※この物語は、オリジナル小説ブログサイト(BL) Night gate様の小説『翠滴III』の二次作品であり、
登場するキャラクターの著作権は原作者である紙魚様にございます。
『翠滴III』及び登場人物達に関しては、簡単な解説をこちら(別窓)にて行っていますので、
よろしければご覧になってください。
眠りの海で青い魚は恋をする 前のめりになるその身体を、和輝は背後から腕をさし入れ支えた。 「ありがとう。時々、言うことを聞かなくなるんだ、この膝は」 隆典はそう言って身体を起こしたが、和輝は腕を外さなかった。 「和輝?」 少し首を回した隆典のその頬に、和輝は自分の頬を重ねた。片方の腕を深く回して彼の肩を掴むと、強く抱きこむ。口角と口角が触れ合って、語調を強めた「和輝!」と言う言葉に付随した息が、直に感じられる。 逃れようとして身をよじり、隆典の抵抗が大きくなった。体格的に差はない。親子の年齢と言っても、まだ男盛りの域を出ない隆典が渾身の力を出したなら、和輝の腕はほどなく外されてしまうだろう。 「セオ」 和輝は耳元で囁いた。隆典の動きが止まる。 「瀬尾」 腕の力を緩め、和輝は彼を自分の方に身体ごと向かせた。彼の瞳は、見開かれた目の中で凍ったように動かない。 「な…に、」 辛うじて言葉になろうとする声を、和輝は唇で吸い取った。 和輝が父・瀬尾隆典との血の繋がりについて意識したのは、中学二年生の時だ。生物の授業で「形質と遺伝子」を教わり、その中でヒトのABO式血液型についても触れられた。ある程度名の通った小・中・高一貫教育の私立ではあるものの、複雑な家庭環境の子供もいるから、あくまでも知識として留める程度の簡単な説明で終わったのだが、生徒達の興味を引くには充分で、しばらく性格判断や占いなどと言ったものが学年中で流行した。しかし和輝の興味はそんな非科学的な部分にはなかった。 遺伝子から見る血液型の発現をノートしながら、和輝は小さな疑問を抱く。何気なく当てはめた自分と両親の血液型は、親子関係にはなりえないものだったからだ。もちろん中学で習う知識程度で正確な親子鑑定が出来るはずはない。教師も染色体によっては「一般的にありえないとされる子供が産まれることもある」と説明していた。それに父親の血液型は定かではなかった。両親は和輝が幼い頃に離婚し、父の隆典はすぐにカナダに移住してしまったので、会う機会は年に数度だった。彼と過ごす楽しく短い時間の中に、血液型の話題は出たことがない。隆典の血液型は、やはり血液型占いが流行った小学生の時に母・由利から聞いたものに過ぎず、聞き間違いや言い間違いであることも考えられた。 「お父さんの血液型って、何型だっけ? O型?」 仕事から帰宅した由利にさりげなく尋ねると、「さあ、何だったかしら?」とはっきりしない。以前は即答だったのにと、和輝は違和感を覚える。 「お父さんの血液型がどうかした?」 問い返されて、学校でまた血液型占いが流行っているからと答えた。授業で血液型について習ったと言うことを、なぜか話してはいけないと思った。由利の表情が一瞬、止まったように見えたからだ。同時に、隆典の血液型が覚え違いでなかったことを悟った。 自分は両親のどちらかと血が繋がっていないのかも知れない、そしてそれは母ではなく、父の方かも知れないと言うことには、和輝はショックを受けなかった。いつの頃からか漠然と感じていたからだ。 和輝は隆典に似たところが一つもなかった。軽くウェーブのかかった柔らかな髪も、日に焼けにくい肌も、少女と間違われることもある繊細で小作りな顔の造形や、指の形、耳の形、どれをとっても精悍な隆典とは違っている。それらは成長するにつれ、隆典や由利にではなく、ある人物に酷似してきた。 その人物とは時見享一――隆典の友人である。 和輝が学齢に上がるのを機に、由利はニューヨークの設計事務所を辞め日本に戻った。その頃から時折、時見享一は離れて暮らす隆典に代わって、父親役を買って出てくれた。由利が仕事で遠出する時には彼のところに預けられた。サッカーの試合の応援や父親参観、長期の休みにはアウトドアな思い出を作ってくれる。学校で転んで腕の骨を折った時、由利より先に迎えに来てくれたこともあった――何かあった際の連絡先が由利と彼のところになっているからだが、由利は会議を優先し、享一は会社を早退して駆けつけてくれたのだ。 彼と一緒だと、必ず親子か年の離れた兄弟に見られた。年齢差だけではなく、容姿がよく似ていたからだった。第二次性徴期に入り、思春期の少年らしい骨格になると、ますます顕著になった。 「享一さんとは遠い親戚なの。だから似ていて当然よ」 と由利は言ったが、それだけでは説明しきれないほどに和輝はどんどん享一に似ていった。 享一から親戚や友人の子供に対する以上の情愛も、和輝は感じている。甘やかすばかりでなく親身になって叱ってくれるし、向けられる眼差しはとても温かい。 ――もしかしたらキョウちゃんが、本当のお父さんなのかな。 和輝は自室に戻って、理科のノートをカバンから取り出した。余白に書きとめた血液型の組み合わせを見る。記した隆典のそれを指でなぞった。 血の繋がりがないのだとしたら――それ自体には、本当に思うところはなかった。ただ、和輝が「知った」と言うことを隆典が知ったら、今までのようには接してくれないのではないか。そればかりか、父親としての役割が済んだと去ってしまうのではないか。 隆典と会える時間は減っていた。以前は春・夏・冬の長期休暇毎に和輝はカナダの彼の元を訪れていたが、それが夏と冬になり、ついには夏休みのほんの数日になった。隆典は和輝がクラブ活動や学校行事で忙しくなったことを理由にしたが、はたしてそれだけだろうか。 年々、友人に似てくる『息子』に、嫌気がさしたのではないだろうか。 ――もう会ってくれないかも知れない そうなることの方が、和輝にはよほど辛かった。だから疑問をそっと胸の奥底にしまいこんだ。 「和輝?」 隆典は目を見開き、玄関のドアを大きく開けた。 和輝が彼と会うのは六年ぶり、高校二年の夏休み以来である。背はあの頃より十センチ高くなり、面差しも大人びたものに変わったと自覚している和輝に比べ、隆典はさほどに変わっていない。子供と大人とでは、これほどに時間の進み具合は違うものなのかと、和輝は今更ながらに二十一才の年齢差を、そして自分の若さを痛感した。 しかしまったく変わっていないと言えないことにも気づく。目線の高さが同じくらいになったせいか、隆典は小さく見えた。心なしか顎が細くなり、頬に影も入って、それが全体的に小さくなった印象を与えているのだろう。 ――少し、痩せたな 和輝は自分より大きな彼しか知らない。肩が並ぶ日の来ることを想像出来ずにいた。それでも早く大人になって、彼の前に立ちたかった。会いたくても会えずにいた六年の年月が、和輝の願いを叶えてくれたかのようだ。 「大きくなったな。すっかり見違えた。事前に聞いていたのに驚いたよ」 和輝は大学の卒業旅行先にカナダを選んだ。 前回訪れた時、大学受験が終わるまで来るなと隆典に言われた。受験が終わると、今度は隆典の多忙を理由に断られ続ける。大学の三年、四年次は和輝自身が就職活動や卒業制作で忙しくなった。アルバイトをする暇がなく、それまでの貯金は見る間に雑多なことに消え、渡航費を捻出する余裕がなかった。隆典も由利も、成人した息子に遊びのための小遣いや旅費を都合する考えがない。またその教えが浸透した和輝は、言えば援助してくれるであろう優しい『おじ』の享一に頼ることを好しとしなかった。誰よりも早く就職の内定を決めて卒業制作の目途をつけ、年末年始もなくアルバイトに明け暮れた。そうしてやっと卒業までの半月をカナダで過ごせる程度の資金を貯めたのである。 「卒業祝いと就職祝いを直接もらいに行くよ」 そう連絡すると、受話器の向こう側で隆典が声を上げて笑った。彼の笑い声に、和輝の耳の奥は熱くなった。 六年ぶりに訪れた懐かしいメゾネットタイプのコンドミニアム。通された居間はその住人同様、一見、変わっていなかった。 木製のアンティーク家具に、濃淡の差こそあれベージュ色で統一されたカーテンや布張りのソファやクッションは、南向きに大きく切り取られた掃き出し窓から入る陽光と相まって、暖かな印象を与えている。が、それらは以前と同じでありながら、部屋にはおよそ生活感がなかった。きれいに整頓され、無駄なものが一切ない。モデル・ハウスの一室のようで、なぜだかとても『他人行儀』な部屋だ。 ソファの続きに置かれたサイド・テーブルに、和輝は目を向けた。中央には自然の石目を木星に見立てた大理石の球体があって、それをずらす。和輝がつけた、あるはずの疵はなかった。確かに記憶の中のテーブルと同じであるのに。 壁紙もそうだ。落書きが消えている。和輝が初めてここを訪れた時に描いた青い魚群の拙い絵。美しさを計算された居間には不似合いに過ぎ、成長した和輝自身が恥ずかしくて「もう消したら?」と言っても、隆典は消さずにそのままにしていた。 「どうかしたのか?」 ぼんやりと立って、無意識に『思い出』を見出そうとしていた和輝に、背後から隆典の声がかかった。 「なんでもない」 和輝はそう言うとソファに腰を下ろした。ひどく居心地が悪い。ここも自分の家だと思っていたのに、動作の一つ一つに気を遣う。隆典は、ここで本当に生活しているのだろうかと疑いたくなるくらいだった。 少し離れて隆典が和輝の隣に座った。そこからはお定まりの会話だ。間近に迫った大学の卒業を祝う言葉から始まり、就職先について尋ねられた。和輝は由利と同じ建築の方向に進み、大手ゼネコンに就職が内定している。そのことを話すと、「蛙の子は蛙だな」と隆典が感慨深げに呟いた。 『蛙』とは誰を指すのか、流し見る先の隆典の横顔からは量れない。本来であれば設計の仕事に就く母親の由利のことだろうが、和輝にはもう一人、心当たりがあった。 自分の頬に刺さる視線を感じたのか、隆典が和輝を見た。まともに目が合って、先に逸らしたのは隆典だ。『蛙』が誰なのか、その様子から和輝は察する。今や和輝は面差しのみならず声までもが時見享一にそっくりで、疑いようのない血の繋がりと濃さを現していたからだ。隆典の目の逸らし方は不自然だったが、和輝はそ知らぬふりをした。 久しぶりでぎこちない親子の会話は、時折、間を挟みながらもぼつぼつと続いた。 和輝は隆典に会ったら、話したいことがたくさんあった。会えなかった六年の出来事を話すつもりだったし、隆典の六年も聞きたかった。しかし彼の顔を見た途端、会いたかったことだけがクローズアップされる。用意した話の種は撒かれる時期を逸し、うまく話せない。 他人行儀な居間同様、居心地の悪さは否めず、それに伴って奇妙な緊張感が和輝を圧迫する。会話内の間(ま)が長くなり始めた時、電話が鳴った。和輝の緊張は緩んだ。 「すまない、和輝。トラブルが起こって、少し出かけてくる。そんなに遅くならないと思うけど」 「いいよ。ウィーク・デイだものね。本当は仕事なんじゃないの?」 「ちゃんと休みは取ってあるんだ。何しろ数年ぶりで息子に会えるんだからな」 隆典はそう言うと、くしゃくしゃと和輝の頭を撫でた。 着替えるために立ち上がり際、隆典は和輝の部屋はそのままだからと言い置いた。 「俺の部屋、まだあるの?」 「あたりまえじゃないか。ここは和輝の家でもあるんだから」 ――俺だって、そう思ってた。でも… 同じで違うこともある。実際、この居間に限らず、廊下もキッチンも、どこかよそよそしい。壁紙は張り替えられ、カーテンもよく見ると模様が違っている。確かに長年住んでいるのだからリフォームはするだろうが、知らない間の変化はたとえ微細でも和輝を寂しくさせた。自分の部屋までなくなっているのではないかと思うのも仕方がない。 十分ほどしてチャコール・グレイのスーツに着替え、コートを手にした隆典が居間に入ってきた。ブリーフケースの中身を確認し、腕時計で時間を見る。仕事モードに入った隆典は、和輝の記憶の中の隆典だった。変わっていない彼の部分を見つけ、和輝は自然と笑みがこぼれ、その姿に見惚れた。 玄関ドアのところまでついて行く。隆典の背中に話しかけた。 「スーツ、似合うね。俺も就活でスーツ着たけど、借り物みたいだった」 ドアノブに手をかけた隆典は振り返った。 「着慣れているからさ。和輝だって、何年かすると身につくようになる。就職祝いに作ってやろうか? 良いテーラーを知っているから」 「だったら、一着くれない?」 「サイズが合わないだろう?」 「もう変わらないよ。背だって、ほら」 和輝は一歩近寄って、彼の目の前に立って見せる。「本当だ」と隆典は笑った。笑顔も昔の隆典のものに戻った。少しずつだが、時間が遡って行く。帰ってきたらまたぎこちなくなってしまわないだろうか。和輝は仕事の呼び出しが恨めしかった。 ドアを開けるとサングラスをした背の高い男が立っていた。 白っぽい金髪。黒いレンズのサングラスに隠された内側の瞳も、髪と同系色であることを和輝は知っていた。いつの頃からか隆典の生活の中に入り込んだ男だ。美丈夫とも形容出来る人目につく容姿を持ちながら、意識して見ないとその姿は視界に入ってこない。それでいて気がつくとどんな場面にも居合わせる不思議な存在だった。企業の顧問弁護士と言う職業柄、敵も少なくないであろう隆典につけられたボディガードかと和輝は思っていたのだが、それだけの関係ではないとも感じていた。得体の知れない鋭利なオーラを纏うその男が、今もって隆典の傍にいる。 男は和輝を一瞥した。サングラスで表情が読めないながらも漂う威圧感に、和輝は唇を引き結ぶ。 「誰か訪ねてきても、不用意に開けるんじゃないぞ」 「わかってるよ。もう子供じゃない」 「親にとったら、子供はいつまで経っても子供だ」 その言葉に、和輝の胸はちりりと痛んだ。 金髪の男が自分を見つめている。心を読まれているような嫌な気分がした。和輝は彼の視線を無視し「いってらっしゃい」を言ってドアを閉めた。いや、閉める振りをした。細く隙間を開け、隆典の後ろ姿を見送る。すぐに金髪の男の大きな背中が隆典を隠してしまったので、和輝は今度こそ、ドアを閉めた。 和輝の部屋の家具は末永く使えるようにと、流行に左右されない大人仕様のアンティークが選ばれ、壁紙やカーテン、クッションなどの内装で子供部屋を演出していた。水色の空に白い雲を浮かべた壁紙は、昔、大ヒットした映画の中に出てきた子供部屋に似せたものだ。夜になって灯りを落とすと、天井にうっすら星座が浮かび上がる。森と動物をモチーフにしたパッチワークのベッドカバーは子供っぽく、最後に高校生の男の子が使っていた部屋には見えなかった。 隆典は子供の成長や好みに応じて、壁紙やベッドカバーを替えるつもりで節目の年齢にカタログを取り寄せたが、和輝がそれを拒んだ。「そんなに傷んでいない」と理由付けしたのだが、この部屋の全ては隆典が一人で和輝の為に選んだものばかりだったから、替えたくなかったのだ。離れていた間、隆典は和輝の意思を尊重したらしく、部屋は六年前のままである。 壁には落書きをして和輝自身で消した跡が残っている。机の足にはラジコンの四駆をぶつけた疵も。居間のようにリセットされていないことに安堵した。 空気を入れ替えるために少し開けられていた窓を閉め、ベッドの上に仰向けに寝転がったまま部屋を見回す。多分、この部屋を開けたのは六年ぶりなのだろう。机の上の万年カレンダーは六年前の西暦と月日を示し、和輝が日本に帰る朝、何かメモを取った時に使ったノートと鉛筆がそのままだ。隆典が一度も足を踏み入れていないことがわかった。 本当なら、和輝は由利とではなく、ここバンクーバーで隆典と生活するはずだった。離婚の際、親権は隆典が取った。親権は母親に渡ることがほとんどなのだが、当時、由利はニューヨークの設計事務所での職に就きながら大学に通う予定になっていたので、子育てに対して余裕がなかった。それに隆典が親権を強く望んだと聞いている。 ところが、いよいよカナダに向う間際になって事情が変わった。隆典が事故に遭い、左足に後遺症が残るほどの怪我を負ったのだ。そんな身体で、当時まだ五才の子供を抱えて新天地での仕事には無理がある。両親の間でどのような話し合いがなされたかわからないが、和輝はニューヨークの由利の元に引き取られ、親権も彼女に移行した。 和輝は起き上がって部屋を出た。居間の片隅に設えた緩やかな螺旋を描く階段を上る。二階には二部屋あり、一室はビジター・ルーム、もう一室は『開かずの間』だった。 ――やっぱり開かない…か。 常に施錠されている『開かずの間』は、このコンドミニアムで居間の次に広い部屋である。南向きの大きな窓からは、バンクーバーの街が一望出来るはずだ。「はずだ」と言うのは、和輝はドアのところからしか中を見たことがないからだった。ただ居間のバルコニーから張り出した部屋の一部が見えて、眺望の良さは想像出来た。 隆典はこのコンドミニアムを、和輝と二人だけで住むために用意したのではない。誰かもう一人、あるいはその人物と住むことを前提に選んで購入したのだ。一番良い部屋は、その人物のためのもの。一度だけ覗いたことがある部屋は、水色と白を基調とした布物に、スチールとガラス製の洗練された北欧系家具が入っていた。 幼い頃和輝は、その人物が由利なのではないかと思っていた。両親が元の鞘に納まることへの期待もあったが、やがてそれが由利ではないとわかる。『開かずの間』は女性らしさが微塵も感じられない。由利は性差のない仕事についているが少女趣味な面を持っていた。色なら赤系、柄なら花柄、家具は白っぽい木製を好んだ。あの部屋は彼女の好みとは乖離している。 「これからは和輝とパパと『キョウちゃん』といっしょだよ」 「ママは?」 「ママはお仕事があるからバンクーバーには行けないんだ。その代わり、『キョウちゃん』が行ってくれる。和輝は『キョウちゃん』、好きだろう?」 「うん、好きぃ」 ずっと忘れていた隆典との会話を思い出したのは、高校二年の夏にここを訪れた時だった。 夜中、喉の渇きで目が覚めた和輝はキッチンに向った。居間では灯りとテレビが点いていて、ソファには隆典が座っていた。 「まだ起きてたの?」 呼びかけても返事がないので回りこむと、隆典は眠っていた。 「ちゃんとベッドで寝ないと、身体痛くなるよ」 和輝は彼の肩先を指先で押した。 薄く目を開けた隆典は微笑みを浮かべ、片方の腕を伸ばすので、和輝はその手を捕ろうとした。隆典の手はそれをかわす。それから和輝の首にかけると引き寄せた。 「…キョウ」 間近に彼の顔が迫り、和輝は慌てて「お父さん」と呼びかけた。その途端、勢いよく隆典の目が開いた。首に回された腕は外れ、和輝の胸を押しのける。 隆典は狼狽したように顔を背けたが、向き直った時にはその表情は消えていた。 「こんな時間にどうしたんだ?」 「喉が渇いて目が覚めたんだよ。水を飲もうと思って。そしたらテレビがついていたから」 ノロノロと隆典が立ち上がった。 「そうか、ありがとう。部屋に行くよ。それは明日片付けるから」 サイド・テーブルに乗ったブランデーのセットを指差した後、隆典は自室へと向った。 和輝はキッチンに行くついでに、隆典が使ったグラスやアイスペールを手に持った。 「キョウ」と確かに言った。それは隆典の友人・時見享一の呼び名だ。そして互いの息がかかるほどに引き寄せられた。和輝が「お父さん」と呼ばなければ、唇は重なっていたかも知れない。 シンクに置いたグラスの、隆典の口が触れた部分をなぞる。 忘れていた幼い頃の会話の記憶が蘇った。一緒にくるはずだった人物が誰だったのか、入ることを許されない二階の部屋の『持ち主』が誰なのかが、和輝にはわかってしまった。 ――お父さんは、キョウちゃんが好きなんだ…。 微笑みは優しく、名を呼ぶ声は甘さを含んでいた。隆典の、父親としてではなく一人の男である顔を見せられて、和輝の胸は昂った。同時に、それが自分に見せるために作られた表情ではなく、たとえ一瞬でも時見享一と見間違えられたことに落胆する。そして父親が同性を好きになる性質(たち)だと知ったことよりも、ショックだった。 隆典は自分を透して享一を見ているのかも知れない。その時の切なさを、六年経った今でも和輝は思い出すことが出来る。 もともと和輝は父親っ子で、大人の事情で無理やり引き離されてしまった上に、会う機会も年々減っていたこともあって、より隆典への思慕が強くなりがちであった。しかし隆典とは血の繋がりがないのではと意識した十四才の時以来、和輝の中で彼に対する別の感情が生まれ、少しずつ、だが確実に育っていた。それは子が親に抱く情愛とは違うと、自覚出来るほどには微かに狂おしいものだったが、認めてしまうにはまだ和輝は幼かった。 隆典の秘めた想いを知ったあの夜の後――バンクーバーから戻って、和輝の気持ちは落ち込み気味だった。隆典がこの世で一番大切に想っているのは享一であり、よく似た和輝の中に彼を見ていると知ってしまった。それに追い討ちをかけたのが、受験が終わる再来年まで来るなと言われたことだった。 二学期が始まってしばらく経っても引きずって、表に出していないつもりが、 「和輝、どうかしたんか?」 幼馴染で親友の池田喬純には悟られてしまう。部活からの帰り、寄り道して行こうと誘われ、児童公園のベンチに二人して座った。 「何でもない」 「何でもないってこと、ないやろ? 夏休み終わってから変やぞ。何かあったんとちゃうんか?」 否定すればするほど、喬純はしつこく理由を聞き出そうとする。よほど和輝の様子が変なのだろう。ちゃんと答えない限り帰らせないと言わんばかりだった。 父親の中の一番ではなかったことに気落ちし、それにしばらく会えなくなったことが重なって「気分が塞いでいる」とは、心を許し、何でも話してきた親友の喬純にも言えはしない。 ――そんなファザコンみたいな理由。 「何でもない」と答えること数回、喬純が黙りこくった。明るくて話し上手、柔らかな関西弁で周りを笑わせる喬純は、ともすれば軽い性質に見られがちだが、その実は硬派で、本気で怒ったり思うところがあると口数が減った。薄暮の中、まっすぐ和輝を見据える目は、最前の比ではないくらいに強い意思を含んでいる。和輝に対しては滅多に見せない表情だった。 「俺、そんなに頼りないか?」 「そんなことないよ。本当に何でもないから」 「嘘や」 怖いくらいに見つめられ、和輝は目を逸らした。喬純が本当に心配して気遣ってくれていることはわかるが、話したくないことだってある。それを話さないからと言って、責めるような目で見られるのは心外だった。だから苛立ち、つい語気を強めてしまった。 「何でもないって言ってるだろ。もし何かあったとしても、タカに全部話さなきゃなんないのか?!」 これではやっぱり何かあると思われても仕方がない。そう言う斬り返しがあると構えたのだが、喬純は乱れのない深い声音で和輝の言葉に答えた。 「俺は和輝のことやったら、全部知りたい。どんなちっさいことでも。好きなヤツのこと知りたいのは、あたりまえやろ?」 「タカ」 「俺、和輝のこと、好きや。友達としての『好き』やない。俺の『好き』には欲がある。キスしたいし、触りたい。そう言う『好き』なんや」 思ってもみない彼の告白に、和輝の気持ちの矛先がそれる。 喬純は両手を和輝の頬に添えた。そっと触れているだけであるのに、顔をそむけることを許さないほどの『力』がある。 「おまえは本気に取らんけど、俺はいっつも本気やった。男同士やなんて関係ない。和輝やから好きになった。和輝以外、欲しぃない。だから落ち込んでんの見るの、辛いんや。おまえが悩んでんなら、聞いて力になりたい」 近づく喬純の顔。キスをするつもりなのだとわかったが、頬に添えられた彼の手で身動きが取れない。重なろうとするその瞬間、和輝の脳裏にあの夜の場面が浮かんだ。そして喬純の顔はすり替わる。引き寄せられ、二つの唇が重なる寸前まで近づいた隆典の顔に。 喬純の唇は軽く触れただけで、すぐに離れた。和輝の目はその唇を追ったが、意識は違うそれを追っていた。 「なんか…言うてくれよ」 喬純とのキスに何も感じない。頬にかかる彼の指先の体温も感じない。しかし隆典のことを思い出しただけで、身体中が熱くなる。あの時、別人の名前と共に漏れた隆典の吐息はブランデーの芳香で甘かった。記憶が鼻腔にまで広がり、和輝の思考をすべて隆典へとさらう。 ――お父さんが好きだ 喬純が言った言葉そのままに、「キスしたい」「触れたい」、そんな欲のある『好き』――その感情は恋だ、おまえはずっと恋をしているのだと、声なき声が和輝に告げる。 和輝は一歩下がって、喬純の手を頬から外した。 「ごめん、タカ。好きな人、いるんだ」 |