[+9  July]                                     Y41/R39



「どうして、ユアンが彼の面倒を見なきゃなんないんだ?! だいたい、俺達だってバカンスでロスに来ているんだぞ!」
「あんなに酔っている彼を、放っておくわけにいかないじゃないか?」
「彼の部屋まででいいじゃないか?! あとはベットに転がしておけよっ」
「アーチ」
「とにかく、先に戻ってるから、すぐに来い。じゃないと、君とは終わりだ!」
 そういい捨てると、アーネスト・シーバーは部屋を出て行った。ユアンは大きくため息をついたが、彼を追うことはしなかった。
 アーネストとはテニスの全米オープンで知り合った。ユアンは観客の一人、彼はプレイヤーとして。若く野性的な彼は、今まで付き合った中にはいないタイプだった。しかし知らないタイプではない。黒っぽい髪に筋肉質な体型、ユアンに対するお上品とは言えない物言い。
「リクヤ、ほら、寝るなら靴を脱いで」
 ベットにうつ伏せで転ぶリクヤに、ユアンは声をかけた。「うーん」と、返事ともうめきともとれる声を発して、リクヤは仰向けに体勢を変えた。心持ち開いた口から漏れる息はアルコール臭い。つい十五分前まで、ホテルのバーで飲んでいた何種類もの酒の名残だ。
 ユアンはここでもため息をついて、ベットの端に腰を下ろし、リクヤの額にかかる黒髪を軽くはらった。
 リクヤ・ナカハラに似ていたから、ユアンはアーネストに声をかけたのだ。決して自分に振り向かない、つれない男の面影が見えたから。
「…なんだ、まだ居るのか…? もう部屋へ帰れよ…」
 ユアンのその仕草でリクヤがうっすら目を開ける。しかしすぐにそれは閉じられた。ユアンは彼の靴を脱がせる。国際的なピアニストのユアン・グリフィスが自ら進んでそんなことをするのは、彼にだけだった。
 リクヤと知り合って九年になるが、正体がなくなるほどに酔った姿は見たことがない。彼は自身の酒量を知っていたし、特にユアンの前では決して深酒しなかった。ユアンが自分を恋愛対象として見ている事を知っているから、隙を見せまいとしていることは明白だ。
 その彼がユアンが止めるのも聞かず、バーの全ての酒を飲む勢いでグラスを口に運んだ。最後にはテーブルに突っ伏して、ユアンの肩を借り部屋に戻って来るほどに、全身に酔いを回していた。
 深酒の理由はわかっている。今日、結婚式に出席したのだ。彼の兄であるサクヤ・ナカハラと、その恋人・エツシ・カノウの。
 二人はわざわざ結婚式を挙げるためにロサンゼルスに来たわけではなく、例によってユアンが自分のリサイタルの調律に、専属調律師であるエツシを日本から呼びつけたのである。それにイギリスでの演奏旅行を終えたサクヤが、休暇を兼ねて合流した。
 教会で式を挙げたらどうか…と提案したのはユアンだ。日本では同性婚は認められていない。結婚式というよりは、神の前で愛を誓うと言う意味合いのものだった。
「もうとっくに誓った。する必要ない」
 相変わらずサクヤは素気無い返事で、
「いいよ、今更」
とエツシも乗り気ではなかった。それを熱心に説き伏せたユアンの真意は、『彼らのため』とは別のところにあった。
 招待人は立会い人のユアンと目下の恋人アーネスト、それからサクヤの双子の弟リクヤだけ。サクヤの署名入りの簡単な招待状――当然、文面はユアンが作成した――を渡した時のリクヤを、ユアンは忘れられない。
 封筒を開けて中の文面に目を落としたリクヤは、凝視したまましばらく黙っていた。ユアンより十センチほど低い彼の表情を、見ることは出来ない。ただ何も言わず文面を見つめる彼に、初めて会った時の彼が重なった。兄とその恋人が楽しげに話す姿を、窓越しに見ていたリクヤは切ない目をしていた。きっと、その目をしている…とユアンは思った。
「忙しかったら、いいそうだよ」
「なんでこれをおまえが持ってくるんだ? さく也からはメールで連絡もらってる。こんなの持ってくる必要ないんだ」
 目を上げたリクヤは、いつもの彼に戻っていた。
 サクヤ達に結婚式を勧めたのは、リクヤに思い知らせるためだ。兄にはもうパートナーがいると言うことを。だからあきらめて、新しい恋をしたらいい。そしてその相手が自分でありたい――そんな思惑を抱いたことをユアンに後悔させるようなリクヤの姿だった。
「おまえは、どうしても俺を近親相姦ホモにしたいらしいな」
 サクヤに対してやきもちを焼くユアンに、リクヤはよくそう言った。
 リクヤは二人に祝福をして、兄弟はいつものようにmouth to mouthの挨拶で別れた。新婚旅行代わりにサンフランシスコに一泊した後、日本に帰国する日程だ。二人を乗せたタクシーが離れて行くのを見送ったのはユアンだけ。リクヤはすでにホテルに戻る別のタクシーに乗り込んでいた。
 そして、この体たらく。
 アルコールが入っているせいか、リクヤの寝息は高い。
 ユアンは彼の唇を指でなぞった。開いていた口が一瞬噤み、また薄く開いた。
 唇で唇に触れる。一度離して、あらためてリクヤを見た。すっかり寝入っていて、起きる気配がない。また唇を合わせた。今度は少し強く。薄く開いたところから舌先を差し入れると、彼の舌に触れた。
 求めると応じ、応じればまた求める、絡み合う二つの舌。ユアンは体が火照るのを感じている。触れたくても触れられなかったリクヤに口づけていると言う高揚感は、彼の理性の箍(たが)を簡単に外してしまった。右手が、リクヤのズボンにかかる――その手首を別の手が掴んだ。
「え?」
 短く声を上げた次の瞬間には、ユアンはベットに引き倒された。体勢が入れ替わって、リクヤの黒い瞳がユアンを見下ろす。
「エミリーは?」
 酔いで潤んだ目が見開く。どうやらキスの相手を「エミリー」と勘違いしていたようだ。目の下の相手がユアンだとわかると、眉間に皺が寄った。
「何してやがる?」
 彼の息が鼻先にかかった。
「ご褒美くらい良いだろう? ここまで運んだのは僕だよ。君、どれだけ飲んだか覚えているかい?」
 ユアンが答えると、抑えつけていた手首を更にベットに押し付けた後、リクヤは起き上がって座った。バツの悪い表情から、少しは反省しているところがあるのかも知れない。いつもならもう一言二言の応酬があるはずなのに、今日はおとなしく引いた。
「悪かったな。もういいから、部屋へ戻れよ。シーバーが待ってるだろ?」
 額にかかる髪をかきあげ、リクヤはベットから下りた。
「戻る部屋は無いんだ。振られたから。だから今晩はここに止めてくれるね?」
「振られた? さっきまで仲良かったじゃないか?」
「君についていたいって言ったから」
 ユアンの答えに返事はせず、リクヤは腕時計を外してサイド・テーブルに置いた。それからバス・ルームに向かう。足元は心なしかふらついているから、起きたとはいえ、まだ酔いは抜けていないようだ。
「そんなに酔って入ったら、溺れるぞ」
「シャワーを浴びるだけだ。覚まさないと、何されるかわからんからな」
 酔っていても口の利きようは相変わらず。多少、言葉尻の呂律が怪しいが。
「じゃあ、ここに泊まっていいんだね?」
 背中にあたったユアンの声に彼は振り返った。「おまえはそこだ」とでも言うように、ソファを指差す。
「このベット、セミ・ダブルじゃないか。二人で寝ても十分だと思うけど?」
とユアンが言うのに右の中指を立てて答え、バス・ルームのドアの中に消えた。
 シャツにズボン、靴下にアンダー・シャツ――ベットからバス・ルームまでの間に、リクヤの跡が残る。これは彼の癖で、アパートでも椅子や床やテーブルの上に服が脱ぎ散らされていた。その痕跡が可愛いとユアンが思っているだなどと、リクヤは想像だにしていないだろう。知れば、アパートには出入り禁止になる。やっと理由があれば、嫌々ながらも入れてくれるようになったと言うのに。
 だから内緒だ。こうして愛おしく見つめていることなど。






「それで?」
 シャツのボタンを止めながら、リクヤがユアンを睨む。外はすっかり朝になっていて、レースのカーテン越しに、カルフォルニアの抜けるような青い空が見えた。
「だって君、シャワーを浴びながら寝ていたから」
「だからって何で裸のままなんだ? そしてどうしておまえもベットにいるんだ? それも裸で!」
 語尾がきつくなったところで、リクヤは額に手をあてた。二日酔いで声が頭に響くのだ。ベットに横たわったままのユアンは、思わず笑う。それをまたリクヤは睨んだ。
「何もしていないさ。意識がない君をどうこうするのはフェアじゃないからね。やっぱりセックスするとなると、お互い楽しまなく…」
 リクヤの右の拳が握られたので、ユアンは口を噤んだ。ハイスクール時代にボクシング部だったリクヤが、本気でユアンを殴ったことはないが、軽く当たってもダメージはある。
 昨夜、バス・ルームに入ったままいつまで経ってもリクヤは出てこなかった。ユアンが様子を見に行くとシャワーにうたれながら彼は眠っていて、ベットまで引きずるようにして運んだ。全裸のままで寝かせて添い寝をしたのは、これぐらいの役得は許されると思ったからだった。事情を話して聞かせると、リクヤは浅くため息をついた。
「眼福だったよ。トレーニングは続けているのかい? どこも弛んでないきれいな身体だ。隣でただ寝るだけなんて、拷問のようだった」
 何度、触れそうになったか知れない。いや、一度は背中から抱きしめた。すっかり正体を無くして眠るリクヤは、口づけた時とは違って起きる様子はなかった。濡れたままの彼の髪の冷たさが、ユアンの理性を保たせたのだ。抱きしめた肩越しに頬にキスをして――とりあえずそこまでで我慢した。ユアンがセックスに求めるものは、抱くにせよ抱かれるにせよ心が伴なった上での快感だから、独りで盛り上がりたくはなかったのである。
 反応を期待したユアンの言葉は無視されて、リクヤはイスの上に出しっぱなしになっているノート型のPCの電源を入れた。
「オフまで仕事?」
 それも無視して、リクヤはキーボードを叩いた。昨日、教会からホテルに戻ってディナーを誘いに来た時も、彼はPCに向かっていた。訪ねたアパートでも常に電源は入っていて、羅列された数字が動いていたことを思い出す。リクヤはネットで株を運用することが趣味なのだが、興味の無いユアンはモニターを見たことはなかった。見てもわからない。アナログこそがクラシックの真骨頂だと疑わないユアンは、個人的なメールのやり取り以外は、マネジャー任せにしていたので。
「よしッ、やったぞ!」
 パシッと手を合わせて、リクヤは嬉しそうな声を上げた。
「リクヤ?」
「損した分は取り返した。良かった、一時はどうなるかと思ったぜ」
「損したのか、君?」
 リクヤがやっとユアンを見る。珍しく喜色満面だ。聞けばリクヤの持ち株の一つが一昨日からいきなり株価を下げ始めたらしい。それの関連株も見る見る値を下げ、必死の攻防も空しく、昨日の朝の段階でかなりの損益を出していた。
「あのままじゃ全部処分しても埋められないところだった」
 損益の半分まで回復したところであきらめて教会に行ったので、式の間も気が気でなかったとリクヤが笑った。自分でも全開の笑顔だと気づいたのか、それは一瞬で消えた。
「もしかして、あんなに飲んだのは…」
「飲まなくてやってられるか。向う何年か分の給料がパアになるどころか、破産宣告しなきゃならないとこだったんだからな」
 半身を起こしてリクヤを見ていたユアンは、ベットに身体を戻した。それから吹き出す。自分のセンチメンタリズムが可笑しかった。
 部屋中に響くほどの笑い声に、リクヤは鼻を鳴らした。
「どうせおまえのことだから、さぞや俺をドリーマーな目で見てたんだろうな」
「ああ、そうだよ。あんなに落ち込んでいるから、僕はてっきり、サクヤの結婚がショックなんだと思っていた」
 あまりの可笑しさに、目の端に涙が溜まる。あきれたようにリクヤがユアンを見ていた。「近親相姦ホモじゃないぞ」と表情が物語っている。
「早く何か着ろよ」
「僕もなかなかいい身体だと思わないか? 見惚れてもいいんだよ」
 ブランケットを捲って見せる。もちろんユアンは全裸だ。リクヤは一瞥して鼻で笑った後、
「男の裸なんか見て、何が楽しいんだ。それにおまえ、腹が弛みかけてるぞ。ジムに行くの、サボってるな?」
と続ける。そして「これで気分よくシャワーだ」と、バスルームに向かった。
 昨夜同様、ユアンはそれを目で追う。ボロボロな彼も可愛かった。しかしリクヤはリクヤらしく大股で颯爽と歩く方がいい。自分にだけ憎まれ口を叩く彼が、やはり一番ユアンを惹きつける。
 しばらくしてシャワーの音が聞こえ始めた。一晩、同じベットで眠ったリクヤの身体を思い出す。今年中にはユアンと同じに四十代になろうかと言う彼だが、贅肉のないしなやかな身体だった。
 腕には抱きしめた時の感触が、まだ残っている。記憶の余韻を楽しむように、慈しむように、ユアンは空(くう)を抱いた。



 

2005.04.18(tue)


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