[+13-a  May]                                   Y45/R44


「あら、あなたは」
 リクヤの部屋のベルを鳴らしたはずだ。しかしチェーンキイの間から顔を覗かせたのは、赤毛の女性だった。服は今、着替えたところと言った風情が、カラーシャツのボタンの留め具合から想像出来る。黒か或いは濃紺のブラジャーのフロント・ホックが目に入った。その一瞬の視線に気が付いて、彼女はボタンを一つ、二つ留めた。
「リックに御用でしょ? 今、バスを使っているから、入って待ってて」
 ドアの外の相手がユアン・グリフィスだと知って、赤毛の彼女はドアを開けた。
「いや、お邪魔なようだから、今日は失礼するよ」
「私はすぐ帰るの。今から出勤だから、着替えに戻らなきゃ」
 ドアからすぐに居間の間取り。床やソファに服が散乱している。彼女はそれに慣れているのか、自分の物だけを取り上げて――それはちゃんとソファに乗っていた――、入り口脇の鏡で身支度を確認した。
 豊満な胸に縊れた腰、それから安定したヒップ。女らしい、いかにも柔らかそうな身体は、リクヤが選ぶ女性の典型だ。四十才も後半に入ろうかと言うユアンも腹部はもちもちしかけているが、どう贔屓目に見ても女には見えなかったし、見えたくも無かった。
「じゃ、私はこれで。あっと、いけない。鍵、ここに置いていくから、彼に伝えて」
 彼女はテーブルにキイホルダーを置いて、ドアの外に消えた。
 ユアンは鍵を見つめる。自分の住むコンドミニアムの鍵はずっと以前から渡してあるのに、リクヤはここの鍵を未だにくれなかった。それどころか彼女のように、「とりあえず先に行って入る」程度にも渡されたことがない。渡すと合鍵を作るとでも思っているのだろう。いや、確かにユアンは作る気満々だったが。
 彼女が残した鍵に手が伸びかけた時、入り口と反対側のドアが開いた。腰にタオルを巻いた姿で、リクヤが入って来た。ソファに座っているのがユアンであることに、驚いた表情を見せる。
「なんでおまえがいるんだ?」
 それから時計を見て、
「ああ、そうか。十時からオペだっけ」
と納得するように呟いた。
「彼女は、同業者?」
「心臓(外科)のレジデント」
「君が女性といるところを久しぶりに見たよ」
「一応まだ男盛りだからな」
 冷蔵庫から牛乳パックを取り出すと、そのまま口に流し込んだ。
 年は一年しか変わらないというのに、体型の差は歴然だ。リクヤはどんなに忙しくても時間を割いてジムに通う。だから出会った頃と体型はさほど変わらない。かたやユアンはコンサートやリサイタルにつきもののレセプション・パーティーなどに出席することが多く、美酒と美食に酔った後はベットで一日過ごしてしまうことが常だった。リクヤと同じジムの会員でも、長期のオフにまとめて行くくらいだから、身体が締まるのは一時的で、それも最近ではままならない。着やせして見えるのが幸いしているが、ヌードでリクヤの隣には立ちたくないと思うユアンだった。
「まるで僕を誘っているようだ」
 均整のとれた上半身をまぶしげに見て、ユアンが言った。
「おまえがいるとは思わなかったからな」
 リクヤはキッチンのカウンターにかかったシャツを掴んで身に付けた。彼の身体を見られるのは年に数度もない。プールに入る彼を見ることも目的で入ったジムには、一年近くご無沙汰だった。こんな不純な動機では、長続きしないものなのだろう。
「少しは片付けたらどうだい? 女性を呼ぶには不向きだと思うよ」
 散乱した本や服を見て注意すると、
「ベッドとバスだけきれいならいいのさ」
と事も無げに答えた。
「だったら僕もぜひ、そのきれいなところに入れて欲しいものだね。いつもこんな雑然としたところに座らされて、かわいそうだと思わないか?」
「男は入れる気はない」
「男女差別だ」
「おまえもいい加減しつこいな。俺達は何才になったか知ってるか?」
「知っているとも。私は後ひと月で四十六で、君は後半年で四十五才になる」
 ユアンの言葉が終わらないうちに、リクヤは寝室に消えた。次に出て来た時にはデニムのパンツをはいていて、露出度はかなり下がっていた。彼はキッチンにまた入った。
「四十五と言えば、もう立派な中年だ。白髪もあるし、明らかに顔も老けてる。こんなオヤジをいつまでも守備範囲に入れるな。だいたい最近のおまえの相手は、若いヤツばかりだろう?」
 コーヒーのいい香りがユアンの鼻をくすぐる。二つのカップにコーヒーを注いで、リクヤはユアンの向かいに座った。
「君は変わらない。東洋人は不思議だ。年を取るのがずい分ゆっくりに思えるよ。この前、日本で二人に会ったけど、彼らもあまり変わってなかった。エツなんて私より三つ上なのに」
 エツとはリクヤの双子の兄・サクヤ・ナカハラのパートナー、ピアノ調律師のエツシ・カノウのことである。かつてはサクヤを争った――これは一方的にユアンが思っていたことで、エツシはサクヤの想いに応えることを躊躇していた――ユアンとエツシだが、その後は親友として、また仕事上のパートナーとして、今に至っている。
「君は出会った頃と変わらず、僕を惹きつける。魅力は老いていないよ。だから僕はいつだって、君の前にこうして跪くことが出来るんだ」
 ユアンはソファから離れ、リクヤの前に膝を折った。彼の口元は、嫌そうに歪んだ。
「よくもまあ、歯が浮く台詞をベラベラ吐けるな。だいたい俺のところに来るのは相手が切れた時だけのくせして」
「ひどいな。君が相手をしてくれないから、他を当たっているんじゃないか。それを不実だと言うなら、私の手を取ったらどうだい?」
 両手をリクヤに差し出す。長いユアンの腕は彼の肩の辺まで伸びて、いつでも抱きしめる体勢にあった。
 その手をリクヤはつれなく掃う。「アホクサ」と何語かわからない言葉を吐き捨て、
「女に不自由してないってのに、なんで男とセックスしなきゃらんのだ。俺のコックは全世界の女のためにある。覚えとけ」
とカップの端に唇を寄せた。
「では君のバージンを、私にくれたまえ」
 そう言ってからユアンは慌てて身をかわす。勢いがついて、そのまま後ろに転がった。
 ユアンにはリクヤの気に障ることを言った自覚があった。空気が鋭く鳴って、彼のストレートが向かってくると予想した。いつもの展開ならそうだ。しかしリクヤは素知らぬ顔でコーヒーを飲みながら新聞を読んでいる。予想外の反応に、ユアンは無様に転がったまま「あれ?」と呟いた。
「得意の右ストレートは?」
 リクヤは紙面を見たまま答える。
「おまえの言葉にいちいち反応していたら疲れる」
「丸くなったね?」
「だから年食ったって言ってるだろ?」
「ことさら年を強調するのは止めたまえよ。それに年寄りだなんて、本当は思っていないくせに」
 リクヤはまだ起き上がらないユアンに一瞥くれて、新聞に目を戻した――「意地悪な光をその目に宿しながら。byユアン」
「何、自分でナレーション入れてる?」
「恥ずかしくて起き上がれないから」
 ユアンは試しに手を伸ばしてみるが、助け起こしてやるという意思はリクヤから感じられない。しかたなくノロノロと身体を起こした。それから向かいのイスに座りなおし、入れてくれたコーヒーに口をつける。この一連の動作は無言の中で行われ、ユアンは少し寂しかった。
 音楽で溢れているユアンの部屋とは違い、ここには外からの日常音以外ほとんど音がない。CDプレーヤーはあるがディスクは見当たらず、テレビはあるがコントローラーが行方不明なので、わざわざそばまで行って操作しなくてはならなかった。どれもこれも肝心なものは、散乱した服や書類や本の下になっている。だからこの部屋にくるとユアンは普段以上に饒舌になった。たわいも無いことをリクヤに向かって話し掛け、ちょっとしたB.G.M代わりといったところだ。そんなユアンの声にうるさげに反応するものの、リクヤはたいてい話しにつきあってくれた。
 コーヒーを飲みながらの今日の話題は、ユアンのリクヤに対する「しつこさ」だった。
「私がしつこいのはね、いいお手本があるからなんだ」
「お手本?」
「そう、君のお兄さん。サクヤはエツと出会って結ばれるまで、アタック、アタック、アタックだったからね」
 リクヤの兄のサクヤはもともとウィーンのオーケストラに所属するヴァイオリニストだった。ある年、アンサンブル・メンバーとして日本にコンサート活動で訪れた時、病気降板したピアニストの代役で出演したエツシと出会って恋をする。しかしエツシには当時片想いの相手がいて、サクヤの想いは受け入れられなかった。サクヤはオフになるとエツシに会いに行く。ウィーンから、ボストンから――もともとの生活圏でコンドミニアムも持っていた――、時には日帰りのような日程で。そして出会って二年余り、ついに想いが受け入れられたのだ。
「私達の状況と似ていないか?」
「どこが? だいたいエツはゲイだったんだろう? 俺はヘテロ。それに同じゲイでもサクヤとおまえは外見も性格も、まったく違う」
 サクヤは今でもクールビューティーと称されるほど、冴えた美しさを持った東洋人である。二メートル近いユアンと違って高からず低からずの程よい身長、自分の感情を言葉にせずにいられないユアンと違って、口下手で時折垣間見せる感情表現が魅力的だった。
「あいつの恋は二年くらいで成就したけど、十何年経ってもおまえの恋は進展無しじゃねーか。どこが似てるんだ、どこが」
「十何年経っても、君は頑固で口が悪いね。急がないんだ、私は。恋愛は君の好きな数学や理科のように、かっちりとした答えがないもの。予定は未定で終わるし、予感は当たらないことも多い。受け入れられるか拒絶されるか、決まっていないってところがいいんだ」
 ただしユアンのこの考えは、最近になってようやく確立されたものである。若い頃は、欲しいと思ったものは、物でも人でもすぐに手に入らないと気がすまなかった。リクヤのつれない心によって、十三年かけて育てられた『忍耐』が到達した境地なのである。
「奇特なヤツだ」
 半ば陶酔しているユアンにそう言うと、リクヤは新聞に意識を戻した。
「君も恋をしてみたらいい。きっと気持ちがわかるよ」
「面倒くさい。しなくても死なない」
 しかし彼はずっと恋をしている。十三年など比較にならないほど、長い時間をかけて。リクヤは否定しつづけているが、ユアンにはそれが『恋』以外の何ものにも見えなかった。決して成就することのない絶望的な片思いであり、自覚の無い恋だった。自覚が無いから一層面倒で、ユアンの恋の行く末は、実は決まっているのかも知れない。リクヤのいう通り、かなり自分は奇特だな…とその点は同調する。しかしあくまでも心の中で、だ。
「今日はいい天気だよ。こんな汚いところにくすぶっていないで、どこかへ出かけようじゃないか?」
「汚いは余計だ。せっかくの休みだからこそ、ゆっくりしたいんだよ。『誰』にも邪魔されず、『独り』でな」
 おまえが邪魔だとリクヤの目が語る。ユアンは怯まない。こんなやりとり、二人の間では日常茶飯事だった。こういったコミュニケーションが、ユアンには楽しかった。たとえ邪険に扱われても。
「どんなにつれなくされても君を嫌いになれないなんて、私はマゾかな?」
 独り言はリクヤには届かなかったようだ。彼は新聞をその場に置くと、「トイレ」と断って席を立った。
 テーブルの上には鍵がそのまま。ユアンはその鍵を黙ってポケットに入れることは、結局出来なかった。彼の育ちの良さもあったが、やはりリクヤの納得のもと堂々と合鍵を作りたいと思うのだ。
 リクヤがトイレから戻ったら、何と言おうと連れ出そう。ユアンは一昨日イギリスから戻ったばかりだが、また一ヵ月後にはヨーロッパに発たなくてはならない。勤務医で生活が不規則なリクヤと次はいつ会えるか――それも彼のオフに――わからないから、この機会を逃したくなかった。デート・コースは考えてある
 ユアンが自分のプランに自身で頷いた時、ドアベルが鳴った。リクヤはまだ戻らない。また女性かも知れないと思いながら、代わりにユアンが応えた。
「えっと、どなた?」
 まず覗き穴で、それからチェーンキイをしたまま、ドアの前の人物をユアンが確認する。来客は若い東洋人で、どことなくリクヤに似ていた。東洋人は誰もよく似て、見分けがつかないので、どこまで似ているかは怪しいところだが。相手は驚いて、目を見開いている。
「英語、ワカリマスカ?」
 とりあえず片言の日本語で話し掛けると、口元が綻んだ。
「わかります。ここはリクヤ・ナカハラの部屋だと聞いて来たのですが?」
 流暢な英語だ。声もりく也に似ている。ユアンの日本語がわかったのだから、日本人だろう。
「ああ、そうだよ。今…」
とユアンが答えたところで、彼の目がユアンから後方に移った。振り返ると、リクヤが立っていた。
「勝手に出るな」
 ユアンは下がるように言われ、リクヤと位置を代わった。
 この若い日本人は誰だろう? それも男性だ。リクヤはストレートだから、まさか恋人ではないだろうが。彼を慕って来た可能性もある。一瞬の間にいくつもの考えがユアンの頭に浮かんだ。
「ヨシアキ…?」
 リクヤの声音には驚きが含まれていた。若い日本人はその言葉に頷いた。




                           to be continued

2006.05.03(wed)


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