[+6  August]                                E.S42/Y38/E.K41


 毎年、八月中旬からの約一ヶ月間、宮城県仙台市では音楽祭が開催される。
 オーケストラやアンサンブルのコンサート、オペラにリサイタル、アマチュア演奏家達の発表会といった演奏プログラムの他に、青少年の為の音楽講座や楽器のメンテナンスなど、その他の音楽に関連する事が催される点が特徴だ。日曜日には欅通りの遊歩道で、様々なジャンルのストリート・パフォーマンスが、歩行者を楽しませていた。
 音楽祭は当初、地域振興を目的に始まったのだが、独自性豊かな演奏会プログラムと、音楽を地域ぐるみで楽しもうとする環境が高く評価され、今や一地方都市主催とは思えないほどに盛況となり、日本を代表する音楽祭へと成長した。
 今回のメイン・ゲストは約十年ぶりのユアン・グリフィス。前回はショパン(国際コンクール)を獲った直後で、ショパンをプログラミングしたリサイタルと地元オーケストラとの共演でベートーヴェンの『皇帝』を演奏した。しかしベートーヴェン弾きとしての方が高名だったにも関わらず、精神的ダメージを負っていた彼の『皇帝』は、さんざんな出来で酷評された。今回招聘されるのにあたり、ユアン・グリフィスはぜひとも『皇帝』をと希望した。前回のリベンジといったところだろう。
 彼と共演するのはこのために特別編成されたオーケストラ。その中には友人である曽和英介もチェロで参加している。
「ユアン、エツの邪魔するんじゃないよ。仕事出来ないだろう?」
 英介はユアンに注意した。
 そのコンサート当日、会場となる宮城県民会館のステージ上では、ユアン・グリフィス仕様にピアノの調律が始まっていた。リハーサルまでかなり時間があるのだが当のユアンがすでに入っていて、専属調律師・加納悦嗣の傍らに座り話かけている、相手が仕事中にもかかわらず。
 そして話の内容はと言うと、音楽にも調律にもまったく関係のないものだった。加納悦嗣の親友兼通訳でもある英介は、彼と一緒にオケ・リハより早く会場入りしたのだが、通訳する内容が調律のことではないことに、そろそろキレそうになっていた。
「いや、エースケ、ぜひとも聞いておかなくちゃ。エツがいったいサクヤのどこに惹かれて、僕と争うようになったのかね」
「争うって…」
(それは、君の偏った見方だろーが)
 英介は馬鹿らしくなって、ため息をついた。
 ユアン・グリフィスはただ今、片想い中だ。相手はニューヨークの医科大学付属病院で研修医をしている中原りく也。彼は加納悦嗣のパートナーのヴァイオリニスト・中原さく也の二卵性の双子の弟である。ユアンは最初、その兄の方に猛烈に片想いをしていて、結局実らなかった。今度は弟の方なのだが、これもまた実りそうにも無い。何しろりく也は正真正銘のヘテロで、相手に不自由したことないプレイボーイだったからだ。
「だからって何でエツに聞くんだい? さく也とリッ君じゃ全然、タイプが違うじゃないか?」
「サクヤとリクヤは似てないけれど、リクヤとエツはよく似ているだろう?」
「エツとリッ君?」
 英介はりく也の事を思い出していた。彼とは数えるほどしか会ったことがない。会えば親しく話もするが、あくまでもさく也の弟と言う立場からは逸脱しなかったので、当り障りのない彼しか英介は知らなかった。悦嗣と共通するところと言えば、長身であることしかすぐには思い浮かばない。
「似てるかなぁ?」
「似ているさ。口の悪いところとか、口の悪いところとか、口の悪いところとか」
 ユアンは強調して言った。
「会えば憎まれ口ばかりじゃないか」
「それだけ?」
「いや、もちろん、それだけじゃないけど。なんて言うのかな、雰囲気? とにかく似ているんだよ。だから、きっと恋人に対する好みも似ていると思うんだ」
「そうかなぁ。だからってさく也とユアンは似てないじゃないか。エツがさく也に惹かれた理由を聞いても、参考にならないよ?」
 さく也とユアンではそれこそ共通するところがない。身長は20センチ以上も違うし、髪の色も瞳の色も、それから何と言っても性格がまるで違う。片やさく也は感情表現が下手だから、無口で無愛想・無表情の三無しに見られがちだった。此方のユアンはと言えば、社交的でお喋りで、その時々の感情を露にしなければ気がすまないタイプなのだ――どちらも英介評なのだが、当らずも遠からずだと思っている。
「似ているさ」
「その自信の根拠は?」
「好きな相手に一途なところ」
「またそれだけ?」
「大事なことだよ、エースケ。僕とサクヤは恋愛に対してスタンスもアプローチも一緒なんだから」
「アプローチ…ねぇ」
と英介が呟いたところで、フッと影がかかった。顔を上げると悦嗣が腕を組んで仁王立ちしている。
「うるさいぞ、おまえ達。お喋りしたいならロビーに行け。気が散るだろ」
 自分の背後で話す二人に、とうとうキレたと言うところだろう。何しろ、仕事を始めてからユアンのお喋りは止むことがなく、悦嗣の手を再三再四、止めていたからだ。
 それでとうとう二人は、ステージ上から追い出されてしまった。






『あいつはしつこくてうざいんだよ。愛してる、愛してるって、呪いの言葉かって言うんだ、まったく』


 ロビーに出てからもユアンの話は切れることはなかった。英介は笑顔を貼り付けたまま適当に相槌を返し、中原りく也の言葉を思い出していた。あれは確か三年程前、ニューヨークでさく也がガーシュインのガラ・コンサートに参加した時。英介は復縁した妻の小夜子と再婚旅行で東海岸を訪れていて、弟のりく也も交えて食事をしたことがある。食事の最中に鳴った携帯電話に出るために席を外したりく也は、顔を顰めて戻ってきた。電話の相手はユアン・グリフィスだったらしく、開口一番、「あいつを何とかしろ」と兄・さく也と英介に訴えた。
 ユアンは好きな相手に努力を惜しまない。毎週のような差し入れに、職場でかなり、りく也はからかわれているようだった。その上、顔を合わせる度、電話の度に「愛してる、愛してる」では、いい加減辟易する――と言うのが、彼の言い分だ。
「あのねぇ、ユアン。リッ君はアメリカナイズされているように見えて、根は日本人なんだから、あんまり押し付けがましいと、かえって逆効果だよ」
 その時の様子を思い出しながら、英介はユアンに言った。
「どうしてさ? 好きな相手にアプローチするのは基本だろう? 第一、サクヤだってそうしてエツをパートナーにしたじゃないか」
「兄弟でも違うんだよ。それ以前に、恋愛対象にする性別が違うだろう?」
「違わないさ」
 ユアンはやけに自信あり気な口調で言い切った。「おや?」と英介は彼を見る。鮮やかな青い瞳は躊躇いがない。
 りく也が艶福家なのは周知の事実だ。当然、相手は女性で、パーティーに同伴する姿も英介は見かけている。さく也も、会うたびに弟のガールフレンドが違うと話していた。どこにもゲイの匂いがしない。
 それなのに、ユアンは違わないと言い切る。その根拠はなんだろう? 
「やけに言い切るね? その根拠は?」
 英介の問いにユアンはにっこりと笑んだ。
「僕のゲイとしての勘さ」
「勘?」
 ユアンのきっぱりした物言いに思わず興味を引かれて聞いたのに、ただの勘だと答えられて思わず英介は拍子抜けした。それは彼にも伝わったらしく、長い人差し指を立てて振り、英介の考えを否定する。
「勘をそう馬鹿にしたもんじゃないさ。僕たちは言わばマイノリティだから、同じ人種には鼻が利くんだよ。チャンスを逃したくないからね」
「でも、どう見てもリッ君はストレートだろう? 女性以外エスコートしているのを見たことがないけど?」
「女性はリクヤにとって性欲処理の相手でしかない」
 英介は手に持った缶コーヒーを落としそうになった。
「失礼、彼の恋愛の対象になりえないってことだよ」
 表現がストレート過ぎたと、育ちの良いユアンは思ったのか訂正した。
「身体は女性を求めても、心は違う。リクヤは確かに恋をしているけど、それは女性じゃないんだ」
「誰に恋をしてるって言うんだ?」
「それは内緒。ただ、その相手から目を反らせたい。だって自覚していない恋は、叶うはずなんてないんだから」
 英介はもう一度、中原りく也のことを思い出していた。さく也の弟で、ユアンがここまで執着しなければ気にも留めない存在だ。だから会った時の印象も、対して強いものではない。今さら思い出そうとしても、それ以上の事は浮かんで来なかった。
「僕はね、エースケ、彼と恋愛したいんだ。彼に相思相愛の素晴らしさを教えてあげたい。そのためには、どんな努力も惜しまないし、あきらめたくないんだ。どんなに邪険にされても僕は言い続けるよ。彼に『愛してる』ってね」 
 ユアンの表情は至極、優しかった。言葉は気恥ずかしくなるほどだったが、真摯で偽り無く聞こえる。まるでりく也が本当の恋愛を知らないかのように、英介には聞こえた。
「だからね、どんな些細なことでもリサーチしておきたいんだよ。リクヤとエツは絶対、好みも似ているはずなんだ。だって…」
と言ったところで、ユアンは口を閉じた。英介は先を促したが、彼は肩を竦めるだけで答えなかった。それから、中原りく也と言う人物の魅力について、また語り始めた。ロビーに出てきた時に、つまりは振り出しに戻ったと言うところだろう。
 英介は相槌を打つが、これも最初と同じで適当だった。そして意識は別のところに飛んでいる。
 引っかかっているのはユアンの「だって」の続きだ。何と言おうとしたのか、英介は彼のお喋りを右から左に聞き流しながら考える。自分にも心当たりがありそうな、そんな気分だった。しかし心当たりがあるほど英介はりく也を知らない。やっぱり友人の弟としての印象しかなかった。
 どれくらいか経って、悦嗣がロビーに出てきた。調律が終わったらしい。外の空気を吸ってくると言う彼を、ユアンが引き止める。ステージ上での話の続きをするつもりなのは明らかだ。
「エースケ、こいつに言ってやれ。いつまでもくだらないことばかり言ってないで、演奏に集中しろって。十年前みたいな無様な演奏のために、俺は調律してるんじゃないぞ」
 悦嗣はあからさまに辟易した表情を見せた。英介は彼のニュアンスもそのまま通訳するが、ユアンは意に関していないようだった。悦嗣は口元をへの字に曲げると、追い縋るユアンを足蹴にする勢いでその場を離れた。
「やっぱり彼とリクヤは似ているよ」
「だからってエツに惚れるんじゃないぞ。今度こそ、サクヤに愛想を尽かされるから」
 英介の言葉にユアンは極上の笑顔を浮かべた。
「彼らはよく似ているけど、エツにはそんな感情は持てない。サクヤを持っていかれたしね。それにリクヤの方がうんとチャーミングだもの」
 そこからまたユアンのりく也自慢が始まろうとするのを英介は止めて、悦嗣に言われる前にピアノに座って調子を確認しろと勧めた。彼はまだ話し足りないという表情を浮かべたが、英介が問答無用で先に立つと、渋々、後についてホールの中に入った。
 ステージ上にはオーケストラ用の椅子や譜面台がすっかり整えられていた。それらが放射状に広がる中央には、フルコンサートのピアノが威風堂々、静かに今日の主役を待っている。ユアンはあたりまえのようにピアノの前に座ると、八十八鍵の全てを使ってスケールをまず弾いた。それからスッと顎を上げ、演奏を始める。曲はベートーヴェンのソナタだ。今日、何曲か予定しているアンコールの一曲なのかも知れない。
 英介は客席からその演奏を聴く。十年前、こうしてやっぱりリハーサルの様子を見ていた。その時ユアンは悦嗣を調律師に指名した。英介は夏季休暇でウィーンから丁度帰国していて、今日同様、通訳として同伴した。ユアンは調律の腕より何より、恋敵として悦嗣のことを見るために指名したのだ。自分の前で弾いて見せろとすごい剣幕だったことを思い出す。
(エツはあの時、さく也のことをもう意識していたんだろうな)
 さく也は悦嗣に恋をしていて、時間が許す限り追いかけていた。程度の差こそあれ、やっていることは今のユアンと変わりない。その一途さが可愛くて、少なからず英介も協力したことがあった。さく也は感情表現が下手で、言葉ではなく行動で示すしかなかったからだ。それは幼児期の複雑な家庭環境が影響しているのだと、英介はずい分後になって悦嗣から聞いた。
『だから滅多にないわがままは聞いてやりたくなる』
と悦嗣が言ったことを思い出す。
「あれ?」
 確か、似たようなことを誰かも言っていたな――英介は右手の人差し指をこめかみにあてた。


『さく也が望むことは、何でも叶えてやりたい。この世でたった二人きりの兄弟だから』


 あれはりく也の言葉だ。
 彼は兄がアメリカにいる間はコンサートがあればコンサートに行き、滞在期間中をボストンのコンドミニアムで一人で過ごすと聞けば、有給を取って出来るだけ一緒に過ごしているらしい。本当に仲の良い兄弟で、そのことを話した流れの中での言葉だったように思う。
「だって、同じ人間を愛しているんだから」
 英介の耳に今度はユアンの声が滑り込む。あの「だって」に続き、語られなかった言葉を伴って。
 中原兄弟の生い立ちはほとんど知らないが、両親や親族の話はまったく出てこないところを見ると、あまり良い思い出はないのだろう。だから尚更、絆が強いのかも知れない。
(だからって、その気持ちを恋に喩えるのはどうなんだ?)
 ただ強い想いは確かにある。その想う心をユアンに向けさせるのは、さく也を落とせなかった以上に至難の業だと英介は思った――兄を見るりく也の眼差しは、とても大切で、とても尊いものを見るようだったから。
「まったく、難しい相手を好きになったもんだ」
「誰が誰を好きになったって?」
 スン…と煙草の微かな匂いがした。悦嗣が戻って、英介の隣に座る。
「禁煙したんじゃなかったっけ?」
 煙草を吸わないさく也の手前と高血圧症の兆しに、普段は禁煙している彼だが、仕事の後の一服はどうしても止められないらしい。
「そんなに一遍に止められるかよ」
「さく也に言いつけるぞ」
「あいつも知ってます」
 口元はへの字になったが、笑んだ目は優しい。悦嗣とさく也の関係が良好であることがわかって、何だか英介は嬉しかった。いつもの最強と評されるものではなく、「にまにま」と言ったほうが似合う英介の笑顔に、悦嗣の目が訝しい表情に変わった。
「それで、さく也のどこに惚れたんだ?」
 だからつい、聞いてみたくなる。悦嗣はあきれたように答えた。
「おまえまで、何、言ってんだ」
「だって、さく也と俺じゃタイプが違うもの」
 古傷に触られて、彼はため息をついた。最初、悦嗣は英介の事が好きだったのだ。十年前、仙台音楽祭の帰りの新幹線で、疲れて眠っていた彼は、寝惚けて「おまえの事が好きだった」と英介に告げた。過去形で言われたので、想う相手が他に出来たのだと英介は悟った。そしてその相手が中原さく也なのではないかとも思ったことも覚えている。
「エツ!」
 英介が更に突っ込もうとするより早く、ステージ上でユアンが悦嗣を呼んだ。調律のオーダーの変更か、話の蒸し返しか。後者の公算が高いが、ピアニストに呼ばれて行かないわけにはいかない。
「やれやれ、どいつもこいつも。今日は厄日か」
と仕方なく悦嗣は重いであろう腰を上げ、同時に英介にもついて来いと親指で示す。英介は肩を竦めてみせ、後に続いた。
 そしてまた振り出しに戻る。ユアンが悦嗣に話かけ、英介が適当に通訳し、悦嗣が聞き流す。
 ユアンの『恋に盲目的』な様子と、実は『さりげなく大恋愛中』なのではないかと思わせる悦嗣の後姿に、「また恋をするのも悪くないな」と英介は思った。脳裏に浮かぶ愛妻・小夜子がジロリと睨む。
(君とするに決まってるだろう)
 思わず声を出して苦笑した英介に、二人が同時に視線を寄こしたのは言うまでもない。




2006.07.08(sat)

10年前の音楽祭のエピソードについては、『Slow Luv Op.3』でお読みになれます。
興味のある方はこちらからどうぞ。


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