ジェフリー・ジョーンズは、本日、起き抜けからすこぶる機嫌が良い。
あまりに良すぎて、絞りたての牛乳を朝食用に運んできた娘のエレナが、
「パパ、気持ち悪い」
と呆れ顔で言うくらいである。気を抜くと、否、抜かなくとも、自然と口元が綻ぶのだ。
「いくら友達が来るからって、ちょっと浮かれ過ぎやしない? 本当に友達なの? 私より若いワイフは止してよね」
その浮かれっぷりに、エレナはチクリと嫌味を添えた。ジェフリーは今まで四度の結婚と離婚を経験している。彼女は最初の妻との子供で、つまりはそれ以後の結婚に至るパターンを知っていた。「友人」として紹介された女性が、たいてい父親と結婚する。だから今回のジェフリーの様子を見て、疑っているのだ。
「来るのは男だ。マクレインの時の同僚。ほら、おまえも知っているだろう? リクヤ・ナカハラ、リックだよ。くどいてくどいて、やっと招待を受けてくれたんだから、顔も緩もうってもんさ」
「え?! 待ってよ、パパ?! 今更、カミング・アウトなんてしないでよ?!」
エレナが思わず大声を発したものだから、大人しくテーブルチェアに座っていた一歳になる孫娘のエイミーが、驚いて泣き出した。慌ててエレナは彼女を抱き上げ、あやしながら怪訝そうにジェフリーを見る。
ジェフリーは抱かれたエイミーのピンク色の頬を撫でた。
「そんなんじゃないさ。とても大事な友達なんだ。だから失礼なこと、言うなよ?」
「ならいいけど。性別が違うだけで、何だか今までと似たようなパターンなんだもの」
エレナはそう言うと、泣き止んだエイミーをチェアに戻し、持ってきた牛乳やらバターやらチーズやらを、冷蔵庫に片付け始めた。
ジェフリーがマンハッタンのマクレイン総合病院を辞め、このウィスコンシン州のアシェンナレイクサイドにクリニックを開いて一年が経つ。きっかけは牧場主と結婚した娘のエレナ。その辺りのホーム・ドクターをしていた医師が、老齢のため引退することになり、代わりに誰かを紹介してくれないかとの相談を受けたのだ。マクレインでは要職に就き、それなりに顔の広いジェフリーだったが、声をかけた数人にはことごとく断られた。合衆国一の都会で、最先端医療の只中にいる彼らには、牛の数の方が人口より多い田舎に、魅力は感じなかったらしい。それで、ジェフリー自身がその話に乗ることにしたのだった。
ジェフリーは現場が好きだったが、経営面に参画を余儀なくされ、オフィスで過ごすことの方が多くなっていた。同期は開業や転職で年々減って行く。一番の友人だったリクヤ・ナカハラが病院を去るに至って、マクレインへの愛着はすっかり失せてしまった。このまま管理に明け暮れ、経営に頭を悩ませながら定年を迎えるのは、自分の本意ではないと思えた。
それにジェフリーにはもう一つ、思惑があった。優秀な医師でありながら、隠棲してしまった友人のリクヤ・ナカハラを、再び、現場に戻すと言うことだ。
リクヤ・ナカハラは日がすっかり暮れた頃、ジェフリーのクリニック兼自宅に到着した。
マディソン空港から北へ約四百キロ。更に東へ百キロ入った牧場地帯に、ジェフリーのクリニックはあった。州間高速道路はバス、そこから先はジェフリーの患者と、エレナの夫が運転する車を乗り継いだのだが、合計で五時間以上は車に乗っていたことになる。
「君は俺のところを田舎呼ばわりしたがね、ここの方がよっぽどだぞ?」
彼の顔にはさすがに疲れの色が出ていた。そして口調はジェフリーへの抗議を含んでいる。
「そうかな? 僕が君のところに行った時の印象と、さほど変わらんと思うぞ」
「いや、少なくとも俺のところは、幹線道路から百キロも離れてない」
リクヤはここに来るまで見たことを羅列した――人より牛を見た回数の方が多かっただの、同じ風景が延々と続いていて狐に化かされたかと思っただの、地平線に動くものが見えないため、スクリーンに映写されたものだと錯覚しただの。少し口調が柔らかくなったのは、ジェフリーの他にエレナとエイミーの姿を居間に見たからだろう。外面の良さはマクレインにいた頃と変わっていない。
ジェフリーは簡単に娘夫婦と孫娘の紹介をした。リクヤは自己紹介を返し、あらためてエレナの夫・ジェームズに迎えの礼を言う。
ジェフリーとリクヤは同じ年の五十四歳だが、見た目年齢には差があった。
「パパと同い年には見えないわ」
と言うエレナの言葉を、ジェフリーは否定出来なかった。東洋人の年齢はわかりづらい。リクヤも、四十代と言っても通るくらいだ。
「ジェフは二十ポンド(約九kg)痩せる必要がある。そうしたら少しは若返るさ」
リクヤがエレナに応えるように笑った。
「言うなよ、気にしてるってのに」
笑いが伝染する。ジェフリーはリクヤを見た。マクレインで働いていた頃の笑みが戻っている――ユアン・グリフィスが逝ってしまう前までの。
ユアン・グリフィスの死後、リクヤは「らしい」までに彼だった。二十年来の親友を亡くしたと言うのに、看取ったその日から人好きのする笑みで患者に接し、夜勤も連続勤務も、それまでと変わらずにこなした。そんな彼を「冷たい」と評するスタッフもいた。しかしジェフリーは、リクヤがどれほどユアン・グリフィスの死を悼んでいたかを知っている。
『急で悪いけど、今夜、カバーしてくれないか?』
ユアンの葬儀の日、リクヤは出勤してこなかった。ジェフリーの元に寄越した一本の電話が、彼が見せた唯一の『沈痛』だ。それ以後、退職するまで欠片も見せなかっただけに、かえって悲しみが深いのではないかと思われる。
リクヤは一年後に老眼を理由に退職し、五十一歳の若さで医療の道から、何の未練も見せずに離れた。ジェフリーがリクヤと再会したのはその二年後だが、田舎に隠棲し、ネット株の運用で生計を立てる彼は、口の端を少し上げる程度の笑みしか見せなくなっていた。
そんなリクヤを見て、何としても『外』に連れ出したいと思ったことを、ジェフリーは覚えている。
「長旅で疲れただろう? 片付けはやっておくから、先にシャワーを浴びてくれば?」
朝の早いエレナ達は、食事を済ませて片づけを終えると早々に帰り、ジェフリーとリクヤは手作りのチーズと腸詰を肴に、居間でしばらく飲んでいた。積もる話と酔いが時間を忘れさせたが、翌日は休みでないこともあって、日付が変わる頃、グラスを置く。
「いや、俺は後でいいよ。君は明日、診察があるんじゃないのか? 片付けはやっておく」
ジェフリーの手からリクヤが皿を引き取る。
「ゲストにそれはさせられないよ」
「二週間もタダ飯食わせてもらうんだから、これぐらいはするさ。機械が洗ってくれるしね」
そう言うとキッチンに足を向けた。
「タダ飯…、クリニックを手伝ってくれる気はないのか?」
ジェフリーが彼の背中に向かって尋ねる。
「俺は『ゲスト』じゃなかったっけ?」
リクヤは振り返り、こともなげに答えた。
ジェフリーは肩を竦めると、「お先に」とバス・ルームに向かった。
二年前に再会して帰ったその日から、ジェフリーはほぼ毎日、メールもしくは電話をリクヤに入れた。話題は他愛もないことだ。アシェンナレイクサイドに引っ越してからは、豊かな自然を写して添付した。クリニックの様子や生まれたばかりのエイミーなどなど、とにかく話題になるもの全て。そして三度に一度は、「一人では忙しいから、クリニックを手伝ってくれないか」と伝えた。家畜の数の方が多い田舎とは言え、来てみればそれなりに忙しかったから、ジェフリーの言葉に嘘は無い。ただ忙しいのが、毎日ではないだけである。
リクヤから色よい返事はもらえなかった。それでも何とか、夏のバカンス先として訪れても良いとの言葉は引き出せた。
苦節一年と半。自分はこれほど粘り強い性格だったのかと、五十四歳にして気づいたジェフリーである。
「リック、バス・ルーム、空いたよ」
シャワーを浴びて居間に戻ると、リクヤはソファで眠っていた。彼が住んでいるところからここまでは半日の道のり。そのうち五時間以上が車での移動だから、疲れが出ないわけがない。程よくアルコールが入った身体では尚更だ。ゲスト・ルームは用意してあったが、起すのは可哀想だった。
「…バス、空いたのか?」
リクヤは薄く目を開けた。
「空いたけど、君は明日も休みなんだから、朝にすればいいさ」
返事はなかった。代わりに目は閉じられたので、ジェフリーの言ったことは聞こえたのだろう。
ジェフリーはかつて、リクヤへの想いを自覚したことがあった。ずっと友人に対するものだと思っていたものが、実は別の類だと知った時、不思議と違和感はなかった。
彼と過ごす時間は、それがオペであっても、緊急派遣の事故現場であっても、語弊があるかも知れないが楽しかった。ERは激務で忙しく、ジェフリーは何度、家族の記念日をすっぽかしたか知れない。多忙を理由にしてリクヤとの時間を優先していたのだと、四度目の離婚の際に痛感する。誰とよりも一緒にいたいと思う存在。その想いに性的なものは介在しなかったが、確かに恋だった。振り返れば、良い思い出だ――思い出となった想いのはずだった。
(僕はどうして、こうまで彼に固執しているんだろう?)
静かに寝息を立てるリクヤをしばらく見つめた後、形の良いその鼻を摘む。一瞬、眉間に皺が寄り、目が再び開いた。不機嫌な視線を寄越す。かつてユアン・グリフィスが「私にだけ向けられる」と愛した表情の目は、こんなではなかったか。
「部屋を用意してあるから。こんなところで寝ると、風邪を引くぞ」
ジェフリーの言葉にリクヤは身体を起した。
「ここを出て右手奥のドアだ。荷物は後で運んでおくよ」
「…了解」
素直に言われた方向へ、リクヤはフラフラと歩いて行った。ジェフリーは彼がドアの向こうに消えるまで、その背中を見送った。
近くの湖でバス釣り、あるいは裏庭の木蔭に設えたハンモックで読書、時々うたた寝、合間に株式市場のチェック。夕方には辺りをぶらぶらと散策――これがリクヤの一日である。優雅で、贅沢な時間の使い方だ。遊びで来ているのだから、誰に文句を言われる筋合いはない。
ジェフリーはと言えば、そんなリクヤを横目に仕事に勤しんでいた。午前中はクリニックで診察、午後は往診に充てている。夕方からはオフだが、ここら辺一帯のホーム・ドクターであるジェフリーは、来る者は拒まなかったし、頼まれれば何時でも往診に出かけた。もともと働くことが嫌いではなく、一人暮らしの気ままさから、ジェフリーは臨機応変な診療スケジュールを組んでいる。大して忙しいわけではないから出来ることだった。
リクヤが来てからもそれほどには忙しくなかったが、不思議なことに毎日、朝から晩まで満遍なく患者の予定が入った。土地の人間ではない客人が珍しく、話の種にクリニックを訪れる者もいるにはいた。しかし、ほとんどは歴とした罹患者だ。おかげで手が空いたら休憩がてら、リクヤの釣りに付き合おうと思っているジェフリーの目論見は、未だに達成出来ていない。
「一年半の努力が…」
と思わず零れ出る独り言を、患者に聞かれる寸前で飲み込むこともしばしばであった。
ここに着いた初日の夜に言った通り、リクヤは食事の後片付けは買って出た。湖での成果があれば、自らの手で捌いて料理する。これがなかなかに美味い。特に小麦粉を薄くまぶしただけのフィッシュ・フライに、野菜やキノコを炒めたものをトッピングした料理は絶品だった。およそ料理などしそうにないリクヤの新たな一面を、ジェフリーは興味深く思った。医学生の頃からの彼を知っているが、ファスト・フードを食べているイメージしかなかったからだ。
「案外、料理上手いんだな?」
「退職して時間が出来たから、自分で作ってみる気になったんだ。幸い、ナイフを使うのは得意だったし」
「メスだろ?」
「同じ刃物には違いないさ」
家事は嫌がらずに手伝うのに、リクヤはクリニックを覘くことすらしなかった。患者が待合室から溢れ出たマクレイン時代とは違い、ジェフリーとパートの看護師・マーガレットだけで手は足りているので、声のかけようもない。それでも席を外すほどには暇ではなく、そんな状況を恨めしく思うジェフリーだった。
その日は急な往診が三件入り、ジェフリーは午後いっぱい、クリニックに戻れなかった。一人目は腹痛、二人目は捻挫で、どちらも処置はすぐに終わった。しかし三人目は残された時間を家族と自宅で過ごすことを選択した末期癌の患者で、二、三日前から重篤な状態にあり、容態が落ち着くまで離れられなかった。
「すみません、処置は必要ないと言っておきながら…」
サイモン・バートラムの妻が申し訳なさそうに言った。七十代のバートラムは「もう十分生きたから」と言って、延命拒否にサインをしている。だからジェフリーは、延命に関係する処置は行っていない。医療設備のない普通の家ではどっちにしろ、何も出来なかった。
「これは延命処置じゃないよ。痛みを抑えているだけだから」
出来ることといえば、気休めに痛み止めの点滴をすることくらい。実際にはそれもほとんど効かない状態に陥っていた。それでもジェフリーが往診し、胸に聴診器を当て投薬すると、患者の呼吸は少し落ち着き、家族の表情も安堵なものに変わる。プラセボ効果の類だろうが、無駄だとわかっていても、何かしてやりたい気持ちにジェフリーをさせた。
アシェンナレイクサイドのような狭い地域社会では、誰もが顔見知りで、家族づきあいをしている。一人の死は身近で感慨深い。一過性の患者ばかりだったマクレインのERでは、感じることの無かったものだ。死に逝く者に何も出来ない無力感を、ジェフリーはこの患者を目の前にして痛感していた。
「また具合が悪くなったら、すぐに連絡して。何時でも構わないから」
容態が一先ず落ち着いたので、ジェフリーは帰路についた。
(リックも、ユアンを目の前にして、こんな気持ちだったのだろうか?)
家族でもなく、友人でもなく、一人の患者に過ぎない人間に対しても、親しくなればこれほどの感情が湧く。
好むと好まざるとに関わらず、リクヤにとって一番近しい友人だったユアン・グリフィス。
最期のその瞬間まで、リクヤに愛を囁き続けたユアン・グリフィス。
その姿を看取ったリクヤに、再び、白衣を着せようとするのは、残酷なことではないのか?
「おかえりなさい、先生。バートラムさんの容態、どうですか?」
クリニックに戻ると、本来、午後はいないはずのマーガレットが帰り支度をしていた。
「あまり良くない…って、君、何で今頃までいるんだ?」
時計を見ると午後五時になろうとしている。
「先生が出かけて、ここを閉めて帰ろうと思ったら、レイノルズさんとこの坊やが運ばれて来たんです」
「ティミー?」
「ええ、草野球していて脱臼したんです。もう痛がって大変でした。先生ったら、携帯の電源、切ってらしたでしょう? 繋がらないんだもの。どうしようかと思いましたよ」
「それで、どうしたんだ?」
「お友達の先生が整復してくださいました」
「お友達?」
「ほら、一週間前からいらしてる…」
デスクの上にはカルテが用意されていた。マーガレットの話は途中だったが、ジェフリーは慌てて『ティモシー・レイノルズ』と書かれたカルテを開く。見覚えのある筆跡での所見メモが挟まっていた。もちろんジェフリーのものではない。カルテは他にも数枚。それら全て、同じ筆跡のそれが挟んであった。
「その後、続けざまに患者さんが来ちゃって、帰りそびれたんです」
「そうか、リックが…」
横滑りの走り書きが懐かしい。マクレインの頃と少しも変わっていなかった。
その字を指でなぞる。じんわりと指先が熱くなる。
マーガレットが帰った後もしばらく、ジェフリーはメモを飽かずに眺めていた。
リクヤの滞在予定は二週間。すでに三分の二を過ぎていたが、ジェフリーの思惑は外れっぱなしである。
当初のジェフリーの予定では、後半一週間に自分のサマー・ホリデイを重ねるつもりだった。湖での釣りやキャンプ等々を計画し、そのためにエレナのところからキャンプ道具一式を借り受けたと言うのに、変更を余儀なくされている。ジェフリーは危篤患者を抱えていた。休日のみならず、平日の夜中にも呼び出されることがしばしばな状態だから、家を留守にするなど出来ない。
当然、その計画に付随した思惑その二も、なかなか進まなかった。思惑その二とは、一緒にクリニックをやってもらえないかと説得することである。そのためには、ここでの生活がどれだけ素晴らしいか知ってもらう必要がある。美しい自然と、のんびりした環境。その良さを十分に堪能させて、それから医師として復帰することを促そうと言うのが、ジェフリーのシナリオであった。
ところが、である。危篤患者は仕方が無いとして、一般外来の患者まで増えるとはどう言うことなのだろう? 確かに夏休み中で、子供の怪我率も高い――にしても神様に意地悪されているのではないかと疑ってしまう忙しさだ。
「申し訳ないな。せっかく来てくれているのに、碌に相手も出来なくって」
「いや、十分楽しんでるけど? 良い休暇だ。今日はエレナからフルーツ・アラカルトのパイを教わる予定だし」
そんなジェフリーの気持ちを他所に、リクヤはリクヤなりに休日を楽しんでいる。毎朝、牛乳を届けに来るエレナともすっかり意気投合し、料理を教わったりしていた。大学が夏休みで牧場を手伝っているジェームズの妹や、その友達とも交流があるらしい。
彼は昔から女性の扱いが上手かった。若い頃は情事の相手に不自由せず、華やかな噂が絶えなかった。複数のガールフレンドが常にいて、どれも割り切った関係で付き合い方がきれいなため、トラブルになったことは一度もない。マクレインには彼よりもハンサムなスタッフは大勢いたが、彼ほどにモテた人間はなかった。隠棲して衰えたかに見えた魅力は、今もって健在であることをジェフリーは思い知らされる。一歳のエイミーでさえ、ジェフリーよりも彼の「おいで」を選ぶのだから。
「ツレナイなぁ」
と、リクヤの素っ気無さに嘆いてみせたものの、ジェフリーは内心「ほっ」としていた。リクヤの表情が、以前の彼のそれに戻ってきているからだ。一年半前に再会した折の、一人にさせておけないとジェフリーに思わせた印象は、ずいぶんと薄くなっていた。
(努力は無駄ではなかったと言うことか)
俄然、『思惑その二』へのファイトが湧くというものだ。
ずっと危篤状態だったサイモン・バートラムが亡くなったのは、リクヤが帰る二日前のことだった。数日前から意識は混濁し、その苦しみようは尋常ではなく、昼夜問わずにジェフリーは呼び出された。痛み止めを注射し、小康状態になったら帰る…の繰り返し。注射の投薬量はすでに上限。薬効の持続時間は日に日に短くなっていた。
家族の疲労はピークに達していたが、それはジェフリーとて同じだった。マクレインでは四十時間以上の連続勤務をこなしたこともあったのに、さすがに寄る年波には勝てないと言うことかと、ジェフリーは自嘲した。
最期を迎えたバートラムの表情は安らかだった。死を見届けるためだけに看病していた家族にとって、少なからず救いになったに違いない。バートラムのその安らかな死は、彼を苦痛から、そんな彼を見続けた家族を苦しみから、ジェフリーを疲労から解放したことになる。
「先生、お疲れなんじゃないですか? 今朝までバートラムさんのところにいらしたんでしょう?」
診察の準備をしながら、マーガレットが気遣うように言った。
「大丈夫さ。帰ってから仮眠を取ったし、第一、疲れるほどのことをしていたわけじゃないしね」
何も出来なかった。段々と幽けくなる呼吸を見守っただけだ。
「でもここのところ連日だったでしょう? お友達の先生に、この前みたいに手伝ってもらえないんですか?」
「彼は休暇で来ているんだよ。そうそう無理は言えないさ」
結局、二週間近く滞在する中でリクヤが診察室に足を踏み入れたのは、あの一度きりだった。あれ以後、ハプニングも無かったし、彼の手を借りたいほどの忙しい状況も訪れなかった。もっとも頼んだところで、手伝ってくれるかどうか。何度もここに残ってくれないかと説得を試みたが、ジェフリーが望むような反応は得られなかった。あの一日は夢ではなかったのかとさえ思う。
(でも夢じゃない)
その証拠に、リクヤがカルテに挟んでいたメモが、机の引き出しにある。時々それを取り出しては、チャレンジ精神に火を点けるジェフリーであった。
その時、チリリと、ジェフリーは胸に痛みを感じた。
「え…?」
左前胸部から左肩に広がる圧迫感。締め付けるような痛みで、途端に息苦しくなり、
(何だ、この痛みは、心臓?!)
と自覚した時には、立っていられなくなっていた。
「先生?!」
マーガレットが慌てて駆け寄ってくるのが見えたが、ジェフリーは自分の身体をコントロール出来ず、胸を押さえて蹲った。この痛みは狭心症の症状だ。
『狭心症にはニトログリセリン』の意識はある。しかしマーガレットにそれを伝えられなかったし、そんな余裕などジェフリーにはない。
こんなに痛むものなのか、これは本当に狭心症の発作なのか、今までそんな兆候はなかったはずだ――さまざまな思考がジェフリーの頭の中を過ぎる。実際には痛みのひどさに、それらは形にならなかった。
マーガレットが何かを叫びながら遠ざかる。きっと人を呼びに行ったのだろう。ひどい胸の痛みにうめきながら、ジェフリーは複数の足音を聞いたような気がした。
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