※文中の月日は旧暦です。





題知らず 〜もしくは、雑輩に依るmadrigale




「おいは、あん稚児で良か」
 背後で声がするのを、鈴若は振り返らずに聞いた。目の前を行く夕顔が、細い首を傾げて後ろを見たのと目があった。湯を使ったばかりの彼の支度はまだこれからだ。それに今宵の相手は、もう決まっている。
 この陰間茶屋一番の売れっ子である夕顔を指名するのはわかるとして、「あの稚児で」と野暮な物言いをするとは、やはり薩摩は無骨な田舎者だなと、鈴若は眉間に皺を寄せた。人気の色子ともなれば、吉原の太夫と同等かそれ以上の代物。お客は高僧やお大尽ばかりで、本来なら一見の客など相手にしない――しなかった。しかし討幕軍が江戸に入り、江戸城が開城されると、客筋が変わった。時代の急速な流れを鈴若は感じている。
 夕顔がそんな鈴若の様子を見て小さく笑うので、顎で先に進むように促した。夕顔が前を向き直り一歩踏み出した時、「鈴若」と呼び止められる。
「支度はまだこれからだし、夕顔の今夜のお相手は決まってやがるよ?」
 先約を反故にして、夕顔を出そうとする腹なのかと言う意味合いを込め、鈴若は振り返って言った。
「いんや、こちらさんはおまえが良いと仰せだ。夕顔は虹太郎に任せて、支度おし」
 店を仕切る番頭の喜助が隣に立つ総髪の侍を横目で見た。
 年のころは二十四になる鈴若とさほど変わらない。違っても一つか二つ年上と言ったところだろう。背は高く、陽に焼けて肌が浅黒い。そのせいか白目の白さがやけに目立ち、三白眼の強面に見える。
 連れらしい二人の侍は、今夜の相手と決めた色子を見て鼻の下を伸ばしているが、彼はムスッと口元を引き結び、鋭い目つきを和らげもしない。望んできたのではないのか、それとも照れているのか。
「支度はせんでよか」
「それはいけません。これはもう薹(とう)が立って、ここんとこ色子としては使っておりませんから、興ざめいたしますよ?」
 とんでもないと言わんばかりに喜助が首を振った。連れの二人は早々に座敷に上がって行ったが、「構う」「構わない」の押し問答が続く。その間に夕顔も虹太郎と言う別の小者に連れられて行った。
「とりあえず湯に浸かってくっから」
 無粋なやり取りを横目に、鈴若は風呂場に向かった。




 慶応四年閏四月、江戸城に東征大総督である有栖川宮熾仁親王が入城し、ここに二百六十余年続いた徳川の世は終わりを告げた。
 討幕軍が来ると言うことで一時は騒然となった市中は、江戸城の無血開城で戦火に晒されずに済んだ。ひと月も経つ頃には、逞しい市井の人々は戸惑いながらも、来るべき新しい世を受け入れつつある。彼らにとっては、お上が代わっただけであり、江戸がなくなるわけではない。討幕軍もその気はないからこそ、戦場にすることを極力避けたのだろう。当然だ、江戸は日本一の町なのだから。そうとなれば、自分達の生活を営むだけである。
 現に商人(あきんど)はもう、幕府方から倒幕方へと旗色を変え始めている。武家の払いは滞りが日常的になっていた。いよいよ幕府が失くなる今となっては、用立てた金品の回収は絶望的だった。確かに討幕軍の懐具合は未知数ではあったが、『花のお江戸』に進軍して来た田舎者集団は格好を付けたがるもので、支払いだけは良かった。もっとも時勢が変わったばかりで商人の立場は危ういから、うんと下手に『勉強してやっている』ので、儲けは度外視だったが。
 鈴若が働く陰間茶屋もそんな機を見て敏なる商売の一つであった。いつの世も色事は廃れることがなかったが、寛政以来、陰間茶屋の衰退は進むばかりで、門前町では二軒も残っていない。それだとて贔屓筋の大名や寺院、数寄ものの大店の行く末次第でどうなってしまうか知れなかった。花魁ばりの隆盛を誇る売れっ子がいたところで、女色と男色とでは圧倒的に客数が違う。生き残るには、客筋は上流のみと言う自尊心を封印し、一見であろうと無粋な田舎者であろうと、金子を落とす客であるかぎり敷居を跨がせる必要があった。
 さて鈴若は、その『田舎者』の部類に入る客の前に座っていた。化粧も結髪もせず、振袖でもなく、一応は持ち物の中で一番上等な着流しを身につけてはいるが、こんな素面な姿で座敷に出るのは、十二の頃からこの世界に身を置いて初めてのことである。陰間茶屋での遊び方を知らないのだろう。
 鈴若はとっくに色子の旬を過ぎていた。大年増の上臈や後家相手か年下の色子の世話が主な仕事だ。細身ではあるが華奢とは違う。抱き心地の悪そうな、言わば男の体つきとなった鈴若を選ぶあたりからも、遊び慣れしていないことが知れた。
 その薩摩侍は湯上りで丁子油の匂いがプンプンする鈴若を前にしても、一人で黙々と酒を飲んでいる。
 湯から上がると喜助の使いが待ち構えていて、
「化粧もなぁんもいらねぇとよ。後ろ支度して、さっさと行きな」
と言われ、洗い髪が乾くのもそこそこに座敷へと追い立てられた。身支度を端折ってまで急がせるのだから、早く閨事に入りたいのかと思いきや、これである。鈴若は拍子抜けしていた。
 せめて酒を注ごうと銚子に手を伸ばしたが、「いい」と断られた。声がかかるのを待っても、一向にその気配がない。この手持ち無沙汰をどうしたらよいのか。
「あの、お武家様、」
 沈黙に堪りかね鈴若から声をかけると、侍は「向坂(さきさか)だ」と名乗った。
「ほな向坂様、私は何をしたらええんでしょう?」
 半ば投げやりな鈴若の口調に、向坂は目を上げる。
「京の生まれか?」
 やっとだんまり以外の反応を見せた。鈴若は頷いて、話の糸口を広げようと次の言葉を探した。それを吐き出すために息を吸ったほんの刹那に、向坂が続ける。
「でん、さっきは京ことばやなかった」
 正しくは近江の生まれである。と言っても、鈴若が親元を離れて東に下ったのは十一で、もう倍の年以上を江戸で過ごしていた。柔らかな子供の頭が生国の訛りを忘れるのはそう難しくなく、今では江戸言葉の方が自然に出るのだが、陰間茶屋では京ことばの方が普通に使われた。その方がおっとりと上品で、客に喜ばれたからである。だから接客の際には、鈴若は努めて京ことばを使った。
 しかし考えてみれば向坂がこの茶屋を訪れた時、よもや自分に声がかかると思わなかったから、遠慮なく江戸ことばを使っていたのではなかったか。所作もぞんざいだった。
「生まれは上方でも、こっちでの暮らしのが長いですからね」
 今更取り繕ったところで、どうしようもない。多少は丁寧な物言いを選んで、鈴若は言葉を元に戻した。向坂の真一文字の口元が、ほんの少し緩んだように見える。
 顔の力が抜けて表情が和らぐと、なかなかの男前だとわかった。薩摩人にありがちな彫りの深さはあるものの、田舎侍然とした泥臭い濃さではなく、色黒はかえって精悍さを際立たせた。居住まいも悪くない。この侍は訛りはあるが、案外、出自は良いのかも知れないと鈴若は思った。
 鈴若がじっと自分を見つめるのは、口元に運んだ杯を見ているのだろうと思ったのか、一つ余った杯を向坂は差し出した。
「これはどうも」
「足を崩してよかぞ」
 客には逆らわないことにしている。言われた通り正座の足を崩し、胡坐を組んだ。裾が割れて白い脹脛が覗く。向坂の視線が一瞬そこに動いたのを、鈴若は見逃さなかった。注がれた杯の中身をぐいと飲み干すと、片膝を立てて座り直した。今度は太ももから股にかけての線が見えるはずだが、向坂の目は動かない。何だか気恥ずかしくなり、さりげなく着物の裾を深く被せ、肘を乗せた。
 素っぴんで男衆姿のままの無防備な様は居心地が悪い。これは何とかしたかった。そのためにも寝間に入って、さっさと勤めを済まさなければ。最初はどんな格好をしていようと、房事の後はみな裸だ。いつものことと変わらない。
 向坂もまったくその気がないわけではないだろう。女色が良いなら遊郭に行くはず。話の種に江戸の陰間茶屋を訪なうにしても、興味がなければ来ようとは思うまい。
「ねぇ旦那、飲むのはいい加減にして、そろそろ寝間に入りませんか? ほどほどにしておかないと、立派な『持ちモノ』が役に立たなくなりますよ?」
 鈴若はゆっくり湯に浸かった。男の相手をするのは久しぶりで念入りの準備も必要だったし、一緒に過ごす時間は短いに越したことはなかったからだ。向坂はその間に銚子を数本、空けていた。鈴若はそれを指差す。
「そんつもいでここに来たわけじゃなか。おいのこたぁこんまま放っておいてくうっちゅうとあいがたか」
 低く深みある声で訛りがあると聞き取りにくい。鈴若は「え?」と聞き返した。向坂は「放っておいてくれて構わない」と、旗本や大名と変わらない武家ことばで言い直した。
――ああ、やっぱり。この男は育ちが良いんだ。
 地方藩士であっても中流以上の子女となれば、国の訛りは矯正されると聞く。連れの二人はあきらかに田舎者然としていたが、同格の口をきいていた。向坂は彼らに合わせているのかも知れない。
「じゃあ、何のためにこんなとこへお出ましなんです?」
「つきあいだ。おいがどこいも出かけんで、気を回してくれた」
「それで陰間? 吉原の方が楽しいでしょうに」
「興味はん。それにまだすっぱい終わったわけじゃなか」
「はあ?」
「興味はない」
 向坂は杯を空けた。手酌しようとする銚子を、鈴若が寸ででさらう。銚子は軽かった。他も同様で、追加を頼むかと尋ねると、つきあうなら頼んで良いと言った。
 こうなったら呑むまでだ。薹(とう)の立った鈴若を望む男客はない。女客も、このご時勢で足が遠のいていた。年若い色子の世話で日々を過ごす鈴若が口にするのは、ここのところ安酒ばかり。上物だと気持ちよく酔える。居心地の悪さも払拭されるだろう。




 黙って呑むだけでは、なかなか酔えない。話をしながらなら気も紛れる。鈴若は途切れ途切れながら、向坂に話を振った。振られた彼は短く答えるだけだ。会話になりようはずがない。そのうち種もつき、鈴若は口をつぐんだ。
 開け放った張り出しから月が見えた。高いところに上っている。どれくらい時間が経ったのか、朝までどれくらい時間があるのか。経験から、まだまだ夜は長そうだと読む。客の前では厳禁のため息が出掛かっていた。鈴若は月を見上げることで、辛うじてそれを押しとどめた。
「名はなんと言うのだ?」
 すぐ近くで声がした。いつの間に向坂が張り出しに背をもたせかけて座り、同じように月を見上げていた。鈴若は銚子を引き寄せ、相手と自分の杯に注いだ。
「月ですかい?」
「いや、その方の名だ」
 今更と思ったがそんな素振りは脇にどけて、「鈴若ですよ」と答えた。
「それは本名ではないだろう?」
 会話の中で何度も鈴若が聞き返すので、向坂は武家ことばになっていた。遊びもしない、会話も続かない、そう言うところはやはり田舎者の野暮天だが、声音は良いと鈴若は思った。
「本名なんか聞いて、どうするんです?」
「知りたいだけだ」
 十二から『鈴若』だった。親元を離れた時に、本来の名は捨てた。
「忘れちまいましたよ。もうずいぶんと昔だから」
「そんなことはあるまい。親が付けてくれた名だ」
「お侍と違ってね、それほど思い入れのある名じゃないんですよ」
 鈴若は貧しい小作の末の子だった。彼の上には六人の兄や姉がおり、望まれて生まれたわけではない。従って名前も仕舞いを意味するものだった。喧嘩になるたび兄や姉に「おまえなんか要らない子だった」と詰られたことや、口減らしに一人だけ江戸へ送られた理由が、名前の意味するところからわかると、覚えておく未練はなくなった。
「『鈴若』と言う名は、泣いたり笑ったりする声が、鈴が転がるようだってんでつけられたんですよ」
 正しくは『仕込み』の最中に出た声が…だが。それでも自分のためだけに付けられた名である。何人もの客が、「鈴若、鈴若」と愛おしんでくれた名でもある。本名よりはどんなにかましだった。
 そんな聞かれたこと以上のことを口にしてしまいそうになる。かなり酒量が進んでいるせいだろう。
「そう言う向坂様は、何と言うお名なんで?」
 鈴若自身のことではなく、向坂のことに話を摩り替える。
それにしても、この男は酒が強い。いっそ酔い潰してしまえと、干す側から注いでやるのに、顔色は変わらず、呂律も確かだった。鈴若の方が先に正体を失くしそうだ。実際、少し酔いが回っている。言葉がだんだんと普段遣いに変わっていた。向坂がその方が気を遣わなくて良いと言うから余計だった。
「れんしょう」
 向坂は新たに注がれた酒を一口含んでから答えた。
「れんしょう? なんだか坊主みたいな名だなぁ」
「すでに姉と三人の兄がいたので、親は次に男が生まれたならば僧侶にするつもりだったのだ。武士と言っても貧しかったのでな。七つの年に出家した」
 しかし今はとても僧侶には見えない。黒々とした髪を総髪にして、飲酒もするし、手は出さないにしてもこうして色を買いに来ている。芝居や講談に、僧の身で剣を持ち戦場を駆けた話も出てくるが、そう言う類でもなさそうだった。
「今も?」
「いや。兄が次々亡くなって、跡を継がねばならなくなった。十四の時に還俗させられたのだ。ゆえに正しくは『やすきよ』というのだが、」
と、向坂は杯の中に人差し指を入れて濡らし、月明かりが照らす張り出しの板面に『廉清』と書いた。
「前の響きの方が好きなのでな、普段はそれを使っている」
「意味はあるんですかい?」
「逆にすると『清廉』となる。清廉潔白の清廉だ」
「やっぱりお武家の子だなぁ。良い名をつけておもらいだ」
 たちまち乾いて消えて行く『廉清』の文字を、鈴若は見つめた。同じ子沢山の家に生まれ、同じように『口減らし』の対象になったと思われるのに、名づけ方の違いは歴然だった。ますます名乗りたくなくなる。名乗るまいと心に固く思った。
「寺にいたから、この商売も知っている。だから年端のいかぬ稚児を買う気にはなれなかったのだ。その方なら一晩、酒に付き合ってもらえそうだからな」
 今度は向坂が鈴若の杯に酒を注いだ。返杯以外で客に酌をさせるなどありえない。構うものかと、鈴若は杯を煽った。
「それはそれで複雑でやんすね。床に入れるほどの色気が無ぇって、言われたようなもんだ」
鈴若は苦笑した。
「…そんなことは、ない」
――おや?
 口篭もったような向坂の物言いに、続けざまに杯の酒を流し込もうとしていた手を鈴若は止め、ちらりと彼を見る。それまでは目が合うと、まっすぐ相手――つまり鈴若の視線を受け止めていた向坂だが、
「一緒に飲むのなら、見目良い方が楽しいのは道理だろう?」
と続けて月を見上げ、さりげなく視線を外した。
 鈴若が話の折々に挟みこむ誘いにも動じなかった向坂が、今夜初めて見せた『色』を含む表情。微かだが鈴若は見逃さない。
――これは案外、脈があるのかも知れない。
 向坂達がここを訪れた時、店先には喜助をはじめ数人の男衆がいた。皆、陰間上がりで姿形は悪くない者ばかり、鈴若が際立って容色が良いわけではない。むしろ夕顔を連れていたから見劣りしていたはずだ。そんな十把一絡げの鈴若を選んだのだから、少なからず向坂の好みに合ったと言うことだろう。一瞬彼が見せた瞳の中の『色』は、それを暗示している。
 それとわかったからには…と、鈴若は少し身体を向坂の方ににじり寄せた。胡坐を組みなおすと、片方の膝が彼の足に近づく。袴が邪魔をして目測に頼るしかなかったが、鈴若は膝小僧に彼の硬い太ももがあたるのを感じた。
 向坂の緊張が伝わる。しかし彼は身体をずらして避けるようなことはしなかった。
色子としての房事から遠ざかっていたので、それがないのは楽で良い。客のすることに文句を言える身分ではないが、この夜の長さはどうもいけない。
 向坂の干した杯に酒を注ぐ。酔いで身体が揺れた振りをして、彼の胸元へと傾げた。向坂が咄嗟に片方の腕で鈴若を抱きとめる。銚子は鈴若の手から離れ、零れた酒は瞬く間に畳の中に吸い込まれた。
 向坂の胸板は薄からず厚からず、袷から見える肌には張りがあった。ほんのりとする汗の匂いは若い。かつて鈴若の身体の上を通り過ぎて行った色事好きの旦那衆や僧侶達の誰とも違う、精悍な男の匂いだ。不覚にも、鈴若は自分の頬が熱くなるのを感じた。
「これはとんだ粗相を」
 本当は艶を含んだ目で流し見ながら、ゆっくりと、そして思わせぶりに身体を離す算段だったが、素に戻ってしまった。
 向坂の胸に手を突っ張って鈴若が慌てて身を離そうとした時、目と目が合う。今度は、向坂は目を逸らさなかったし、鈴若を抱きとめた腕には、一層力がこもったようであった。
 鈴若の心の臓の鼓動が早くなる。自分の初心な反応に戸惑った。年齢の半分はこの商売に身をやつしていると言うのに、これではまるで初出しの夜ではないか。
 そんな戸惑いの中にあっても、どうやら向坂がその気になり始めていることには安堵した。このまま一挙に事に及んでしまえば、戸惑いも消えるだろう。鈴若は首を伸ばし、向坂の唇に触れた。
 その後はもう、聞こえるのは互いの口を吸い合う音のみだった。
 熱く荒々しい舌の動きを鈴若のそれが追う。夢中で絡め、その勢いに息をするのもままならない。それでも緩めることはなく貪りあう。順じて下肢の奥の昂りを感じた。
 体勢が崩れて、二人は畳の上に倒れ込む。向坂の手が鈴若の着流しの裾を割った。首元に埋められた彼の頭を、鈴若がかき抱く。この先に待つ愉悦を思うとたまらなかった。
 大きな手が鈴若の太ももを下から上へと滑ったその時――向坂はいきなり身体を離した。
 「向坂様」と言いかけた鈴若の口を向坂は手で塞ぎ、「しっ」ともう一方の人差し指をたてて自分の口にあてた。
 静寂の中、廊下の敷板の軋む音が微かに聞こえる。向坂は鈴若から離れた。床の間の刀掛けから刀を取り、柄に手をかける。
 軋みは部屋の前で止まった。向坂は左手の親指で鍔を押し上げる。次に何かが動く気配を感じたなら抜刀するだろう殺気を、鈴若は彼から感じた。
 開城し朝廷に政(まつりごと)を返還したとは言え、徳川将軍家が望んでしたことではない。現に憤懣やる方ない旧幕府側が、あちこちに集結し機会を狙っている。どこに刺客が紛れ込んでいてもおかしくなかった。
「待っておくんなせぇ」
 鈴若は身を起こした。乱れた着流しを手早く整えながら、向坂が止めるのも聞かず廊下に面した障子戸に近づき、そっと引き開けた。
「夕顔」
 はたしてそこには、半泣きの夕顔が座っていた。
「どうしたんだ、今頃。今夜は阿波田屋さんがお見えのはずだろう?」
 薄桃色の長襦袢一枚の夕顔を隠すようにして向坂に背を向け、鈴若は抑えた声で言った。
 夕顔は今夜、贔屓筋の紙問屋、阿波田屋の座敷のはずだった。阿波田屋が何らかの理由で来られなくなったのだとしても、解けて乱れた結髪から別の客がついているのだとわかる。よほどのことがないかぎり、夜明けまでは座敷を離れないのが決まりだ。それとも、客に何かあったのか。
「お客に何かあったのかい?」
 それとも何かひどいことをされたのかと続けて尋ねた。夕顔に大甘の阿波田屋が無体をするとは考えられないが、客が変わったのならそれもありうる。
 夕顔は両手で顔を覆って首を振った。鈴若は暗がりの中、部屋の行灯から漏れる明かりで目を凝らし、袖から見える夕顔の細い手首や、首を検分した。掴まれたり、縛られた跡はない。そっと顔を覆う手を外してやり、目元や口元も見る。涙の伝う跡以外、おかしなことはなかった。
 覗き込むかっこうの鈴若と目が合って、
「鈴若兄(あに)さがお客様を取ると聞いて、居ても立ってもおられんようになって…」
とやっとのことでそう言うと、夕顔はぽろぽろと涙を零し、鈴若の胸にしがみついた。
「お客を放って抜け出してきたってぇのか?」
 鈴若は慌てて引き剥がした。向坂に見られていることを憚ってではなく、夕顔が大事な客を一人にして来たことに驚いてである。
「阿波田屋様は、ようお休みです。そやから、そやから…」
 そこのところは売れっ子の自覚が働いたと見える。阿波田屋は気を放って寝こけると、半時は起きないので有名であった。ただしそれを繰り返し、明るくなるまで色子――夕顔を離さないことでも知られている。温厚な旦那ではあるが、寝間を抜け出して行った先が別の男の部屋だと知れば、いい気はしないだろう。
「お立ち。送って行くから」
 あれこれと考えている場合ではなかった。すぐに阿波田屋の寝間に戻さなければ、ごまかしもきかなくなる。
 そろりと振り返ると、向坂はすでに刀を元の場所に戻し、張り出しのところで静かに呑んでいる。「すぐ戻ります」と鈴若が言うと頷いたので、夕顔を伴って暗い廊下を進んだ。




 夕顔は今年が四年目、十五になる。上方の生まれであれば、たとえ大坂や紀州が出自であっても「京育ち」と偽る色子が多い中、夕顔は正真正銘、京生まれ京育ちであった。
 色が抜けるように白く、頬は紅を差さずともほんのりと塩梅良く桜色を帯びていた。涼しげな目元、形良い弓なりの眉、通った鼻筋を挟んで左右対称の面立ち。稀に見る美形だと評判の色子である。
 言葉遣いや物腰が柔らかく上品な京育ちの陰間は客に喜ばれたが、花の命は短いもので匂うように美しい色子でも、かならずいつかは成長して体型が変わってしまう。男客の相手が務まるのは、せいぜい二十までだった。ゆえに陰間茶屋の主人は、決まった時期に上京したり人を介したりして、定期的に美童を調達しなければならなかった。夕顔もそのようにして茶屋主の眼鏡にかなった子供だったが、ご他聞に漏れず貧しい家の出である。
 『夕顔』の名は水下げ客として選ばれた廻船問屋の高田屋がつけた。風流人で古典に造詣が深い高田屋は、儚く稚い風情から源氏物語に出てくる『夕顔』を思い浮かべたのだと言う。既に『帰蝶(きちょう)』の名を持っていたが、高田屋は響きが硬くて「らしくない」と言い、その夜のうちに変えさせてしまったのだった。
――今、何ん時だろう?
 廊下を歩きながら、鈴若は落ち着かない。どの部屋の灯りも落ちていて、辺りは静まり返っていた。切羽詰った甲高い声が聞こえてくるがそれも時折だった。皆、何度か気を放った後で寝入っているのだろう。
 そんな時刻に客を放って抜け出し、暗い廊下を二人きりで歩いているところを見られでもしたら、変に勘繰る者が出てこないとも限らない。よりによって鈴若が今夜使っている部屋は、夕顔が使う部屋から一番遠かった。
 阿波田屋に限らず夕顔が客を迎える時に使うのは、渡り廊下で他の座敷と隔てられた離れだった。店の玄関からは最も離れているので、俗で雑多な音も聞こえない。庭に面して縁側が設えられ、手入れの行き届いた庭木と、山水画を模して配された庭石が見せる四季折々の気配を、楽しむことが出来た。調度を凝らし、寝具は上質の絹、贅を極めた一室である。一番の色子には大名や大店、脇門跡など、地位も財力も並ならぬ客がつく。彼らを迎えて恥ずかしくない、特別な座敷だった。もちろん他の色子も上客の指名を受ければ使えないことはないのだが、ここ二年ほど、夕顔以外が使うことは滅多となかった。ちなみに鈴若は一度も足を踏み入れたことがない。
 それほど広くない小ぢんまりとした店ではあるが、敷地の端から端では焦る気持ちと合わせて、更に遠く感じる。他の色子、店の男衆に出会わないようにと祈るばかりであった。やっと離れへの短い渡り廊下が見えた時、鈴若は心底安堵した。
「そら、こっからは一人で行きな。俺は戻るから」
 鈴若がそう言うと、夕顔の瞳が見る間に潤んだ。
「兄さ、あのお客のところに戻ってしまうん?」
「あたりまえだろう? お客は朝までってことで大枚を払っているんだから」
 夕顔は鈴若の着物の袖をギュッと掴んだ。
「いやや、戻らんとって、戻らんとって」
 鈴若は慌てて夕顔の口を押さえた。声が高くなると周りに聞こえる。どんな些細な声も、この静けさの中では響いてしまう。
「何、聞き分けのねぇこと言ってんだ。十五にもなってガキだな、まったく」
 声音を一層潜めて鈴若は夕顔を諭しにかかった。夕顔は鈴若の袖口を掴んだまま、小さく、途切れなく首を振った。ようやっと乾いた頬を、またも涙が伝って濡らす。
「兄さが他の男はんとお床入りするの、嫌や。我慢出来へんのです。胸が苦しゅうなって、お勤めに身がはいらへんようになってしまう」
 普段は聞き分けが良く、「お客第一」の教えを忠実に守って勤めに励んでいる夕顔とは、別人のようであった。
 慕ってくれているのは知っていたが、こんな所業に出るほどに思いつめているようとは。これは非常にまずい。
 色子同士で情を通じることは禁じられていた。色子の中には勤めとの線引きが出来ず、客に身体を開けなくなる者もいるからだ。夕顔はその類であった。
 一途さに絆されてうっかり情を交わし、「客を取りたくない」と言い出されでもしたなら、そしてその理由を上の者に知られようものなら――二人の末路を考えるとそら恐ろしい。
 小便くさい最下層の女郎横丁の店に売り飛ばし、下卑た客を日に何人も取らすぞ、人足寄場に無宿人として放り込み、昼は労役、夜は外に出られない人足の慰み者にされるぞと、禁を破ったならどうなるかを見習いの頃から散々に聞かされ脅されてきた。仕込みに入って閨でどのようなことをされるのか身を持って知るようになると、その恐ろしさがいや増し、夜中の寝間で粗相してしまう子供もいる。
 知れば上得意が不憫に思って身請けを申し出ることもあるだろうが、たいていは見せしめもあって秘密裏に落とし、客には事後に知らされる。客も決まりには逆らわず、新たな贔屓を作るのだった。つまりはどれほどの売れっ子でも待つのは地獄と言うわけだ。執着のある客が行方を探し出し、その地獄から救った例があったとかなかったとか聞くが、それは夕顔であれば考えられる夢物語でも、鈴若の身には万が一にも起こらないだろう。脅しがどこまで本当のことなのか怪しいが、何らかの仕置きがあるのは確かだった。
 心底惚れぬいた相手とのことでそうなるのは受け入れられても、根も葉も無い疑いをかけられて罰を受けるのは困る。夕顔のことは可愛いと思うが、それは弟のようにと言うことで恋情ではないのだから。
 末っ子に生まれた鈴若は兄や姉に邪険にされて育った。自分に弟や妹が出来たなら、うんと可愛がってやるのにといつも思っていた。ゆえに他の年長者に比べ、年下の色子に多少は甘く接している節がある。特に夕顔はここに来た当初から面倒を見ていた。夕顔が仕込み係を恐がったので、初期の仕立て――棒薬などを使って菊座を慣らす――を鈴若が一、二度施したこともある。他の色子以上に構っていたかも知れない。それが夕顔に変な期待を抱かせたのか。あるいはここに来た最初から接している鈴若に、孵化した雛のごとく追従し、それを恋慕と強く勘違いしているのか。
「あのな、夕顔、今夜の客はそんなんじゃねぇんだ。朝まで酒に付き合うだけよ。それが証拠にほら、普通の格好をしてっだろう? 床入りしていたように見えるかい?」
 嘘ではない。ついさっきには良い雰囲気になったが、それまで向坂は毛ほどもその気を見せなかった。鈴若が一芝居打たなければ、朝まで酒を飲むだけだったろう。これから戻って二人きりになっても、一度冷えてしまった情欲の熱が再び上がるとは限らないのだ。
 下手に「勤めだから割り切れ」と叱ったところで、今の夕顔には逆効果だとわかっている。鈴若がこれからまた床入りするのだと知ればますます思い余って、客が寝入っている間に部屋を抜け出す以上のとんでもないことを仕出かしかねなかった。
 とにかく宥めて阿波田屋の元に戻さなければ――と思った矢先、離れの灯りがともった。阿波田屋が目を覚ましたと察した。
「夕顔、手洗いに行ったと言うんだぞ。泣きべそのわけを聞かれたら、闇が恐かったとかなんとか誤魔化すんだ。余計なことは言っちゃなんねぇ。俺のためだと思って。いいな、わかったな?」
 鈴若は暗闇の中、夕顔の目を見つめて言った。夕顔は一度小さくしゃくり上げて頷く。離れの灯りがついて、正気がもどったらしく、掴んでいた鈴若の着物の袖を離した。夕顔も馬鹿ではない。禁を破った後にはどう言う仕置きが待っているか思い出したことだろう。俯いていた顔を何とか上げて、流すままだった涙を襦袢の袖で拭った。それからそろりそろりと歩き出す。
 離れにたどり着き、障子を開ける前に一度鈴若を振り返ったが、こちらの姿は見えないはずだ。鈴若は夕顔からは死角になる位置にいた。夕顔が中に入るのを見届けると、浅く息を吐いて、来た道を戻る。
 朝になって客を帰したら、喜助のもとに行かなければならない。今夜のことをきちんと話し、夕顔の世話は今後、別の男衆にさせてくれと頼むつもりだった。黙っていては、どこから誰が何を言うか知れない。
 まだ大丈夫だ。鈴若が憚って口を塞いでからは、夕顔は極力、泣き声を抑えたし、離れの灯りを見て自分を取り戻した。綻びが今以上に広がる前に、離れておいた方が良い。
 喜助は先代の番頭と違って話のわかる男だった。鈴若がこの店に来た当初は彼もやはり色子だったが、頭の回転が早く算術や商いの才があるのを客が見抜き、それを茶屋主が見込んで番頭の仕事を覚えさせた。少々短気なところはあるが、筋を通せば公正な目で判断してくれる。隠して知れた時の方が、きっと事態は悪くなる。
――それは夜が明けてからとして、とにかく『向坂様』を何とかしないと。
 廊下の小窓から月が見えた。部屋で見ていた高さより少し傾いたように見えなくもないが、夜明けにはまだまだ遠そうだ。
 こんな時刻に部屋を出た言い訳も兼ねて、鈴若は厨(くりや)に寄り酒の追加を頼んだ。



                 


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