注) このお話は出会って8年後の話です。



[むじーく 〜Musik〜]   前編





 新見弘和は出席簿の自分の欄に丸印をつけようとして、ドキリとした。一つ前の欄に印しが付いていたからだ。印しを付けられた名前は中原さく也――練習場に入ると、セカンド・ヴァイオリンの位置に彼が座っていた。
 右隣が不自然に空いていて、そこに座れと言わんばかりに他のセカンド・ヴァイオリンのメンバーが新見を見ている。「俺ですか?」の意味で新見が自身を指差すと、無言の肯定が戻ってきた。その席は中原さく也とプルト(譜面の共有)になっていた。
 八乃音(はちのね)市民オーケストラ、通称八オケは、市民の文化意識の向上と気軽に音楽に親しむことを目的として、五年前に設立された。団員は趣味で楽器を続けているアマチュアがほとんどだ。音はやはりその程度で注目される点はこれと言ってなかったが、実は密かに有名であった。
 日ごろの練習の成果を身内に見てもらう発表会のような初めての単独演奏会、これがクラシック好きを驚かせることとなったのだ。無難な演奏内容はともかく、メンバーの中に『中原さく也』の姿があったからである。
 中原さく也は名だたる国際コンクールを総なめにし、世界で最も人気があるヴァイオリニストの一人だ。欧州が主な活動拠点の彼が日本で演奏する機会は極めて少なく、演奏会のチケットが取り難いことで有名だった。その中原さく也が、市民会館の小ホールで行なわれるチケット一枚千円の演奏会の、それもセカンド・ヴァイオリンの席に座っていたのだから、驚かないはずがない。団員ですら、当日のゲネプロで彼の姿を見た時、見間違いかと自分たちの目を疑ったほどだった。
 初めての演奏会は「それなりに聴かせたい」と言うこともあり、音・芸大などの学生らがエキストラ(応援)で参加していた。これは八オケの鍵盤奏者で、普段の合奏練習の指導を担当する加納悦嗣が手配したのだが、中原さく也もそんなエキストラの一人だった。ちょうどオフで帰国していた中原さく也が、「セカンド・ヴァイオリンの音が弱い」と友人の加納から聞いて、参加を申し出たらしい。だから、誰もがその日かぎりのことだろうと思っていたのだが、新年度になってから配られた団員名簿には、彼の名が記されていた。セカンド・ヴァイオリンのところに、正規団員として。その上、帰国中で時間が合う時に練習があれば、顔を出すこともあると言うことで、町の素人オーケストラであるにもかかわらず、少なからずクラシック・ファンから注目を浴びることとなったのである。
「と、隣、失礼します」
 新見がパイプ椅子を置いて頭を下げると、中原さく也も同じように返した。みんなの視線が感じられる。もちろん新見にではなく、中原さく也に向けられているのだった。
 彼が練習に来ることを誰もが期待していた。それが目当てで入団した者もいる。世界的な音を間近で聴けるのだから当然だった。しかし、いざ本人が現れると、遠巻きにしてなかなか近寄らない。特に同じパートの人間は、隣に座ることを押し付け合う始末だった。そして今日のハズレ…ではなく、当たりクジは新見が引いてしまった。
「新見、さっさと座れ。練習を始めるぞ」
 練習指揮者の加納が指揮台から声をかける。新見は仕方なく中原さく也の隣に座った。
 大学生で比較的時間に余裕があり、練習には早めに来るか休むかのどちらかの新見が、中原の隣に座るのは初めてだ。出際に母親から用事を頼まれて寄り道したために、何時もより少し遅れた。それでも遅刻したわけではない。一年に数度もないそんな日に、中原が練習に顔を出すとは――新見は心の中でため息をついた。
「じゃあ、シュトラウス。一回、通すから。D dur(ニ長調)の四分の三に変わったとこ、気をつけろよ」
 加納の手が上がった。本日の一曲目はシュトラウスの有名なワルツ、『美しく青きドナウ』。団員の演奏したい曲ベスト10の一曲だが、中原を意識してと言うこともある。彼がかつて所属したウィーンのオーケストラの十八番であった。
 曲が始まってすぐに、新見は自分がアウトの位置にいることに気がついた。これでは譜面をめくるのは中原と言うことになる。国際的ヴァイオリニストをセカンドのパートに据えていることだけでも贅沢なのに、
――この上、譜めくりまでさせるのはどうなんだ? 
そう思っても新見が勝手に曲を止めるわけにもいかない。
「重いなぁ。 八分の六のAndantinoをいつまで引き摺ってんだ、四分の三だぞ。気をつけろって言ったろ?」
 通すと言ったにもかかわらず、序奏の後半、ワルツのテンポに転じたところで、加納が曲を止めた。この時とばかりに、新見は中原に席を替わって欲しいと頼んだが、彼は、「なんで?」と素気無く答えるだけだった。それから新見の答えを待っているかのように、ジッと見つめる。
 中原さく也は演奏もさることながら、その美貌も有名だった。見つめられると、同性でありながらドキドキする。確か三十代半ばくらいの年齢で、新見より一回り(十二才)以上年上のはずだが、それを感じさせない。
「そこ、話、聞いてんのか?!」
 指揮者の注意が飛ぶ。新見は慌てて楽譜に目を戻した。席を替わる機会を逸して、もう一度最初から曲が始まった。
 



 中原さく也との音の差は歴然だった。同じパートを弾いているとはとても思えない。使用している楽器の違いもあるが、それだとて技術が伴わなければ、最高の音を引き出すことは出来ないだろう。
 セカンド・ヴァイオリンはファースト・ヴァイオリンより低音域を担当する。ファーストのように華やかな高音域や、主旋律を奏でることは少ないものの、ハーモニーを構成しメロディーを下支えする役割を担っていた。ヴァイオリンの初心者がオケに参加する場合、セカンドに配置されることが多いので、どうしてもファーストより技術的に劣るイメージがあるが、中原の奏でる音はそれらを払拭するにあまりあるものだった。
 目立つでもなく、退き過ぎるでもなく、ファーストの呼吸に合わせてハーモニーを作り出すその音は、芯となって他のセカンドの音を吸収した。普段はバラバラと拡散しがちな八オケのセカンドだが、中原さく也の音に導かれて耐える。まとまった旋律は安定した音量を保ち、ファーストに拮抗しながらも、決して反発や圧倒する演奏にはならなかった。
 ただ残念なことにファーストの技量が、今の段階では絶対的に不足していた。いくらセカンドがファーストに尽くしても、応えることが出来ないところがある。それに合わせてセカンドが抑えると――正しくは中原さく也がだが――、途端に音楽はしぼんだ。
 新見はその一曲が長く感じられた。中原の音に引きずられて、すっかり萎縮してしまったからだ。自分の音が彼にどう聴こえるか、気になって仕方がない。そして彼が一瞬でも楽譜を捲ることに意識を向けることが、申し訳なくてならなかった。
 一回通せば、音楽が止まる。その時にもう一度、席を代わって欲しいと頼もう――早く終われと願うから、長く感じられてならなかった。
 ワルツV(5)に入ったところで中原の弓が止まった。新見は彼を見たが横顔を向けるばかりで、ちゃんとページは捲るものの、結局、終わるまで弾かなかった。
 通し終えたところで、加納は口元をへの字に曲げた。
「あのなぁ、プロじゃないんだから、ワザとらしい演奏するなよ。必要以上に溜め過ぎ。全体的に重い。それと、」
 演奏上の注意事項が別のパートから始まり、新見が中原に席の交代を頼もうと振り返る。
「やっぱり席を替わっ…」
「席を替わるのと、演奏に集中しないのは、関係があるのか?」
 新見の言葉に重なるように、中原が言った。
「え?」
 ゆっくりと彼が新見を見る。真正面から見据えられて、新見は身が竦んだ。
 その感情の起伏の乏しさから、中原さく也はしばしば「アイスマン」と称される。今もこれと言って表情には出ていないし、声にも抑揚はなかったのだが、それが却って何か含みを感じさせるのだ。
「全然、集中していなかっただろう? それはなぜ?」
「なぜって、その…」
「さっきも席がどうのって言ってたけど?」
「それは、僕がアウトだと中原さんが譜めくりをしなきゃなりませんし、」
「譜めくり? それが?」
「あなたに譜めくりさせるなんて失礼かと思って」
 中原の目が少し見開いた。
「インに座れば、誰だってすることだ」
「でも」
「そんなくだらないことで、演奏出来ないのか?」
 新見は答えられなかった。確かに自分は演奏に集中していない。中原とのプルトでアウトにいることの居心地の悪さと、素人丸出しの音を聴かれるかと思う恥ずかしさ、そればかりが先立って、演奏していると言う感覚がなかった。多分、普段の何分の一も弾けていないだろう。
 いつの間にか周りの視線が新見達に向けられていた。その中には指揮者の加納のそれも含まれている。
「どうかしたか、中原?」
 加納の言葉に、中原は「何でもありません」と答えた。
「じゃあ最初に戻って。ワルツIまで。何度も言うけど、四分の三の入り、気をつけろよ」
 再び指揮者の手が上がって、曲が始まった。




「何かあったのか? おまえ、全然集中してないじゃないか」
 休憩時間に新見は加納に呼ばれ、外階段に出た。踊り場には落葉樹の枝が伸びている。晩秋の午後の陽に照らされた残り葉が、見た目に寒々しく揺れていた。実際、体感的にも気温が下がっているのだが、呼ばれた理由がわかっている新見は、緊張で逆に身体が熱かった。
 あの後の練習も、新見は今一つ集中出来ていない。席云々のことよりも、中原に「くだらないことで」と言われたことが恥ずかしく、思うように弓が滑らなかった。ぎこちないボーイングがテンポを不安定にさせ、隣から聴こえる正確な演奏が更に焦りを呼んで悪循環となる。どうしようもなくて、ただ譜面を追うだけ。案の定、そんな演奏を指揮者が見逃すはずもない。
 事情を聞かれて、新見は正直に話した。
「確かにくだらないことではあるな」
 新見は顔を上げられなかった。加納の下振り(練習指揮)は音に容赦がない。演奏することに真摯であるかそうでないかを、的確に聴き分けるのだ。腑抜けた演奏について正指揮者以上に厳しく、その点で言えば今回の新見の体たらくは、加納を怒らせるには十分だと思われた。
 加納の声音は、新見の想像に反して穏やかだった。
「中原の隣は演りにくいか?」
 新見は言葉につまり、微かに頷いてしまった。彼の笑う声が聞こえる。新見はようやく顔を上げた。
「まあ、おまえの気持ちはわからないでもないよ。あいつの音は、そこら辺に転がっている音じゃないからな。多少抑えていても、ファーストを霞ませているのは確かだし。そんなヤツに譜捲りまでしてもらったら、俺だって恐縮して平静には演れないさ」
 彼はポケットから煙草を取り出すと、銜えて火を点けた。ここで二人が話し始めてから二本目である。
「でもな、中原だって八オケの一員だぞ。ここに来ている時間は、ソリストでも何でもないんだから」
「とてもそう言う風には思えません」
 中原さく也は、他の楽団員とは全然違う。自分の実績をひけらかすことはなかったし、お高くとまっているわけではない。極端に無口ではあったが、話しかければそれなりに応えが返った。しかし音、存在、何もかもに一種独特の雰囲気を持つ。世界最高の音楽を奏でるソリストの『気』が、彼を取り巻いている――と、新見の口から思わず、そんな本音が零れ出た。
「『みんなと合わせられるから、ヴァイオリンも練習した。今の自分が在るのはその延長線上なだけ』、これは中原の言葉だ。あいつはオケで演奏するのが好きなんだよ。ずっとソリストで来たわけじゃない。むしろオケ歴の方が長いくらいだ。中原は本当に楽しそうに弾いているぞ? 俺が頼んだから済崩しでここにいるんじゃないってことは、わかってやってくれないかな?」
「楽しそう…ですか?」
 新見は演奏中の中原さく也を思い出す。今日はまともに見ることが出来なかったし、呆れられた顔しか記憶になかったが、その他の練習で見かけた時も、『アイスマン』の綽名通り、さほど表情は変わらないように思えた。
 そんな新見の心の中が読み取れたのか、加納は「あれで、楽しそうなんだよ」と笑った。
「萎縮するばかりじゃなく、あの音が只で聴けてラッキーってくらいに思えよ。本物の音を聴けるんだから、悪い影響は受けないはずだ。実際、今日のセカンドの出来は良い具合だぞ? 新見はそれどころじゃなかったろうけどな」
 二本目の吸殻を携帯灰皿に入れると、加納は間を置かず三本目を口にした。
「せめて今日の居心地の悪さくらいは何とかするか。席の件は俺から話しておくから、おまえはインに座ってろ」
「ありがとうございます」
 加納が笑った。
 若い新見は感情が顔に出やすい方だった。加納が中原に話してくれると聞いて、頬の緊張は素直に緩んだ。彼の笑みはそれに気づいてのことだろう。
「火、点けたばっかなのに」
 新見の肩越しに廊下の方を見て、何の脈絡もなく加納が言った。火とは煙草のそれのことだ。彼は名残惜しそうに火を消すと、灰皿の中に突っ込んだ。
「エツ」
と言う声が、新見の背後で聞こえた。
 振り返ると中原さく也が外階段入り口のところに立っていた。さきほどの練習での件で新見同様、彼もまた加納に呼ばれたのだろう。
「二本吸ったことは内緒だぞ」
 加納が小声で言った。彼が最近、喫煙回数を減らす努力をしていることは知られていた。続けざまに煙草を二本吸ったことや三本目に火を点けたことを、友人の中原さく也に知れるのはバツが悪いと見える。そんな加納の表情を見て、新見もやっと笑顔を作る余裕が出来た。
「じゃ、僕はこれで」
 新見が頭を下げると、加納は頷いた。自分と入れ替わりに踊り場に出てくる中原にも会釈する。彼も浅く頭を下げた。すれ違う際の空気は、やはり違う気がした。
 席の件だけでも解決されれば、少しは落ち着ける。加納の言う通り、類稀な音を隣で聴ける幸せを感じられるかも知れない。現金なもので、あれだけ気が重かった後半の合奏練習の時間に、早くなればいいと思う新見であった。




                    to be continued (2008.12.02)



 

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