総務課女子社員との『懇親会』と言う名のコンパで、吉野はどう見ても場違いだった。四十代はもちろん一人だったし、吉野が入ってしまったせいなのか、男の方が一人余る。「これはまずい」と店の入り口で適当な理由をつけて帰るつもりだったが、木島にぴったりマークされて機会を逸した。
店に入ったら入ったで、女子の誰もが狙っていたであろう木島の両隣は、一つは壁が、一つは吉野が埋めて大顰蹙。幹事の永浜が彼基準の完璧なセッティングのもと、恨みっこなしで席を決めていたのだが、店に入ると木島は、
「『おじさん達』は端でいいよ」
と強引に吉野の腕をとって、さっさと隅の席に座ってしまったのである。確かに吉野の次に年長ではあったが、彼を「おじさん」と呼ぶには絶対的な違和感があった。自分にあらぬ期待を抱く女性との会話を、極力避けようとしていることは明白で、「おじさん」発言も吉野の存在も、防波堤としての意味合いが強かった。
木島は友人関係を保つ女性とは親交を持っても、特別な好意を見せる女性にはそっけなかった。大人なのであからさまではなく、表面上は紳士的であったが。
彼ほどの容姿であれば、好むと好まざるとに関わらず異性が寄って来る。ゲイの知名度が一般的に上がったとは言え、よほどのことでないかぎり身近の、それも頗(すこぶ)る良い男をゲイとは疑わない。期待を抱くなと言う方が無理なのである。今までそのせいで木島自身が意図しないトラブルに巻き込まれたこともあるだろう。それでなくても興味がないのだから、木島にとって異性は、ますます煩わしい存在になったのではないか――と言うのが、半年間、同じ職場で過ごし、彼の性的嗜好を知っている吉野の見解である。
今夜の懇親会に吉野が参加することに拘ったのも、同好の士として煩わしさを分かち合いたかったのか。木島の思惑はどうあれ、懇親会の間中、吉野の居心地は最悪だった。女子社員から話しかけられると木島は一言二言当たり障りなく答えて、「吉野さんは?」と話を振る。誰も吉野の趣味やら、食べ物の好みやら、好きな服のブランドなどに関心はない。ウィットの利いた答えが返せればまだしも、ありふれた内容では場が白けるというものだ。吉野も疲れたが、女子社員も興味のない相手への愛想笑いでさぞ疲れたことだろう。
最近は苦手になった脂っこい系の料理だが、気を紛らわせるために口に運び、吉野は時間をやり過ごした。
「え?! 二次会、行かないんですか?」
支払いを済ませ、最後に店を出てきた永浜が、吉野を目の前にして言った。
懇親会が行われたイタリアンの居酒屋ではテーブル・チャージが二時間まで。その後は、場所を変えて飲みなおす算段にしているようだった。吉野ははじめから次に行くつもりはなく、もしその後を予定しているなら行かない旨を永浜に伝えてあったので、彼の焦った言葉は吉野に向けたものではない。傍らに立つ木島が、一緒に帰ると言い出したからだった。総務課女子のお目当ては木島で、言わば今夜の主役。その彼が来ないと知ったら彼女達の落胆は必至だった。
「そんなぁ、木島さん」
自分一人では説得は無理だと踏んだ永浜が、聞こえよがしに情けない声を出してみせる。計算通り、みんなが集まってきた。「行きましょうよ」と誰かが口にする前に、
「何だか寒気がするんだ。実は朝からあまり調子、良くなくって。悪いな」
眉を八の字に下げて、申し訳なさそうに木島が答えた。
「一人で大丈夫ですか? 私、途中までご一緒しましょうか?」
もう一人の主役、ミス横浜支社こと野添響子が言ったものだから、今度は男子社員たちが落胆の表情を浮かべた。
「いや、大丈夫です。吉野さんのところで、少し休ませてもらうつもりだから」
すっかり他人事で、電車の時間に気を取られていた吉野は、名前が出たので思わず木島を見る。吉野の自宅マンションはここから一駅で不自然じゃない。計算された方便だと呆れるより感心する。いっせいに視線が自分に向いたので、吉野は反射的に頷いてしまった。
木島が野添響子の魅惑的な申し出を断ったことに安堵する男達と、社内一の美人にも靡かなかったことでますます彼に好感を抱いた女達は気分良く次の店へと向かい、吉野と木島は駅方向へと分かれた。
「すみません」
吉野の手から水の入ったコップを受け取ると、木島は申し訳なさそうに言った。
二次会を断るための方便だと思っていた木島の体調の悪さは本当だった。ただし、理由にした風邪などからくるものではなく、酒の影響によるもの――つまり飲みすぎだ。
傍目にはそれほどの酒量には見えなかった。ペースは吉野と変わらず、社内や取引先との飲み会よりは控えめの量だった。どちらかと言えばアルコールに強い木島らしくなく、疲れからくる多少の調子の悪さが素地にあって、酒の回りが早かったのかも知れない。他の連中と分かれて駅に向う道すがら段々と言葉が少なくなり、ホームに着いて電車を待つ間に座ったベンチから木島は立てなくなった。演技かと疑った吉野だが、顔色がすっかり白くなって、見る見る目の下や頬に青みを帯びてくるとそうとも思えず、しばらくホームで休んだ後、電車ではなくタクシーで自宅マンションに彼を連れ帰った。車に揺られてますます気分が悪くなったのか、木島は吉野宅に入るなりトイレに直行。五分は出て来なかった。
「気にするな。少し横になったらどうだ?」
「いえ、横になったら眠ってしまいそうだし。それに胃の中が空っぽになったせいかマシになってきましたから、もう少ししたら失礼します」
幾分、血の気が戻ってきたものの、木島の顔色はまだ冴えない。
「明日は休みなんだし、ゆっくりしていけばいいさ。何なら泊まってもいいぞ?」
木島は奇妙な笑みを浮かべ、呟いた。
「…こうなりたいとは思ったけど」
聞き取れなくて、吉野が「え?」と聞き返すと、彼は微かに首を振り、
「いつもは『ちゃんぽん』なんてしないのに、思った以上にテンションが上がってしまって。かっこ悪くて凹むな…」
と続けた。
今夜の店ではワインとピッチャービール、昨今流行の焼酎がテーブルに乗っていた。木島は勧められるままワインもビールも焼酎にも口をつけていた。あれでは酒量にかかわらず、酔いが回ったのは頷ける。
女の子好きのする瀟洒な店内だった。女子社員にはやはり華があって、彼女達の存在が男子社員を陽気にさせた。異性が守備範囲外の木島のテンションも、引きずられて上がっていたのだろうか。
「木島でもそんなことあるんだな。雰囲気に当てられたのか?」
「まさか。女の子がいると真から楽しめませんよ。興味もないし、本当は参加したくなかった」
「だったら断れば良かったじゃないか?」
「同僚とのつきあいは大事ですから」
水のおかわりを聞くと、「結構です」と木島は答えた。
彼がソファに横たわりそうにないので、吉野は少し間を取って隣に座った。
「じゃあ次からは一人で参加してくれ。今回のコンパに俺と一緒じゃなきゃ参加しないって言ったらしいな? なんでそんなこと言うかなぁ。おかげで居心地悪いったらなかったぞ」
半分本気、半分冗談で吉野が言うと、木島は伏し目がちに笑みを作り「口実です」と答えた。
「口実?」
「聞きたいことを女の子達が聞いてくれると思ったし、それに最終的に二人きりになるつもりだったから」
木島は目線を上げて、隣に座る吉野を見た。
「予定では、一次会が終ったら吉野さんと一緒に抜けて、どこかで飲みなおすつもりだった。そんなことを考えて、時間が早く経てばいいと思っていたから、きっと変にハイになっていたんでしょうね。結果はこのザマ、せっかく二人きりになれたのに」
木島の言っていることの意味が、吉野には理解出来なかった。文章として理解出来ても正しい解釈かどうかわからない。まるで木島が吉野に何らかの感情を持っているかに受け取れるのだが、それは俄には信じ難いことだった。
「俺は、吉野さんに興味があります」
吉野のそんな心の内が表情に出ていたのか、木島ははっきり言葉に出した。
「だから、二人きりになってもっと話しがしたかった」
顔色が悪いながらも、今夜、女子社員が誰も見られなかった、そして見ることが出来たなら一瞬で悩殺されたであろう魅惑的な笑みが浮かんでいる。おそらく一部の同性にも有効な笑顔だ。その『一部の同性』である吉野だが、魅惑より困惑が先に立つ。
「今まで何度も二人きりになったこと、あったじゃないか」
「仕事ではね。だけどプライベートでなかなか掴まえられないから、実力行使に出ることにしたんです」
出会ってから半年。二人の間に仕事以外のつきあいはない。吉野が代わって引き受けていた仕事は木島に引き継がれたので、しばらくの間は一緒に行動することが多かったが、プライベート――ことに「同類」関係――の話は出なかった。もともと吉野はあれきりのつもりだったし、木島から何のリアクションもないので、同じ職場だと知った時点で互いの中で線引きがされたものと吉野は思っていた。
Bar『Erebos(エレボス)』でも二人が鉢合わせることはなく、あの夜の記憶も遠くなっている。ともすれば、あの「彼」と木島は別人だったのではと錯覚するほどだった。
「Erebosに行っても会えないし、もしかして避けられてました?」
「偶然だろう。たまたま行った日に木島が来ないだけさ。それに以前は月に一度も行ってなかったし、今年の春が特別だったんだよ」
Erebosに足繁く通っていたのは、多忙による疲れと、妹夫婦が離れた寂しさを埋めてくれる奥平の料理が目当てだった。人手が足りて業務内容が軽減し、純然たる独り暮しに慣れると、Erebosへ向う回数も以前のペースに落ち着いた。木島がかなりの頻度で通っていたとしても、毎日でないかぎり吉野と会う確率は必然的に低くなる――元に戻っただけで木島を避けていたつもりはないと吉野は続けた。
――何、言い訳しているんだ、俺は。
羅列した言葉が、ひどく言い訳めいて自分の耳に返ってくるのを吉野は感じる。
「それはそれで、複雑だな」
吉野の答えに木島が目元を苦味のある笑みで綻ばせた。
「避けるってことは、少なくとも意識はしてくれているってことだけど、そうじゃないって言われるとね」
笑みはすぐに消え、今度は真っ直ぐ吉野を見つめる。
「それとも少しは俺のことを意識してくれましたか?」
意識?――あの朝、「しばらくErebosには近寄らない」と思った。奥平に詮索される煩わしさを理由にしたが、そればかりだったかどうか。すでに次に会った時のことを意識していたことにはならないか。
あのままどこの誰とも知れずに済んでいたならともかく、毎日会社で顔を合わせ、その人となりに触れる。一緒に仕事をしてみて、木島がどれだけ有能かがわかった。営業成績の良さもさることながら、合併で今までのシステムが変わり微妙に忙しくなった部署内で、周りをさりげなくフォローする。その頼り甲斐のある存在は、前線指揮者である吉野をずい分楽にしてくれた。
「沈黙は肯定の意味に取っていいってことですか?」
一夜の思い出として忘れさられるはずの『意識』は持続され、
「まったく意識してなかったとは言わないけど」
それこそ『意識的』に閉め出さなければあらぬ方向に向かいそうだった。
「けど?」
「次をどうこうとは思わなかった」
覗き込む木島の顔が近い。吉野の身体は彼と反対方向へ傾ぎながらずれる。そうしながらも目は木島の唇を捉えていた。
程よい厚みの彼の唇が、どれほどしっとりとした弾力を持ち、そして柔らかく肌に触れるかを吉野は知っている。
「本当に?」
木島の手が吉野の頬に軽く触れた。長い指先から伝わるのは彼の体温。今は少し冷たい指先だが、その手の本当の熱さもまた、吉野は知っている。
二人の距離は徐々に縮まり、比例して唇も近づく。気がつくと吉野の身体はソファの端に追い詰められ、肘掛に頭がついてしまうほどだ。いつの間にやら押し倒されたかっこうになって、真上から木島の端整な顔が吉野を見下ろしていた。
「…本当だ」
辛うじて木島の言葉に答えたものの、魔法をかけられたかのように吉野は動けなかった。彼の唇が自分に向って降りてくることは見えていたが、拒めない――拒まない。二つの唇が重なるその瞬間を、思考とは裏腹に身体は待っているのか。
「すみません、ちょっと…」
ふわりと二人の間で空気が動き、視界が開けた。口元に両手の平を押し当て、木島は慌てて吉野から離れるや否や、居間から飛び出して行った。
ドアの開閉する音。多分、トイレのドアだ。
たっぷり時間をかけて吉野を押し倒しにかかる際に、ずっと下向き加減だったため、アルコールによる不快感が復活し吐き気を催したのだろう。
「ぷっ」
身体を起こして座りなおした吉野は、思わず吹き出す。笑い声がそれに続いた。近づいてきた木島の煌煌しい表情と、口を押さえて居間から飛び出して行った姿のギャップがどうにもおかしかった。
しばらくして木島が戻ってきた。今度は手のひらではなく手の甲で口元を押さえている。顔色は赤い。嘔吐する際に息んだせいか、それともバツの悪さによるものか。おそらくどちらもだろうが、表情から見るに後者が勝っている。
「水は要るかい?」
「お願いします」
さっきまで部屋に充満していた甘い雰囲気は消えた。
木島はソファの背もたれに頭を乗せ、目を閉じていた。吉野が水の入ったコップを差し出すと、薄く目を開けて「すみません」と受け取る。それに続く吉野の「少し横になったら」と言う言葉。つい十分か十五分前にも同様のやり取りをした。雰囲気にまたのまれて流されることを警戒した吉野は、木島が横たわらなくても隣には座るまいと思っていたが、今度は木島もおとなしく従って、ソファに身を横たえた。吉野はテーブルの脇にそのまま腰を下ろした。
「…本当、かっこ悪い」
情けない表情を隠そうとしてか、腕で目を覆って木島が呟く。
「そうか? いつも完璧な木島の、普通のサラリーマン的なところが見えて新鮮だったけど?」
彼の落ち込み具合に、吉野はフォローを入れた。本当は「面白かった」と言いたいところを「新鮮だった」に置き換えた。
「完璧なんかじゃないですよ、俺。でも吉野さんの前ではそうありたいと思っていたのにな」
「なんだ、それ?」
腕を少しずらして、木島が吉野を見た。
「『年下』って言うハンデが最初からついているからです」
木島はErebosで吉野とオーナーの奥平が交わしていた会話を漏れ聞いたと話した。初めて出会ったあの日のことである。決して盗み聞きしていたわけではなく、声をかけようと近づいた時に吉野の「年下は趣味じゃない」発言が耳に入ったのだそうだ。いきなり気勢を殺がれた形になったと木島は笑った。
木島との付き合いを勧める奥平の言葉にも反応が鈍く、「これはダメかな」と諦めながら隣に座ったら、会話もアルコールも楽しく進んだ上に、一晩一緒に過ごすことになって良い気持ちで朝を迎えられた。それほど年下云々に拘っていないのかと思い直し、一度きりの付き合いで済ませる気はなかったが、連絡先を聞いても教えてくれず吉野の側にまったくその気が見られない。週明けすぐに同じ会社の社員として再会した時は運命を感じたものの、まるで何事もなかったかのように会社でのスタンスを逸脱しない様子が遣る瀬無かったと木島は言った。
「それでオクケンさんにリサーチしたんです。吉野さんは本当のところどうなのかって」
『みっちゃんは身も心も預けてしまえる頼りがいのあるタイプが良いのさ。今までずっと父親代わりしてきて、無自覚に疲れてんだよ。年下がまったくダメとかってわけじゃないはず。だいたいこの前失恋した相手は十近くも年下だったし、趣味じゃないも何もないっての』
オクケンこと奥平が、吉野の脳裏で「あかんべぇ」をして見せる。
――あんの、おしゃべり。何言ってくれてんだ、まったく。
「だから、こんな情けない姿は絶対見せたくなかった」
そう言うと木島は再び、腕で目を隠してしまった。その仕草が妙に子供っぽく見える。
木島は無意識に自分の見せ方をよく知っている。情けないと本人が言うほどには他人の目には情けなく映らず、むしろ吉野の母性、もとい父性を刺激した。緩急のついた魅力が、ますます人をひきつけるタイプなのだ。
「別に俺は相手に完璧を求めてるわけじゃない。どこか抜けてる方が親しみって湧くだろう?」
吉野は一般論として言ったつもりだった。しかしそれは別の意味にとられなくもない。事実、すぐに木島は反応し、半身を起こした。
「それは、少しは可能性があるってことですか?」
「あくまでも一般論だ、一般論」
慌てて打ち消す吉野を、木島は嬉しげに見つめている。
吉野はどうして木島が自分に興味を持つのかわからなかった。十人並みの容姿に十人並みの体躯、家庭を持っていないせいか若く見られるが、年相応に近眼に老眼が混じり始め、髪には白いものもチラホラしている。目を引く特徴などどこにも見当たらない。身体の相性だって特別良かったわけでもなく、それこそごく普通のセックスだった――心地良かったことは認めるが、それだとて終始リードをとっていた木島の『功績』によるものだ。
「こんなオヤジのどこがいいのやら」
思ったことが呟きとして零れた。
「吉野さんは自分が思っているほどオヤジじゃないですよ。それに好きになるのに理由なんてない」
木島は身体を起こした。
「今夜はかっこ悪いところを見せて恥ずかしかったけど、吉野さんが少しは俺を意識してくれていることがわかったことは収穫だったかな」
「木島?」
「さっきも、それから最初の夜も、吉野さんは拒まなかった。一度目は成り行きで流されたのだとしても、今夜はそうじゃない。違いますか?」
情けなさはすっかり鳴りを潜め、いつもの木島に戻っている。吉野はため息をついた。
「暗示をかけるなよ」
「ここでキスすれば、すぐにかかってくれそうなんだけどな」
「ゲロ臭いキスは嫌だね」
吉野のその答えに木島が笑い出した。その大らかな笑い声につられて、吉野も笑った。
木島の言うとおり、彼を意識していたと吉野は自覚せざるを得ない。考えないようにしていたと思い当たる。それが恋愛に発展するかどうかはまだわからないし、今さら恋愛なんて面倒くさい…と言う気持ちもある。
ただ笑みの止まない空間に身を委ねながら、吉野は心の底に熱く灯る、表現出来ない何かを確かに感じていて、それを無理に消そうとは考えなかった。
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