One day II 〜Chocolate Day〜




 さく也がソリストとして日本と欧州を行き来するようになった当初、不思議に思ったことの中にヴァレンタイン・デーがあった。
 生まれ育ったアメリカや、オーケストラに所属していたウィーンにもヴァレンタイン・デーはある。ただし恋人同士の記念日の一種であり、男女どちらからでも愛する人に花やカードやプレゼントを贈るものであった。女性が男性への想いをチョコレートに託して渡したりしないし、ましてや『義理チョコ』に類するものも存在しない。ヴァレンタイン・デーはもともと欧米から伝わったもので、それなら同じ習慣になってもおかしくないのに、この違いはなんだろうか。
 日本でのマネージメントを請け負う音楽事務所に、段ボール一個では収まりきらない自分宛てのチョコレートが届いると聞いて驚いた。所属している市民オーケストラの女性団員から、悦嗣を介して送られてもきた。一人でこんなに食べられると思っているのだろうか、こんなに愛を告白されて応えられると思っているのだろうか…と言う疑問には、悦嗣が答えてくれた。
「挨拶程度で渡すこともあるんだよ。それを『義理チョコ』って言うんだ」
 つまりは自分に贈られた大量なチョコレートは義理チョコなのだと理解出来、適当に処分しても大丈夫だとわかった。
 段ボールいっぱいでないにせよ、悦嗣もそれなりにチョコレートをもらう。音楽教室の生徒や、市民オーケストラの団員、調律の顧客等々。さく也と言うパートナーがいて、異性に興味がないはずなのに、やはりもらうと嬉しいものなのか、毎日コーヒーやアルコールのツマミにしながら、最終的にはもらった分のほとんどを完食しているようだった。
 ヴァレンタイン・デーにピンポイントで帰国することがなかったさく也は、日本独特の『風習』に特別思うことはなく、ツアー先からカードを送る以外、これと言って悦嗣にプレゼントはしなかった。悦嗣はと言えば、ヴァレンタイン・デーは女性の行事だと思っているらしく、さく也に対して何をするでもなく、また彼からの何かを期待するでもなかった。
 そんなさく也が、今、ヴァレンタイン商戦まっただ中のデパートに来ている。
 今年は二月に入ってから長期の休暇が取れた。休暇中に二月十四日も含まれる。日本にいると少なからず感化され、「チョコレートでも買ってみよう」と言う気持ちになるから不思議だ。それでここまでやって来たわけだが。
 スイーツ売り場に足を踏み入れた途端、さく也は圧倒されて動けなかった。その週末にヴァレンタイン・デー本番を控え、どこのブースも人が鈴なりで、ショーケースに辿りつけない。いや、辿りつけないことはないのだが、雰囲気が彼の足を止めた。必ず「この男は何しにきているの」的な目がまずさく也を見る。
 ひと頃に比べてゲイの一般的な認知度が上がってはいるものの、ヴァレンタイン・デー期間中にスイーツ売り場に一人で来ている男の姿は、まだ違和感があるらしい。さく也は自分がゲイに見られることや、女性だらけの中で買い物することに頓着しないが、さすがにジロジロと視線が集中するのは居心地が悪かった。視線を集める理由には、さく也の容姿も入っていた。普段の平日であっても瞳の数が違うだけで状況は変わらないのだが、人目を引く容姿であることに無自覚の本人は気づいていない。
 ショーケースの傍まで近づいた時、視線の集中は更に顕著になり、興味が加わる。ますます居心地が悪い。
「お客様、おうかがいしましょうか?」
 だからやっと手の空いた店員がさく也に声をかけてくれても、「いえ」と返してその場を離れるしかなかった。
 チョコレートは断念し、プレゼントはあらかじめ用意したオイル・ライターだけにすると決めた。
 最近、悦嗣は禁煙にチャレンジしている。タバコの値段は度々上がるし、公共施設のほとんどは禁煙になり、分煙も進んで、年々喫煙者の肩身は狭くなっていたからだ。吸わないさく也に気を遣ってもいるのだろう。最後の理由に関して、さく也本人はまったく気にはしていない。タバコを吸う悦嗣の姿を見るのは好きで、ライターや燐寸で火を点ける仕草が特に気に入っていた。
「禁煙しなくてもいいのに」
「そう言うわけにもいかないのさ。うちは高血圧の家系だからな。リスクは低くしておかないと。もう独りじゃないし」
 会話を思い出すと、頬がほんのりと熱くなった。悦嗣はさく也が嬉しくなるようなことを、いつもさり気なく言ってくれる。
 その時に本数制限の見張り役を仰せつかったにもかかわらず、さく也はプレゼントにオイル・ライターを選んだ。
 ヴァレンタイン・デーにと考えて買ったのではなく、言わば衝動買いである。先月、ニューヨークでのコンサートの空き時間に行ったチェルシーのガレージ・ギャラリーで、アップライトピアノ型に細工されたジッポー・ライターを見つけたのだ。悦嗣は出来るだけ禁煙の方向に動いているし、理由もなく、あるいは無理やり理由をつけて贈り物をするのでは、以前、うるさいと思っていたプレゼント魔のユアン・グリフィスと大差ないと思わなくもなかったが、結局、買ってしまった。そして帰国した日本はヴァレンタイン・デー間近で、理由が出来たというわけである。
 デパートを出て表通りの人混みを避け、一筋入った駅への道を歩いていると、洋菓子店を見つけた。その辺りは元商店街だったらしく、洋菓子店の他に個人商店がポツリポツリと残っている。
 洋菓子店は間口が小さく、ショーケースに並んでいるケーキはオーソドックスで種類も少ない。手書きのポップにも古さを感じた。そこでも一応ヴァレンタイン・デーのチョコレートを販売しているのか、表に出したイーゼルのブラック・ボードには、カタカナで『バレンタイン・デー』の文字とチョコレートのイラストが。
 しかし盛況だったデパートの売り場とは違い、その洋菓子店のみならず、周辺はひっそりとしている。多分、ヴァレンタインなど関係なく、普段通りの日常なのだろう。洋菓子店の入口のガラス戸には、『下校の当番に行ってきます。すぐ戻ります』の、やはり手書きの紙がセロテープで留められ、留守にしているようだった。下校当番とは小学校の集団下校時間に保護者が交代で付き添う類のものであるが、さく也にはさっぱり意味がわからない。
――閉まってるんだ。
 ブラック・ボードの文字を見て、気持ちが再び「チョコレートを買って帰る」に傾いたものの、留守では仕方がない。帰ろうとさく也が踵を返したのと、
「いらっしゃいませ。ごめんなさい、お待ちになりました?」
の声がかかったのはほぼ同時だった。
 小学生低学年くらいの少女を連れた、さく也と同じ年頃の女性が立っていた。前ボタンを開けたダウンジャケットから見えるギンガムチェックのエプロンの胸には、その洋菓子店のロゴが入っている。
「今、通りかかって」
「良かった。どうぞ」
「どうぞ!」
 女性の声に、少女の声が続く。生え変わりのため前歯のないその子の満面の笑顔を見ると、デパート同様「結構です」とは言えず、さく也は彼女たちに続いて店内に入った。
 少女はショーケースの脇から奥に入って行く。ほどなく女性と揃いのエプロンを着けながら戻ってきた。ぺこりとお辞儀をする少女の姿が微笑ましくて、さく也の口元は自然とほころんだ。
「何にいたしましょう?!」
 少女はさく也を見上げて元気良く言った。母親と思われる先ほどの女性――店主は「うちの看板娘です」と笑った。
 さく也は少し腰を屈め、その小さな店員に「チョコレートを見せてください」と頼む。
「ばれんたいんの?」
「そう」
「男の人なのに?」
「うん」
 少し不思議そうな顔で少女はさく也を見たが「はい」と答えて、チョコレートがあると思しき棚の前で手招きする。
 一口大の色々な形をしたチョコレートが、手作り感たっぷりにラッピングされていた。
「味見してみてください!」
 少女は試食用の小さな籠の中の不恰好なチョコレートを、さく也の掌に乗せた。
「私もお手伝いしたの」
「ありがとう。いただきます」
 口に含むとミルクの効いた甘い味が広がった。「おいしい」と言うと、少女は嬉しそうに笑い、三種類の量でラッピング出来ること、リボンは選べることを棒読みで説明した。きっと一生懸命覚えたのだろう。
「子供用の味付けだから、少し甘いかも知れません。うちはこの時期、小学生の『御用達』なんで。よろしいですか?」
 悦嗣には甘すぎるかも知れなかったが、この際、それには目を瞑る。目的は日本流のヴァレンタインを過ごすことにあるのだし、悦嗣なら食べてくれるに違いないとさく也は思った。
「このチョコレート・ケーキもおいしいのよ」
 少女はショーケースの中のハート形をした艶やかなチョコレート・ショート・ケーキを指さした。
「ザッハトルテ?」
「チョコレート・ケーキだよ」
 ザッハトルテの意味がわからない少女は、「チョコレート・ケーキ」を強調する。
「普通のチョコレート・ケーキなんですよ。この時期だけヴァレンタイン仕様にしてお出ししてるんです」
 店主が少女をフォローした。
――休みの日によく食べたな。
 ウィーンでのことを思い出しつつ、少女お勧めのハート形のチョコレート・ケーキ二個と、先ほどのチョコレートを頼んだ。ラッピングを待っている時、コートのポケットに入れた携帯電話が鳴った。画面に『etsu』の文字が浮かぶ。
「もしもし? 今? まだ外」
 今日、悦嗣は仕事で出かけていた。仕事を終えて帰るところだが、まだ外出しているなら迎えに行こうかと言う内容だった。さく也も出かけることを知っていたから、気をきかせてくれたのだろう。
 場所を聞かれて店の名前と大まかな場所を伝える。
“ああ、その辺なら五分くらいで行ける。住所、教えてくれ。ナビに入れるから”
 レシートの住所を言って電話を切った。ちょうどラッピングが終わったところだった。
「彼女さん?」
「え?」
「とっても嬉しそうだから」
 品物を渡す店主は微笑んだ。
「近くまで来ているから迎えに来てくれるみたいで」
「優しいんですね。じゃあ、来られるまでここにいらしてください。外は寒いし」
 悦嗣は五分くらいで来られると言っていたし、そんなに邪魔にならないだろうとさく也は彼女の言葉に甘えた。
 当初の外出目的通りチョコレートを買えて、さく也は満足だった。日本人でありながら、生まれてから外国生活の方が長かったせいか、今一つ、疎外感がある。ソリストになって日本を拠点にしたにもかかわらず一年の半分は海外だし、悦嗣や彼の家族がする話題を理解出来ないこともあった。そんな時は自分が異邦人のように感じる。だから一つ、日本らしいことに参加したり覚えたりする度に――ヴァレンタイン・デー自体は外国の行事でもあるのだが、「チョコレートを渡す」ことが日本らしいこととして必要不可欠なのだ――、どんどん悦嗣に近づく気がするのだった
 クラクションが鳴って、店の前に車が横付けされた。運転席がちょうど店側で、開けた窓から悦嗣が手を振るのが見えた。
「いらしたみたいですね。あら?」
 当然、『彼女』が来るものと思っていた店主は、悦嗣の姿を見て自分の間違いに気づく。同時に、男のさく也がヴァレンタイン・チョコレートを買った理由も合点したようだ。
「彼氏さんだったのね?」
「それじゃ、これで。ありがとう」
 さく也は傍らにいた少女の頭を撫でて、外に出た。
 
 
「チョコレートばかり?」
 マンションに戻り、買ったチョコレートの包みとケーキを、居間のテーブルの上に広げる。コーヒー・メーカーのスイッチを入れた悦嗣は、それを見て不思議そうに言った。さく也が洋菓子店にいたので、何か菓子を買ったことはわかったが、全部チョコレートだとは思わなかったのだろう。
「ヴァレンタイン・デーだから」
 さく也は掌ほどの包みを悦嗣に渡す。悦嗣はすぐにそれを開けた。アップライトピアノ型のライターが出てきて、驚いた表情を見せる。
「俺、何も用意してないぞ?」
「いいんだ。今年だけ特別。ちょうど休みだっただけだし、もう気が済んだから」
 悦嗣がジッと自分を見るので、さく也は思わず目を逸らした。こうやって見つめられると、内面を見透かされるようで気恥ずかしい。
 悦嗣の大きな手がさく也の頭に伸び、くしゃくしゃと髪を撫でた。
「ありがとな。大事に使うよ」
「禁煙」
「一日五本は守ります」
 悦嗣は苦笑した。最終目標が禁煙の人間にするプレゼントとしては不適当なオイル・ライターであるのに、それについてさく也には何も言わなかった。
 腰に悦嗣の腕が回って引き寄せられたので、さく也はキスしてくれると期待したが、タイミング良くコーヒー・メーカーが出来上がりのブザーを鳴らした。悦嗣の意識が逸れ、反射的にコーヒーメーカーの方に顔が向きかける。その彼の頬を一瞬早くさく也の手が包んだ。
 それから自分の方に戻し、彼の唇に口づける。腰に回された悦嗣の腕に力が入り、抱きしめられた。さく也は彼の頬から手を外し、首の後ろへと回した。重ねただけのキスが、次第に深くなる。
「三月十四日はどこにいるんだ?」
 束の間で唇が離れ、悦嗣はさく也の濡れた唇を親指で拭って言った。物足りないさく也が再度顔を近づけるのを、「まだ陽が高いぞ」と悦嗣は笑った。
「三月十四日は、ウィーンだ」
「演奏会か何か? 何日くらいいるんだ?」
「ムジークフェラインで弾く。五日くらいの予定。それからドレスデン」
「グローサーザール(ムジークフェラインの大ホール)?」
「うん。プロコフィエフの一番を演る。それとアイネムザール(ゴットフリート・フォン・アイネム・ザール=ムジークフェラインの室内楽専用ホール)でミハイル達とアンサンブルも」
「じゃあ俺も休みを取って行こうかな、ウィーンに」
 三月十四日に何かあるのだろうかとさく也は悦嗣を見た。悦嗣はそのままの体勢で続ける。
「日本にはホワイト・デーってものがあってな、ヴァレンタイン・デーのお返しをするんだ。それが三月十四日。何が特別かわからないけど、だったら俺も特別にお返しをするよ」
「お返しなんていらない」
 『お返し』のような社交辞令的なことは要らないと、さく也は思った。今回、さく也がオイル・ライターをプレゼントしたかっただけであり、たまたまヴァレンタイン・デーと重なったからそれを理由にした。チョコレートはさく也自身の興味と自己満足、つまりはおまけに過ぎない。
「俺が行きたいだけ。グローサーザールでさく也の仕事っぷりも見たいしな。それにムジークフェラインにはベーゼンドルファー(ピアノ・メーカー=ピアノ製造御三家の一つ)が入っているだろう? ホワイト・デーは口実さ」
 悦嗣はさく也の鼻を軽く摘み身体を離すと、今度こそコーヒー・メーカーの方に向かった。身体が離れると、体温が下がったように錯覚する。
――エツがウィーンに来る。
 しかしさっきの話を思い出すと、途端に頬から熱がじわじわと戻ってきた。
 『お返し』は要らないと言うのは本心だが、悦嗣が自分のために何か考えてくれるのかと思うと、日本流ヴァレンタイン・デーも悪くない、来年も…と考えてしまう。そんな胸の内をまたしても読んだのか、コーヒーの入ったカップを先にソファに座っているさく也の前に置き、
「今回は特別だから。毎年、海外まで追いかけてお返しは出来ないぞ」
と、悦嗣が悪戯な笑みで念を押した。
――なんだ。
 ちょっぴり残念に思うさく也だった。
 



 二月の終わりに弟のりく也からメールが入った。曰く、「あいつに変な知恵つけるなよ」
 ユアンとはピアニストのユアン・グリフィスで、二年ほど前に知り合って以来、りく也を追いかけまわしている。かつてのさく也の時同様、理由をつけてはプレゼント攻勢をかけているらしい。結果的に二人を引き合わせたことになるさく也は、会う度にりく也から「あいつを何とかしろ」と抗議されていた。
 ユアンがどんなものを贈ってもりく也が受け取らないことがわかっているので、プレゼントのリサーチを彼がして来る時には「自分が良いと思ったものでいいのでは」と適当に返事をする。しかしユアンから連絡が来た日は悦嗣にチョコレートを渡したあの日で、すこぶる機嫌が良かったさく也は、日本流のヴァレンタイン・デーのことをつい話してしまった。
 どうやらユアン・グリフィスはマクレイン総合病院ERに、大量のチョコレートを送りつけたらしい。
「たまには受け取ってやればいいのに」
 そう返信すると、『甘いものは嫌いだ。あいつもそれは知っているはずだ』と返ってきた。片方の眉を上げている顔が浮かんだ。自分の弟ながら頑なだと思う。仕方がない。りく也はゲイではないのだし、受け取らないことを承知でユアンもプレゼントするのだろうから。
 ひるがえって悦嗣は、さく也が贈ったケーキとチョコレートをすぐに食べてくれた。そしてライターも愛用してくれている。タバコ一日五本の本数制限を実行しているかどうかは、あれからすぐヨーロッパに飛ばなければならなかったさく也には確認出来なかった。
 三月にはウィーンで一緒に過ごせる。その時は、ちゃんと『見張ろう』――それを思うと、三月が待ち遠しくてならないさく也だった。




2013.02.10 (sun)


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