威一郎が初孫の誕生を知ったのは、出先から戻る車中である。
上着の内ポケットでプライベート用の携帯電話が震え、出ると妻の早紀子だった。彼女は陣痛の始まった長男の嫁の茉莉絵に付き添い、多忙な実母に代わって、昨夜から病院に詰めていた。
難産で時間はかかったが母子共に元気だと聞き、
「お疲れ様と伝えておいてくれ」
威一郎はそう結んで電話を切った。
彼にとっての初めての孫は男児、鷲尾物産の後継でもある。実に悦ばしいことだった。しかし表情は手放しで喜んでいるとは言い難い――この初孫は訳ありだった。
鷲尾物産の本社前で車は停まり、助手席から降りてドアを開けた秘書の岩井に威一郎は耳打ちした。
「生まれたそうだ。例の件、手配してくれ。早紀子が用意している」
岩井は「わかりました」とだけ答え、その場から外れて行く。彼がビルの角で客待ちをしていたタクシーに乗り込んだ様子を、視界の隅で確認し、威一郎は一人で社屋に入った。
エレベーターでは数人の若い社員と乗り合わせた。威一郎が秘書や部下を連れず一人である上に、鷲尾物産のトップと乗り合わせたことで、彼らは一様に緊張している。年頃から言えば壽一とさほど変わらないだろう。威一郎の後継者、すなわち鷲尾物産の将来の代表取締役社長として、一般社員とは異なる出世の道を歩み、現在、課長の肩書を持つ壽一だが、本来であればまだ「若い社員」と呼ばれる年齢だ。
しかし生まれ育った環境か、それとも本人の性格ゆえか、壽一には他とは違う器量があるように思える。たとえ平の一社員だったとしても、こうして上司や社長の前で緊張を見せないだろう。自信家で強引な面は否めないが、判断力と先を読む力は優れていた。それらは数千の社員を束ねるに絶対必要な能力だと言える。
(私も親馬鹿だな。本社に戻ってまだ一年も経っていないと言うのに)
親の欲目も入っていると威一郎が自嘲の笑みを口元に浮かべた時、エレベーターが止まり乗り合わせていた社員達が会釈しながら一斉に降りて行く。高層階の住人である威一郎だけがエレベーター内に残された。
ドアの閉まり際、壽一が通り過ぎて行くのが見えた。このビルの中で出会うのは珍しい。初孫は壽一の子供だった。偶然だの運命だのは信じない威一郎だが、何か見えない意図を感じる。
(壽一は子供が生まれたことを聞いたのか?)
威一郎に伝えたと同様、早紀子が知らせているはずだが、初めての子供だからと言って、壽一が早退や妻に労いの言葉を伝える等のアクションを起こすかどうか。
茉莉絵との結婚は、壽一にとって不本意な事柄だった。該当時期に既成事実があったから責任を取る形で結婚したものの、男関係が派手な茉莉絵の腹の子が壽一の子だとは言い切れなかった――「訳ありの子供」とはそう言う意味だ。
それであるのに茉莉絵の言うがままに責任を取ったのは、威一郎の打算が働いている。彼女の父親は財務省トップであり、母方の祖父は大物政治家だった。実子であれば家柄的に申し分ない。よしんば他人の子であれば「彼ら」に恩を売れる。どちらに転んでも鷲尾に損はないと言い含めて、反発する壽一を結婚させたのだが、以来、親子の会話は仕事関連のみの状態だった。
「届けて参りました」
壽一のことを考えながら社長室で小一時間書類仕事をしていた威一郎の元に、外出していた岩井が戻ってきた。
「私用で使い立てしてすまないな」
「いえ、社の将来にもかかわることですから」
岩井には早紀子が用意した嬰児のDNAサンプルを、検査機関に運んでもらった。その件は腹心である彼と早紀子にしか話していない。
「奥様のお話ですと、耳の形と口元などが壽一さんに似てらっしゃるとのことです」
「確証にはならん」
実子として戸籍に入れるのは構わない。しかし鷲尾を継がせるとなると話は別だった。
(壽一の子なら良いが)
と威一郎は思った。
威一郎にとって計算外だったのは、息子夫婦の中があまりにも冷え切っている点だ。家庭内別居のレベルを超えている。否、実際壽一は結婚してからと言うもの、夫婦の新居ではなく独身時代に使っていたマンションを、そのまま住処にして別居している。
生まれた子が彼らの子供でなければ、
(もう次は望めんな)
今後壽一が外で子供を作れば済むことだが、茉莉絵との件で懲りたのか、火遊びの相手はもっぱら妊娠の心配がない同性ばかりなのである。
「その時はまた、あの弁護士先生にお力添えをお願いすれば良いではないですか」
心の声が独り言となって漏れていたのか、威一郎が目を通した書類を傍らで整理していた岩井が口を開いた。
「久能弁護士の言葉なら、耳を貸すご様子ですから」
「と言うより雅樹を盾にすれば、だろう? あれ以来、壽一とは会話らしい会話をしとらん」
「壽一さんはまだお若いのです。もう少し落ち着いた年頃になられれば、社長が正しかったとおわかりになりますよ」
「だと良いが」
威一郎は目線をドアの方に向ける。去年の八月、明らかに感情的になっている壽一が、そのドアを荒々しく開けて入ってきた。
開口一番、「雅樹に何を言った」と怒鳴った瞬間、威一郎の悪い予感はあたった。
壽一の欧州での素行調査で、情事の相手が異性ばかりでないと知っていたが、それは開放的な外国での遊びでしかないと、威一郎は高をくくっていた。事実、茉莉絵との結婚に難色を示す壽一の身辺を調べると、帰国してから男遊びは止んでいた。ただ女性とのそれもすっかりなりを潜め、プライベートな時間を過ごすのは義兄の雅樹だけだった。
雅樹の身辺調査はずいぶんと以前に終わっていて、彼の性指向が異性ではないと威一郎は知っている。血の繋がりがなくとも閨閥の手駒として使えると考えてのことだ。雅樹が異性に興味がないとわかっても問題視しなかったのは、威一郎には他に自分と血の繋がりのある子供が壽一を含め三人いたからで、以来縁談も強要しなかった。
壽一と雅樹がそう言う性質であっても、二人は兄弟として育った。威一郎は「まさか」と推量を打ち消した。
しかし入って来た壽一を見て、打ち消した推量が、推量ではなかったと知る。
「雅樹なのか?」
そう一言聞いただけだったが、壽一は即答した。
「だったら、どうなんだ?」
否定したところで、会社が契約する優秀な興信所で調べはついていると判断したのだろう。相手が父親だったからか、あるいは自分の性癖を否定しないことで、茉莉絵との結婚を破談に出来ると思ったのかも知れない。
「おまえ達は兄弟だろう」
「血は繋がっていない。籍も違う」
言い放った壽一には後ろめたさも悪びれた様子も見られなかった。そんな息子を見て、手を出したのはおそらく壽一の方だろうと威一郎は思った。
血は繋がらないが、雅樹は本当によく出来た『息子』だ。品行方正で努力家、威一郎のことも内では父として、外ではクライアントの客として立ててくれる。母親である早紀子との再婚で、実の子と隔てることなく育ててもらえたことへの恩義を感じているようだった。少なくとも壽一より並みの倫理観を持ち合わせている。
それは壽一が怒鳴り込んで来たことでわかった。前日、威一郎は雅樹に壽一を説得してくれと頼んだ。二人の間に何かあると感じてけん制したのではなく、壽一は昔から義兄の言葉を、最終的に聞くと知っていたからだ。壽一の様子を見るに、雅樹はその日のうちに話したものと察せられた。
雅樹の気持ちはともかく、あきらかに壽一は彼に執着している。その執着が本物なのか、単に威一郎に反発してのことなのか。
「雅樹に責任を取らせることだって出来るんだぞ?」
使わずに済めばと思った手を、威一郎は使った。
「何を言ってるんだ」
「おまえが別れられないなら、雅樹をどうにかするしかないだろう? 『鷲尾』の担当を外すことも出来る。今の事務所をクビにしてもらうことだって簡単だ。弁護士資格を取り上げられるようにすることだってな」
さすがに壽一の顔色が変わった。威一郎が本気になれば、どれもこれも現実になると知っているからだ。
「息子にそんな手を使うのか?」
「『血は繋がっていない、籍も違う』、さっきおまえはそう言ったな?」
あの時の壽一の表情と言ったら、彼が生まれて三十年、威一郎が初めて見るものだった。一瞬の戸惑い。良きにつけ悪しきにつけ、「戸惑い」などと言う言葉は壽一の辞書にあるのかと思うくらい、彼にはいつも迷いがなかったのに。
威一郎は言わば脅しのネタに雅樹の名を出した。雅樹が過去の情事同様、遊びの相手だったなら、壽一は脅しに反発して意地でも「別れない」「茉莉絵とは結婚しない」と言っただろう。雅樹を使ったことは威一郎にとって不本意だったが、壽一が意地を通せばその『不本意』を形にしなければならなかった。
しかし壽一は――燃えるような怒気を身体中から発散しつつも折れたのだ。茉莉絵との結婚を承諾した。
執着は本物だった。少なくとも理性を働かせるほどには。
次もあの手は壽一に有効だろうか。
「社長、そろそろお時間ですが」
物思いに耽る威一郎に岩井の声がかかった。今日はこれから役員会だ。期末が近付くと、何かと忙しくなる。色々考えずに済むので、威一郎にとっては都合が良いと言えた。また孫の顔をすぐに見に行かない理由にもなる。
(仕事で紛らわそうとするなど、私も年を取ったか)
ネクタイのノットの緩みがないかを指で確認しながら、威一郎は立ち上がった。
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