恋はいつでもII 〜可愛いひと〜





(可愛い人だなぁ)
 向かいの席で電話中の吉野を見て、木島はしみじみと思った。
 吉野は今年、確か厄年の年齢のはずだ。これと言って目を引く容姿をしているわけではない。スーツは安さが自慢の紳士服チェーン店の吊るし品であるし、休日出勤の際の私服もポロシャツかセーターにカジュアル・パンツで、平凡な容姿を補うほどの特筆すべきファッション・センスは見出せなかった。
 独身だからか年齢より若く見えるものの、髪には相応に白いものが混じっているし、「そろそろ遠近両用にしないと見えにくい」と言いつつ、近眼の眼鏡をずらして細かい文字で書かれた文書に目を通す。そんなどこにでもいる四十路を越えた男なのだが、それでも木島には「可愛い人」と思えてならなかった。これが「恋は盲目」と言うものか…と、自分自身、おかしくて笑えた。
 ふと、電話続行中の吉野と目が合った。にっこり微笑んで見せると、彼は「しっし」と受話器を持たない方の手を振り、少し木島に対して斜めに身体を向けてまた電話に意識を戻した。
(まったく、つれないったら)
 木島慧と件の吉野倫成は、単なる上司と部下ではない。木島がこの横浜支社病院二課に転属してきて以来、ベッドを共にする間柄なのである――ただ一緒に布団に入るのではなく。
 出会ったのは木島が引っ越して来た夜に初めて訪れた、地元のソレ系――男同士専門――のBar『Erebos(エレボス)』だった。ソレ系の店に来ていながら話し相手を探すわけでもなく、まるで大衆食堂で夕飯でも食べているかのような風情の男が木島の目に止まる。それが吉野だった。
 声をかけて隣に座り、一緒にグラスを傾けながら他愛のない会話。この手の場所で席を同じくする人間は、たいてい飲み食いした後のことを考えている。しかし吉野からはそう言った気配は感じられなかった。「友人の経営する店に夕食だけを食べに来るノンケ」でないことは、木島が声をかける直前の彼とマスターとの会話からわかっていた。
 会話の中に「年下は趣味じゃない」と言う言葉が聞き取れたのだが、店に入ってからずっと吉野を見ていた木島に対して、ただ予防線を張っただけかも知れない。なぜなら年下を相手にしながら話題にギャップを感じさせず、また無理に合わせているようにも思えなかった。だから断られるのを覚悟で誘ってみると、意外にもオーケーの返事をもらえ、そのまま朝までベッドで過ごした。
 セックスの相性は悪くなかった。むしろ情熱的に盛り上がり、お互い心地よい疲れに酔ったはずなのに、連絡先を尋ねる木島をスルリとかわして、吉野は帰ってしまった。縁がなかったと諦めていたら、週明けに再会する。転属先の同じ課勤務で直属の上司だったことには驚いたが、同時に運命だと思った。
 年下、それと上司と部下の関係を理由にして、木島と距離を置こうとしていた吉野を何とか口説き落としたのだが、夜を過ごす回数を重ねても未だに恋人と言う位置づけを、彼からもらえない。週末の誘いも三度に一度、ともすれば二度に一度の割合で断られる。と言って、木島を拒んでいるわけではなく、まんざらでもないようなのに、あと一歩、二人の距離は縮まらなかった。
 今も、こうして電話中の彼に秋波を送ると、頬に赤みが差すのが見てわかる。努めて平静を装いつつ、電話に集中しようとする様子が隠せていない。こちらに向けた頬に視線を感じるらしく、吉野は一層身体を捻って、ほとんどこちらに背を向けてしまうに至り、木島は思わず噴出した。






「腐ってるな、目。あんな凡夫が可愛く見えるなんて」
 カウンター越に奥平健斗が呆れた口調で言った。彼はこのBar『Erebos(エレボス)』のオーナーで、吉野とは数年来の友人同士である。
 木島と吉野は金曜日の夜に、このErebos(エレボス)で飲んで帰ることが習慣になっていた。そのままどちらかの家に行くにしろ、駅で別れて帰るにしろ、とりあえずはここで腹を満たし、口を湿らせるのだ。それは木島と知り合う前からの、吉野の習慣でもあった。
 本来、男同士の社交場のErebosはアルコール・メインのBarであり、フード・メニューはそれほど充実していない。吉野が、
「ケントの作るものは美味いから、他のところじゃ食えない」
と言うものだから、趣味と仕事着を兼ねた自慢のレザー・ウェアが料理臭くなると文句を垂れながらも、奥平は賄い食を特別に出してくれるのだった。実は吉野は、天然の誑しなのではないかと木島は思う。
「実際、可愛いんだから仕方ない。『恋は盲目』って言うでしょ?」
「臆面もなく言うねぇ。デレデレ過ぎて、見てらんねぇな、その顔」
 奥平は片眉を上げて言った。
「一人で来てるの?」
 木島のすぐ斜め後ろで声がした。目をやると細身のスーツ姿の、いわゆるキレイ系の若いサラリーマンが、隣の席に座ろうとしている。そこは吉野の座る予定の席だった。彼は今夜、帰り際に入った急配(緊急配送)の要請――定期配送時間外に当該薬局担当者が直接配達する――で来るのが遅れている。
 木島は一人で飲みに来ているかのように見えるのだろう。声をかけられたのは三人目だった。Erebosに出会いを求めてやってくる人間がほとんどで、一人でいようものなら、たいてい声をかけられる。
「いや、人を待っているんだ、悪いね」
 このセリフも今夜は三度目。木島がそう言うと、相手は肩をすくめてあっさりと引き下がった。
木島が毎週金曜の夜にここを訪れることは周知だった。必ず決まった連れがいることも知られている。それでもチャンスがあればと、一人の時を見逃さない。
「君に声をかけるヤツはレベル高いのに、何でみっちゃんなんだか」
 奥平は離れて行く先ほどの若いサラリーマンの後姿を目で追う。その目の奥に艶めいたものが揺れ、彼の好みだと木島はすぐにわかった。
「だから言ってるでしょ。可愛い人だって。それに吉野さんだって悪くないですよ」
「そ、悪かない。ただ普通なだけ。特に君と並ぶと、それが際立つんだよな」
「悪かったな、『普通』で」
 ビジネス・バッグがカウンターに無造作に置かれ、木島の頭上から声が降ってきた。吉野が仕事を終えて、やっと到着したのだ。木島は満面の笑みを浮かべていたらしく、奥平は「理解出来ない」と言った風に目で天を仰ぎ見た。
 吉野はイスに座ると、ノットに人差し指をかけてネクタイを少し緩めた。駆けつけ一杯で出されたビールで、緩めた襟元から喉仏が上下するのが見える。木島の目はその動きに釘付けになった。
 奥平の咳払いが聞こえ、「ハッ」と我に戻る。二週間、お預けをくらっているのだ。吉野不足は明白。今夜は是が非でも、彼を誘おうと心に決めた――のだが。
「え? ダメ?」
 Erebosを早めに引き上げたのは、早く二人きりになりたかったからだ。飲むのはどちらかの自宅で出来る。店を出てすぐに、木島は吉野を誘った。しかし吉野の答えは予想外にも「ダメ」。
「明日、出勤なんだ」
「吉野さんの土曜出勤は来週でしたよね?」
「永浜と変わった。用があるらしくってな」
 永浜は同じ課の若手社員である。今風に言えば『チャラ男』の類になるだろう。仕事はそこそこ出来るが、やれ何処其処の部署と飲み会だ、やれデートだと私生活を優先するきらいがあった。吉野はよく休みなど代わってやっていた。それは永浜に限らないが、彼が一番率が高い。
「吉野さん、甘やかし過ぎ」
 夏や冬の休暇もまず若手の予定を聞き、出来るだけ希望が通るようにシフトを組むから、吉野の希望は後回しになる。
「俺はたいてい予定ないから」
 吉野は肩をすくめた。
「予定ないことないでしょう? 俺と会うのは予定に入らないの?」
 本当は吉野の休みを全部、自分との予定で埋めてしまいたいくらいだった。それを表立って口にしないのは、大人のつきあいを心掛けているからである。年下が趣味じゃない吉野に、「これだから年下は」と思われたくないから自重しているのである。「たいてい予定がない」なら、自分との予定を入れてくれ…と今しも出そうになるのを、木島はグッと飲み込んだ。
「じゃあ、明日の夜は? 会社の近くまで迎えに行きます。俺んちで飲みましょう」
「あー、来週の研修のレジュメ作りたいんだ。今週忙しかったから、まだ全然手をつけてなくってさ」
 来週の木曜日に、新薬に関する関東甲信越のエリア研修が横浜支社で実施される。結構な人数が各支社から集まってくるので、横浜支社総出で会場、進行の準備をしなければならない。そして吉野は司会進行役だった。確かに今週は忙しかったが、それには来週の研修に関することも含まれていたし、仕事に関して堅実な吉野が、間近に迫った支社主催の『イベント』に、全然手をつけていないとは考えられなかった。
「手伝います。俺もサブについている身ですから。二人でやった方が早いでしょ?」
「詰める時は頼むよ。とりあえず自分で立ててみたいんだ」
 何かおかしいと木島は感じた。前にもこうした研修のケースはあって、その時は二人で一から考えた。それに今までも何らかの理由で週末の誘いは断られてきたが、二週間開くことはなかったし、「ああ言えばこう言う」的に断られたこともない。でも今夜は、木島からの誘いを断固拒否しようとする気構えが見え隠れする。
 そう言えば、Erebosにいる時から様子が違った。いつもより口数が少なかったし、話すセンテンスも短かった。
 しかし木島がおかしいと思った時にはもう駅に着いてしまい、すでにホームには吉野が乗る電車が入っていて、発車ベルが鳴っていた。彼が「じゃあ、また」と慌てて飛び乗ることを待っていたかのようにドアが閉まり、木島は一人、茫然とホームに残された。
 
 


 木島は昨夜の吉野の様子が気になった。営業で鍛えられたせいか、人の顔色を読むのは得意だった。顧客には気働き出来ると評判である。私生活では恋愛感情を持った相手に対し、それは遺憾なく発揮された。
 その能力が、吉野の様子を自分にとって良からぬ兆候だと警戒している。それで翌日の土曜日、当番出勤の退社時刻を見計らい、会社に顔を出した。
 木島と吉野が所属する病院二課のフロアは、一課と合わせて四人が出勤していた。間もなく定時退社時刻の十七時三十分で、帰宅準備を始めている。当番出勤の日は、基本、残業は禁止だったし、したところで残業時間として認められない。それにやはり休日出勤と言う感覚があるので、早く帰りたいのだ。
「どうしたんだ?」
 同じ課の、吉野ではないもう一人が、木島に気づいて声をかけた。
「ああ、ちょっと忘れ物して」
 一応、デスクの引き出しを開けたりしながら答える。ちょうどその時十七時半になった。待ちかねたように、皆が席を立つ。その中には当然、吉野も含まれていた。
「ちょっと、いいですか?」
 木島は自分の前まで来た吉野に声をかけた。彼は上目使いに木島を一瞥し、「いいよ」と答えた。先に帰って行く社員達と軽く挨拶し合い、二人はその場に残った。
 遠ざかって行く足音や声が完全に聞こえなくなるまで木島は待った。吉野は一見所在なげに見えるが、木島に呼び止められた理由は察しているのか、疑問詞は一言も発しなかった。
「ここのところ俺を避けているのはなぜですか?」
 単刀直入に聞いた。終業時間が過ぎると、警備員が見回りを始める。このフロアに来て二人が残っているのを見ると、声をかけてくるだろう。それに乗じて、吉野に逃げられてしまう可能性がある。
「まあ、いろいろと思うところがあって」
「思うところって?」
 吉野は腕を組んで、それからため息をついた。
「戸惑っていると言うか。こう言う状況、慣れてないんだ。何しろほとんど片想いばかりの人生だったから。もう恋愛することはないだろうなと思っていたら、木島とこんなことになって」
 片想いばかりではないだろう。恋愛をする暇がなかったのではないかと、木島は思う。
 吉野は大学を卒業した頃に両親を事故で亡くし、以来、当時小学生だった妹の親代わりをしながら過ごしてきた。妹が結婚するまで自分のことは後回しだったに違いなく、それは木島にも容易に想像出来る。
「もういい年だし、年下とは本気になりたくないんだ。だから割り切った関係ならいいかと思うようにした。飲みに行く時だけ、セックスしたい時だけ。だけどだんだん気心が知れるようになって大事にされると、つい本気になりそうで」
「本気になればいいじゃないですか?」
 木島自身は十分本気だ。逆に吉野と割り切った付き合いなど、する気はなかった。そんな相手のつもりなら、同じ会社の人間だとわかった時点で手を引いたし、会うのは夜だけにする。週末の休みを一日中過ごす気など、さらさら起こらない――木島の「割り切った」は、そう言う付き合い方だった。
「まあ、そうなんだけど、複雑なんだよ」
 しかし、吉野にそれは伝わっていないらしい。
「俺は吉野さんと『割り切った』付き合いをする気はありませんよ? だから吉野さんもそのつもりで俺と向き合ってください」
 木島は彼をまっすぐ見て言った。すると吉野は困ったような笑みを浮かべ、さりげなく目を逸らす。腕組みをしたままで窓ガラスにもたれかかり、沈む夕日にその逸らした目を向けた。
 ちょっとした沈黙の後、彼は浅く息を吐いた。
「俺は割り切った付き合いの方がいい。ダメになっても後を引かないし。本格的に付き合ってしまうと、ダメになった時のダメージはかなりのものになると思うんだ。この年になってそれは、正直きつい」
「俺とのこと、ダメになるって前提なんですか?」
「こう見えて、結構、ネガティブなんだ。考えもするよ。相手が十才近く年下で、イケメンとくれば尚更に」
「八才です」
 木島はムッとして返した。年齢のことを出されるのが一番気に障るからだ。
 吉野の口から「年下は趣味じゃない」と聞いていた。それは木島に直接向けられたものではないが、それだからこそ、付き合いを断るための方便ではないと思える。
 顔や性格は変えようとすれば変えられるが、年の差ばかりは縮められない。だから木島は、大人の対応を自分に課していた。吉野に年下だからと言わせないために。しかし彼は、やはり木島の年齢に対するこだわりを口にする。
「俺だって不安です。でも不安に思っているところを見せたら、ますます好みから外れてしまいそうで怖い。あなたの好みから外れていることを知っているからです。本当は休みの日全部会いたい。俺、オクケンさんに嫉妬もしてるんです」
 吉野の目の焦点が木島に戻った。
「俺はあいつの趣味じゃないぞ。勿論、俺の趣味でもない」
 そして木島の言った最後の部分を、即行で否定する。
「わかってます。わかってるけど、文句言いながらもあなたの夕食を作っているのを見ると、勘ぐっちゃうんですよ」
「木島」
 木島は吉野の組んでいる腕に触れた。
「たとえ草臥れてようと、老眼かかってようと、白髪があっても、俺は吉野さんに本気なんです」
「なにげに、ひどい言われようだ」
「だから『たとえ』って言ってるでしょう? 実際の吉野さんはすごくかっこいい。仕事は出来るし、部下に優しい。努力家で実直で、でも控えめ」
「よせよ」
 吉野は再び視線を外し、横を向いた。首から上がほんのり赤いのは、夕日のせいばかりではないだろう。
「それに、すごく可愛い」
 木島は吉野の腕を掴み、引き寄せた。彼の眼鏡を外して口づける。その唇に触れるのは、二週間ぶりだ。平日は毎日会社で顔を合わし、話をし、近くにいるにもかかわらず、簡単には触れられないもどかしさと言ったら、拷問に等しかった。
 一度、唇を離し吉野を見る。半開きになった彼の唇がやけに幼く、木島は「やっぱり可愛い」と繰り返し、あらためて顔を近づけた。
 しかし吉野の腕は、木島の胸をググッと押し戻す。
「目、腐ってるな」
「オクケンさんにも言われました」
「あいつ」
 胸を押す手に逆らわず木島が身体の力を抜くと、彼の動作が一旦止まった。木島はそれを見逃さず、吉野の腕を掴んで自分の後ろに回させると、間髪入れずに抱きこんだ。
「でも良いんです。吉野さんが可愛いことは俺が知っていればいいことだから。他に知られてライバル増えたら困るし。この上、嫉妬させられたら、俺、死んじゃいますよ?」
「そんな物好き、今のところおまえしかいないだろ…、うわっ」
 木島は吉野の耳の中に舌を入れ一舐めした後、耳朶を軽く噛んだ。背後に窓、正面に木島――吉野の逃げ場は完全に塞いでいる。
「会社だぞ、ここ!」
「どうせ年下扱いされるなら、もう我慢しないことにしました」
 片腕でがっちりと吉野をホールドし、空いた片方の手で後ろの丸みを撫で擦った。そして唇が、逃げる吉野の唇を追う。
「き、き、木島、本当に、ここじゃマズイだろ。おいったら」
「ここじゃなきゃいいんですね? わかりました、じゃ、帰る支度してください」
 木島は唇を追うのを止め、吉野を見つめた。
「それから今夜と明日一日は俺と過ごすこと。じゃないとここで押し倒して、足腰立たなくしたあげく、お姫様抱っこで連れて帰りますが?」
「何つう恐ろしいことを言うんだ」
「言ったでしょ? 我慢しないことにしたって」
 腕を緩め、吉野を解放する。彼はへの字気味に口を曲げ、諦めたように帰り支度を始めた。
 


 
 普段は電車通勤の木島だが、今日は車で来ていた。是が非でも吉野を連れて帰る決意の表れである。その決意通り、助手席には吉野が座っていた。
 車はまっすぐ木島のマンションには向かわず、海沿いへの道を走っている。少しドライブしようと木島は吉野を誘った。
 もう我慢しないと宣言したが、木島は強引過ぎたかと反省している。あまりに吉野が自分との恋愛にネガティブなので、つい熱くなってしまった。吉野に呆れられても文句は言えない。
 実際、呆れられているのではないか? これだから年下はと――木島は視界の端で吉野を窺い見る。彼はこちらに横顔を見せ、開けた窓から入る風に髪を自由に遊ばせていた。仕事終わりで疲れているのか伏し目がちで、見ようによっては思案顔にも見える。
「俺、強引過ぎました?」
 吉野は目線を正面に上げた。
「そんなことないだろ。俺がはっきりしないせいもあるし、木島が焦れるのもわかるよ」
 吉野は窓枠に肩肘をついて顎を乗せ、目線を外に移動した。
「本当にどうしていいかわからないんだ。何しろ両想いになったのって、忘れるくらい昔だからな」
「え?」
 吉野の言葉は目線同様、外に向けてのもので不明瞭だったが、吹き込む夜風によって押し戻され、辛うじて木島の耳に届く。
「今、両想いって言いましたよね?」
「好いてくれているってことが前提だけど」
 木島はバックミラーで後続車の有無を確認し、ウィンカーを出して路肩に車を停車させた。大事な話過ぎて、走行しながらではとても聞けない。
 停めたと同時に、木島はハンドルに両手を置いたまま吉野に向き直った。
「いつから?!」
「うちでゲロ吐いた時から」
「半年前?! 何で黙ってたんです?!」
「言えるわけないだろ、どうなるかもわからないのに」
「どこまでネガティブなんだ、あなたは」
 木島は吉野からまだ「好きだ」と、一言も言ってもらっていない。彼に拒まれていないことはわかっていても、はっきり好意を示されないゆえの不安は常に付きまとっていた。思わず木島はため息を漏らす。
「木島は本当にもてるんだよ。見た目が良いのもあるけど、性格も良いし、頼りがいもある。さっき会社で俺のことを色々褒めてくれたけど、そのことはそのまま、おまえに当てはまる」
「吉野さん」
「Erebosに行ったら、みんなの視線が木島に集中するし、あわよくばって思っているのがわかる。昨日だって」
「昨日?」
 木島は昨日のErebosでの記憶を辿る。仕事で来るのが遅れていた吉野を待つ間、三人の男が声をかけてきた。三人目の時は、ほぼ入れ違いに吉野が席についたから、やり取りは見られていただろう。
(だから変だったのか)
 気にしてくれていたのかと思うと、胸の奥がざわざわする。
 あの店であからさまに木島にモーションをかける人間は少なくない。吉野が一緒でもお構いなしの輩もいる。しかし吉野は別段気にする様子も見せず、飄々としていた。そんな彼を見ると、少しくらいは焼いてくれないものかと、見ていない時にガードの緩んだ視線を巡らせて声をかけられるように仕向け、吉野の嫉妬心を煽ろうともした。
 それはちゃんと功を奏していたと言うことだ。ただ焼きもちではなく諦めへと吉野の気持ちは向いてしまったのは、木島にとって誤算だった。
「木島はまだ若いし、いくらでもこれから出会いがあるよ」
「俺はあなたが良いって言ってるのに?」
「信じるほど、自分に自信ない」
 気持ちを白状して、あらためて木島の気持ちを聞いたにもかかわらず、まだそんなことを言う吉野。これは焦らしプレイなのかと、木島は疑いたくなった。彼が駆け引きの出来るタイプじゃないことはわかっている。とすれば、やはり吉野には天性の「たらし」の才能があるに違いない。
 それはさておき。
「まったく」
 木島は車を車道に戻すと、ハンドルをきって強引にUターンさせ、元来た道を戻る。
 行き先は木島のマンションだ。
「もっと正直になってもらわなきゃね」
「木島?」
「ドライブは中止。さっきの『ここじゃマズイ』の続きをします。俺のマンションで」
 木島はそう答えると、アクセルを踏んだ。


end 2013.08.05
無言歌……吉野の失恋話
恋のいつでも……吉野と木島の出会い
 
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