注) このお話は出会って8年後の話です。



[Musik 〜むじーく〜]   後編





「そんなくだらないことで、演奏出来ないのか?」
 さく也は自分とプルト(楽譜共有)の青年を見つめた。彼の目線はさく也のそれを受けてはいるものの、微妙に焦点がぶれる。
「どうかしたか、中原?」
 指揮者席から悦嗣の声がかかった。青年が先に反応し、周りに意識を移す。彼の目が拾うのは、自分達に注がれる視線だ。
 さく也は「何でもありません」と悦嗣に答え、楽譜のページを戻した。
 


 
 中原さく也はアマチュア・オーケストラに所属している。八乃音市民オーケストラと言う結成五年目の若いオケで、音楽を気軽に楽しむことと、市民の文化意識を高める目的で作られた。団員は趣味で楽器を続けているアマチュアがほとんど、プロとして音楽を糧にしているのはさく也と、演奏会の折に入るエキストラ(助っ人)くらいだ。
 さく也は八オケ(八乃音オーケストラの通称)の初めての演奏会に、セカンド・ヴァイオリンのエキストラとして出演した。ちょうどオフで帰国していた彼は、このオーケストラの鍵盤奏者でパートナーの加納悦嗣から「セカンドの音が弱い」と聞き、急きょ参加を申し出たのがきっかけだ。
 もともとオーケストラで演奏するのが好きだった。 音楽の中に溶ける感じ――音の一つとなって音楽を作りあげた時の一体感、そしてその音楽に身を浸しながら演奏する恍惚感が、さく也はとても気に入っていた。十四歳の時に国際コンクールで思いがけなく好成績を残し、すぐにもソリストへの道を勧められたがその方向には進まず、三十一歳で独立するまで、どこかしらのオーケストラに席を置いていた。
「じゃあ、シュトラウス。一回、通すから。D dur(ニ長調)の四分の三に変わったとこ、気をつけろよ」
 八オケの練習指揮者は悦嗣が兼ねている。最初、さく也がこのオケに入ったのは、音楽を作ると言う純粋な理由からではなかった。実際、悦嗣が団員でなければ、八オケを知りもしなかっただろう。オーケストラの演奏会が間近くなると、悦嗣はそちらを優先して一緒に過ごす時間が取れなくなるから、さく也は参加を決めたのだった。
 それでもやはりオーケストラの一員として演奏するのは楽しかった。たとえアマチュアの若いオーケストラでも、音楽を作りあげるのは同じだ。
 八オケの練習場は旧市議会議場で空調設備も古く、当然、音響が考えられた造りになっていない。分奏(パート練習)も廊下や階段で行われ、ウィーンのプロのオーケストラの練習環境とは雲泥の差だった。音もアマチュアの域を出ないが、音楽が好きで集まった彼らには、プロ・オケとはまた違う熱意がある。
――懐かしい
 さく也がヴァイオリンを始めて間もない頃に入れてもらったボストンのオーケストラもアマチュアで、小学校の体育館で練習した。老若男女が入り混じり、決して上手いとは言えない小さなオーケストラだったが、それぞれが音楽に対して真摯で、いつも楽しく練習をしていた。コミュニケーションの取れない問題ある子供だったさく也に、誰もが親身に接してくれた。彼にヴァイオリンの基礎を教えたのは、音楽大学から派遣された正規のセラピストだったが、ヴァイオリニストに育ててくれたのは『町の音楽家』達だ。八乃音オーケストラに来ると、彼らのことを思い出す。弓は心地よく弦を滑った。
 通すはずの『美しく青きドナウ』は始まって間もなく、序奏の後半で止められた。
「重いなぁ。 八分の六のAndantinoをいつまで引き摺ってんだ、四分の三だぞ。気をつけろっつったろ?」
 さく也が顔を上げると悦嗣と目が合った。今日のさく也の席は最チェロ寄り。指揮者からはほぼ正面で、悦嗣の表情がよくわかる。
 指揮者としての悦嗣は、また違った一面を見せた。普段、一緒に過ごす時の彼は、再々帰国出来ないさく也を慮って、多少の我侭は聞いてくれる優しいパートナーだった。ちょっとした感情の行き違いで気まずくなっても、先に折れてくれる。しかし指揮者として前に立つ時には、指導者の顔になった。
「ファースト・ヴァイオリン、トレモロが雑。ここは漣をイメージしてんのに、ドナウに白浪が立ってる」
 わかり易い表現を使っての説明は、時に笑いも誘った。技量が劣ることに対しては寛大だが、注意が散漫だったり、明らかに練習不足な点には厳しい。
 口をへの字に曲げる表情。鉛筆の端でこめかみを擦り考える仕草。全体を見渡す時の鋭利な目――どれをとっても、さく也には新鮮に見えた。
「あの、中原さん…」
 右隣から呼ぶ声。顔を向けると、同じプルトの青年が口を半開きにして、さく也をすまなそうに見ていた。
「何か?」
「その、席を…換わってもらえませんか?」
 さく也は意味がわからなかった。だから「なんで?」と問い返す。何か言いたげに彼の口元がピクピク動いていたので、しばらく待ってみたが、結局、明確な答えは返ってこなかった。
「そこ、話、聞いてんのか?!」
 さく也と青年が話を聞いていないことに気づき、悦嗣から注意が飛ぶ。もう一度始めから通すことになったらしく、指揮の手が上がっていた。青年は慌てて楽譜に意識を戻し、さく也もまたヴァイオリンを構えた。




 隣に座る青年・新見は、そわそわと落ち着きが無い。演奏中、よほどのことが無いかぎり集中力を削がれることはないさく也なのだが、さすがに気になった。
 さく也は自分が八オケでは特別視されていることがわかっている。国際コンクールで何度か賞を獲ったプロのソリストであり、練習に出られるのは年に数度もない。他の団員にとってエキストラと大差なく、別世界の人間だと言えるだろう。それに親しみやすいキャラクターとは言えず、昔から周りと打ち解けるのに時間がかかった。そんなさく也に隣に座られて、多少の居心地の悪さを覚えるのは仕方が無いとしても、演奏とは別問題ではないのか。
 新見のヴァイオリンは歌っていなかった。テンポが遅れる。ピッチがずれる。ボーイングに力は無く、上滑りな音がする。それは技術的に未熟だからと言うのではなく、演奏に集中していないことによるものだとさく也には思えた。
 ワルツVに差し掛かったところで、さく也は弓を止めた。新見にもわかったらしく、視線を感じる。物言いたげでもあったが、さく也はそれを無視した。
 一曲を通し終わり、悦嗣が渋い顔で演奏面の注意点を説明し始めると、新見が小声でさく也に話かける。
「やっぱり席を換わってもらえませんか」
と彼が言いかけるのをさく也は途中で遮って、
「席を替わるのと、演奏に集中しないのは、関係があるのか?」
と被せた。彼が驚いたように目を見開き「え?」と返すので、「集中していなかったのはなぜか」と質問を変えた。
 新見はぼそぼそと口ごもり、答えに窮していることが見て取れる。
 最初に曲が止まった時にも席がどうのこうのと彼は言った。さく也はそのことについても聞き直した。
「それは、僕がアウトだと中原さんが譜めくりをしなきゃなりませんし」
 オーケストラの弦楽器は、一つの譜面台を二人で共有している。その位置関係をアウト(観客席側)とイン(舞台側)と呼び、譜面はインに座る奏者が捲ることになっていた。今日の練習で言えば、さく也が捲る側となる。新見はさく也に譜捲りをさせることが申し訳ないと思って、席を換わりたいらしいのだが。
――くだらない
 フル・スコア(総譜)ならともかく、パート譜では一曲の内に捲る回数などたかが知れている。演奏に支障が出るほどではないし、さく也自身、面倒に思ったこともない。インに座れば、誰だってすることだ。今までだって何度も座ったことがある。ソリストとして参加しているのならともかく、オーケストラの一員としてパート席に座っているのに、何を寝惚けたことを言っているのだろう。そんな当たり前なことを気にして演奏に集中出来ないなど、さく也には考えつかない理由だった。
 だから正直な気持ちが言葉になる。
「そんなくだらないことで、演奏出来ないのか?」
 さく也は新見を見つめた。彼の目線はさく也のそれを受けてはいるものの、微妙に焦点がぶれて落ち着かない。
 二人の間には奇妙な沈黙。さく也は新見を見つめ、新見は伏目がちに時々目を上下させる。その何とも言えない雰囲気は周りに知れるところとなり、ついには悦嗣から声がかかった。
「どうかしたのか、中原?」
 さく也は悦嗣を見た。苦笑一歩手前と言った表情が浮かんでいる。彼にも新見が演奏に集中していないこが見えているようだった。
 音楽に関係ない取るに足らないことで、指揮者や他の演奏者を煩わせたくない――さく也は「何でもありません」と答えて、楽譜を最初のページに戻した。




 さく也は外階段の辺りで悦嗣の姿を見つけた。その場所は彼が休憩時間に喫煙するお決まりの場所である。いつもであればさく也も一緒だったが、今日は練習場に残された。代わりについて行ったのは新見だった。ついて行ったのではなく、呼び出されたのだが。
 前半の練習時間、新見の集中力は散漫なままで、「ぼろぼろ」を体現したかのような演奏だった。弓は何度も止まり、一度は落としかけた。ずっとそんな様子だったから、悦嗣も話を聞かずにいられなかったと見え、休憩に入ってすぐ彼を伴い、練習場から出て行った。
 さく也は少し反省している。言葉の選び方がいくつになっても下手なままだ。日本語は英語よりも苦手で、ついついストレートな物言いになってしまう。遠回しに言うことが出来ない。それでなくてもコミュニケーションの取り方が今一つで、冷たい等の誤解を招きやすい性質(たち)である。そんなさく也が言ったことに新見が動揺して、集中力を取り戻せなかったのかも知れない。もしそうなら、彼の不調が、彼のせいばかりではなく、一言、悦嗣に言っておくべきではないかと考えた。
 それに席の件での『くだらない理由』は、さく也も持っている。まだ新見が悦嗣と一緒にいるのなら、次の練習で席を換わることを申し出ようと思った。
「エツ」
 外階段への入り口のところで、さく也は声をかける。悦嗣は目線を寄越し、背を向けて立つ新見は振り返った。
「じゃ、僕はこれで」
と新見は悦嗣に言って、それから踵を返して出入り口に向かって来る。すれ違い様に彼がペコリと頭を下げたので、さく也も返した。目を合わすことも話をさせる暇も与えず、新見は慌てて中に入ってしまった。
「話、途中だったのか?」
「いや、終わったとこだ。どした?」
「彼のことで」
 さく也は悦嗣の隣に、同じように手すりに背を凭せ掛けて立った。
「新見な。ああ、話はあいつから聞いたよ。席の件で揉めたんだって?」
「少し、きつく言い過ぎた」
「まあ、くだらないことだと俺も思うけど。ただ相手がおまえだから、仕方ないんじゃないかな」
 悦嗣は、さく也がアマチュア演奏家達にとって、どれほど特別なのかを話した。それ一本で生活しているプロの演奏家と言うだけでも別世界の存在である。名だたる国際コンクールのタイトルを総なめにして、主な活動場所は欧州、日本では滅多に生の音を聴けない、そして名声だけは伝わってくるヴァイオリニストであるとなると、遠巻きに見てしまうのは仕方がない。頭では同じオーケストラのメンバーだとわかっていても、やはり普通に接することは難しいのだと。
「だから、たかが譜捲りくらいのことで気を遣う。そんなことのために緊張して、集中出来ないのさ。特に新見は、小学校の時に習っていた程度だから、自分との音の差に萎縮してる。おまえには思うところもあるだろうけど、席、換わってやってくれないか?」
「うん、そうしようと思っていた」
 さく也の即答に、悦嗣は「おや?」と言う表情を浮かべた。
「何?」
「いや、練習じゃあ、機嫌悪そうだったから、そう簡単に『うん』と言うとは思わなかった」
 新見の頼みを二度も一蹴したと聞いて、オーケストラの一員としてさく也なりにポリシーがあるからだと思ったと、悦嗣は続けた。
 さく也が頼みを断ったのには、そんな高尚な理由などない。単に、今日の席が気に入っていたからだった。セカンド・ヴァイオリンの最チェロ寄り。指揮者席からはほぼ真正面。指揮者のどの角度の表情もよく見えた――これこそ最も『くだらない理由』に他ならない。
「ポリシーなんてない。ただのわがままだから」
「わがまま?」
「今日の席が、気に入ってる。…それだけの理由」
 口に出すとかなり恥ずかしい。さく也の言葉尻は曖昧に途切れた。意味がわからず悦嗣が聞き返すので、
「エツの顔がよく見えるから」
と正直に答える。途端に首筋から熱くなるのを感じ、目線は自然と下に落ちた。
 一瞬の沈黙の後、悦嗣は小さく噴出し、笑う声が続いた。さく也が上目使いに見ると、彼の手が頭に伸びてきて、くしゃくしゃと撫でる。
「おまえの答えは妙に深い意味がある時と、すごくストレートな時があって、いつも予想外だな。まさかそんな理由で新見を萎縮させてるとは思わなかった」
 さく也の首筋の熱りは顔に広がった。きっと発赤しているのだろう。頬は一層の熱を帯びていた。悦嗣の手はさく也の頭から頬に移動し、軽く摘まんだ。
「こんな顔、見慣れてるだろ?」
 優しい恋人の顔は見慣れているが、音楽家としての彼は滅多に見られない。本来の鍵盤奏者の位置はセカンド・ヴァイオリンからは遠いし、たいてい演奏会間近の練習、あるいは当日のゲネプロにしか参加出来ないさく也には、悦嗣が指揮者席に座って指導する姿を見る機会はほとんどなかった。だからこそ今日は、さく也を意固地にさせたのだ。しかしそうした想いは、言葉に出来なかった。
「俺はさく也を正面に見るのは嫌だよ」
 黙りこんださく也に悦嗣が言った。
「ついつい見ちまうからな」
 悦嗣は苦笑して、さく也の頬を一撫でして手を離した。それから腕時計を見る。休憩時間は十五分ほど。さく也がここに来た時には十分は過ぎていたと思われるので、戻らなければならない頃だろう。
「そろそろ戻るか。席の件はよろしく頼むな。新見にはインに座るように言ってあるから」
 悦嗣はさく也の肩を軽く叩いて促す。さく也は耳まで赤くしたまま辛うじて頷き、彼の後に続いた。




 練習場では、まだ団員が思い思いの場所で談笑したり、練習したりしていた。悦嗣の姿を見とめると、各々の席に戻り始める。新見は所在なさげに席の傍に立っていた。さく也のヴァイオリンがインの席に置かれたままになっていたからだ。
 ヴァイオリンを手にとって、さく也はアウトの位置に座った。新見が「ほっ」としたような表情を浮かべる。
「さっきはすまない」
 さく也は新見に謝った。彼は驚き、慌てて首を振る。
「ぼ、僕の方こそ、すみませんでした!」
 新見の声が大きく響く。途端に周りの目が二人に集中し、それに気づいた新見は顔を真っ赤にして、勢いよく椅子に腰を下ろした。パイプ椅子が音を立て、身体のどこかがあたった譜面台は倒れそうに揺れる。ずり落ちる楽譜が更に新見を慌てさせ、周囲の笑いを誘った。
 落ちた楽譜を拾い上げたさく也の口元に笑みが浮かび、目が合った新見も照れくさそうに笑う。
「じゃあ、練習を始めるから。『花のワルツ』も用意しとけよ」
 悦嗣が手を叩いて、みんなの意識を音楽へと戻した。
 そうしてチューニングの音が鳴り、後半の練習が始まった。




                                   (2008.12.15)

 

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