※文中の月日は旧暦です。
部屋に戻ると、向坂は張り出しのところで呑んでいた。着物のどこにも乱れた様子はなく、まるで何事もなかったかのような居住まいである。 せっかくいつもの勤めらしくなりかけたと言うのに、邪魔が入って振り出しに戻ってしまった。見せてはならない色子の現つの部分を晒したのだから、客としては興を削がれたろう。それでなくとも、向坂はもともと房事を楽しみにきたわけではない。また一からその気にさせるのは一苦労だった。鈴若にしても、夕顔の件が尾を引いている。本音は勤めをする気分ではなかった。 浴びるほどに呑んで酔いつぶれてしまいたかったが、朝一番に喜助に話に行く算段をしているのでそれは出来ない。 今夜は最初から勝手が違った。この先坂と言う客が来てからだ。向坂が来なければ、鈴若に客がつくことはなかった。鈴若に男客がつかなければ、夕顔が夜中に客の寝間から抜け出すようなことをしでかすこともなかった。 市井の臣にしてみれば、いや少なくとも鈴若は、時代の変化による不確かな恩恵など求めていなかった。ここの客筋は良い方であったし、多少、嫌な客でも一晩我慢すれば済む。寝食の心配はなく、年季内の給金は微々たるものだったが、客からの心づけがあった。今までのような『お大尽』は心づけも弾んでくれた。 であるのに、どうだ。徳川幕府は倒れ、上客の一翼だった大名は散り散りになってしまった。生臭坊主達も戦々恐々として、以前ほどには訪なわない。商人だってそうだった。これからの行く末がわからず、財布の紐は硬くなる。自然、以前では考えられない身分の客を、破格の値段で招き入れることになる――そう、向坂達のような。 世の中がどうなって行くかわからず、漠然とした不安を誰もが持っていた。それらを見てみぬふりをし、いつも通りに過ごしていた危うい日々に、匕首(あいくち)を突きつけられたような夜。向坂のせいではないだろうが、恨めしく思わずに居られない。 「不細工なところをお見せしちまって、申し訳ありやせんでした。どうかさっきのことは、ご内密に願いやす。熱いの一本、つけてきましたから、やってくんなせぇ。もち、これは手前持ちですから」 盆を向坂の前に置き、銚子の首を摘むと、彼の杯に注いだ。向坂はそれに口をつけた。 「とんだ茶々が入りやしたが…」 鈴若が向坂の組んだ足に手をかける。上目遣いに彼を見るが、案の定、目の中にはもう『色』は残っていない。それでも一旦誘いをかけたからには続きの言葉を言わなければ。 そんな一瞬の躊躇いを読み取ったのか、向坂は鈴若の手首をやんわり掴んで足から外すと、「せんで良か」と言った。 「なぜ? さっきはその気におなりだったでござんしょう?」 鈴若は外された手を、今度は彼の腕に移した。鈴若だってその気は失っている。意地になっているなと思うが、酔いで我を忘れることが無理なら、せめて人肌で忘れたい。これから先の「不安」をかき消すほど、快感に身体を責め苛まれたかった。何も変わっていないのだと、身を持って知りたかった。 こんなにあからさまな誘いをかけるとは、なんたる無様、なんたる無粋。 「さっきはすまなかった」 向坂は鈴若の両肩を掴んで、しな垂れかかる身体を引き剥がした。 「俺は、その方がどんな人間なのか知りたくて相手を頼んだ。話をしてみたかったのだ。ここに来たのは付き合いで、気に入った稚児がいないとでも言って帰るつもりだった。だが店先でその方を見て、気が変わった」 向かい合う形に座り、彼は鈴若を見つめる。 「年少の色子達の世話をするその方から目を離せなかった。なぜかはわからないが、一目惚れと言うやつかも知れんな」 向坂は笑った。 思いがけない向坂の言葉に、鈴若の目が見開く。「一目惚れ」だなどと、色子相手に? 身売りを生業にしている者だとわかりながら、一目惚れしたと言うのか? 何を馬鹿なことを言っているのだ、この田舎侍は。 いや、客はひと時の「恋情」を買いに来るのだ。自分好みの色子を指名すると言うことは、刹那でも心惹かれたからであろう。一目惚れと言えば言える。そして色子はそれに応えて相愛となり成就させるのだ。たとえ仮初めであっても、欲情ありきだとしても。 「だったら」と、尚も押す鈴若に向坂は首を振った。 「まだすべきことが残っている。それゆえ未練を残すようなことはしたくないのだ。たとえ金子の結ぶ縁であっても、身体を繋げば愛おしくなる」 「向坂様」 「心騒ぐ相手なだけに、その方を欲の捌け口にしたくない」 「何を…馬鹿な」 鈴若は向坂が何を言っているのか、理解出来なかった。欲の捌け口となるのが色子。その色子に、それも今夜、初めて会った相手に、まるで本気になったかのような言い草。鈴若は彼を、呆け顔で見つめた。 「男ゆえ、人並みにその手の欲はある。きっと一時の充実を得ることは出来ようが、必ず虚しさが残る。帰りには『また必ず来てくれ』とその方は言うのだろうが、それは本心ではあるまい。そして次に逢うた時には『来てくれて嬉しい』とその口は言う。それもまた本心ではなく、どの客にも同じ事を言うに違いない。それもまた虚しさを煽るだろう。俺は欲深い男なのだ」 鈴若の目をまっすく見据えたままで、ぼそりぼそりと向坂は続ける。名は体を表すと聞いたことがある。向坂は、その名の通り清廉な性質なのだろう。堅気であろうと色ものであろうと、想いを寄せた相手に誠実なのだ。 ――莫迦な客だ。 そう思うと同時に、住む世界の違いを思い知る。 成すべき何かは、この変わって行く世の中の為の「何か」なのだろう。命も厭わないほどの覚悟で臨もうとしている「何か」には、鈴若との床入りは未練になると言う。その気持ちをありがたいと感激するには、鈴若はすれ過ぎていた。 そこまで想ってくれているのなら。 「最初の考え通り、お帰りになったら良かったんだ」 そうしたら何事もなかっただろう。いつもの夜だったはずだ。鈴若の指を握りこんだ両の手が、膝の上で震える。 「それが出来ぬから、恋情なのだろう」 鈴若の頬がカッと熱くなった。 「だったら、四の五の言わずに抱けばいい。あんたはさっき、その気になっていたじゃねぇか。その気になって、あっしの口をお吸いなさった。本当はもっと、あっしに触りたいんでしょう? いやさ、触りたいはずだ。どうぞ抱いておくんなせぇ。あんたは金を払ってあっしを買ったんだ。きれいごと並べたってさぁ」 もともと気は長いほうではない。客だと思いこそすれ酔狂にも付き合ってやるが、夕顔の件もあって平常心が保てなくなっている。 その上、惚れたから抱きたくないだの、客と色子の決まり文句は嫌だの言われて、鈴若は頭が沸騰しそうだった。客を放り出して会いに来た夕顔のことを叱れた立場ではない。今の鈴若は、あと一つ箍が外れたなら向坂に杯を投げかねない心境であった。現に向坂の袷に胸倉を掴む一歩手前で鈴若の手がかけられ、握り締められていた。 ――なんで、俺がこんな惨めな思いをしなきゃなんねぇんだ。 向坂から純な心を見せられて、自分がひどく汚れているように思えた。年季が明けたらここを出て足を洗うつもりでも、卑しいと感じたことはただの一度もなかったのに。 些細なことで次から次、望みもしないのに変わって行く。鈴若はこぶしを解き、向坂から離れた。そして顔を背ける。背けた先にあった杯に手を伸ばし、一口ほどにも残っていない酒を煽った。 その時――大きな手に肩が掴まれ、身体が後ろに傾ぐ。倒れそうになったが、倒れなかった。引き寄せられ、鈴若の身体はすっぽりと向坂の胸の中に収まった。 宥めるように背後から抱き込まれ、次にはきつく抱きしめられた。向坂の唇が耳のすぐ側にあった。 息が動く。 「わかった。抱こう」 低い声が静かに響き、鈴若の身体が畳の上にゆっくり横たえられた。 あるいは、鈴若の姿は必死の様相を呈していたかも知れない。金を払う客と身体を繋げることで、変わっていないことを実感したかった。変わろうとする日々が急いで先へ進み、遠のいて行くことを引き止めたかった。そんな鈴若の心情を見抜き、向坂は哀れに思ったのだろうか。見下ろす彼の表情は、頼りない行灯の光が届かず、はきとはわからない。 鈴若の額にかかった髪を向坂がすき上げる。それを合図のようにして、二人の身体はようやく重なった。 背から温もりが離れ、続いて衣擦れの音が聞こえた。鈴若は薄らと目を開けて、音の方を見やる。明け初めのぼやけた光の中で、向坂が身支度をしていた。 ひと時、眠ってしまったこと、そして客よりも遅く目覚めたことは、鈴若自身を驚かせた。今までかつてなかったことだ。 慌てて身体を起こそうとして、その重さに驚く。ありとあらゆる関節が動くことを拒んでいた。もちろん、そのわけを鈴若は知っている。 若くたくましい向坂との閨事は荒々しかった。彼の腕の中で、鈴若はさしずめ、嵐の海に漕ぎ出した小船のようであった。何度も『波』に呑まれて自分を見失いそうになるのを、その都度、向坂の大きな手によって引き戻される。色子として培った手管で客を悦ばせるどころか、素のままの反応で応えてしまった。 空事ではない声は抑えても抑えきれないことを、忘れていた身体は思い出した。しかし鈴若は翻弄されて乱れることを拒まず、むしろその荒々しさに縋ってさえいたのだ。彼が与えてくれる快感に溺れきってしまいたいと。そしてついには望んだ通りになり、鈴若は正気を手放したのだった。 畳の上で始めたはずなのに、いつの間にか寝間に移っている。客用の布団の柔らかさが心地よく、再び眠りの淵へと鈴若を誘うが、何とか持ちこたえて身体を起こした。 「もうちっと寝ていろ。送らんで良か」 鈴若が目覚めたことに気づき、向坂が振り返った。場都の悪さを隠し、鈴若は布団の上にあぐらを組んだ。素っ裸であったが、構わなかった。恥じらいを見せるほど初心じゃない。喜ぶ客もいるから振りをすることはあるが、向坂のために演じてやる気持ちはさらさらなかった。 そんな鈴若の心内を見透かすように向坂が笑んだ。それがまたカチンと来る。 「誰が送るもんか」 鈴若がそう言うと、向坂は声をもらして笑った。 彼は床の間の刀かけに近寄り、刀を手に取り振り返った。 「名は、何と言うのだ?」 ――またそれを聞くのか。 鈴若は無視しようとしてやめた。どうせ今日かぎりだ。次に自分を指してくれても断るつもりだった。今生の別れに教えてやろうと気を変えたのだ。 「『キリヤ』。ピンからキリまでのキリ。『ガキを作るんは、もうこれきりや』のキリヤでさぁ」 ――そしてあんたと会うのもこれっきりだ さぞかし自分は皮肉めいた顔をしているだろうと鈴若は思った。客にこんな態度をとっていることを喜助に知られたら、きつく叱られるに決まっていたが気にしない。向坂の機嫌を損ねたところで、どうだと言うのだ。 しかし向坂は気づかないのか、それとも無視しているのか、「どんな字を書くのだ?」とまた尋ねた。 「水のみ百姓にそんな学、あるわけねぇ」 鈴若は前髪をかき上げながら答える。 向坂は手にした刀を畳の上に置き、腰から矢立(携帯用筆記用具)を抜いた。袂から多少皴の寄った懐紙を取り出すと、さらさらと何やら綴り、それを鈴若に渡す。 懐紙には『桐哉』と書かれていた。 「これでん、『これっきりのキリヤ』とは言えん」 そう言うと今度こそ刀を取って腰に差した。 少し屈んで布団の上に座る鈴若の片頬に、手を伸ばしてそっと触れる。 「またいつか、会えるといいが」 懐紙に目を落としていた鈴若は顔を上げ、その手を突っぱねた。 「もう来んな、この唐変木」 鈴若の膠も無い物言いに、向坂は一瞬目を見開いた後、吹き出して笑った。そして初めて聞く大らかな声を残して、部屋を出て行った。 慶応四年五月十五日、江戸上野に於いて旧幕府軍と新政府軍の間で戦闘が勃発する。世に言う『上野戦争』である。 戦闘はわずか一日で新政府軍の勝利に終わった。江戸から旧幕強硬派の姿は消えたが、戦いの場は北へ北へ、会津から東北諸国、蝦夷地の箱館に及ぶ。そうしてその年の一月から鳥羽・伏見の地で始まった一連の戊辰戦争は、翌年の六月にようやく終結することになる。年号は明治に変わっていた。 鈴若が勤めていた門前町の陰間茶屋は、上野戦争の後、間もなくして閉められた。最大の贔屓筋である寺院仏閣がその戦闘の際に焼き討ちに遭い焼失。加えて武家も商家も新しい時代の幕開けに生き残ることで忙しく、客足がめっきり遠のいたからだった。 年季内の色子達は二束三文に近い値での身請けや、衆道宿等に転売されて行った。さすがに一の売れっ子である夕顔は、阿波田屋に大枚で請け出されたが、それが「羨ましい」だの「果報者」だのと言えるのかどうなのか。 陰間の旬は短かった。豪勢な相手に請け出されたところで、女であれば子を成すことによって立場も保てようが、男の陰間には出来るはずもない。容色の衰えは避けられず、そうなればもうたちまちにお払い箱となってしまうのだった。たいていの場合、行く末は元の商売――つまりは売色の世界に戻って行く。しかし旬も過ぎ、所謂年増の域に入ってしまっては、売れない色子よりも惨めな境遇が待っていた。 ゆえに鈴若は、大店に請け出されて行く夕顔との最後の会話で、可愛がってもらえる間に今まで習い覚えた三味線や謡、和歌などは続けさせてもらい、後々身を落とさずに済むように精進しろと言いそえた。夕顔は涙を溢れさせて何度も頷いたが、どこまでわかっていただろうか。 さて鈴若はと言えば、年季明け間近だったこともあり、晴れて貸し借りなしのお役御免となった。店じまいの後片付けをする喜助達の手伝いに残り、店の最後を見届けた。 喜助は才を買われて吉原のお店(たな)に小番頭として雇われることが決まっていた。「口ぞえしてやるから一緒に来るか」と言ってくれたのを、鈴若は断った。ずっと色の世界で生きてきたから、そこから抜け出したかったのだ。 堅気の仕事を探すのは難儀したが、どうにか品川宿の旅籠『丸川』で下男の口を見つけることが出来た。結局は同じ客商売と言うことになる。ただ『丸川』は普通の旅籠であったし、下働きとして雇われたため客との直接の接触はなかった。 新入りで手に職があるわけでもないので、雑用事は何でも回ってくる。鈴若も三味線は出来た。その腕を披露すれば少しはましな給金ももらえることはわかっていたが、読み書き以外の出来ることは言わずにおいた。言えば客の前に出なければならない。どこで習い覚えたのかを聞かれもするだろう。そうなれば元の素性が知れることになる。知られてもかまわないが、世の中には物好きがいる。変な目で常に見られ、「商売にしていたのだから」と納戸や座敷に引きずり込まれるのは御免だった。 額に汗して働くことは最初こそ辛かったが、慣れれば大したことはなかった。前職とは違って妙な疲れが翌日に残らず、飯も都度、美味かった。肉がつかない質なのか、背ばかり伸びた貧弱な身体付きは変わらなかったが、陰間茶屋では出ていたであろう一種独特の色気はすっかりなりを潜め、どこから見ても、誰から見ても、宿屋の下男だった。 『丸川』で働き始めてから八月(やつき)、その日鈴若は注文しておいた迎え菓子を取りに、本宿界隈の和菓子屋へ使いに出された。 店先に今日配られたと思しき号外が置かれている。菓子を待つ間、鈴若はそれに目を通した。五稜郭が落ち、戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争が終わったことを知らせる記事だ。徳川の世は一年も前に終わっている。それでもまだ戦っていた人間がいたのだなと、鈴若は感慨深かった。 記事の中に「薩摩」の字を見つける。 ――そう言えば、あの侍、どうしているのやら。まだ侍をやってんのかな。今じゃ侍って言わないか。 ふと、向坂と言う侍のことを思い出した。一年ほど前、鈴若がまだ陰間茶屋勤めだった頃に出会った客。江戸入城の折、進攻してきた薩摩藩の侍だ。 『またいつか、会えるといいが』 『もう来んな、この唐変木』 鈴若の捨て台詞通り、向坂は二度と来なかった。もっとも、あれからすぐに茶屋は閉店の憂き目にあったわけだが。 思えば向坂が客として訪れて以降、鈴若の周辺は激変した。年季が明ければ店を出るつもりではいたが、よもや店自体が無くなるとは思わなかったし、一年後に堅気の仕事に就いている姿は想像しなかった。 あの男は、鈴若に時代の終わりを告げに来た人ならぬ『人』だったのかも知れない。 鈴若にとっては彼が最後の客となった。しばらく向坂の手の感触が忘れられなかったが、それもいつしか生活に追われる中で失せていた。しかし新政府軍と旧幕府軍の間で起こる小競り合いの話が出るたび、なぜか彼のことを思い出す。たった一晩の、一見の客だったにもかかわらず、鈴若の中に存在を強く印象つけて行ったことは否定出来ない。 あのまま侍を続けているのだとしたら、上野戦争や会津や蝦夷に出兵しただろうか。「すべきこと」があると言っていたが、それは果たされただろうか。 ――生きてんのかな。 鈴若は今、本名の『キリヤ』の名で働いていた。字は向坂がつけてくれた『桐哉』を使っている。字をもらってすぐに、懇意にしていた寺子屋の師匠に意味を聞いてみた。 「桐は古来から尊く清浄だとして好まれている木だ。ほら、名高い武家の家紋にもなっていよう? 『哉』は感心した時などに使われる字であるから、すなわちおまえのことを『尊い』と名づけているわけだ。両親に良い名をつけてもらったな」 あれだけ嫌っていた名だが、それを聞いて堅気になったら名乗る気になった。どうせ『鈴若』などと言う、いかにもな名は使えないと思っていたから、ちょうど良かった。そこのところは、向坂に感謝している。 「お待ちどう。ああ、それ、持って帰っていいよ。いよいよ『徳川は遠くなりにけり』だねぇ」 「本当に」 懐に号外を仕舞い菓子を受け取ると、鈴若、もとい桐哉は店を出た。 戊辰戦争さえも、庶民にとっては遠くになりにけりだった。一年以上前の江戸開城の折もそうだったが、火の粉が自分に降りかからないかぎり、今日の天気ほどには関心はない。 ――いい天気だなぁ。明日の休み、晴れたら良いけど。 桐哉の休みはここのところ雨にたたられている。雨降りだとどこにも出かける気になれないから、損をした気分になった。季節は梅雨の最中。一昨日、昨日、今日と梅雨の中休みの晴天が続いているので、明日あたりは怪しかった。『丸川』に帰ったら、天気を読むのが得意な仲居に聞いてみようと思った。 「ちっと尋ねるが、『丸川』と言う旅籠へは、いけん行ったらよかかな」 歩きだそうとした時、後ろから声をかけられた。懐かしい薩摩訛りだ。 「ああ、それなら」 今から帰るところだから一緒に…と続けようとして、言葉が途切れる。 男が立っていた――総髪と散切り頭の違いはある。眼光もあれほどの鋭さは消えていた。しかし見覚えある面差しだった。 「あんたは」 「来るなち言われたが」 低く響く、耳に心地よい声。忘れてはいたが、思い出せないわけではない。 「向坂…様」 「『様』はよしてくれ」 向坂はそう言うと微笑んだ。 madrigale(マドリガーレ)=世俗歌曲 (end 2012.01.28) |