている。
 久島永一朗とは、メタリアル・ネットワーク理論を構築し、開発した天才科学者であった。人工島・次期書記長との呼び声も高かったが、不慮の事故で意識がメタルに流出し消失され、事実上、死亡した。一年前のことだ。
 私達を待っていたと思われる車が、静かに近づいて止まった。乗ることを促すかのようにドアが開いたが、マスターはそれを断った。
「少し歩こうか。外に出るのは初めてだろう?」
「はい」
 マスターが言う通り、外の世界に出るのは今日が初めてである。
 久島永一朗の義体は旧式の機械型だった。起動した後、ある程度のメンテナンスが必要で、様々なテストに時間が費やされた。それに有名人のオリジナル義体を使用しているため、周りが混乱するからとの配慮もあった。実際、電理研メディカル・センターの敷地内ですれ違う人間は、誰もが私を振り返る。電理研関係者には久島永一朗の『死』の詳細が明らかにされていた。一般市民以上に認識されているにも関わらず、やはりこうして本人が歩いているのを見ると、振り返らずにはいられないらしい。
「どうして後ろに下がるんだ?」
 今度はマスターが私を振り返った。当然、彼は他の人間と違う意味で。
「私はもともとビジネス・アシスタント及びセクレタリとしてプログラミングされています。あなたに対して従属する立場となりますので」
「俺はそう言うつもりで君を引き受けたわけじゃないよ」
 彼は自分の隣を指し示す。私はその通りに足を進めた。久島永一朗より幾分、背が低い。
 メディカル・センターの敷地を出ると、視界に海が入ってきた。センターの窓から見ていた風景だ。外は色々な匂いがする。一番強く感じられるものが潮のそれであることを、データが教えてくれた。
「どうかしたかい?」
「これが海の匂いかと」
 私のこの答えはマスターの興味を引いたらしく、「君には、嗅覚があるのか?」と尋ねられた。五感の内、AIには嗅覚と味覚が省かれることが一般的だからだろう。私には対テロの一環として、様々な匂いと味を感知する機能が付けられている。その旨を簡単に説明した最後に、
「マスターからも、同じ匂いがしますね」
と付け加えると彼は笑った。所謂、苦笑と言う表情だ。
「その『マスター』はやめてくれないか? それから敬語も」
「なぜです?」
「さっき言った理由さ。俺は君の主人じゃないし、君を使用人とも思わない。これからは家族として暮らして行くんだから」
 久島永一朗の血縁情報の中に、波留真理の名前はない。両親はすでになく、唯一残った実姉も三ヶ月前に死亡している。それにAIとの養子縁組は認められていないので、文法的には「家族のように」が正しいだろう。
「では、何とお呼びすればいいのですか?」
 しかし私は逆らわない。マスターである彼の言葉は絶対だからだ。
「そうだな、『波留』でいいよ」
「ハル様ですか?」
「『様』はいらない」
「ハル?」
「そう、それでいい」
 なだらかな下りの坂道の先に海岸が見える。彼の視線も足もそちらに向いていた。まっすぐ自宅に帰る気はなさそうで、私は海への道を彼にならって歩いた。
 砂浜に入ると彼の歩く速度が上がった。私はと言えば、逆に速度が落ちる。下肢にかかる砂の負荷が、データによって理解していたものと差異があったからだ。補正するほんの一瞬の間に、彼との距離が数歩開いた。
「どうした?」
 彼が止まったままの私に気づいて振り返る。砂の重みに足が取られたと説明すると、彼の手が私に差し伸べられた。
「久しぶりの外だから、足の筋力が衰えているんだろう」
「データを補正しました。必要ありません」
 彼はクスクスと笑った。それから私に歩み寄り、手を取る。
「俺が手を繋ぎたいだけだよ。それに、まだ敬語のままだぞ?」
 彼の手からは、やはり緊張が感じられた。ぎこちなく私の手を握って、しばらく見つめる。「温かい」と呟くと、そのまま歩き出した。
 久島永一朗のデータから、二人が友人同士だったことは知っている。血縁でもない義体を引き取ろうと考えるくらいだ、波留真理にとって彼は、よほど大切な友人だったと思われる。しかし私は久島永一朗の形はしているが、彼ではない。こうして手を繋ぐことに、何の意味があるのか。
 ただ波留真理の手の温もりは心地良い。これはこの身体が持つ記憶によるものかも知れない。義体にもそれぞれ癖がある。長い間、ずっと久島永一朗だったわけだから、好みの感触はあるだろう。
 私の足はすっかり砂に対応し、助けの必要はない。それでも彼は握った手を離さず、砂浜を歩き続けた。
 だから私も手を預けたまま、それに従った。

 
 


                                         
2008年作


              top  (2)